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【エッセイ】結局、カラオケの正解ってなんなの?

世の中がこんな状態になって、嫌なことばっかりだ。
もう3年目になるというのに、ウイルスは猛威をふるい続け、変異株が続々と誕生している。
口元を不織布で覆って過ごす日常に、辟易することにもすっかり慣れて、私たちは今日も生きている。
そんな中で、こんな世の中になってよかったな、と思うことが、
私にはひとつ、ある。

それは、カラオケを日常から排除できたことだ。
もちろんカラオケ店はもうとっくに営業を再開しているし、
一部の人々は再び日常にカラオケを取り込んで生きている。
それでも、ウイルスの脅威におびえたふりをすればカラオケを回避できるという状態に、私はとても救われているのだ。

私はカラオケが嫌いである。
大きな理由として、私が音痴であることが第一にある。
音感は悪い方じゃない。幼少期からピアノとソルフェージュ、青春時代はマンドリンに精を出したこともあって、音を拾うという行為は得意な方だ。
でも、わからない。自分の声帯という楽器の奏で方が。
任意の音が口から出てこないのだ。
下手に耳が肥えてしまっている分、そのギャップにイライラする。
歌が下手くそな自分にうんざりする。
場の空気的に、「歌わない」という選択は場をしらけさせてしまうので、席に着いてしまった以上、それはできない。仕方なく、順番が回ってきたらマイクを手に取る。歌いながら、下手くそな自分の歌声にだんだん悲しくなってくる。心なしか、私が歌っているときにみんなトイレに行ったりスマホを確認している気すらする。そうすると私はみじめになって、カラオケのことがまたちょっと嫌いになる。

選曲も私を大いに悩ませる。
「好きな曲」と「歌える曲」は違うのだ。特に最近の流行りの曲はテンポが速い上にリズムが複雑で、音域があり得ないほど幅広い。
到底、下手な素人が歌いきれるものではない。
私には、これ以上恥をかかないように、歌いこなせない曲を避ける必要性がある。
かといってローテンポで単調な曲を選べばいいってものではない。
人と行くカラオケは、極端に歌が上手いとかではない限り、相手がわかる曲を歌わないと地獄なのだ。下手な知らない歌を聴くことの苦痛は大きい。
間奏が多い曲や、よくよく考えたらこっぱずかしい言葉が羅列している歌詞の曲も、変な空気が流れるのでNGである。
また私は見栄っ張りなので、音痴でも「こいつ、選曲のセンスはいいな」と思われたいがために、アーティストや曲を厳選する必要がある。
難しい。とにかく、難しいのだ。

世に安寧がもたらされた時…カラオケになんのためらいもなく行けるようになった時。その時が来るのが、私はほんのちょっとだけ怖い。
いやなにも、カラオケに行かなかったからといって死ぬわけじゃないし、断ればいい。酒やたばこだってそうやって回避してきたじゃないか。
…それでもやっぱり、【カラオケ練習用】というプレイリストに、「歌いやすくて盛り上がりやすくて気まずくならない曲」を探してはせっせと保存しちまちまと聴いて、密かに歌う練習をしてしまう私は、いったいなんなんだろう。

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