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裸の神さま

信仰度★★☆☆☆

毎度ご無沙汰してます。

0.自教会、普請しました

かねてより、私の教会では新しく神殿を建築していましたが、この程、無事に竣工しました。私共にとって、神殿の普請は約50年来の宿願でありました。計画が本格化してから数えて7年、ようやく完成し、再出発の日を迎えることが出来ました。そんな慶事にもかかわらず、不穏にも感じ(てしまっ)たことを書いていこうと思います。


1.神さまのお引越し

今回私たちは、旧の神殿に隣接していた付属屋を取り壊し、その跡地に新しい神殿を建設しました。いわゆる移転建築です。神殿を移転する時には、当然ながら旧の神殿に祀っている神様を、新しい神殿にお遷(うつ)しすることになります。神さまのお引越しですね。これを行う儀式を鎮座祭と呼びます。

天理教の教会は、お目標(めどう)様と呼ばれるモノを本部よりお下げ頂き、これをお社(やしろ)の中に納めて、日々の礼拝の目標とします。
このお目標様を旧のお社から新しいお社に遷すのが、鎮座祭のメインワークです。

鎮座祭は日の暮れた夕刻以降に行われるのが通例です。儀式の間は辺りの照明一切を消します。祭主が旧のお社から、お目標様を取り出し、それを抱えて運びます。暗闇なので、その前後を祭官が手燈明で照らします。

この移動中に祭官は、警蹕(けいひつ・けいしつ)と呼ばれる唸り声を上げて、先払いをします。参拝者は、真っ暗な新しい神殿でその一団を拝して迎えます。

私もその一人でした。暗闇の中、手燈明の明かりと、「うぉぉぉぉ…」という警蹕がだんだんと近づいてきます。やがて、お社から取り出されたお目標様が祭主に抱えられ、自分の目の前を通りすぎる、そういう場面です。

この状況に、ふだん神の声に鈍感な私でも、さすがに身の毛がよだつ思いというか、胸が震える心地がしました。

今まさに裸の神さまが目の前を通りすぎている、そう思ったときに、なぜだか呼吸が浅くなり、無いはずの心臓の毛が逆立つような感覚がありました。ありがたいなぁとかそういう感情よりも、ヤバいことが起きている、そういうビリビリの緊張が感情の主でした。

やがて、神さまは新しいお社に納められ、明かりが灯り、それまでの畏れが嘘だったかのように、静かな安堵が参拝場を包みました。

天理教だけでなく、通常、ご神体とかお目標様というものを剥き出しの状態にはしませんね。たいがい、社に納めたりしていて、普段は隠しておくものです。そのことに妙に納得してしまう経験でした。

神さまが剥き出しの状態であるというのは、言うなればちょっと強すぎるんですね。『天空の城ラピュタ』でポム爺さんがシータにむかって、「その飛行石を仕舞ってくれんか、わしには強すぎる」と言う場面がありますが、まさにそんな感じです。

2.大胆な提案

鎮座祭の儀式も無事終わり、皆の顔にもほっとした表情が浮かんでいました。ささやかな直会を中座し、私はがらんどうになった旧の神殿に足を運びました。

今日はこの旧神殿の参拝場で若い青年数名が泊まるのです。布団を運び出していますと、その内の一人が手を貸してくれて、いたずらっぽく言いました。


「ねえ、今日はもうここ(上段)で寝てもいいんだよね?」


少し、ほんの少しためらいましたが、確かに、もうここに神さまはいないんだよな、と思い、その提案を「一生に一度の記念だね」と笑って許し、その場を後にしました。昨日、いや、さっきまで祭儀やおつとめを執り行う場所だった上段は、その晩、青年たちの寝床となりました。

大げさな表現かもしれませんが、かつての聖域が、そうでなくなる感覚はまことに不思議な感じです。神事を執り行う場所として、長年の間、裸足はおろか、日常の靴下で登ることすら良しとされなかった上段です。大切に大切に扱ってきたのです。それがいまやただのひんやりとした板間です。きっと寝心地は使い古しのベッドにすら劣ったことでしょう。

空っぽのお社にしてもそうです。それまで、神様そのもののように大切に取り扱っていても、神さま不在となればそれはもうただの箱です。一夜にして価値が変わったのです。

私はこの神殿がある建物で幼少期を過ごしました。

毎月ここで月次祭という祭典が行われました。ある人にとっては死人同然の家族を助けたい一心で、通い続けた神殿です。
ある人にとっては、生活が苦しい中に神さまへの御恩を感じて真実のお供えを献じた神殿です。
ある人にとっては、事情によりここに来るしかなくなった、憎悪すら向けたであろう神殿です。

私にとっては、初めて親にビンタされた神殿です。そして、もう一度信仰の道を歩むことを決意した場所です。

すべて、すべて、染み付いています。
信仰の染みが板間に、柱に、こびり付いています。しかしその有形無形の信仰が、確実に力を帯びて、この教会を動かし、そこにつながる人々の社会生活に作用しています。

そんなことが呼び起こされたので、もう遷されたんだからここはただの部屋だという冷静な思いと、それまでの価値を一瞬にして明け渡した空間に対するなんとも言えない寂しさとで、胸がつかえました。

3.共通の信仰が力を有する


それでは、さっきまで神殿だった場所、そこに見出されていた価値は、何によって保たれてきたのか。


それは、言うまでもなく今日までの人間の信仰です。

あそこには神様が納まっている、ここは神事を執り行う場所だから俗と分かつ必要がある。
教会に繋がる人々の、そうした共通認識が、ただの板間と箱を、神さまの住まいにしたのです。
そして実際に、神さまが助けてくれた、と悔しくも思えてしまう不思議なたすかりがいくつもありました。

これはまさに、形のないものを信じるという行為が、力をもって現実に作用している例と言えましょう。ただし、これはひとりの人間の認識で至るものではありません。例えば個人の所有物の場合、それを侵さぬ多少の配慮があっても、皆でそれを守り抜く努力まではほとんどなされないでしょう。人のものは、あくまで人のものとして大切にされます。

一方で、ある人々にとっての共通の信仰というのは、その対象が持つ物理的機能以上に、強く価値づけられることがあります。
皆が同じもの/ことを信じているという状態は、それだけ現実に及ぼす力があるのです。

4.貨幣信仰の妙


世迷い事をと思われる方もあるかもしれません。信仰なんてその人々の頭の中にある観念でしかない、それも確かにそうでしょう。しかし信仰が現実に力を持ち、それに人々が動かされる例を私達は一つ挙げることが出来ます。

例えば現代における貨幣、お金はどうでしょう。

かつて私たちは個人間での物々交換によって、自力で生産できないものを得ていました。2700年前頃に最初の貨幣が誕生し、以降貨幣経済は人々の取引を目覚ましく発展させてきました。貨幣の材料はしばらくの間貴金属が主でした。製造が容易でなく価値が変わりにくいものが好まれたようです。これは、貴金属に対する人々の信用によって成立しています。

そして今や、印字された紙に、その作成コストとは到底見合わない価値が付与されて、私たちは今日も1万円札に1万円の価値があることを信じて疑わずに暮らしています。これは貨幣を発券する所属国家に対する信頼があるからです。

お金はどこまでいっても価値を交換する手段であり、道具です。しかし、これに対する信仰は、時に人々に汗を流させ、時間や労苦と交換させ、欲望をドライブさせたりします。信仰が熱狂すると、お金のために生き、お金のために身を亡ぼすという結末を呼ぶこともあります。

これらは、私たちが皆共通してお金の価値を信じていることの証左であり、信仰と呼ぶに足る一例と思います。そしてこれは、共通認識としての信仰が、信仰対象のもの/ことに対して物理的な価値以上の力を与えることを示していると言えます。

5.仮説 信じられなくなると力は失われる

翻って考えるならば、たとえ神さまや教えがホンモノであったとしても、それが人々の間で信じられなければ、大切にされなければ、それは無いことになってしまうことだってあるのです。

映画『千と千尋の神隠し』の冒頭で、千尋を乗せた車が、打ち捨てられた石の祠の集まりの前を通った時、千尋の母親が「石の祠、神様のおうちよ」と千尋に説明するシーンがあります。(今日ジブリばっかりですね)

あのシーンで登場する祠は、もともとそこにあったのではありません。道路整備や工事のためにかき集められ、打ち捨てられた祠の群れです。

祀られるからには、かつて何らかの信仰があったのでしょうが、長年の間に参詣人が居なくなり、やがて何が祀られているかすら忘れ去られ、打ち捨てられてしまうのです。

そういうことに対して、神さまからバチがあるならまだいい方で、たいていの場合、人々からの信仰を失った神さまには、バチを当てる力すら残されないのではないかというのが、私の個人的な感覚です。

あまり考えたくはないのですが、人々の信じるという行為が何らかの力を持つということは、人々が誰も信じ無くなったもの/ことは、当然現実的な力を失い、忘れられてしまうことと裏表なのだと思いますね。

6.神さまもすごいけど信仰もすごい

私個人は天理教徒ですので、「この世が神の身体であり、私たちは神さまの懐で住まわしてもらっている」ことを信じています。ですから仮に人々の間に信仰が無くなっても、神さまの存在が消えることはないと思っています。

ですが一方で、現実に見える形で影響を及ぼすのは信仰の力であるとも思っています。もしかしたらこれは人から見れば矛盾することかもしれませんが、私自身矛盾と言うかダブスタを感じつつ、それでもいいかと思っているのでいいにしときます。


さて、お陰様で新しい神殿が建ちました。これは紛れもなくこれまで積み上げられた人々の信仰の具現化です。人々の共通の信仰がこのような形となって現れるなんて、本当にすごい事です。

新しい教会で変わらぬ信仰を受け継ぎ、次世代の糧になるような、そういう現実に作用しうる信仰を一つ一つ積み重ねていきたいと強く感じる出来事でした。

こんなことを言い続けて、教外の方からは笑われて、教内の人からは叱られるかもしれませんが、このnoteの活動は信仰の暫定地点を確認する私自身のなりわいでもあるので、とりあえずここに置いておきます。中には本意に感じる方がいるかもなと、静かに願います。

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