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【エッセイ】ヒナタグチ

仲がいい女3人で形成されているLINEグループに参加している。

先日、私以外の2人が通話で盛り上がっているところに遅れて参加した。
「やっほ〜!なんの話してるのお?」
と2人の会話を遮る形で挨拶をしたら、そのうちの1人がこう言った。
「今、うちいけのヒナタグチを言っていたところだよ」
ヒナタグチ。ひなたぐち。hinataguchi。
「ごめん、ヒナタグチってなに?」
「え?」
彼女は突然降ってきた私の質問に少しの動揺を見せつつ、答えてくれた。
「本人がいないところでその人の悪口をいうのが陰口(カゲグチ)でしょ。その反対のことをしてたから、陽口(ヒナタグチ)だよ。」
つまり、私の居ないところで私のなにかの要素を褒めてくれていたようだった。
そのことを嬉しく感じるとともに、新しく知った「陽口」という言葉に感動した。
調べると、インターネットなどを通じて広がっている造語らしいのだが、どうして今まで知らなかったのだろうと考えた。
そもそも私は陽口を叩いたことが(陽口も”叩く”で正しいのだろうか)あっただろうか。
全く無いとまではいかなくとも、それは少なかったように思う。
だってそれはコスパが悪いからだ。せっかく人を褒めるのならば、その人の聞こえるところで言ったほうが相手にも伝わるし良いではないか、と思っていたのだと気づいた。気づいて、私は反省をした。人を褒めるのを、出来る限り1回で済ませようという意識が私をそうさせているからだ。対して、私に「陽口」を教えてくれた彼女はどうか。「陽口」として人を褒めた後に、本人に対しても「今、あなたのことを褒めていたのよ」と褒め直している。人を褒めるということに対してハードルが低いのだ。私は彼女のことを素敵だと思うと共に、私は私が恥ずかしくなった。
思い返せば、「陽口」はおろか私は人を褒めるという行為を疎かにしていた。
その人にとって当たり前のことをわざわざ褒めると相手のプライドを傷つけてしまうという危惧をしていたし、こちらばかり相手を褒めるのはなんか癪に障る、という性格の悪さを発揮していたのだ。
私にとって褒めるという行為はホワイトデーの菓子のようなものだったのだ。
貰ったら、返す。「かわいいね」「あなたもね」「すごいね」「あなたもね」「頑張ったね」「あなたもね」…。本当に、改めて、「You too」しか返せないコミュ障女とこれまで仲良くしてくれている友人たちに頭が下がる。人の良いところを見つけて褒める、ということは案外難しい。
その人を不快にさせないで褒めるのはもっと難しい。
「陰口」は簡単なのに、その反対はとても高度なことなのだ。
でも、と思う。人を褒めれるということは、その人の良い部分を吸収できるということであり、自分の成長に繋がるのだ。

私は決意した。褒め言葉をどんどん陽の元に出していくことを。


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