16.ツール③
信仰度★★★★☆
道具である身体を借りる私たちの主体を「心」と呼び、心こそが私たちの本体という話までしました。
今日も天理教の話をたくさんします。すみませんね。
人間の創造とその目的
天理教においては、身体は借りもので、心は自分自身のものという原則があります。前回「かしもの・かりもの」の話としてお伝えした通りです。
それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの。心一つが我がの理。『おかきさげ』より
この原則は、神さまが人間をおはじめになるにあたり、設定されたものです。
以前からちらちらと紹介している、「元はじまりの話」の冒頭には次のような記述があります。
「この世の元初まりはどろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」『天理教教典』第三章 元の理 より
ここで語られているのは、神さまの人間創造の目的は、陽気ぐらしを見るためだということです。
月日にわ人間はじめかけたのはよふきゆさんがみたいゆへから『おふでさき』 十四-25 ※月日=神さまの一人称
「陽気ぐらし」は、この世の極楽とか、楽しみづくめの世界とか、神人和楽などとも表現されます。人間がお互いに助け合って陽気な心で暮らす世界です。
人間存在の目的は陽気ぐらしにあることが説かれているわけです。
そして、神さまはその陽気ぐらしに必要なものを、身体をはじめ全て貸し与え、あとは人間の心次第でそれが実現できるように、この世界を整えられました。
心の自由を許すということ
「陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもう」
この「楽しむ」というところに大きなポイントがあります。
神さま、特に一神教の神さまは、どの宗派であれ基本的な性質は全知全能であり、それは天理教とて同じです。
すなわち神さまさえ望めば、陽気ぐらしは瞬く間に実現します。人間をそうプログラムすればいいわけですから。
しかし、神さまはそれをせず、心の自由を人間に与えて、私たちが心の自由を用いて身体をどう使い、何を成していくのかをじっくり見る楽しみを選ばれました。
筋書きの分かり切った物語ほど、退屈なものはない。
レベル100のリザードンをもらって始まるポケモンほど面白みに欠けるものはない。
私の解釈ですが、心の自由を許した神さまの思わくはおよそこのようなものと思います。何億年とずっと見続けるわけですから。
しかし、それだけでは創造主の思いが人間には理解できません。心の自由を与えられてもそれをどう動かせばいいか分からない。身体という道具を貸されても、どう使えばいいか分からない。
そこで、神さまはもう一つこの世に仕組みをつくりました。
それは、
「心の使い方によって、その人間の生活が変化し、運命が切り替わる」
「人間の心の有り様をそのままに世界に映す」
ということです。
心の向きが互い助けあいの陽気ぐらしに向かうなら、さらなる喜びが舞い込み、
逆にわが身の利益のみを追い求め、陽気ぐらしに向かわない心であるならば、その心通りにわが身や、わが社会に苦難を招くようになる。
そのような天の理合いを設定されました。
これによって人間が陽気ぐらしに自ら向かうよう、その方向に気づくようにされたのです。
「胸次第、心次第」
神さまのお言葉にはこのフレーズが際限無く出てきます。
無責任に思いますか?寛容に思いますか?それは感じ方次第ですね。
身体という道具をどう使うか
時々ですが考えます。
そんな思いで貸してもらった道具をどう使っていこうかと。
それは私の自由な心に委ねられています。
ですから本当のところ、目の前で繰り広げられる現実をどうこうすることよりも、それを受け止めている私の心がどうなのかを大切にしたいと感じております。
これにてこのシリーズは終わりにします。次回から元の一話完結に戻る予定です。