小説 ノウズ (前編)
2023年2月 Twitterで小説を募集という投稿を見た。
私はその投稿を見て、小説を書きたい、応募したいと思ってしまい、全てはじめてでしたが、昨年の5月末の締め切りまで挑戦してみることにしました。結果は 落選 してしまったのですが、登場人物だったり、実際にあったエピソードも加えたりしましたので、せっかくなのでお披露目です~
もし、ご興味ありましたら、読んでみてください!
代官山の美容師さんとCGクリエイター達のお話しです!
甘井萌乃( あまい もの )
第1章 3ds Max
彼女に似合う髪型を私は知っています。
という意味で美容室の名前は「She knows…」(シーノウズ)にした。
私はその店の美容師『 篠塚 悠莉奈 』。アランイランのオーナーから店を譲ってもらった事で、経営者になったのだ。別の言い方をすると、36歳で店を買い取った。そう、36歳で大きな借金をした事になる。
アランイランからシーノウズに名前を変えたのは、自分の店として、新なスタートを切りたかったからだ。早いもので独立してもう8年が過ぎた。8年間でスタッフの入れ替えは色々とあり、今は、独立当初から一緒に働いている石山君(通称 イッシー)と二人でなんとか回している状態だ。私のこだわりのパッツン前髪は石山君にカットしてもらっていて、石山君がいるだけで色々と心強い。
シーノウズのある場所は、渋谷と恵比寿と代官山のちょうど真ん中あたりで、どの駅からも10分以上はかかる小さな3階建ての建物だ。
地名でいうと、猿楽町。
1階は、元アパレルの中本麻美さんが脱サラして経営を始めたBar Asami。歳は私の2つ上で、私は中本麻美さんを、バーのママだから「ママ」と呼んでいる。パセリたっぷりのカレーを提供しており、かわいらしいパセリのようなパーマヘアが特徴だ。ちなみに、かかりつけの美容室は私の店ではない。ママは、元アパレルだけあって、ファッションもインテリアも料理もセンスが抜群だ。おまけに性格も素晴らしい人間だ。
シーノウズは、2階と3階、そして屋上となっている。2階が受付スペースであり、3階には接客のスタイリングチェア5席とシャンプー台2席が配置されている。3階の一部の壁は、鮮やかなピンク色に石山君と私が塗った。
Bar Asamiの出入り口は飲食店が並ぶ道路側にあるのに対し、シーノウズに行くには、建物の裏側に周ってスチールの階段を上がらないと行けない。そのせいか、新規のお客様のほとんどの人が道に迷う。Bar Asamiの前から電話をしてきて「入口がわからない」と連絡がくるのだ。けれど、一度来てもらえたら、隠れ家のように気に入ってもらえるので、私はこの場所で、ずっと美容師をしていたい。
お客さん達は、私の事を「篠塚さん」と呼ぶ。ただし、特別な存在の一人、持田きな子さんだけが私の事を「悠莉奈さん」と下の名前で呼んでくれる。
最初に名前で呼ばれたのは、私がまだアシスタントの時だった。カットデビューに向けて、マネキンの髪の毛を切って練習していると、彼女が声をかけてくれた。
「悠莉奈さん、がんばってる?」
と。いつも甘いものを差し入れてくれ、近くのセブンイレブンで買ったチロルチョコの「きなこもち」は もちだきなこ の定番だった。
きな子さんの髪は直毛で、毛の量がとっても多い。歳は、ママと同じで、私の2つ上になる。チロルチョコを配っていた時期は、恵比寿にある建築パース屋さん(株式会社オルト)に努めていた。通勤の行きは電車だが、帰りは渋谷駅まで歩くのが、彼女のスタイルだ。
その途中でアランイランを見つけてくれたのが私との出会いになる。カットデビューしてからずっと担当しているので、彼女に似合う髪型は私が一番知っているのだ。
ただし、彼女の仕事の業界についてはよく知らない。彼女に会うまで、『建築パース』という言葉は知らなかった。図面から3Dで立体にして形にするらしい。きな子さんはCG部に所属していて毎晩のように残業していた。そして、建築CGという業界で38歳の時、独立したのだ。私と同じタイミングだったから、きな子さんも8年目だ。色々と共感できる事が多く、合コンや旅行などプライベートも過ごしたので、お客さん以上、親友未満の間柄になれたと私は思っている。私もママも、きな子さんも三人とも彼氏はいるが、独身で、只今人生を楽しみ中である。
2019年 3月3日(日)
「良かったら、石山君と食べて」
と言って、きな子さんは、差し入れを持ってきてくれた。
頂いた小さな箱には、虎のイラストが描いてあり、私はすぐに喜んで受け取ってしまった。
「わ~い、とらや じゃないですか?」
箱の中には、桜餅がふたつ入っている。そうか、今日はひな祭りだ。
「あと、これは招待状。ぜひ来てね」
招待状は私にだけくれた。それは2週間後のパーティーの案内だった。
きな子さんが帰ってから、招待状を見ながら、桜餅を頂いた。
私の好きなこしあんだ。実に上品な甘さである。招待状には、自己紹介のブレゼンをお願いします。(プロジェクター完備)と記載されていた。
私は、きな子さんのアイディアにクスっと笑った。それにしても、プロジェクターを使うようなプレゼンなんて生まれて一度もしたことがない。食べかけの桜餅を持ちながら、ポカンと口を開けていた時、石山君から紙芝居の提案が出た。なるほど、紙芝居なら私でも出来る。
早速、翌日から自分プレゼンの紙芝居の準備を始めた。12色のマジックを使って、描いて、眺めて、練習して、毎日心が弾んだ。
2019年3月25日(日) パーティー当日
A3サイズの紙芝居を持って、時間ピッタリに青山にあるバニラビーンズに行った。その日の、桜は八分咲きで、ちょうど良いお花見の時期だったが、気温が突然冬に戻り、残念ながら花の雨が降っていた。そんな天候にも関わらず、会場には40人くらいの人が集まっていて、主役のきな子さんは桜柄の着物を着ていた。私を見つけると、
「あ、悠莉奈さん、来てくれてありがとう。楽しんで行ってね」
ポンポンと、私の肩を叩いた後、同じ言葉を色んな人にかけて走り周っていた。まるで、きな子さん自信が桜風吹のようだ。
きな子さんは、また、私の所へ戻って来てくれ、パーティーの司会の女性を紹介してくれた。きな子さんのビジネスパートナーらしい。その人も着物を着ていたので、どうして着物なのか聞いてみると、二人で合わせたそうだ。司会者を紹介してくれたおかげで、私は、知っている人はきな子さんだけだったが、緊張せずに過ごす事が出来そうな予感がした。
きな子さんが、出版した本は「3ds Max建築CGマスター」という本で、CG業界の人が使っているソフトで、その使い方が初心者にもわかるように丁寧に記載されているそうだ。その本の通りに操作して制作すると、CGパースというのが描けるのだ。隣にいた人がその本を持って来ていたので、見せてもらうと、豆腐のような白い四角いお家の作り方が載っていた。ページをペラペラめくると244ページもあった。
パーティーは、CG業界の人の集まりであると、数人のプレゼンを観る事で、その事が解った。一昨年、話題になった映画『ビックゴリラ』の制作に携わった人もいた。その人達は、スタジオエイトと言って、林明さんと梨沙さん夫婦二人で制作していると言う。会場にいるほとんどの人が見ている映画だった。きっと、CG業界では有名なのだろう。
私は、見ていなかったので、その場でスマートフォンを使って検索すると、映画『ビックゴリラ』は、公開から10日間で、観客動員数70万人、興行収入は8億6千万円と過去のニュースの記事が出て来た。
よりによって、その夫婦の素晴らしいプレゼンの後に、私の自己紹介プレゼンの出番がやってきた。私は、紙芝居を左の脇に挟み、みんなの前に出た。
右手でマイクを持つと、やっぱり緊張する。もう一杯お酒を飲んでおけば良かったと思ったが、ここまで来たらやるしかない。一度咳払いをして声を出した。
「はじめまして。持田きな子さんの髪を20年切っている、美容師の篠塚悠莉奈です。代官山でシーノウズという美容室をやっております。みなさんみたいにCGとか映像は流せないので、今日は紙芝居を描いてきました。クイズも作ったので、ぜひ参加してください」
会場の人は笑顔になり暖かい拍手をしてくれた。すると、司会者は、私の脇に挟んだ紙芝居に気が付き、めくる係をすると目で合図して取ってくれた。
みんなの視線が、私ではなく紙芝居に向く。
一枚目の表紙には「She knows…」マジックで描いてあり、なんとか目立っている。2枚目からは「美容室クイズ」でプレゼンを始めた。
美容室は火曜日を休みにする店舗が多いのですが、それはなぜでしょう?
とか、美容室のネタのクイズを6個出した。ちなみに、この答えは、こうだ。第二次大戦後の休電日。戦争では電力が必要なので国民に節電をしてもらうため。私からすると、美容室を経営している人では当然の知識であったが、CG業界の人にとっては初めて知る世界のようだ。みんなは、私の紙芝居を楽しそうに聞いてくれて、答えてくれた。ドッカンドッカン笑いが起きたのは、気持ちよくて鳥肌まで出た。笑ってもらえるのがこんなにも気持ちよい経験だとは、笑顔が戻らない顔になっていた。
プレゼンが終わった後は沢山の人が私に話しかけてくれて、何回もグラスを合わせ乾杯した。そして、CG業界の人とお酒を交わして、はじめて知った事がいくつかあった。CG業界は、同じソフトを使用していても、建築や、映画、CMに、ファッションと幅広い業種の方がいる事。あとは、クリエイティブを四六時中、楽しんでいる事だった。この日は、ずっと冷たい雨が止まなかった。しかし、とても熱い刺激的な夜だった。
2019年3月26日(月) パーティーの翌日
誰かが店のスチール階段を上ってきた。2階の受付にいれば、うっすら聞こえる音。さすがに足音だけでは、誰かはわからないが、10時半だし石山君の出勤だろう。ピョコッと出た顔は石山君ではなく、昨夜の出版パーティーで一緒だった女性だ。
ひし形のボブカットが頭の形にとても合っていたので覚えている。
「おはようございます」という感じで、右手を小さくふっている。私は、ガラスの扉を開けた。
「あれ?・・・」
「昨夜はお疲れ様でした。安藤夏です」
彼女は背負っていた黒いリュックを手前に回転させ、お腹の上でリュックのチャックを空けた。すると、茶色いネコのような、リスのような、毛の固まりを取り出した。何かと思ったら、私のお気に入りのモフモフ帽子だ。
「この帽子、印象的だったので、どなたの忘れ物かすぐにわかりました」
「あ、私のです。わざわざ届けてくださったのですね。ありがとうございます」
私は、申し訳なさそうに笑いながら答えた。そして、帽子を忘れた事を、忘れていた。
「これ、どちらで買ったのですか? ロシアですか?」
「はい、ロシアの猫です。ニャーオ」
帽子をナデナデしながら答えた。
「猫?」
彼女は微笑みながら答えた。
「冗談ですよ、下北沢で買いました」
昨夜のパーティーに来ていた人はみんな感じが良く、初対面だったのに、全員もう友達みたいな感覚になり、そういう冗談の会話がなぜか出来てしまった。
「昨夜は、とても楽しかったですね」
と、彼女は言った。
「そうですね。おかげで飲みすぎて、帽子を忘れてしまったようです」
うちの店は、どの駅からも10分以上はかかる場所だ。しかも昨夜は解散が23時と遅かったから、朝から届けてくれるとは、本当に申し訳ない気持ちにさせられた。それにしても、今日じゃなくても良かったのに・・・私は深く頭を下げた後に、レジがあるカウンターの中に入った。何かお礼になるものを、レジの周りから探してみよう。探してみてもいつものこれしかない。そして、いつもの千円札の私の似顔絵入り割引券を、一枚取り出した。
チラッと、その紙を見た彼女は
「持っています。昨夜、頂いたので」
そうだった、そうだった。
パーティーの参加者全員に私は、割引券を配って営業したのだ。
私は、思わず舌をチョロッと出した。続けて彼女は、
「私は持田きな子さんの後輩で、恵比寿の会社に勤めています。通勤途中ですから、どうぞ気にしないでください。」
きな子さんの後輩だと、プレゼンで話していたのを思い出した。
「あのー、この割引券を使って、早速予約しても良いですか?」
「わぁ、もちろんです。ぜひ、使ってください」
私は、すぐさま予約を入れるタブレットを取り出した。彼女は、いつにしようかな~と人差し指を顎にあてているわかりやすいポーズをとっていた。可愛い仕草だ。まあ、20代は何をやってもかわいい。私もそのポーズをこっそり真似てみた。
ちょうどその時、彼女のスマートフォンの画面にメッセージが入ったのが見えた。
「すみません、ちょっと失礼します」
と言って頭を下げてきたので、私はうなずき、指でOKのサインを送った。誰かとのやりとりだろう。彼女は、スマートフォンの画面を隠さず操作した。両手の親指を上手く、ピッピッと使って、あっと言う間にすごい文字数を入力している。私の出来ないフリック入力だ。気づいたら、彼女のスマートフォンのやり取りを、私はじっと見つめていた。
「あのー、もう一人、一緒の時間に予約をお願いする事は出来ますか?」
「はい、大丈夫ですよ。一人は別のスタッフが担当しますけど、それでも良いですか?」
どうやら、今やりとりをしている相手と一緒に来たいようだ。彼氏かな?
その時、薄手のパーカーを着て肩を丸めた石山君が出勤してきた。
この時期は風邪をひきやすいから、もう一枚羽織るか、彼女からもらった厚手のパーカーにすればいいのに。石山君は私より歳が7つも下になる。そのせいか、なぜか姉目線になって服装をチェックする癖がついていた。
そして、私は、彼女に、右手で石山君を指した。
「どちらか一人は、こちらの石山が担当致します」
と言って石山君を紹介した。石山君は爽やかで愛嬌があるので第一印象がとても良い。
「では、私を担当してくださいますか?」
と彼女は再び笑顔になってくれたので、つられて三人共ほっこりした笑顔になった。
「4日後の金曜日の夕方は、空いてますか?」
いつもは、週末は予約でいっぱいなのに、その日は空いている。
「17時からはいかがですか? あと、ご一緒の方のお名前も教えて頂けますか?」
「はい、17時で大丈夫です、もう一人は林梨沙さんです」
林梨沙さんは、昨夜のパーティーに来ていた、映画『ビックゴリラ』の制作者だ。すぐに思い出せた。もうすこし、お話をしたいと思っていたので、ご来店とは嬉しかった。二人の名前をタブレットに打ち込んだ。
すると、横にいた石山君が
「篠塚さん、みてください」
と、自分の肘を私の肘にツンツン当てて来て、タブレットを指した(安藤夏)
「あああ~あ、アンドウナツさん、あんドーナツさんなんですね」
「あ、はい。つぶあん派のなっちゃんです」
ニコニコ笑う笑顔がかわいかった。
「では、ぼくの事はイッシーって呼んでください」
と、石山君は言った。それにしても、あんドーナツさんとは、ご両親はあえて付けた名前だろうか?洒落が効きすぎていると思いつつも私は言った。
「お名前、最高ですね。」
その後、モフモフ帽子のお礼をもう一度言って、石山君とドアの外へ見送り出て、手をふった。
その後、お客さんの接客をしながら、きな子さんへのお礼を何にするかずっと考えていた。モフモフ帽子と、新規のお客さんの予約が入ったのは、きな子さんのおかげだからだ。そして、日が暮れた頃に思いついた。
そうだ、きな子さんが出版した「3ds Max建築CGマスター」を購入しよう。
お店に置けば、お互いの宣伝にもなるだろうし。
私は、「3ds Max建築CGマスター」1冊をインターネットで購入した。
第2章 CGガールズ
2019年3月27日(金)
金曜日の夕方、頼んでいた、きな子さんの本が届いた。
インターネット販売は実に便利である。届いた本を本棚に置くと17時の鐘だ。渋谷のチャイムである夕焼け小焼け~が響いた。
私は顔を上げ、ドア越しに向かいのビルを眺めると、ビルはオレンジ色に染まっていた。そして、そのオレンジ色の光の前になっちゃんと、林梨沙さんが現れた。なっちゃんは全身黒づくめで、梨沙さんは白のセーターにデニムのロングスカートで来店した。
「いらっしゃいませ。シーノウズへようこそ」
と、ドアを開けてあげると、二人は、微笑みながら入って来てくれた。そして、3階のカットのスタイリングチェアに案内した。なっちゃんは一番奥の席へ、一つ席を空けて、真ん中の席は、梨沙さんにして、座ってもらった。
「隣同士にすると、実は鏡越しで目が合わないんです。隣の席の人は見れないように設計しているので、一つ離せば、お顔を見ながら話せますよ」
なっちゃんは、石山君が担当。私はロングヘアーの梨沙さん。さて、メニューはこれからだ。
「二人はお友達という関係なんですか?」
私は二人に話かけると、なっちゃんが答えた。
「はい。CGガールズで親しくさせてもらっています」
「そうなんですね」
と、私が言うと、そのまま、なっちゃんが話続けた。
「CGガールズの話、きな子先輩から聞いた事ありますか?」
「はい。CG業界の女子を集めて勉強会をしていると、きな子さんから聞いた事があります。」
「そう、それです。今日はCGの事で聞きたい事があって、梨沙姉さんを誘ってみました」
「なるほど。二人はCGガールズなんですね。今日はお休みですか?」
17時なので、会社員でこの時間の来店は難しいと思い、聞いてみた。
「いいえ、実は仕事中です。たまたま二人共、レンダリング中です」
すかさず、石山君が話に入ってきた。
「レンダリング?レンダリングってなんすか?」
石山君は絵が上手なので、クリエイターの話にはとても興味があるのだろう。私は、この話は長くなりそうなので、メニューを先に決めた方が良いと察知して、いったん、話を遮った。
「石山君、先にかわいくなるメニューを決めちゃいましょう」
そう言って、石山君にも、やれという姿を見せつけた。
石山君は、なっちゃんと相談して決めている。私は、梨沙さんの長い髪の毛先をパラパラ触った。梨沙さんも自分の髪を触りながら、相談してきた。
「そうですね、5センチくらいカットしてもらって、根元だけカラーを・・・」
「はい、では、リタッチですね」
「デタッチ?」
「リ!タッチです」
と、「リ」を強調して言った。そうか、リタッチは美容界の専門用語なのかもしれない。
「では、リ!タッチで。色はお任せします」
私は、毛のサンプルのカラーパレットを取り出し、ページをめくっていると、梨沙さんが話かけてきた。
「私の使用しているCGのソフトでは、デタッチという機能があるんです。例えば、立方体と球体がくっついて一つのオブジェクトになっているとします。その合体したオブジェクトの球体部分だけを離したい時に、球を選択して、「デタッチ」というボタンを押すと、立方体と球体が分解されるんです」
手で表現しながら説明してくれた。
「へぇ~。では、くっつけるのは何と言うのですか?」
「アタッチです」
「へぇ~。言葉は似ているけど、意味が全く違いますね。髪の毛のリタッチは、リスケに似てまして・・」
「リスケって、スケジュールをやり直す、あの事ですか?」
「Re touchを語源にしたもので、伸びた髪を再び染め直す、って意味ですね」
「ふぅ~ん。なるほど、面白いですね」
私は今まで、CG業界なんて1ミリも興味なかった。けれど、パーティーに行った事と、映画を作っている梨沙さんの話だからか興味がわいてきた。しかも、10日間で、観客動員数70万人が観た『ビックゴリラ』を制作した人が目の前にいるのだ。映画の話、沢山聞きたい。
願わくば、たった1回の来店ではなく、リピーターになってまた来て欲しい・・・
カラー剤を用意し、カラー専用の小さなボウルに2cmくらいずつ、チューブをしぼる。色が出来たので、右手に刷毛を持って、声をかけた。
「すこし冷たくなります」
そう言って髪を分けながら塗りはじめ、そのまま話かけた。
「カラーも、CGと共通点があるかもしれませんね」
タブレットで雑誌を見ようとしていた、梨沙さんの手が止まった
「髪の色って、カラーパレットから選んでもらうのですが、選んだ色をそのままチューブから出すだけではないんですよ。たとえば、赤みが強い髪の色には、青みを入れるとか。CGの世界にもそういう技は、ありますか?」
「あります、山ほどあります。例えば・・・」
すこし考えて、続けて言った。
「夜の海辺に建つ、白いお城を想像してもらえますか?」
私は、言われた通り想像した。
「海辺に建つ白いお城は、夜空と海の影響を受けて、白い大理石が深い青色になってしまう。夜景の写真みたいな感じです。んー うまく説明出来てますかねー?」
説明不足のようで、梨沙さんは、なっちゃんに話かけた。
「ねぇー、なっちゃん。建築CGって周辺の色が影響されてもアリ?」
「周辺の色ですか? 例えばV-Rayのの事ですか?」
ん? なんか、私には理解しにくい英語みたいな、わけわからない言葉が出てきた。ブイレイ?
私の眉間にしわが寄った顔を見て、なっちゃんは、私や石山君にも理解しやすく噛み砕いて説明してくれた。
「確かに。建築CGは、得に設計者さんが色に厳しいです。建物も空の影響で、青みがかっていたら、タイルの色と違うって赤字が入ります。影響しない場合が多いかも」
そのままテンションが高くなって、声も大きくなってきた。
「あ、実は今、会津若松の競馬場のコンペの仕事をしているんです。のアングルは、芝生が沢山観えて・・・これも、芝生の黄緑色の影響が建物に出ちゃうんですよね。もうすこし、下からのアングルだと絵がかっこよくなるのに、クライアントの希望で、ちょうど来る前にに変更になりました。よって、レンダリングやり直しですよっ」
なっちゃんは、どうやらおしゃべりのようだ。同じ事を思ったのか梨沙さんが茶色いカラークロスの下から手を出して「シーっ」って合図をした。カラークロスはポンチョのようなもので、うちはカットには白色で、カラーは茶色を使っている。
「なっちゃん、コンペとかは、終わるまでは外で話さない方が良いよ。どこで聞かれているかわからないし、クライアントとの信頼関係だから」
梨沙さんは上手にアドバイスしてきた。なっちゃんは、舌をチョロッと出した。すると、石山君が話を元にもどして来たのだ。
「ところで、チョウカンって、何すか?」
と聞いてきた。
「漢字を書くとわかりやすいんだけど・・・鳥が、下を見下ろす眺めのようなアングルです」
なっちゃんが得意げに答えた。石山君はスマートフォンで検索して、漢字も理解できたようだ。満足げにほほ笑んでいる。そして、なっちゃんは、ちゃんと反省して言葉にした。
「梨沙姉さん、ありがとうございます。会社員のせいか、気が緩いんですかね。外では仕事の話は気をつけるよう、きな子先輩にもよく注意されます。」
昔、クリエイターは孤独との戦いだと、何かの本で読んだ事がある。お客さんの話を聞いていると、作品を生み出すまでの苦労とか、納品までの戦いとか、いろいろと辛さもあるのだと感じる。言えないプロジェクトがあるなんて、私だったらムズムズして続けられない。
「悠莉奈さん、きな子さんは、シーノウズでは色々と話しているのですか?」
梨沙さんが、私に聞いてきた。
「そうですね。独立してからは、今こんなのに挑戦しているとか、話してくれますよ。疲れがたまっている時は、ヘッドスパだけして、あースッキリした、と言って帰っていきます」
「わ~ 私、ヘッドスパした事ない~。映画製作で煮詰まったら、また来ようかな。明くんも一緒に♡」
旦那さんの事を明君と呼ぶとは、仲が良いのが目に見える。
「はい、その代り、かっこよくしか出来ないですよ」
私のお決まりの決め台詞で、みんなで肩を揺らして笑った。
カラーが浸透する間、私は、二人に飲み物を提供した。二人とも珈琲だった。
「はい、珈琲どうぞ~ 五月になれば、うちのおばあちゃん特製梅ジュースがあるんですよ。すごく美味しいので飲んで頂きたいなぁ~」
と、私は、また来店してもらえるように伝えた。梨沙さんは、いろんな話をしてくれるし、優しい雰囲気でとても心地よい。一方、なっちゃんは、元気な女の子でせわしないのが、感じられた。カラーの浸透はあと5分くらいだろうか。
私がタイマーを見ていると、石山君が二人にむけて質問してきた。
「すみません、さっき話していた・・・リングリングってなんすか?」
「リングリング? そんな事言いましたっけ?」
なっちゃんが楽しそうに聞き返した。
「レン・・・いや、なんとかリング中とか」
「あ~、レンダリング中の事ですね」
梨沙さんがわかった様子だ。石山君も、親指と人差し指を出して、それそれとポーズをした。
「レンダリングってね、画像の光計算。その光計算中という意味です」
側で聞いていた私は、その一言で放心してしまった。
光の計算とは何だろう?私は数学が一番苦手だったし、理解できるか不安だったが、そのまま聞いていた。
「私の建築CGの場合は、まず、建物を作ります。分かりやすく説明すると、立方体の箱を想像してください。その箱に素材を貼ります。例えば、レンガの素材とか。その箱が綺麗に見えるように、太陽とかライトを配置して、かっこいいアングルを作るんです。そのアングルを画像にして見たいので、最後に「レンダリング」って「ボタン」をポチって押すんですー」
石山君も私も、真剣に聞いていた。
「ちなみに、ここだけの話、某競馬場の建物を、夕方の太陽にして、ポチって、さっき「レンダリング」してきました」
「あはは、某を付けるなら、ギリギリ大丈夫かなー」
梨沙さんが、笑いながらなっちゃんに言った。いや、某でも分かってしまいそうだが・・・
梨沙さんは、カラーが終わったので、その後、シャンプーをし、カットを始めた。なっちゃんはカットだけだったので、もう仕上げの段階だ。
二人同時には終了できないと思っていた時、なっちゃんが梨沙さんに声をかけた。
「梨沙さん、この後、ごはん行きませんか?」
「サクっとなら大丈夫よ」
食いしん坊でお節介な私は、聞かれてもいないのに、口をはさんだ。
「1階のBar Asamiちょうど良いですよ。ママの料理は何食べても美味しいです」
私のこの一言で、二人の行先は決定した。
早速、梨沙さんは、夫の明さんに連絡をしていた。
そして、二人は下のBar Asamiにサクッと食べに行った。と、思う。
この日の自宅への帰り道、大きく広がる空には、黄色い満月が輝いていた。
道路には、どこからかやって来た桜の花びらが散っている。そこで、さっき梨沙さんが話したお城のシーンを私は思い浮かべた。白いマンションをお城に見立てると、しっかりと答え合わせができる。今日だけで、アタッチ、デタッチ、鳥瞰、レンダリング、といった様々なCG用語を覚えることが出来た。
第3章 マシンが心配
2019年12月2日(月)
モデリングでは面取りをする方が良い。建築CGはミリメートルが単位。土木の単位はメートル。を使ってレタッチをする。は略してフォトショという。3Dプリンターにはやすりがけ。
キナコモチナイト以来、沢山のCGクリエイターが来店してくれるようになり、沢山の話を聞けた。石山君も私も、映画やポスターを目にするたびに、これは写真じゃなくてCGだね。これはレタッチしているね。とかがなんとなくわかるようになってきた。
美容師は、最終の髪型を想像しながら接客をする。カットだけではなく、カラーの色もパーマもだ。特に男性はスタイリング剤を付けるのか付けないかも重要なポイントで、付けないタイプなら、常に仕上がっている髪型を最終形とするのだ。その最後のイメージは出来ていないのなら、美容師は向いていないと言い切れる。かつて、美容師は「施術師」と呼ばれ、「先生」とも称された。クリエイターの話を聞いていて、美容師もクリエイターなのだと、同じ仲間に入れたような気がして、気持ちがる毎日が続いていた。
トゥルルルルン トゥルルルルン
店の電話が鳴った。
「はい、シーノウズです」
(はあ、はあ、)息があがっている。
「ごめんなさい。持田です。今、渋谷に着いたので10分、いや15分遅れます。ホントにごめんなさい」
「はい、大丈夫ですよ。気を付けて来てください」
最近は、渋谷の都市開発で線路沿いの道が変わっているので、10分では着かない。
「こんにちは~」
梨沙さんだ。今日も時間ピッタリで、今日もロングスカートだった。
「いらっしゃいませ。今日は、きな子さんもこれからいらっしゃいますよ」
「わー、本当ですか? 久しぶりだから嬉しいー」
「お二人一緒なので、どちらかが石山君ですが、梨沙さんどうします?」
「では、イッシーで。初イッシーだ」
石山君と3階に上がって行った。私は、冬の冷たい空気を感じたくなり、ドアを開けて外に出た。雲の様子が怪しく、どんよりした灰色の空が広がっていた。ポタッという音がし、私の額に冷たさを感じた。中に戻ろうとすると、私の事を呼ぶ声が聞こえた。
「悠莉奈さーん」
きな子さんだった。振り返って店の時計を見ると、本当に10分で来たようだ。寒くなっていたので、早く店の中へ入れた。3階に上がる階段で、私は、梨沙さんも来ている事を伝えた。
「ハロー、梨沙ちゃん」
きな子さんが、呼びかけると、スマートフォンをじっと眺めていた梨沙さんの顔があがった。
二人とも微笑みあっている。
「わー嬉しい。今ね、インスタに投稿したの。きな子さん、一緒の写真を投稿しない?」
「やだよー、走って乱れた髪と、この赤ら顔だよっ」
鏡を見ながら、手で膨らんだ髪を抑えながら答えた。
その瞬間、ゴロゴロという私の嫌いな音が聞こえた・・・
梨沙さんも、きな子さんも、その音に気づいているようだが、気にする様子もなく、ニコニコ見つめ合っている。年末が近づくこの時期は、疲れがたまっているそうだ。2人共、ヘッドスパのメニューを選んで決めた。
梨沙さんは、既にアロマを選んでいたようで、鏡の前に『リラックス』が置かれている。きな子さんは、今日の気分で香りを嗅いでから決める事にした。リラックス、リフレシュッ、ナチュラル、ビューティーの4本の瓶をそれぞれ鼻に近づけた。目を閉じて、ゆっくりと鼻から吸った。まずは、1本目のリラックス。2本目、3本目、4本目。
きな子さんはもう一度『リラックス』を嗅いだ。
「これにします!」
きな子さんも、梨沙さんと同じリラックスだ。
「お二人とも疲れていますね」
「そうなの。やっと映画のモデリングが終わってね、これからライティングとか、マテリアルとかの作業で、肩もガチガチー」
梨沙さんが自分の肩を、自分の手でもみながら話して来た。
きな子さんもリンクで同じ仕草をしながら話した。
「私は、オリンピック前だからか、最近はホテルのCGパースが多くてねー。今週中に8部屋の内観パース。ここで癒しを挟んでおかないと、ぶっ倒れそうだから、悠莉奈ちゃん、よろしく頼んだよー」
二人とも、伝えたい事だけ伝えて、目を閉じた。常連っぽいルーティンになり私は嬉しくてニヤリとした。石山君は二人分のヘッドスパのクリームを用意してくれている。
「あ、イッシー、CGガールズって知ってる?」
目を閉じたまま、きな子さんが石山君に聞いてきた。
「知らないですー」
「やっぱ知らないかー。昔のアイドルグループなんだけど、『No天気な恋の島1992』って歌があるの」
「ノ~テンキですか? ちょっと検索していいっすか?」
ヘッドスパの用意が終わったのでスマートフォンを取り出した。
ここにいる石山君以外の三人はCGガールズという昔のアイドルグループを知っている世代だ。青田典子と藤森理恵と、あと顔は覚えているけど、名前は思い出せない。石山君のスマートフォンから音が流れた。その後、ボリュームを大きくして、みんなで聞いてみた。きな子さんも梨沙さんも目を閉じたまま笑いながら聞いている。私は鏡で二人を観ながら、笑った。
「バブルすっねー」
石山君は楽しそうに笑っている、と同時に、私達を見て少し引いていた。
その時、ガラスの向こうが、パンと光った。
ゴロゴロゴロ・・・・この音は近い。
雷様が近くで叫んで暴れ出している音だ。
「わ~ノー天気でいる場合じゃないかもよ」
きな子さんが言った。また三人で声を出して笑った。いつもなら下に降りて、ヘッドスパのクリームをレンジで40秒チンして温めるのだが、楽しいこの場から離れたくなく、今日はスチーマーでクリームを温めた。スチーマーで温めたら、この空間もベルガモットとラベンダーの香りに包まれて、全身がふわっとした。
「そんなに笑っていたらスタート出来ないですよ。どうしますか?」
私のその言葉に、肩を震わせてまた笑った。
さあ、二人には、どっぷりと深海の世界へと没頭していただきましょう。
私は両手にいっぱいにクリームを取り、肩までの長さのきな子さんの髪を首の方から上に持ちあげた。一方、隣にいる梨沙さんは、ロングなので特に根元を中心にほぐす必要がある。石山君も上達してきているので、今は安心して任せることができる。このいい香りに私自身も癒される。
その時、バキバキバキっと、近くに雷が落ちたような音がした。
深海では爆音なんてしない世界だろう。
すると、梨沙さんの声が「あっ」ともれて、話出した。
「そういえば昔さー、明君とレンダリング中に、横浜のワイルドブルーに行ったのね。その夏は忙し過ぎて海行けなかったから」
「あったね、大型屋内温泉プール。懐かしい」
きな子さんも会話に乗った。話が収まるどころじゃなく、むしろ盛り上がっていた。私も会話に乗りたかったが、黙って、そのままマッサージを続けた。首の方からクルクルと親指を回し、耳の後ろもゆっくりほぐした。
きな子さんの頭皮は、固くなっているようだった。
そして、梨沙さんは、そのまま話を続けた。
「その日は雨だったの。朝から能天気に思いっきり遊んで、夕方に帰ったのね。レンダリングも半日以上かかると思ったから・・・
帰宅して、部屋の電気を付けたら真っ暗のままで、なんと、レンダリングのマシンまで消えてるの。雷落ちたかも?って焦ったら、うちのマシンには雷は落ちてはいなくて、ただの停電だった。データは無事だったから、本当に助かったよ」
「うん、うん」
と、ヘッドスパで目を閉じてはいるが、聞いているきな子さん。
私も石山君も手を動かしながら、梨沙さんの話に引き込まれていた。
「その翌日に、その話を先輩にしたのね。そしたら、先輩はファイルの入っている大事なマシンに雷が落ちた事があるって言ったのー」
「ええええええっ、マシンに雷が落ちる事があるの?」
きな子さんは目を閉じたまま、大きな声を出した。
「そうだよ。その先輩は大阪と東京に事務所があって、大阪から東京に戻ったら、一台壊れてたんだって。理由がわからなくて知らべてみたら、その地域に雷が落ちてたんだって。
ホント、怖い話だよね」
「やだー、私、レンダリングしてきたよ。しかも、今は動画のレンダリング中だから、やり直ししたくないよ」
二人は、頭がベトベトの状態で、すこし顎が上がり頭が後ろの体勢で目を閉じながら話している。幸せそうな顔だ。その会話の後、二人はまた黙り始めた。きっと、お互いの頭の中は何か思い出した映像が脳内に映し出されているのだろう。ちょっと、脳内を覗いてみたくなった。
「悠莉奈さん、ヘッドスパ終わったら、タクシー呼んでくれる?」
きな子さんは、パキッと一瞬目を開けて聞いて来た。
「はい」
私は、右手を上げた。
「心配だから、速攻で帰るわ」
最後に肩のマッサージをしてヘッドスパを終了した。
二人のヘッドスパが終わったと同時に、石山君が
「あのー、さっき話に出ていた『マシン』って何すか? ロボットっすか?」
右手でモゾモゾとお尻を触りながら質問している。
「マシンね。パソコンの事だよ。
正式にはワークステーションって言うのだけど、CG用のパソコンって特殊でね、普通に学生さんとか会社で使っているようなパソコンだとソフトが動かないのよ」
「なるほど、そうっすよねー」
そう言って、デニムの後ろのポケットから小さなノートを出して、小さなペンを口にくわえた。
「メモしているの?」
「イッシー、すごーい。他にも何でも教えるよ」
と、石山君を褒めてくれた。自分のスタッフがCG業界を知ろうとして、勉強しているとは、思ってもみなかった。私は、また姉心で、目が潤んで一瞬前が見えなかった。
「きな子さん、タクシー着きましたよ」
と私が告げると、
「ありがとう。早く私のマシンに会いたいから助かった。みんなも帰り気をつけてね」
と、きな子さんはタクシーの姿を見ると、急いで店を出て行った。
5分後、梨沙さんの旦那さんが車で迎えに来た。
今日は、もっと降りそうだし、私と石山君も早めに店を閉めて出た。
私の彼氏は遠くで暮らしているので、迎えには来れない。
こんな夜は寂しいものだ。濡れたまま歩いて帰えることになった。
第4章 ファン
2019年12月5日(木) 午前
今日は林明さんが人生初のパーマをかけにくる。あと、新規のお客さん一人と、石山くんのご両親。稼ぎ時の12月なのに、たったの四人か・・・ 肩を回す気にならなった。
お昼前の11時、明さんがいつもの笑顔で現れた。梨沙さんの夫は、字のまんまで明るい人だ。夫婦一緒に来る時は、私が妻の梨沙さん担当なので、明さんは石山君が、ずっと担当している。ダウンジャケットを預かりながら、私は梨沙さんのTwitterの投稿の事をあえていじってみた。
「明さん、今日はパーマかけるんですよね? 奥さんの投稿笑っちゃいましたよ」
「たくっ、梨沙め。俺が、ドキドキしてるってヤツね」
明さんは、人生で一度もパーマをかけた事がないので、今日が初体験なのだ。パーマの為にすこし髪を伸ばして来てくれた。そのまま、石山君と笑いながら3階に上がっていった。私は三階には上がらず、カウンターに肘をつき、他の人のTwitterをボーっと見ていた。
ブッブー
店のブザーが鳴って、私は顔を上げた。すごく背が高い。新規のお客さんだ。こんな寒い日なのにコートを着ていない。車で来たのかな? うちの美容室には来ないようなタイプの人が現れた。なんだろうこの人、うつくしい。透明感のある肌がキラッと光って見えたのだ。
「いしゃっしゃいませ」
「こんにちは」
「予約した イ・ヒョンソクです」
「道には迷いませんでしたか?」
「はい」
もう一度予約表を確認すると『イ・ヒョンソク』とある。おそらく、韓国の方だ。預かる荷物が無かったので、そのまま3階に一緒に行った。
今日はとても良い天気。光が差し込む窓から2番目の席に案内した。
一番奥のシャンプー台に近い席には、明さんが、石山君とキャッキャッ楽しそうに会話している。いつものことだ。二人は相性がいいらしい。
「イさん、はじめまして。担当する篠塚です。よろしくお願いします」
彼の髪は丁寧にセットされていた。
「今日は、どういうメニューにしますか?」
「ヘッドスパをおねがいします」
そのまま彼は、チラチラと振り返り店内を見回した。どうやら、奥の二人が気になるような仕草だった。奥の二人は、先日、梨沙さんが話してくれたワイルドブルーの話をしながら、シャンプー台へ移動していた。
私は気になっている事を、イさんにシンプルに尋ねた。
「イさんは、出身はどちらですか?」
「韓国です」
やはりそうだった。韓国の方だった。
「日本語お上手ですね。とても発音がきれいです」
彼はにっこり微笑んだ。
その後に、シーッという仕草をしてきた。まずい発言をしてしまったのかと思い、私は、思わず手を、自分の口にあてて塞いだ。すると、彼は自分のスマートフォンの画面を私に見せて来た。なんとゴリラの写真だった。あの人はこれ? と石山君と明さんを指さして、ゴリラの画像を見せて来た。
「はいっ?」
はい?である。二人がゴリラな訳ではないし。しかも、そのゴリラは目がクリクリして、着ぐるみのようだった。私は(ん?)という顔で首をかしげた。どうしよう、このお客さんは変な人なのかな? 私は、このやり取りに理解が出来ず、石山君に助けてもらおうと、石山君を見た。
すると、ゴリラが叫んでいるような声が、シャンプー台から聞こえた。
石山君が慌てた様子で、私の所に飛んできた。目玉が飛び出そうなくらい目を見開いている。
「どうしたの?」
私は、声を出したが、それはとても、小さな声だった。
目の前のイさんは私を見る。私は大きく二歩、イさんから後ろに下がった。
「お湯が・・・」
石山君が小さい声で言った。
「お湯が何?」
「お湯が出ないです」
石山君は眉間が寄って、泣きそうな顔をしている・・・
「すみません、ちょっとお待ち頂けますか?」
と、イさんに言って、シャンプー台に駆け寄った。明さんは、顔に小さい白い布をかけたまま倒れたシャンプーチェアに、横になっている。その顔にかけた白い布が息でふわふわ動いている。
私は、明さんの隣のシャンプー台でお湯を出した。
冷たい。え?え?え? お湯が出ない?
もう一度確認してみた。本当にお湯が出ない決定である。考えていても仕方がないので、まず明さんのスタイリングチェアを戻した。それから顔にかかった白い布をとった。
「すみません、ちょっと、先ほどの椅子に戻ってもらっても良いですか?」
すると明さんが、なんだか嬉しそうに言った。明さんはどんな状況でもニコニコしている人なのだろう。
「ボイラーに、雷が落ちたんじゃないのー?」
確かに、そうかもしれない。雷のあの日から、連休だった事で、お湯は出していない。これ、冗談じゃなくて、マジなやつかも。
どうしよう。落ち着け私・・・と、自分の胸に手をあてた。
「そうですかね。ごめんなさい、お湯が出ないみたいです」
明さんの髪は、すこしカットされた後の状態。韓国のイさんは、まだ何もしていない。となると・・・ とりあえずは、明さんだけがお湯が必要な状態だ。
「石山君、下のママのお店はお湯使えるか聞いてきてくれる?」
明さんが言ってたとおり、ボイラーに雷が落ちたなら、下の店も同じ状況なはずだ。
「はいっ」
石山君は元気の良い返事をして、勢いよく出た。
夏の時期なら、少し冷たい水のシャンプーも気持ち良いものだが、現在は12月である。さすがにお客さんに寒さを感じさせるわけにはいかない。私は近所にある美容室で、お湯を借りられる場所を、目を閉じて思い出した。昔勤務していた「アランイラン」のオーナーの店しか思いつかない。しかし、そのオーナーは別の事業を始めたので、先月に閉店をしたのだ。
タイミングが悪すぎる。他に思いつく案がない。
すると、2階から石山君が戻ってくる音が聞こえたので、私は二人から離れて2階に降りた。
「ママの所は、お湯出るみたいすよ」
「そっか、ではこのビルが原因ではないのかなー。石山君、どうしよう」
「先週オープンした、セブンイレブンの隣の美容室はどうすか?」
「あっ」
思わず大きな声が出た。すっかり忘れていた。ナイス石山君である。
「うん、挨拶で名刺置いて行ったね。背の高い人だよね?」
名刺には 店長 関健太朗 と書いてあった。
とにかく、てんてこ舞いだ。心臓の音のリズムがどんどん早くなっている。
「石山君、二人に飲み物出してあげてくれる? 私は、EPIC HAIRに行ってくる。あと、石山君のお父さんとお母さんだけど、キャンセルしてもらっても大丈夫かな?ボイラーの会社は、まずは、下のママに聞いてみるわ」
急いで名刺もって出た。外は雪が降りそうなくらい寒い。吐く息が白く、すぐに耳が寒さで痛くなったが、私は走った。
EPIC HAIRに着いた。
青色の扉を開けて店内に入ると、4席あるスタイリングチェアは満席だった。私は肩で息をしながら、オーナーの関さんを目で探した。
鏡に映る私に気がついた関さんは、出てきてくれた。冷たい風が頬に当たり、私の頬はおそらくりんごのようなに赤くなっていただろう。
「すみません、シーノウズの篠塚です。お店のお湯が出なくて、シャンプー台を1台貸してもう事はできますか? 1回で大丈夫です」
(ハアハア)私は、自分の店の方向を指さしながら、小さな声で伝えた。
「あら、それは大変ですね」
関さんは、お店を見渡してから、自分の腕時計を見た。
「15分後・・・ くらいでも大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます。本当にありがとうございます」
2回、深く頭を下げた。
「では、準備出来たら、ここに電話しますね」
と、言って私の名刺を受け取ってくれた。あっと言う間にこの状況を理解してくれて判断してくれたのだ。感謝しかない。店を出る時も、何度も頭を下げた。
青色の扉を空け、外に出てからは、また走って店に戻った。歩いて2分の距離なのに、まるでマラソンを走ったような気がする。まだ息が整ってないのに自分の店の下まで着くと、既にヘトヘトで、スチール階段までは、このペースで上がる気になれなかった。すると、スチール階段の裏にある、Bar Asamiの裏口のドアが開いた。ママが心配した顔でいる。
「大丈夫? 今、お湯溜めているよ」
私は、両手を合わせた。
「今朝サーフイン行った時の、ポンプ式シャワーがちょうど店にあったから、それ使えるかと思って・・・」
「本当? ママ、神過ぎる」
ママは、たまに逗子から出勤する。多分、最近付き合い始めた彼氏がサーファーなのだろう。それにしても、奇跡だ。ポンプ式シャワーは普通の人は持っていない。
「オッケー。そのままお湯を溜めておくね」
そう言うと、すぐさま、裏口の扉を閉めようとしたので、私は、大きな声で叫んだ。
「ママー、あとで、ボイラー修理の連絡先もおしえてー」
「はーい、探しておくー」
ママも大きな返事をしてくれて、お互いの店に戻った。
私は、息の吸い方を忘れているかのように、吐くだけの呼吸になっていた。ドアを開けると、石山君がすぐに、私のマグカップに水を注いでくれたので、一気にゴクッと飲んだ。喉にスーッと冷たいものが通り、やっと息も整った。その後は、二人にこの状況を話しに、石山君と3階に上がった。理解してくれるだろうかと、不安がよぎる。
すると、ケタケタと笑い声がするではないか。
「本当ですか?」
「本当ですよー」
二人は隣に座って、スマートフォンの画面を覗き合っている。明さんは、私達に気付いてコッチコッチと手招きをした。
「いやね、ヒョンちゃん、僕達のスタジオエイトが制作した映画『ビックゴリラ』の大ファンなんだって。」
「ビックゴリラ?」
あ、さっき、イさんが私に見せていた画像は、もしかして・・・
「ヒョンちゃんは、梨沙のTwitterのフォロワーで、今日、俺がパーマをかけるのを知ったらしく、会いに来てくれたらしいの。悠莉奈さん、こんな熱いファンに会ったの、俺はじめてだよ」
明さんは、興奮していた。
それに、イ・ヒョンソクさんの事をヒョンちゃんと呼んでいる。
「うわー、そんな事があるのですねー」
私が驚いて声を出すと、石山君は
「イさんの熱さは、マシンに例えると・・・ CPUが熱いって事であってますか?
となると、イさんには冷却のファンが沢山必要そうですね」
と、CG用語らしい事を言っている
「そうだね、ファンが24個くらいは必要かも」
「えっ、24個もファンって付けられるんすか? いつそんなの出たんすか?」
「あはは、そんなの出てないよ」
こんな状況なのに、明さんのおかげで、店は明るくなる。石山君も調子に乗っていた。
「石山君、お湯、お湯」
私は、ファンの話には参加せずにいた。だって、私はまだ頭が混乱している。お湯の事を乗り越えないとだ。
「あのー、盛り上がっている所、本当に申し訳ないのですが、今の状況を説明していいですか?」
二人はうなずいて、私に耳を傾けてくれた。
「ここから歩いて2分の所にある、美容室EPIC HAIRにお湯を貸してもらえる事になりました」
そう伝えると、二人から拍手が起こった。
「ただし、お一人になります。カットコートを着て移動になります。もう一人は下のお店からお湯がもらえるので、なんとかここのシャンプー台で出来ると思います。本当にごめんなさい」
私は、頭を下げると、再び二人は手を叩き、拍手をしてくれた。
「僕はどっちでも大丈夫よ。その代わり、パーマは止めてもいい?」
明さんが先に答えてくれた。
「ありがとうございます。パーマは・・・そうですね。次回にして頂けると助かります」
イさんは、まだカットも何もしていないので、このまま終わってもアリなのだが、なんて答えるんだろう。すると、イさんが答えた。
「ぼく、外へいきます」
「え?」
まさかのEPIC HAIRを選んだ。
「あ、はい・・・」
止めないんだと思って、ビックリした。では、明さんはこのままここで下のお湯をもらう方法にして~。ヒョンちゃんだっけ? イさんは、私と一緒にEPIC HAIRに連れて行こう。予定と内容が決まったので、私の心臓は落ち着きを戻した。
そして、私はヒョンちゃんのヘッドスパを始めた。彼は目を閉じながら明さんに聞こえるように話はじめた。
「ビックゴリラは、私にとって人生の宝物です。ビックゴリラがいなかったら、私はこの世にいないでしょう。ビックゴリラは優しくて強くて、そしておもしろい」
『ビックゴリラ』を制作したスタジオエイトの林夫婦の行きつけの美容室となると、ヒョンちゃんにとって、ここは『聖地』になるのか。
お湯の準備が出来ると、明さんは軽い足取りでシャンプー台に移動し、ポンプ式のシャワーで髪を洗った。せっかく人生初のパーマのはずが、いつものカットで終わるとは。きっとこのままパーマをかけない人生になりそうだ。
一方、ヒョンちゃんのヘッドスパは終わったので、これからシャンプー台だ。カットコートをつけたまま、ヒョンちゃんは席を立ち、私と一緒に移動する。
私はタオルを2枚持って店を出た。ヒョンちゃんは、終始嬉しそうにカットコートから手を出し、写真を撮っている。明さんと同じく笑顔なお客さんで本当に助かった。私にも写ってくれというので、はしゃいだ様子で道端で二人で写真を撮った。
そのまま、EPIC HAIRのシャンプー台を借り、べっとり髪についたトリートメントを流した。EPIC HAIRのお客さんたちはみんな私達を見ていた。得に、女性のお客さんは、目をキラキラさせて、振り返って見ている。シャンプーが終わると、持って行ったタオルをヒョンちゃんの頭に巻き、お店を出た。彼はまた「写真を撮ろう」というので、私は仕方なくジャンプをしたり、両手を上げたポーズをした。
こんな状況ではしゃいでいいのだろうか。
今日のお客さんが、明さんとヒョンちゃんで良かった・・・
二人のおかげで焦るキモチは救われた。
店に戻ると、石山君は明さんの髪を乾かしていて、明さんはVサインを私達に送った。ヒョンちゃんもVサインを出している。そのまま隣の席に案内したら、ヒョンちゃんは、また明さんを口説いていた。
「私は、ゴリラの『ビック』のファンです。あなたの脳が観たい。そして、3dsMaxしたい」
明さんのニコニコは止まらなかった。
「うんうん、ありがとう」
と何回も言っていた。
この後、私は二人を繋げてあげたい気持ちはあったが、明さんは仕事があるとの事だ。ヒョンちゃんは少し残念そうな表情を浮かべながら、鞄から『ビックゴリラ』のブルーレイを取り出し、サインを求めて来た。ここまで準備をしていたのだ。
この姿を見て、私と石山君は目を合わせた。きっと彼は何回も『ビックゴリラ』を観て、スタッフロールも見て、制作しているスタッフの情報を調べたのだろう。そして、憧れの推しに思いを伝えるために今ここにいる。ヒョンちゃんにとって、これは夢のような時間なのだろう。
この光景を見て、私と石山君は、再び目を合わせた。
私は、二人に沢山迷惑をかけてしまったので、明さんには、千円の割引券を3枚渡した。ヒョンちゃんには、「3dsMaxしたい」という言葉が聞こえたので、きな子さんの「3dsMax建築CGマスター」をプレゼントして、二人を見送った。
「ふぅーーーーーっ」
鼻から沢山の息がもれた。石山君と私は、崩れる様にソファーに腰を下ろした。肩の力が抜け、お腹が鳴った。けれど、これで終了ではない、まだやる事が沢山あるのだ。
キキキーッ 自転車のブレーキの音?
次は、スチール階段を上る激しい足音がし、ドアの向こうには、きな子さんが(ここを空けて)と口をもごもごして立っている。ガラスをバンバン叩いて割ってでも入ってきそうな勢いだ。
「どうしましたか?」
雷の日、タクシーって帰った時以来だ。そうだ、マシン、大丈夫だったのかな?
(ハッハア)肩が上下に動いている。
「ヒョンちゃんが・・・ヒョンちゃんが・・・(ハッハア)さっきまでここに居たでしょ?」
興奮状態だ。
ヒョンちゃんって? まさか・・・
「ヒョンちゃんね、有名な韓国のスターなのー」
私の顔の前まで自分の顔を寄せ、きな子さんの両手は私の肩を鷲掴みした。石山君もソファーから立ち上がった。掴んだ両手は、そのまま私の肩をポンポン叩きはじめた。
(ん?)という顔を私がすると、きな子さんは、スマートフォンを出して、インスタグラムの画面を私に見せた。
「フォロワー見てみて。430万人」
そのまま指で、違う写真を探した。
「悠莉奈さんと、外で、ほらっ、タオルを巻いている写真」
「きゃーっ」
しゃがみこんでお腹を抱えて笑った。同時にむせて咳が出た。
「#お湯が出ない」
もう、力が入らない。投稿されている写真は、今から20分前。いつの間に・・・写真は撮ったけど、まさかこんなにすぐ投稿しているとは。その投稿が沢山の人に見られているとは思ってもいなかった。色々な事が冷静に整理できないでいる。頭が熱くなった。
顔まで熱くなって、両手で自分の顔を仰いだ。
そうだ、とりあえず、お湯が出ない問題は解決されていないのだ。
お湯が出るようにしないと、明日から店の営業が出来ない。
修理屋さんを呼ばないとだ。
「きな子さん、ごめんなさい。ちょっとだけ待ってもらっていいですか?」
私は、肩におかれたきな子さんの手を離した。石山君も、含み笑いの顔で突っ立ている。
「石山君、まずはお湯問題解決しよ。私、先にママの所行ってボイラーの会社の連絡先を、聞いてきちゃうわ」
「そうっすね。僕は借りたシャワーを片付けておきます」
私達は、ヒョンちゃんの話をしたかったが、我慢をした。
「きな子さん、もうちょっと、待ってもらえます?」
「うん、うん、頑張って」
と、彼女は私の背中をさすってくれた。人の手は、なんか落ち着く。
下に降りて、ママのお店の裏口のドアをノックもしないで開けた。
「ママ、お湯ありがとう」
ママは、店の奥で誰かに接客している。ランチはやらないので、知り合いかな?
「はーい、今行くー」
と言ってルンルンしながら出きた。
「ボイラーは管理会社に電話しといてあげたよ。多分、すぐ来る」
ええええ、どこまで優しい人なのかしら。
「それよりさ、イケメンさんが来てるよ。さっきまでシーノウズに居たって」
小声で伝えてくれた。ま、まさかのだ。
「ちょっ、ちょっと、改めてすぐ来る。イケメン、帰さないで。お願い」
こんな寒い日なのに、頭から、心臓から、つま先までがポカポカしてきた。
私の心臓はまた早く動き出した。きな子さん、どんな顔をするかな?
第5章 ティーポット作成
2019年12月5日(木) 午後
スチール階段を上る前に、私は、深呼吸をした。空を仰ぎ見ると、まだ昼間なのに月が見える。昼間の月は何か起こりそうな予感がした。お店の前のフェンスの向こうには山手線の内回りと外回りが交差し、電車が駆け抜けていた。寒いにもかかわらず、熱さを感じる。私は肩を回し、お店の看板をちょっとだけ斜めにしてから上がった。意味はない行為だ。ただの動揺の表れなのだろう。
スチール階段を上りきったら、きな子さんはソファーに座らずに立って待っていた。
どうなるか、もう、どうなるか。おもしろい事が起きると心臓が動き回っている。
私は、ドアを開けてすぐに、きな子さんではなく、石山君を呼んだ。
「石山くーん、降りて来てー」
飛んで来たかのように、すぐ降りて来た。
「お願いがね、3つあるの。1つは、小川軒のレイズン・ウイッチの10個入り買ってきて。EPIC HAIRにお礼するための物。2つ目は、これからボイラーを直しに来るから、石山君は、お店にいて対応して。あと、お父さんお母さんはキャンセルしたよね。3つ目は、明日のお客さんの連絡先を確認しておいて。もし、ボイラーが直らない場合ね」
石山君は、やる事をメモ帳に書いた。
「で、私は、シャワーを返しにママの所へと行ってくるね。すぐには戻れないから、何かあれば、電話か下に来て」
軒
「はい、了解っす」
いつもと違ってテキパキしている私を見て、きな子さんは口を開けていた。その後、ちょっと待っていて欲しいとお願いすると、きな子さんは私のお願いを聞いてくれた。
きな子さんを少し待たせたのは、石山君に伝えるためだ。
きな子さんのいない三階に上ってから、石山君にささやいた。
「さっきの韓流スター、なんとBar Asamiにいる」
石山君は両手を口に当て、声を我慢しながら笑っていた。
石山君のリアクションを見て、私も声を我慢した。
さあさあ、どうする? きな子さんに今話す? 驚かす? やっぱ、今教えてあげるべき?私はワクワクしながら借りたシャワーを持って、きな子さんの所へ行った。すると彼女は、もう待てなくなっていて、ちょっと声を荒げて、私の近くに寄り添って来た。
「ねぇねぇ、ヒョンちゃんの話を聞きたいの、まだかなぁ~」
そういって私の腕にまとわりついて来た。
「実はね、まだね、ここに居たの」
っと、人差し指で一階のBar Asamiを指した。
「まっ、待って 待って。マジで?」
両手を頬っぺたに当てている。これは恋する乙女の仕草。ヒョンちゃんがどのくらい有名人で、どのくらいきな子さんがヒョンちゃんのファンかは知らないけれど、今日は面白い日だ。
きな子さんは、慌ててリップを塗った。
「裏口じゃなくて、表から入りましょうか」
彼女は、自分の格好を気にしている。ガラスに映る自分の髪を直していた。
「居なくなる前に急ごうっ」
目がハートになっているきな子さんの背中を押して、私達は階段を下りて表の出入り口に周った。扉を開ける前に、きな子さんと(せーのっ)と合図を送って勢いよく店に入った。
「ママー、お湯ありがとー」
シャワーを上にあげて大きな声で呼んだ。次は、わざとらしく。
「あれ? イさん?」
私達は、演技をした。
彼は座っていたカウンターチェアを、くるっと回して、微笑みながら、私達を観た。
「イさん、さっきはありがとうございました。そのままここに来たのですか?」
「はい」
日本語で返事をした彼に、きな子さんが、なぜか韓国語で話かけた。
「アニョハセヨー」
きな子さんは、挨拶をした後に、カウンターにある本に驚いた。さっき私が、イさんにプレゼントした3dsMaxの本をが置いてあったのだ。
「やだー、え? これ、私。これ、私です」
と指を、本と自分の鼻を行ったり来たり指差しながら伝えていた。きな子さんは、フッと私の方に振り向いて
「えー? なんでー えーーーーー」
と、両手で私の両肩をなでるように触った。
「きな子さん、聞いて。その~ ヒョンちゃんはね、林夫婦が作った『ビックゴリラ』の大ファンなんだって。それで、シーノウズに来てくれたの。でね、さっきまで明さんと一緒だったのよ。明さんは仕事があって帰ったんだけど・・・」
イさんと呼んでいたのに、心の中で呼んだ「ヒョンちゃん」が思わず声に出てしまった。ヒョンちゃんは、うなずきながら、きな子さんに握手してきた、さすがスター。
私はきな子さんの本を見て、良いアイディアを思いついた。
「あ、きな子さん、今日はノートパソコン持ってないのですか?教えてあげたらどうです?」
きな子さんは、本の出版依頼、自分の母校の青山製図専門学校でデジタルプレゼンという教科で3dsMaxを教えている。今日は、木曜日だから授業の日だと気が付いたからだ。それで近くにいたのだ。
「あるあるあるある」
と言って、大きな鞄から重そうなノートパソコンを出した。
直接、授業してあげたら、ヒョンちゃんは喜ぶだろう。私もCGの制作を生で見学できる。あ、まずはママに確認しないとだった。
「ママ、営業前だけど大丈夫?」
奥の時計を見た。時間は13時。なるほど、お腹を空かせてヒョンちゃんは、ここのお店にたどり着いたのかな? 私は、色々話したくて奥にいるママの所に移動した。
「なんだかバタバタでごめんなさい。まずは、お湯、本当にありがとうございました。すごくすごく助かりました」
深く頭を下げて、借りたシャワーを置いた。
「お互い様よ。お店やっていると気持ちわかるから」
神様みたいな人である。小川軒のレイズン・ウイッチは、ママの分は忘れてしまったので、改めてお礼をしよう。忘れるくらい、ママには甘えっぱなしだ。
「それと、彼は何でここに?」
「それなんだけど、ずっと気になってたのよ。様子を見てたら、悠莉奈さんが、背の高いポンチョみたいの着た男性と、行ったり来たりしてるやん。その男性がお店出た後に、このビルを写真撮ってたやん。で、ここでご飯食べれますか?って聞くから、うんって答えちゃったの」
なるほど。そうだったのか。
イケメンからの依頼は、みんな想定外でも受けてしまうみたいだ。ママも興奮してるのか、チラチラと出身の関西弁が出てた。
ギュルギュルギュルルルル~ 私のお腹の音が鳴った。
「今、サンドイッチ作ってるから、みんなで食べよう」
もう、ママは、なんて心の大きな人なのだろう。奥からは、二人の韓国語が聞こえて来た。外からの差し込む光が二人を照らして、まるでスポットライトのようだった。なんだか、お腹は空いているのに胸がいっぱいだ。
ママがサンドイッチを作っている間に、私は店に戻り、今の状況を石山君に話した。そして買ってきてあった小川軒のレイズン・ウイッチを持ってEPIC HAIRに行った。関さんは白い歯を見せて笑いながらママと同じ言葉で「お互い様ですよ」と言ってくれた。本当に助かった。ボイラーの修理が来るまで、ママの言葉に甘えよう。
「石山君、またママの所行ってくるね。お昼は持ってきてるの?」
「持って来てます」
そう言ってくれたので、石山君にも甘えた。
Bar Asamiに戻ると、ママはうつくしい断面のサンドイッチを作っていた。手伝う素振りをすると、「あっち行っていいよ」と。あっちとは、きな子さんとヒョンちゃんのカウンターの席を指さしていた。私は、きな子さんの隣に座り、きな子さんを真ん中にした。
「すみません、やっと落ち着きました」
そういうと、二人優しい笑顔で返してくれた。
「何を話していたのですか?」
「いやね、ヒョンちゃんが、『ビックゴリラ』を観て以来、3Dに興味があるって。で、林夫婦が3ds Maxで制作したと言ったら、自分も製作したいってなって。もう、悠莉奈さんたら、私の本を買っていたなんて知らなかったよ。本当にありがとう」
きな子さんは、私に抱き着いてきた。
「これから、ちょっとやり方を見せてあげようかと思って」
これはとても良い流れである。点と点がつながって、面になろうとしている。CGクリエイターがいつも言う言葉だ。
お店が温かい甘い紅茶の香りで包まれてきた。どうやら、ヒョンちゃんは珈琲が飲めないらしいので、Bar Asamiの、特別な紅茶を用意していたのだ。
サンドイッチは、2つあった。1つはシャキシャキのレタスの中にベーコン、トマト、黄色い卵がイギリスパンで挟まれていた。もう一つは、Bar Asamiの大人気のニンジンのラぺがたっぷり入ってサンドされていた。そして、パンの上には、国旗が二つ刺さっている。手描きで作られた韓国の国旗と、日の丸を白い紙に書いて爪楊枝に貼って作ってある。こういう事をすぐやるママのセンスには脱帽である。紅茶は、柄違いのティーカップに注がれてくれたが、お代わり用にティーポットも持って来てくれた。
「Bar Asamiのスペシャルランチ、紅茶セットです」
私ときな子さんは手を叩いた。ヒョンちゃんは写真をすぐ撮っていた。
私達は、三人ともお腹を空かせていたので、ペロリと完食すると、パンの皿だけ片付けてもらった。2杯目の紅茶をティーポットから注ぎ、きな子さんはノートパソコンを開いた。これはHPのZbookというらしい。きな子さんは、先生スイッチが入ってキリリとした顔になった。
「Let’s、3ds MaxでGo!」
と言って、握りこぶしを天井に向けてあげた。私もヒョンちゃんも腕をあげた。その後、きな子さんは画面を日本語のビューから、英語のビューに切り替えていた。これなら、私には日本語で話し、ヒョンちゃんは英語で見れば理解が出来るからだ。ヒョンちゃんは、スマートフォンで録画して良いか聞いていて「OK」と、きな子さんは答えていた。そして授業が始まった。
「これが3ds Maxというソフトです。開くとビューが4つに分かれています。」
右のパネルを指して「ここで作って」の隣のタブキーを押したあとに「ここで修正をします」
では、やってみますね。まずは、ここにあるティーポットを作成してみます。と、カウンターにある本物のティーポットを指さした。
私も、ヒョンちゃんも、初心者にいきなり3Dのティーポットは難しいよ。という思いで目を見開いて見つめ合った。その後、きな子さんは、作成パネルから、「ティーポット」というボタンを押した。英語では「teapot」なので、ヒョンちゃんも、首を振ってうなずいていた。
なんだろう、ワクワクする。
はじめて3Dの世界を知れた私は、大人になって新しい習い事をする感覚で無邪気な状態になれた。
「さて、ここからですよー」とはじまる。
四つに分かれたビューの右下にマウスを持って行き、マウスをワンクリックさせ、マウスをそのまま右に移動すると、あっと言う間にティーポットが出来た。はやっ。
二人で手を叩いた。
「やってみる?」
と言ってくれたので、ノートパソコンを最初はヒョンちゃんに傾けて、ヒョンちゃんが試した。ティーポットを3個も続けて作っている。私の番だ。私の方にもノートパソコンを傾けてくれたので、マウスをグーッと右に移動して、ヒョンちゃんより大きいティーポットを作成した。
「うわー、たのしい」
こうやって、3Dを作るのか。モデリングという言葉は、この作業の事だったのだ。
私の脳内は、想像から現実に変わった。次に、3Dでパンを作るという。しかも、食パンだという。
「今日は、特別にイギリスパンね」
と、さっきのサンドイッチを想像させた。イギリスパンは、上部がアールで山型になっている食パンだ。なるほど、どうやって作るんだろう。
「では、今度は「line」のボタンを押します。線でパンの断面を描く感じよ」
そう言って、右手の人差し指で空中で、まずはパンの形を描いてみた。
私達の視線は、モニターではなく、きな子さんが指で描く空中を観た。
きな子さんの右手は、またマウスを持った。四つのビューの今度は右上の枠の中で、カチッとクリックして、2点目を右に横移動して、またカチっと横線を描いた。これはパンの下の線、このまま上に上がる。3点目をカチッ。4点目は、カチッとクリックしないで、ちょっとマウスを動かした。こうすれば、カーブを描ける点になるそうだ。また1つカーブを描く点を作って、ここで山型のパンの形が見えてきた。あとは、最初の点と結べばゴール。
「この点を結びますか?」みたいなアナウンスが出て。「YES」を押したら、食パンの断面の線が描けた。再び私は手を叩いた。ヒョンちゃんも首を縦に振っている。どうやら、ちゃんと理解しているようだ。
ママも気になったのか、きな子さんの後ろに立ってモニターの画面を覗き出した。
「では、このパンに厚みをつけるね」
そう言って、また空中で表現した。両手で、食パンの一斤くらいのサイズだ。それとも、これくらい?と 四枚切くらの厚みを右手を使って表現した。
さすがである。初心者にわかりやすいレッスンだ。
またマウスを持って、今後は「Extrude」押し出というボタンを押した。日本語では、「押し出し」というそうだ。
「できた。厚みのある食パンだ」
「やってみる?」
と言って、私とヒョンちゃんも食パンを作った。
なかなかうまくいかなかったけど、マウスで打った点を修正すればすぐに出来た。修正が難しいが、マウスの操作なのですぐ慣れそうだ。これは面白い。
ちょうど区切れのよい所で、石山君が来た。
「篠塚さん、修理の業者、来ましたよ」
もっと聞きたいが、私は二人を置いて店に戻った。
戻ると、作業着を着た業者の人が二人来てくれていて、ボイラーの修理を始めていた。まさかとは思うが、明さんが冗談で雷の話をしたのを思い出して聞いてみた。
「雷が落ちたのが原因だったりしますか?」
「そうかもしれません。他にも同じ渋谷区でありました」
雷が落ちるなんて他人事と思っていたが、本当に落ちるのだろうか。屋上の2つあるボイラーのうちの1つ。シーノウズのボイラーが雷様に選ばれたのだ。
しかし、雷のおかげで、たったの数時間がものすごい数時間になっている。雷様がもしいるなら、シーノウズを狙ったのだ。
「お湯、でました」
はぁ・・・・よかったー
無事に修理が終わった。時間は、16時になっていて、このまま店を閉めた。
石山君とハイタッチをした。
「色々本当にありがとう。石山君のお父さん、お母さんにはまた改めさせてね」
店の片付けも済ませて、コートと鞄を持って、店の鍵を閉めた。
Bar Asamiオープンの1時間前である。本来なら、Bar Asamiは、まだオープンしていないのに、お昼から私達の為に、有難い。
カウンターには西日に照らされた二人の男女が寄り添って座っていた。
「お店閉めてきましたー」
「おつかれさま~」
ママと、きな子さんと、ヒョンちゃん三人が口をそろえて言ってくれた。
「いやー、色々とすみませんでした。本当に助かりました」
コートと鞄を入口のスタイリングチェアにかけて、さっきと同じ、きな子さんの隣に座った。
ママはカウンターの向こうで、お店のオープンの準備をしている。
「ママ、このまま私達ここにいても大丈夫?」
ママは、奥で大きな丸を両手で作って表してくれた。そして、私は、二人が熱中している作業のモニターの画面を覗いた。
「で、どうなりました? ティーポットとパン」
すると、モニターには、四角いテーブルの上に丸い皿があり、その上に食パン。さらには四角いバターが乗っている。もう一枚のお皿には穴の開いたドーナツ。その隣にはティーポットとグラスがあった。そのテーブルセッティングが、ヨーロッパ調の部屋の中にあって、それが光りと影がついて写真のようになっている。
「え? さっきのが、ここまで出来たのですか?」
「そうです。ぼくがやりましたよ」
あれから1時間も経ってないのに、ここまで出来るなんてすごい。きな子さんの教え方が良いのか、ヒョンちゃんが若いからすぐ出来てしまうのなか。
すると、ママがカウンターから、ガラスのボウルを持って来た。
「このガラスのサラダボウルが、HDRIなんだよー」
とガラスのボウルをくるっと回しながら話してきた。ママまでもが、CG用語を話している。
「HDRI? うわ~。教えてくださいー」
ママが、サラダボウルの中にアボカドを入れた。
「このアボカドがモデリングデータね、で、このガラスのサラダボウルが光の情報をもったHDRIという画像になります。この画像はこんなふうに動くの」
そう言って、ガラスのボウルを回した。続けて、ママが解説した。
「アボカドのゴツゴツした皮は「マテリアル」。悠莉奈さんが「カメラ」として、そこでポチっと「レンダリング」を押せば、CGの画像が完成よ。」
すると、きな子さんと、ヒョンちゃんが大きな拍手をした。ママが両手を腰に当てて勝ち誇ったポーズをしてる。とてもキュートでかわいい。
ピピピッ
キッチンタイマーかな?と思ったら、ヒョンちゃんのスマートフォンのアラームだ。彼のタイムリミットだ。
その時、外には黒い車が止まっていた。どうやら、マネージャーのお向かいが来たようだ。なんだか悲しい別れだ。きな子さんの本を大事そうに抱えて、私達一人一人にハグをしてくれた。
「みなさんの事はわすれません」
三人で車が見えなくなるまで手をふった。
そして、見送りをして車がいなくなった途端、私達は大人気なく足も手もバタバタさせた。
「イエーーーイ」
両手を高くあげ、何度もハイタッチした。まるで、お城から抜け出した王子様と過ごしたような感覚で、映画『ローマの休日』の逆バージョンだ。ヒョンちゃんとの時間は大きな声で沢山の人に話したい自慢話だったが、誰もSNSに投稿せず、自分の胸だけで楽しもうと三人で話して決めた。
Bar Asamiはそのまま17時にオープンした。
と、同時に、私ときな子さんは白ワインをグラスで頼んだ。
「3dsMaxでのHDRIのレッスンどうする? 悠莉奈さん?」
きな子さんが聞いてきてくれたので、やると即答した。
改めて、新規ファイルを開き、ティーポットを作った。
今度は英語版ではなく日本語版の3dsMaxにしてくれたので「ティーポット」とカタカナで書いてある。このティーポットのオブジェクトをレンダリングするというのだ。
CGクリエイターが「レンダリング中」と言っていた、あの「レンダリング」だ。ティーポットに歯車がついたボタンを押した。
「でた!これが噂の「レンダリング」というボタンですね」
きな子さんは、パパパッといくつか設定した後、私をみた。
「では、悠莉奈さん、レンダリングしてみて。このティーポットのギザギザの稲妻のボタン。」
稲妻のボタンをポチッと押すと・・・3Dのティーポットが広い大地の上に置かれている。3Dのティーポットが周りの背景を反射している。綺麗だ。木や草や、空や地面が映っている。
「これを、ヒョンちゃんにも見せてあげたのですか?」
「そうだよ、感動してた」
続けて、きな子さんは話した。
「私ね、自分が人に教える先生なんて出来ないと思ってたの・・・
けど、初心者の人がレンダリングのボタンを押して、形になった瞬間の目と心がキラキラする感じ?その姿をみるのが、もう、たまらなくて」
確かに、目と心がキラキラと光っている自分が私もわかる。
「みんなスキルアップで、私に連絡してくるんだけど、言葉だけで理解してもらうのは難しいのよねー!だから、よくいう、やってみせ、言って聞かせて、させてみせってヤツ」
「確かに、私、CGクリエイターの話は楽しいですけど、自分が体験した事がないから、へぇ~で終わっていました」
私は、正直に伝えた。
「みんながレンダリングにハラハラドキドキしてるのは、この光とか影とか、ガラスの感じとか、沢山のオブジェクトが綺麗に表現されるか、時間内に出来るかで奮闘しているのよ」
そうなのか。ティーポットはあっと言う間だったけど、壮大なプロジェクトだと、もっと時間がかかる。
色々私の頭の中で想像していると、きな子さんが再び話してくれた。
「私は建築CGだけど、林夫婦は、映画製作でしょ。そこには重力とかシュミレーションしたりもするから、もっと複雑。爆発シーンなんて私は作れないし」
「わ~ やっとわかりました。そりゃ、きな子さんマシンが心配でタクシーで帰るわけですね」
「ホントよっ」
「それで、マシンは大丈夫だったんですか?」
「ごめん、報告遅くなりました!私のマシンには雷は落ちてませんでした」
「なら、良かったです」
二人のグラスは空になっていた。この日は、長居してしまったので、もう一杯だけお代わりをして終わりにした。
と言ってもまだ18時。冬の18時は真っ暗だ。