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小説 ノウズ (後編)

代官山の美容師さんとCGクリエイター達のお話しの後編になります。前編を読んで頂きありがとうございます。
 甘井萌乃( あまい もの )



第6章 コロナレンダラー

2020年3月15日(日)
毎年3月15日は確定申告の締め切り日。私が独立して9年間ずっとこの日だったのに、今年は延びた。新型コロナウイルスのせいだ。経営者になってからは確定申告が、私の一番のストレスだった。けれど、今年は違う。一番のストレスは新型コロナウイルスになったのだ。世界中が苦しんでいる。世界中の人がはじめての経験をしている。どう過ごせばいいのか、先が見えない。何も見えない。ストレスしかない。お客さん達も、髪を切りに行っていいのか判断に迷っている。私自身も大きな声で来店してくださいと言っても良いのか、それを避けるべきなのかもわからなくなっている。

私はお店の掃除をする事にした。
沢山の不用品を捨て、沢山の物に感謝をした。雑巾で棚を水ぶきし、美容室にある一つ一つを手に取り磨いた。その時、なぜか3Dのモデリングやマテリアルを考えていた私がいた。この形はモデリングしやすいな、とか、この質感はどう表すのだろう。それを考えている間はとても楽しかった。
きっと、このコロナ禍の今も、CGクリエイター達は頑張って作品を作っているに違いない。今、引きこもっている世界中の人々は、エンタメがある事でなんとか過ごせている。そう、ネット配信で過去の映画が沢山視聴でき、これだけが唯一の娯楽なのだ。映画、アニメ、漫画、音楽、アート。クリエイティブは本当にすごい。
私は、CGクリエイターの脳内の映像を覗きたい欲求がおさえられなくなっていた。いつからだろう、最近はずっと彼らの脳内に興味を持ち始めていた。この欲求不満状態をどう解消して良いかわからなかったので、気晴らしが必要だと感じた。
気分転換、気分転換。そうだ、気分転換なら映画鑑賞だ。

『ビックゴリラ』を、みていなかった。
ネット配信ではまだ上映されていない為、DVDを購入した。

DVDのケースの裏面には、こう記載されていた。

【ビックゴリラ】2018年 公開 
監督 佐藤武善 脚本 吉松理世 音楽 Reno
主演(竹本悦子役)原田智美 (ビック役 声)田中毅

あらすじ
突如、都会に現れた一頭のゴリラ。どこに潜んでいるのか? どう生活しているのか? その生態は明らかになっていない。度々目撃情報がネットニュースに掲載されるも有力な手掛かりが見つからず、フェイクニュースや動画も増える一方だった。本当の情報が判らず恐怖で日本中が凍りつく。一方でゴリラを保護しようと一人の女性が声を上げた!その女性こそ世界で活躍する獣医師であり研究者の竹本悦子博士だ。彼女がゴリラ捕獲に反対する以上、誰も手出しは出来なかった。どこかに潜むゴリラをやっとの思いで保護した。オスゴリラはまだ子供だった。『ビック』と名付け子供のように育てた。『ビック』はとても賢かった。彼女はビックの頭脳に驚き研究がスタートした。数年後、どのようにビックは成長したのか?結末やいかに。

特典
CGメイキング映像特別公開/スタジオエイトのトークショー
林明&林梨沙が語る

私は、この「あらすじ」だけ読んだ。
そして、他の知識は入れずに、部屋を暗くして鑑賞した。

冒頭は都会の夜景シーンから始まった。東京タワーに、スカイツリー、高速道路はビュンビュン車が走り、その車のライトの放物線がレーザービームで輝いている。S字曲線の光の中、車の後部座席にゴリラの『ビック』が窓を開けて風をあびていた。車を運転しているのは研究者の悦子博士。
まさか、その夜景のシーンを林夫婦が作成したとは、ゾクッとした。ヒョンちゃんが虜になるのが、この2分の映像で伝わる。本当にうつくしい。
音楽も、チェロの音色がとても綺麗で、夜のトライブ感に酔いしれた。
『ビック』は3ds Maxでモデリングしたと言っていたことも、聞いていたので更に楽しめた。
その『ビック』が地下のコンピューター室で、日本を良くしようと裏で操作していて、キーボードをたたいている姿が、私はとても面白かった。マシンを開けて、グラフックボードを選ぶ場面は石山君が好きと言ってた場面だ。なるほど、コンピューター室はCGの世界感で人気なのかもしれない。
映像以外は、ゴリラは人間の1/3の脳と言われているのに、『ビック』は人間の2倍の脳だった事に悦子博士が気付き、研究していく。自分の子供のように育てていく二人のやりとりは胸が熱くなった。あと、ビックの毛や皮膚の感じは本物のゴリラにしか見えない。それでいて、目や顔はオリジナリティがあって、愛嬌があってとてもかわいい。映画の公開後、キャラクターグッツが売れるのもわかる。

とにかく、胸が鼓舞した。光るバナナを悦子博士にあげているシーンも最高だし、最後のクライマックスの光と影で表現された世界観は、なんともいえない映像だった。

スタッフロールは、もちろん目を見開き、見逃さなかった。
スタジオエイト 林明 林梨沙 この文字だけ、私には光って映った。

はぁ~ すごい、これはすごい。見終わった後、放心状態になった。
5分ほど、黒い画面の前で固まってしまった。
ほとんどのシーンを、あのいつもニコニコしている明さんと、優しくてかわいい梨沙さんが制作したのだ。ヒョンちゃんが質問攻めにしていた理由が、わかった。実在しない世界。CGだからこそ出来るうつくしい世界。
そして、ビックなゴリラかと思ったら、名前が『ビック』だったとは・・・
私は、そのまま特典映像も観た。

私は、梨沙さんに余韻を楽しんだ後、ラインを送った。
「こんばんは。お元気ですか? コロナで大変ですね。今日連絡したのは、今更ですが、『ビックゴリラ』の映画を観ました。素晴らしい映画で感動しました。」
すると、ラインはすぐに既読になり返信が来た。

「観てくれたのね、ありがとうございます。悠莉奈さんはどのシーンが印象的でしたか?」
「沢山ありますが、ビックのコンピューター室は、宇宙船の中みたいでかっこよかったです」
「実は、コンピューター室のシーンだけ、V-Rayではなく、coronaを使用しています」
「コロナですか?」
「はい、プラグインでコロナと言うのがあるの。とても操作が簡単で、今回は私が試しに使ってみたのが使われています。」
「コロナレンダラーというのがあるのですね。知らなかったです」
「日本では、まだ使っていない人が多いですが、
そのうちコロナユーザーも増えると思いますよ」
「色々教えてくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
「また話、聞きたいです」
「私も、苦労話とか、色々と話を聞いて欲しいわ」
「はい。コロナ落ち着いたら、シーノウズにも来てくださいね」
「悠莉奈さんも、どうぞ気を付けて過ごしてください」
「梨沙さんも。明さんにも、よろしくお伝えください」
ラインでタイムリーなラリーが出来た。
そして、最後に『ビック』のスタンプで、「ぺこり」を押しあった。

ねえ、ビックお願い・・・
コロナを終息させて・・・
かわいいスタンプを観ながら、ビックなら出来るような気がした。


第7章 レタッチ修正

2020年7月某日
ジリジリと音が聞こえてきそうなほど、焼け付く暑さの日。
お店に行く前に、私は恵比寿のアトレに立ち寄った。自分自身が疲れているので、嗅ぐだけで癒されるアロマオイルを買いたかったからだ。5階のコスメ売り場をウロウロした。久しぶりの買い物だ。あっちこっち探していると、見覚えのある人が目に飛び込んできた。

あれ?
私は、数秒、その場で立ちつくした。

うつくしい肌。きれいな瞳。ヒョンちゃんだ。
化粧水のポスターで、その化粧水を持っているのがヒョンちゃんだ。

せっかくヒョンちゃんのおかげでお店がバズったのに、その効果はコロナのせいで生かせなくなっていた。もしかしたら、もっと売上につながったのではと思うとコロナに腹が立つ。今からでもヒョンちゃんを使って、沢山写真を投稿して、お客さんを呼びたいと思ったほどだ。

そうだ、本を買おう。
ヒョンちゃんにあげてしまった、きな子さんの本を思い出し、良い案が浮かんだ。CGクリエイターのお客さんが喜ぶような本を充実させてみるのはどうだろか?書籍の充実作戦だ。とりあえず、本屋さんにあったCGworldという雑誌を買ってみた。あとは、今の自分が欲している香りのアロマオイル・・・・沢山サンプルを試した結果、イランイランに出会った。芳醇で官能的な香りが私を魅了した。良い買い物をした後は、足取りが軽くなる。アトレから出て、速やかにお店に戻ることにした。

「石山くーん、お客さんが喜ぶ本買ってきたよー」
「あ、もしかして、CGworldですか?」
「ジャーン、そう。CGworld。見せる前から良く分かったね」
トートバックから取り出して、黄色がベースでヘリコプターに乗る少年の表紙を見せた。
「買ったんすね」
「そうよ。しかも、『CG業界のリモートワーク事情特集』だよ」
「これ、SNSにアップしましょうよ」

石山君は自分はSNSにお店の事を発信しないくせに、私にはやれと提案してきた。早速、投稿すると、ポチポチとイイねの高評価が付く。石山君の提案が的確だった事を実感した。お金を使うこともあるが、この投資によって戻ってくるものも大きい。そして、CGworldを本棚に置き、一緒に購入したアロマオイルも本棚の端に、そっと置いた。

それからは、CGworldを定期購読にして、数ヶ月前のバックナンバーも何冊かネットで購入した。数日後、買いそろえた本を本棚に並べると気分があがった。SNSにこの本棚の揃った写真を投稿してみる。定期的に足を運んでくれる常連さん以外にも、クリエイティブな雰囲気を纏った人たちからフォローが増えた。他にも来店させる案を考えると、店の10周年がある。
本来なら、お客さんを沢山招待してパーティーをしたかったが、こんなご時世だ。パーティー以外で、何かしたいし、何か出来ないか・・・ 私は頭を悩ませながら、天井を見上げる。

すると、アイディアがいくつか浮かび上がった。その中の1つは、レンダリング割引というものだ。レンダリングのスピードは数年前よりマシンの性能が良いので、早くなっているらしい。それでもレンダリングは、きっと時間がかかるだろう。レンダリング割引を口実にシーノウズに来店してもらい「#レンダリング中」と、お客さんに宣伝してもらうのだ。
うん、これはイケる。

もう1つは、CGクリエイターのお客さん以外は、ヘッドマッサージを5分プレゼントか、10%割引だ。そうと決まったら、フォトショップを使って案内画像を作ろうと計画した。

珍しく予約時間前にきな子さんが来た。今日は久しぶりのパーマをかけるのだ。
予約時間前に来た割には、甘いものの差し入れがなかったが、それをすぐに感じた自分がなんとも、意地汚い。そんないやしい自分に恥ずかしくなったので、優しい気持ちに切り替えていつものように3階の席に案内した。

ロットで、右の方から巻いていると、思い出したかのようにきな子さんは話してきた。
「あ、そうそう。CGガールズのなっちゃんがね、独立したの」
「そうなんですね。元気かなーと思っていたんですよ」
「忙しいのかもね・・・」
「元気なら問題ないです」
パーマは時間がかかるメニューなので、きな子さんといろんな話が出来る。

ブブブブブブ 鏡の前にあるスマートフォンが揺れている。
「きな子さん、携帯鳴っていますよ」
「あ、出てもいい?」
私は、どうぞと手の平を上に向けた。
「もしもし、どうしたー? ん? うん、うん。え? うんうん」
きな子さんの眉毛がどんどん中心に寄っている。
「ちょっと待って、聞いてみる」
そう言って、スマートフォンを耳から離した。
「悠莉奈さん、なっちゃんがレンダリング終わらなくて大変なんだって。ちょっと見てあげたいから、ここに呼んでもいい?」
「はい、いいですよ。きな子さんの後は予約入ってないので」
ごめんね、と 声は出さずに口の動きで伝えてくれた。
「今、パーマ中で動けないから、なっちゃんが来れる? あと、仮のレンダリング画像を持って来て。ノートにフォトショは入ってるよね」
電話を切った。

「はぁーっ、だから言ったのに・・・」
「どうしたんですか?」
「なっちゃんさ~、まだ環境整ってないのよ。それで進めてるし、あ、ここのWi-Fi使ってもいい?」
きな子さんは、珍しくすこし苛立っていた。

ピピピッ ピピピッ
パーマがそろそろかかってますよ、とタイマーが教えてくれた。
「では、洗い流しますね」
石山君が接客をしている後ろを通って、私はシャンプー台に案内した。パーマの時は、シャンプーを2回する。

きな子さんは、顔に白い布がかかっている隙間からCGの話をしてきた。
「悠莉奈さん、3ds Maxのプラグインは把握したんだっけ?」
「あ、プラグインとは、V-Rayですよね」
「そう、V-Ray。それは3ds Maxの標準機能にはついてないの。付けると10万円くらいかな。建築CGはそのV-Rayを使っている人が多くてね。業界の人は、そのプラグインを買って制作しているの」
「はい、なるほどです」
「多分、今後はサブスクになると思うんだけど、なっちゃんは標準機能にあるArnoldというレンダラーをつかっていたのよ、今回は・・・」
あ、なんとなく聞いた事のある言葉だ。
「それは標準なら問題ないですよね」
と私は言ってみた。すると、きな子さんは
「問題はないよ。けど、ノイズというツブツブが画像に多く出るし、そのノイズを取るとレンダリングに時間がかかるのよね~」
なんとなく理解できた私がいた。
「CG業界で独立するには、環境の準備が大事なんですね」
とわいえ、CG用語はまだわからない事の方が多い。

きな子さんのパーマのかかった髪を見ると、自分の出来に満足する。イイ感じにかかっている。そして私は、きな子さんに、ラップでまいたホットタオルを首の後ろに置いた。苛立ちを抑える効果が出ればいいと思ってだ。
席に戻ると、パーマのかかった髪を伸ばしながらハサミを入れて、カットした。完成形をイメージしてあるので、その形に向かって、髪を空く。プロなので楽勝。

石山君の手が空いた頃、なっちゃんが現れた。黒いキャップをかぶっていて、Tシャツとデニム姿で、慌てて家を飛び出して来た服装に見えた。
「前髪切ったら終わりなので、もうすこしです」
と私は工程を二人に伝えた。なっちゃんは、私にも、申し訳ない顔で頭を下げた。
「すみません、きな子さん。見てもらって良いですか?」
きな子さんはうなずき、ノートパソコンを開いてWi-Fiをつないだ。パスワードは、鏡の前に置いてある。なっちゃんは私にも、また頭を下げている。

「来るの、早かったね。」
「はい、電話の時は、前の会社のオルトにいたので」
あとはシャンプーしてブローの工程になる。なるべく早めにシャンプーを終わらせ、カットの席に移動し、かかったパーマにムースを付けた。

きな子さんは、鏡越しに言った。
「なっちゃん、ちょっと画像見せて」
「これです!高級マンションの最上階のパースです。どうですかね?」
後ろからきな子さんの髪をセットしているので、画像が私にも見えた。画面には、うす暗いリビングが見えた。きな子さんは何て言うんだろう・・・

「まず、光が足りてないよ。だからこんなにノイズが出ているし。あと、小物のセンスが悪い。ガラスや鏡関係は、レンダリング時間かかるから、もしもの時は、ガラスをOFFにしてレンダリングするといいかも」
私も小物のセンスは悪いと、確かにと思った。
「そうしたら、ここと、ここ。あと、これも、削除してレンダリングして。で、他の小物を探す時間ないから、レタッチで置いちゃおう」
ダメ出しばかりだった。

私は、きな子さんの毛先に軽くドライヤーをかけた。最後の仕上げだ。
パーマなので、完全には乾かさないで終わる。なっちゃんは、その指示された部分に赤丸を書いて、その後にメールを開いた。誰かに送信している。
「もしもし、今、メール送りました。赤丸の部分を削除してレンダリングお願いしてもよいですか? はい、ありがとうございます。終わったら連絡ください」
やっぱり会社への連絡みたいだ。

こちらは、スタイリングが終わった。
「はい、できましたー」
と、私は明るく言って、大きな鏡を持って来て、後ろ髪の様子を見せてあげた。きな子さんは、ニコっと笑ってくれた。そのまま、なっちゃんに話をした。
「いい? 暗い画像は、明るくする事ができるけど、明るい画像は、暗くすると絵が壊れるから、今回は、このままのレンダリング画像で進めるね」
なっちゃんは、スマートフォンにメモをし始めた。
「調整レイヤーは使ってる? まさか、ここから明るさコントラストとかしてないよね?」
ここからとは、画面の左のタブをクリックして、マウスのカーソルで指している。
「はい、そこからです。なので元に戻れなくていつも困っています」
「え? そんな基礎も出来ていないで独立したの? んもー」
っときな子さんの鼻が膨らんだ。また、ダメ出しだ。
「すみません。やり方を教えてください」
・・・・・

そこからは、早口でレッスンしながらの修正が始まった。すごいテクニックだ。時間がない場合の逃げ切る手法もあったのだ。なるほど、CGは3ds Maxだけで出来ない時は、別のソフトも使って絵を作りあげるのかと、私は感心した。すると、きな子さんは、クラウドといってインターネット上にある自分のファイルに通信した。
「ちょっと、植栽とか小物とか、配置しちゃうね」
なっちゃんは、こくりとうなずいた。
きな子さんのファイルの中には、センスの良い植栽や花、アート、時計、花瓶などの画像が沢山入っている。しかも、整理されていて、とても見やすかった。インテリアに合いそうな植栽をいくつか選択し、リビングの窓の奥に見える庭に配置した。配置した画像を見ると、前後のバランスがとても良い。
「それでは、影を入れて行くね」
どんどん進む。これは、授業料を支払うレベルの話だ。
「かげってね、陰影っていって、二つあるのよ」
「こっちの影は|」
と言って、スタイリングチェアの下に落ちた影をカーソルで指した。
「物の形や、光が当たって落ちる影」
「こっちの陰は|」
と言って、スタイリングチェアの背もたれの部分をカーソルで指した
「ほら、隠れて見えない陰は、光が当たってないでしょ。」
本物を観れば一目瞭然の当たり前の事だが、とても勉強になる。きな子さんの脳内には、最終的なリビングの映像がもう見えているのだろう。
「この陰影はブラシを使って描いていくの。この作業は大きなブラシを使うのがポイントね」
ブラシのイラストのアイコンを触ってサイズを自由自在にコントロールしている。
すると、メールがポンと入ってきた。きな子さんが言う
「なっちゃん、メールきたよ。とりあえず、このデータもPSD形式で保存して」
と言って、パソコンをなっちゃんに戻した。

カチッ
カタカタ
マウスのクリックと、タイピングの音が響く

「きな子さん、オルトから再レンダリングの画像が届きました」
「では、それをフォトショで開いてみて」
「はい」
返事をして画像を開くと、ちょっと前に、きな子さんが丸をつけて、指示したものが見事に消されてレンダリングされている。大きなガラスを無しにしてレンダリングをしてきたそうだ。
「では、この画像を、前の画像の上に置いて・・・」
そういって何層もあるレイヤーの下の方に、送られた画像を差し込んだ。
すると、ピタっとハマった。ベースのリビングの画像に、レタッチで配置したバルコニーの植栽。暗かったリビングが、明るく、温かい空間の演出に変わっていた。私は感動した。
そして、共感をしたくて尋ねた
「きな子さんの脳内には、こういう完成形が既にイメージ出来ているんですね?」
「うん、そうよ。悠莉奈さんだって、私のこのパーマの最後のイメージが出来てたでしょ?」
きっとなっちゃんには、完成形のイメージが出来ていなかったのかもしれない。ただ目の前にある素材を配置して、形にしていたのだ。きな子さんと私は一緒だと思った。この場合、過程よりも結果。最後が良い仕上がりになるならば、3ds Maxだけで完結しなくても良いのだ。
「ほら、ここまで形になれば、後のイメージは想像がつくでしょ。私達の仕事は、お客さんの頭の中のイメージを抜き取って、それを映像や画像として形にしてあげないとなの。だから、イメージが出来なければ、お客さんにヒアリングしたり、参考画像を探す」
首を縦に何度もふりながら、なっちゃんは聞いている。

「聞くのは恥ずかしい事ではないの。そんなプライドいらないから。プロ意識もってね」
そういえば、私も先輩に何度も言われた。技術は 盗めとか、見て学べとかあるけど、ここまで助けてくれる先輩はなかなかいない。
「ありがとうございます」
納品まで間に合わせないとと思って焦っていたのだろう。なっちゃんの目には涙があった。
「あと、プラグインのV-Rayは今すぐ購入しな。道具揃えないのも意識が低いよ」
「そうですね。完全になめてました。会社では出来ているから、独立したら何倍も稼げるって簡単に思っていました」
きな子さんは、なっちゃんの頭をポンポンと優しくなでた。
「大丈夫。私も、みんな最初はそう思ってたから、ね?」
と言って、きな子さんは、私を見た。確かにだ。きな子さんとは長い付き合いだから、お互い言わなくてもわかる。見えない努力をお互い沢山してきたのだ。そして、シーノウズでのレタッチの授業は終わった。

二人が帰った後、私は、石山君と10周年のフライヤー作成に取り掛かった。石山君は絵が得意なので、ヘッドスパのイラストを描いてくれることになった。石山君が描き上げたイラストをセブンイレブンでスキャンし、データとして持ち帰る。

私は、その間に、シャンプーとトリートメントの容器の写真を撮り、データとして読み込む作業に没頭した。切り取りも得意になったので、さっき見ていたトーンカーブと調整レイヤーで明るく仕上げてみた。あとは、シーノウズの文字を入れたりして作ろう。二人で、あーだこーだ言いながら、シーノウズらしい案内が完成した。
私達は満足げにフライヤーを眺めながら、10周年を迎えることを喜んだ。

明日から、SNSで宣伝して、あと、プリントをしてお店に貼ろう。


第8章 レイヤー

2020年7月24日(金)
この夏、酷暑が続くためか、ショートカットにするお客さんが驚くほど増えている。私が家に帰り、テレビのニュースを観ると、そこにも同じような姿が映し出されていた。魅力的なショートヘアスタイルでありながら、すこしパーマがかかってる。水泳の池江璃花子選手だ。
東京オリンピックの開会式まで、あと1年。白血病から復帰を目指す池江璃花子選手が「希望の炎、輝いて」という。私はその言葉を耳にすると、心に深い感銘が走った。彼女のメイクも元気そうでとても良い。彼女の姿はまさに希望の象徴であり、私自身にも勇気と活力を与えてくれる存在だと感じた。

明日はいよいよ10周年か。と、言ってもこのコロナ禍だ。私の希望の炎を輝かせる方法が見つからないままベッドに入った。

2020年7月25日(土)
朝起きてから、ベッドの横のカレンダーの赤丸を見た。
今日で10年。私には大事な記念日になる。同じように思ってくれるのは、せいぜい身近な人と家族くらい。お店に向かう途中のいつもの線路沿い。歩きながらスマートフォンを取り出し、連絡先から「お母さん」を押した。
「お母さん、今大丈夫? 今日で10周年だよ。ありがとねー。お父さんにも言っておいてね」
「それだけ?」
「うん、なんか言いたくて」
「そうか、おめでとう」
「ちょうど昨日、梅酒を送ったところだよ」
「えっ? うれしい、ありがとー」
まさか、梅ジュース以外に梅酒も作っていたなんて知らなかった。この春に作ったのかな?ほんのり脚が軽くなった気がして、早歩きで店に向かった。

カンカン カンカン カンカン カンカン
足音が重なる
なんと、すぐ後ろに石山君がいた。

「おはようございます」
「あら、石山君、おはよう」
「朝から暑いっすね」
石山君の襟足は汗で髪が濡れていた。店のドアを開けると、暑さでもわっとした空気あふれ出て、同時に電話が鳴った。
私は急いで受話器を取った。
「はい、シーノウズです」
「あ、田端さん? おはようございます」
きな子さんの生徒さんだ。
「ごめんなさい。実は私も、友達の坂本さんも熱があって、突然なのですがキャンセルしても大丈夫でしょうか?」
「はい、わかりました。」
その後、お大事にしてくださいと、お決まりの言葉を言って切った。

熱ではしょうがない・・・

「石山君、11時の田端さん、坂本さん二人共キャンセルです」
「流行り病ですかね・・」
私も思ったが、言葉にはしなかった。
「そしたら、今時間あるから、ヘッドスパしてあげよっか」
石山君の眉があがった。
「マジすか? どうしたんすか?」
「水泳の池江選手みたいに、希望の炎を輝かせたいのよ」
思い付きだけど、10周年のサプライズも何も用意してない自分に気が付いたので、せめてもの感謝の気持ちだ。

そんな話をしていると、宅急便が届いた。
「篠塚さん、これ重いっすよ」
私宛て。確かに、重い。母親が送ってくれたおばあちゃんの梅酒が10本そこには入っていた。瓶と瓶の隙間には、手紙も添えてあった。

これは、おばあちゃんが作った梅酒です。10周年おめでとう。
この日を待ってた『10年物』ですよ。

さっき電話で聞いて梅酒とは知ってはいたが、手にするとまた違う。
しかも、瓶にはラベルが貼ってあり『悠莉奈用』とおばあちゃんの字で書かれていた。10年前からの10年間愛

「石山君、ヘッドスパ、ちょっとだけ待って」
「はい。じゃあ、僕、トイレ掃除しときます」
トイレに入る背中が、彼の10年分と大きく見えた。

私は箱から一本取り出してから「梅酒」で検索した。
すると、梅酒はミネラルをたっぷり含んでいるため、お肌や髪の毛など艶を保つと出てきた。なるほど。髪に良いとなれば、試してみたくなる。
ちょうどいい。今からやってみようかな。
トイレの扉をコンコンとノックして、先に上がってると、伝えた。

石山君は、スタイリングチェアに腰かけると
「篠塚さん、本当に甘えちゃって良いんすか?」
「いいよ、いいよー。アロマはどうする?」
ヘッドスパ用のクリームをチューブから出した。その瞬間、恵比寿のアトレで買ったイランイランのアロマオイルがある事を思い出した。
たしか、二階の本棚に置いた気が・・・。
「深海のようなところまでいけるアロマもあるよ。もし、どっぷり疲れているならだけど」
「匂い、嗅ぎたいっす」
二階の本棚から取ってきて、瓶の蓋を開けて、嗅がせてあげると、
石山君は目を閉じて鼻から吸った。
「ちょっと寝不足なんで、これいいかも。深海のこれで」
そう言ってイランイランを指さした。
「あとー、梅酒って、髪に良いんだって。ちょっと数滴入れてもいい? 香りを感じない程度にするから」
「いいっすよ。僕、お酒好きだし」
スチーマーを焚く。石山君の周りが、まるで白い雲の世界になった。
ヘッドスパのクリームを温め、イランイランを3滴。梅酒も3滴入れてみた。それにしても疲れているのか? 私より7歳も若いし、昨日は早く退社させてあげたのに、さては、飲み歩いてるな。まあ、遅刻してないし、やる事はやっているので良しとしよう。

部屋に香りが充満した頃、両手に温かいクリームをとり、手と手を合わせて気持ちを入れる。目を閉じれば、うっすらピンクの世界が見えてきた。香りのせいだろうか。イランイランは、甘いエキゾチックな、とても高級な、それでいて温かみまで感じる香り。石山君の頭を触ると、すこし皮膚がブヨブヨしていた。たまにお客さんでもいるタイプだ。人間の皮膚は一枚の皮で繋がっている。この1枚の皮膚の頭部を私の手でほぐしてあげよう。

感謝の気持ちがいっぱい出てきただけに、喜ばせたい気持ちが強くなる。
親指以外の四本の指で、まずは前頭部、そのまま頭頂部をガッと開く。脳を見せてもらうように、力を入れた。握力のある私の得意なマッサージだ。
その時、ふわっと私の頭も宙に浮いたような気がした。ほんのわずかだが、足が地面から浮いたような感覚だ。なぜか、私は目を閉じた。

すると、Bar Asamiの映像が出て来た。今夜、飲みに行こうか迷ったからだろうか。目を開かずそのまま、両親指を後頭部に置き、グルグルしながら強く押す。あれ? 私がイメージしないような映像が出てきた。なぜ? 今、石山君のヘッドマッサージをしているのに、今、下のお店の事なんて少しも考えていないよ。

なぜだ?

すりガラスが手前にあるような感じから、だんだんくっきりと鮮明に見えてくる。Bar Asamiの店内がデコレーションでいっぱいになっている。よく幼稚園のお遊戯会であるような紙の薔薇や、カラフルな折り紙で作った輪っかをつないだチェーンみたいなのが、カウンターの上に、ブランブランしている。こんなBar Asamiは、今まで行った中でなかった雰囲気だ。
壁の映像も観えてきた。写真が沢山貼ってある。その映像を観ながら、私の手は石山君のこめかみを触る。手をグーにしてグリグリほぐす。

私は、Bar Asamiの映像がもっと見たくなった。壁に貼ってある写真は、誰が映っているんだろう。私だ。パッツン前髪の私。え? 何?
私は目をパっと開いた。
目の前の鏡を見ると、石山君の目は閉じている。私はこめかみのグリグリのグーの手を開いて、を指でスイッチを押すように押した。次は耳周りをほぐそうか。目を閉じてまたアロマを感じよう。

ん?
ん?
さっき って ?
もしかしてだけど、石山君の脳内の映像を私は、観えてしまった
って こと?
多分、そうだよね・・・・

確かめたく、閉じた目をギューッて力を入れた。真っ暗である。何も観えない。勘違い?
私の脳内映像化計画が実現したのかと思ってしまった。あぶない あぶない

「篠塚さん、こめかみって、米を噛むからこめかみらしいっすよ」
私は目を開いた。石山君が目を開いて、鏡越しの私に話かけていた。
「え? もう1回言って、聞いてなかった」
「あー こめかみをググリグリしてくれたじゃないすか。こめかみって、お米を噛むと動く場所だから、こめかみって名前らしいですよ。すごくないすか」
「あ、うん・・・すごいね」
なんか、さっきの映像が気になって、また聞いてなかった。
「それより~ 篠塚さんの指の動きがすごい。マジ気持ちよいっす」
今のは、聞いてた。あ、なんか話続けないと・・・
「凝ってるよ」
「そうすか? 昨日、下向いたりの作業が多かったからですかね」

ん?
ダメだ。
さっきの映像に話を結びつけてしまう・・・

下向く行為は、折り紙じゃない? 聞きたいけど、なんて聞けばいいのだろう。
私にサプライズしようとしてる? なんて恥ずかしいし、聞ける訳ない。
そのまま前頭部に手は戻った。この後は、左右に首を倒して、マッサージだ。何か手順省いてないよね。私は、ものすごく動揺していた。

絶対、サプライズされる。Bar Asamiが折り紙でいっぱいになってる。
もし、脳内映像化計画が成功していたのならば、どうしてそう出来たのか。
本当にそうなのかを実証したい。
例えば、おばあちゃんの梅酒? 梅酒が何か意味があるのか? とか。

私は両手で頬をパンパンとたたいた。
「篠塚さんっ」
石山君が声を荒げた。やだっ
あ、ヘッドスパのクリームが付いているベトベトした手で、私は何をやってんだ。

この行動のせいで我に返れた。私ったら、勝手に興奮している。

「篠塚さん、シャンプーは自分でやるから大丈夫っす。ホントありがとうございました」
石山君の髪が揺れている。石山君が自分でドライヤーをかけていた。
この日は、午後のお客さんもキャンセルが出た。記念日に誰の髪も切れない日となった。悲し過ぎる。今日の仕事がもうなくなった。

「篠塚さん、今夜って時間ありますか?」
「うん、どうしたの?」
「ちょっと相談があるんですけど、下で話せます?」
「うん、わかった」
「じゃあ、店閉めよかっかね」
「僕閉めますね。先に行っていてください」

コロナ禍で、Bar Asamiも人が来ない。マスク飲食のせいだ。
先に私が向かった。ドアを開けてママに手を振った
「ママ~」
「悠莉奈さん、お疲れさま。ここでいいかな?」
真ん中のカウンターの席を案内された。
「石山君も来るから、おしぼり2つお願いします」
「はーい」
ママの明るい声、久々に聴けた。
「何飲む?」
「どーしよ、石山君が来てからにするわ」

店内を見てもいつもと同じで、私の10年分の写真が店内に貼られている訳でもなく、折り紙でデコレーションされている訳でもなく、いつものBar Asamiだ。なんだ、さっき見た映像は、私の妄想だったのか。10周年で勝手に興奮していたのか、こうあって欲しい願望が出ていたのだろう。情けない。となると、石山君の話って何だろう。コロナだから、休みたいとか。

「ママ、こんばんは」
5分後、普通に現れた。
石山君は、アクリル板を挟んで私の右隣りに座った。メニューは見なくても覚えている。この暑さだからビールしかない。すると目の前にピンクの瓶が置かれた。なんと、冷え冷えのモエ・エ・シャンドン。
「悠莉奈さん、10周年おめでとう」
音楽がかかった。素敵な演出だ。

石山君は、レコードジャケットくらいの大きさのピンクの本を私にくれた。
「もしかして、10年分のアルバム?」
「はい、これはPhotoshopで編集して作りました」
「いつの間に・・・二人とも~~~~」
ママと石山君との間にある、アクリル板を私は触って、手を伸ばした。
「めちゃくちゃレイヤーが多くなったす」
石山君は、自分の制作した苦労話が沢山したい様子だった。

その後は、ママが作る美味しい料理が次々とカウンターのテーブルに出てきた。青パパイヤのサラダに、大葉入りエビ餃子、黒胡椒たっぷりのスペアリブに、最後はパセリカレーだ。大好物のパセリカレーをスプーンですくった時、思わず涙が溢れ出て来た。
嬉しさと同時に、10周年を迎えながらもお客さんが一人も来なかった事とや、これからの不安など、様々な感情が交錯していた。声を出して泣きながら、私は自分の感情に向きあったのだ。そんな悲しみに気づいたママは、カウンターから出てきて、優しく私の背中をさすってくれた。ママの手の温もりが、私の心を癒してくれる感覚だった。
少しずつ涙が収まってから、もらった10周年のアルバムを手にとった。
アルバムをめくると、そこには過去10年間の思い出が詰まっていた。

1ページ目には、私が接客でカットをしている姿のイラストがあった。
2ページ目からは、私のぶっとんだファッションのスナップになっている。柄のタイツシリーズは、ママは大笑いだった。
10ページ目あたりからは、屋上のテントが壊れて笑っている姿や、ハロウィンの仮装や、芋ほり大会に屋形船。そこには、いつも石山君が側で笑っていた。スタッフは沢山いた事もこのアルバムを見れば一目で確認できる。
これは、1日では仕上がらないレベルのアルバムだ。
また、涙が出ちゃうじゃないか・・・

私の人生のレイヤー。楽しかったこと、大変だったこと、あの人にこの人、全部がレイヤーのように層になって、今の私が仕上がっているのだ。

お腹もいっぱいになるとママがまるで夏休みの夜みたいな提案をしてきた。
「ねえ、屋上にあがらない?」
ママが冷凍庫から何か探している
「見てー、お中元でもらった南ヶ丘牧場の美味しいアイスだよー」
場所が変わるだけで、楽しそうだ。
私達は屋上に上がった。バニラ&苺、バニラ&コーヒー、チョコの3つで、石山君は迷わずチョコ。私は、バニラ&コーヒーのアイスを食べた。

「ねえ、このサプライズは、石山君が考えたの?」
夏の夜空を見上げながら聞いてみた。
「あ、僕のアイディアは、壁一面に写真貼って、折り紙でデコレーションしてって幼稚園のおたのみし会みたいの考えてたんすけど、ママにセンス無いって言われて」
なるほど、それはなるほどだ。
「ママは、元アパレルでディスプレイのデザインのスペシャリストだからね~」
三人で笑った。そういう事か。それでピンク色が統一されてたりとか、シンプルだけど、うつくしいまとめ方をしたのね。答え合わせができた。

おや? まてよ
こ れ って
脳内映像化計画が実現しちゃったという事だ。
た ぶ ん
私の計画、脳内映像化計画、大成功の巻きである。


第9章 強制終了

2020年 7月26日(日)
本日より、10周年記念の割引がスタートする。このままではいけないという思いが私を鼓舞した。何か行動を起こさなければという決意が沸き上がり、胸が高鳴っていた。この機会を活かし、新たな一歩を踏み出すしかないのだ。

とりあえず、私の秘密の計画、脳内映像化計画のネーミングを考えた。
私ひとりでたのしむ名前・・・
脳内の盗覗、のうのぞき・・・
んーーっ キャッチ―で、もっと響きの良いものがいい。
脳内の図が見れてしまう
「あ! 脳図がいい。脳図だ。シーノウズにもかかってる」
脳図。私だけの、特別な遊び。
ノウズ に決まりだ。

私は、早速、脳図を計画的に始めた。

「石山君、今日さ、なっちゃんのヘッドスパの予約入ってるじゃない?」
「はい。」
「申し訳ないんだけど、私にやらせてもらえない? 実は大事な話があって」
「あ、わかりました。その間、僕はどうしたら良いっすか?」
「そしたら、渋谷駅から、お店までの道案内動画を撮って来てもらえるかな?」
「わかりました。渋谷は再開発で、色々変わりましたもんね」
「ありがとね」
とお礼を言ったが「助かった」と心の声は言っていた。

石山君が店を出た30分後に、なっちゃんが来た。
「こんにちはー。この間は失礼しました」
手には紙袋を持ってる。
「これ、石山君と一緒にどうぞ」
あ、『チリムーロ』だ。すぐ隣の店のケーキだとわかった。
私の顔は嬉しくてトロンっとなった。すぐそこなのに、いつも行列でなかなかタイミングが合わず購入できないのだ。スパイスが利いた大人のケーキである。

「ありがとうございます。気を遣わなくていいのにー」
バナナカルダモンケーキと、バタースコッチキャラメルリキュールに、ベイクドチーズケーキ。あとはマフィンもある。洋酒とスパイスのいい香りがして、幸せな気持ちに満たされた。
すこしは人の力になれていたのかと思うと、更に幸福感が増す。
「私も、自分の分、買っちゃいました」
そういってなっちゃんは、持っているエコバックを、ポンポンと叩いた。
「それで、あの仕事の納品は大丈夫でした?」
「はい、きな子さんと、ここのおかげで無事に。本当に助かりました」
両手の親指を出してグーと表現した。私は気になっていたので、ホッとした。
「あ、そうそう、石山君は急用が出来ちゃって、申し訳ないんですが、戻るまで私が代わりに、なっちゃんを担当しても良いですか?」

私は嘘をついた。

「はい、さっき、石山君とバッタリ会いました。悠莉奈さんに担当してもらうのは、はじめてで楽しみです」
席に案内した。そして、私はいつもより早口で話し始めた。
「香りはどうします? 四種類あるんですが、CGクリエイターには特別なのも用意してありますよ」
「特別なモノ?」
「はい。すごく脳を使うお仕事だから、どっぷりと癒される香りです」
そう言ってイランイランのアロマオイルを嗅がせた
「あ、イランイランですね」
「よく知っていますね」
「はい、私、家でアロマを焚くので、いろんな種類を持ってるんです」
おばあちゃんの梅酒の話は秘密にしておこう。選べ、選べ、イランイランを選べと強く願った。
「じゃあ、すごく疲れているので、イランイランで」
よっしゃー 私の心の声が叫んでいた。
すぐさま、スチーマーを焚いて、石山君の脳図の時と同じ状況にしてみた。
ヘッドスパのクリームも温まってきたので、前もって小瓶に入れておいた梅酒を3滴
 ポトン ポトン ポトン
なっちゃんを観ると目を閉じている。
レシピは、前回と同じはずだ。クリームを手に取って、髪を半分に分けた。右からか左からだったかは、忘れてしまったが、親指に力を入れて指を回す。鼻から大きく息を吸った。
おしゃべりななっちゃんが、このまま私に話しかけなければ、この後に脳内が見えるはずだ。

パーッと明るい靄が見えた。

お城? 水色? お城のCGを仕事で作っているのかな?
そのお城から二人の人が現れた。一人はドレスを着ている。シンデレラっぽい。
あー やめてっ 吹き出しそうになった。
なっちゃん自身がシンデレラの衣装を着て、ディズニーランドにいる。
これって、今想像している妄想な訳? 何でまた。この子はコスプレ好きなの?もう一人も見えてきた。王子様? 彼氏? キャスト?

違う。違う。
そうじゃない、石山君じゃーん
え、え、え、
脳図なのに思わず二度見してしまった。そして、そのまま私は、目を開いてしまった。

なっちゃんは目を閉じたままだが、口角が上がっている。鼻の穴もちょっと膨らんでいる。これは石山君に恋をしているのだろうか? ダメだ。吹き出してしまいそうになって我慢が出来ないので、思わず声をかけてしまった。
「なっちゃん、ディズニーランドって好き?」
我慢できなくて、しかも、小声ではない、普通の声で聞いてしまった。
「え? あ、はい・・・」
なっちゃんは、小さな声で返事をした後、
「え? すごーい。ちょうど今、ディズニーに行きたいなーって思っていたんです」
「ですよね~ コロナだし、どっか行きたくなりますよね~」
と、私はごまかしてみた。
またしても大成功である。本来なら、かっこいいCGの映像を観て、その映像を盗みたかったのに。こんな事になるとは。そうか、石山君が好きなんだ。へぇ~ 好きなんだ。
石山君には彼女がいるし、もうすぐ結婚もする。本気ならば、すでに失恋だ。
これは、以外だった・・・

この会話の後は、何もなかったかのように、いつも通りのヘッドスパを続けた。
「はい、では髪流しますね」
シャンプー台に移動し、シャンプーをした。
シャンプーの泡からは柑橘系の香りで、イランイランとは違うスッキリとした香りだ。右手左手とにシャワーを持ち替え、頭を抱え、ソフトクリームくらい角がたった泡を、人肌くらいの温度にしたお湯で、なっちゃんの髪を流した。ちょうど良い頃に、石山君が戻ってきたので、目で合図した。「セットは変わってね」と。

これで、なっちゃんの脳図は完了。
彼女の脳図は正直、そこまで興味ない自分がいた事に気が付いた。しかし、収穫は大きい。
「なっちゃん、すみません。ここからは石山君に戻ります。」
「はい、ありがとうございました」
と、なっちゃんが言ったので、私は石山君に担当を変わってもらった。

その後、二人の話に、聞き耳を立てると
「独立後いかがすか?」
目がハートになっている、なっちゃん。私の見え方も変わった。
「はい、頑張ってます」
「素敵ですね。あ、今日はレンダリング中すか?」
「はい。早速V-Ray買ったので、レンダリングして来ました」
「さすがですね。#レンダリング、投稿はしました?」
なっちゃんはスマートフォンを取り出し「しましたよ」と。この後、インスタグラムのアカウントを聞いて石山君をフォローした。そんなやりとりを見ていると、彼女の存在を伝えようか迷ったが、インスタグラムを見れば、石山君に彼女がいる事が嫌でもわかる。あ~
なっちゃんは、数分後、失恋してしまった・・・

数日後、林夫妻がカットに来る事になった。
彼らとの再会はいつぶりだろうか。もちろん、この日も、一人でヘッドスパを私が独り占めしたかったので、また嘘をついた。石山君には予約がないと嘘をつき、休んでもらった。林夫婦には石山君が体調悪いと嘘をついた。私は、どうかしてる。
私は自問自答しながらも、経営の事より、お客さんの対応より、脳図を観れるチャンスに心が高鳴っているのだ。この独特な体験は私にとって何よりも貴重なのだ。

13時予約の林夫婦は、5分前に来店した。
久しぶりに会った二人の髪はとても伸びていた。梨沙さんはロングなので雰囲気はかわらないが、明さんは近所でカットしてるなと感じだ。髪型を見れば伸びていてもわかる。

「ご無沙汰しちゃいました。元気でした?」
変わりなくニコニコしながら、夫の明さんが声をかけてくれた。
「はい。ビックゴリラ鑑賞後のやりとり以来ですね」
林夫婦は顔を見合わせて、微笑み合っていた。
「どうです? お仕事は忙しいですか?」
と、私は二人に聞いてみた。
「ん~ せっかく頑張って作った作品が公開されなかったり、色々だよねー」
「そうなんですね。どこも大変ですよね」
「イッシーも大変そうだね、大丈夫?」
「あ、あ、はい。今日は私が二人を担当させてもらいますね」

嘘をつくって難しい・・・

「では、メニューはカットですよね。よかったら、ヘッドスパもご一緒にいかがですか?コロナ疲れを私のゴッドハンドで癒しますよ」
「明君、やろうよー」
一度経験した事のある梨沙さんは、ヘッドスパの良さを知っているので乗り気だ。
「こんな短い髪でも出来るんですか?」
明さんが顎を突き出して聞いてきた。
「はい、大丈夫です。頭皮のマッサージなので、髪の長さは関係ありませんから」
「そっか、確かに。ヘッドは頭だもんね」
明さんもする事になった。ここからは、いつものセリフだ。

「香りはどうします?4種類ありますが、CGクリエイターには特別なのも用意しています。
この香りは、深海の中に沈ませてあげるイメージで、たっぷりと癒しを堪能できます。題してクリエイタースペシャル」
ここまでお話すれば、他の香りを嗅がずに一択だろう。
そして、なっちゃんみたいにならない為には、私の言葉で、先に脳図を誘導するのだ。
脳内の映像を、私が観たいものに設定するためだ。

すこし迷っていた様子だったので、すかさず話かけた。
「クリエイターって何かを作りだしたり、表現したりで、ホントすごいですよねー」
無理矢理の会話をし、スチーマーをONにした。続けて私は言う
「例えば、このスチーマーの蒸気も、クリエイターの想像の世界と合わせたら、どうなるんだろう? とか、観た事のない映像が浮かんだりするのかな? とか。『ビックゴリラ2』なんかも脳内で映像化出来そうですよねー」
二人とも笑顔で私の話を聞いていた。
「そんな想像をするもよし、何も考えず深海に潜っても良し。では、この香りで始めますね」

夫の明さんの方は、頭頂部の方が固くなっていた。耳の後ろも固い。これをゆっくりゆっくり私の親指でほぐす。その間、奥さんの髪はスチーマーで温める。通常ではしないが目を閉じてもらうため、首にホットタオルをあて、目にはラベンダーのアイマスク。私は、脳図の為にあらかじめ準備しておいたのだ。

最初に明さんを選んだのは、彼の方が面白い脳図であると予想したからだ。奥さんの梨沙さんは女性だし、きっと現実的な脳図だと思う。さて、何が見えるかな。

暗闇だ。もしかしたら、本当の深海を想像しているのだろうか。
あれ? 何かが動いているのが、見える。

うにょ うにょ
ウツボ?
ん? 

ダメだ、もう既に話しかけたい。「これ、何ですか? 何観てるんですか?」っと。

けれど、ここからもっとすごい映像が出るかもしれない。そう思うと、話しかけて終わりになってしまったら、元も子もない。頭頂部のつむじ周りのツボ百会をゆっくりほぐした。やはり、この旦那さんは単純だ。深海と言った言葉で、既に海の中を楽しんでいるのだろう。実に楽しい人だ。私のヘッドスパもテクニックも知識も上達してきた。百会の次は、目窓だ。ここのコリは眼精疲労。

あれ? 気持ち悪い生物が海底から映えている。肌が透き通っていて、うっすら新聞紙の模様が見える。生物なのは確かだ。目がある? もぐら? いや違う。気持ち悪い。まるでストッキングのつま先のような頭をしている生物だ。それが30匹ぐらいいるのだ。明さんは、この生物を見た事があるのだろうか? それとも新作の映画のキャラクターなのか? 想像で今現在、脳図で作り上げた物体なのか。このまま指を頭の真後ろにもってきた。『脳戸』
ここを5秒くらい親指で押した。その時だ。

パンっと真っ白いひかり。
目を閉じているのにまぶしい火の玉の中に入ったかのような世界になった。

明さんが咳払いをした。その後、鼻から太い息を吐いた。
なんなのだろう、この行為は。『脳戸』を長押しした後に強制終了のような感じになってしまったのだ。もしかして、明さんの脳図の映像を消してしまったのか? そう思えた。

最近は、手にとるようにわかるからだ。皮膚はたったの一枚の皮で繋がっている。マッサージの場所は頭皮と足裏が入口と出口のようになっていて、マッサージの効果はデトックスでもあるからだ。そのまま、ヘッドスパを最後まで続けた。

「はい、次は、梨沙さんの番です」
そう言って明さんのヘッドスパを終わりにすると、明さんはカットコートから両手を出して
(ん~)と言って背伸びをした。
「やっばー 気持ちよかったー」
妻の梨沙さんに向って言った
「でしょー。今度は私の番だから、明君黙っててよー」
私は、梨沙さんのアイマスクを取った。新しいアイマスクを後ろの棚から出して、今度は明さんにスチーマーとホットタオルとアイマスクをセットした。
夫婦の会話は続く。明さんが、梨沙さんに身体を向けて話かけたのだ。
「梨沙、梨沙、しゃべってもいい? なんかさ、ストッキングのもぐらを想像してたんだけど、途中で脳内の映像が消えたんだよね。あれ、海の中だったのかな? 続き見たいなー」
「んもー、何言ってるか、意味不明でーす」
梨沙さんは、サラッと交わした。

わお!
その会話を聞くからに、私の予想通り、『脳戸』のツボは、デリートキーだった。
時間がない。二人を接客するというのは休む暇がないという事だ。
梨沙さんのヘッドスパのクリームを再び同じレシピで作って、スチーマで温めたクリームを頭皮に塗った。彼女の頭皮は、すこしむくんでいる。肩こりもあると言っていたから、耳の後ろのからほぐそう。店には二人分のイランイランの香りが充満している。私まで深海に行ってしまいそうになる。がほぐれたので、耳の手前の和りょうに指を映した。

この時、だんだんと梨沙さんの脳図も見えてきた。
全く違う。明さんとは全く違うカラーだ。

とても明るいクリアなフォトリアルな映像だ。
季節は冬なのだろうか?
ピンクの大きなホテルのような建物が見えてきた。

1.2階がショッキングピンクで3階からサーモンピンクのような色になっている。窓周りの装飾がとても細かくてきれいだ。これはどこなのだろう? 本当にあるホテルなのだろうか? 梨沙さんは泊まった事があるのか? それとも想像の世界なのだろうか? あれ? ホテルの背景の空が変わった。背景が緑色になったのだ。これは、合成動画などで使用するグリーンバック? インテリアはどうなっているのだろう?

みたい、みたい。
みたい、みたい。

私の興奮が止まらなくなってしまった。最後に映ったのは青いリボンがついているピンクの箱だ。その箱が数え切れないくらい沢山あふれていた。
もっと観たいが、最後のピンクの箱の映像でずっと止まっていたので、私は、指の動きを止めてしまった。わずか3秒ほどだが、息まで止めてしまった。
えーいっ、と明さんと同じように『脳戸』を長押しした。

強制終了

パンっと真っ白に切り替わった。目を閉じているのに・・・
15分前と同じ光景だ。

強制終了も、成功である。

これで、脳図を消す事も出来るようになった。もしかしたら、大事な仕事や、アイディアを消してしまったかもしれない。申し訳ない気持ちより、観たこともない映像を見せられた事で、心臓を鷲掴みにされた気分だ。クリエイターの脳図は、私の想像をはるかに超えている。この映像が自分自身で作られていて、きっと自由に操作をしているのだろう。
そう思えたら、悔しさと嫉妬で、私の手は握りこぶしを作ってしまっていた。

接客中だ、我に返らなければ・・・
「すみません、お待たせしました」
その後は二人を同時にシャンプーして、カットした。この作業は仕事が早い私にとってはお茶の子さいさい。二杯目の飲み物も一人で用意した。二人ともアイスティーだったので、用意して上に上がっていくと楽しそうに会話をしていた。

「ね~ さっきの~ 例の小学校の時のもぐらでしょ?」
「そうそう、深海にそのストキッキングのもぐらが出て来てさ」
私は、アイスティーを鏡の前の台に置いた。
「何の話ですか?」
明さんの脳図の話とは分かったが尋ねてみた。
すると明さんは嬉しそうに話し出した。
「小学校の時にね、ストッキングでもぐらを作らされたんだ。ストッキングでだよ。小学生ながらに、それが気持ち悪くて。周りのみんなが文句も言わずに作る姿も気持ち悪くて。俺は何もしなかった。俺なら、もっとかっこいいもぐらが作れると思ったんだよね」
ビックリした。
こんな出来事があったのか。
小学生で既に明さんはクリエイターとして仕上がっていた。天才少年だ。

私は、深く感心し、うなずきながら、思った事を口にした。
「けど、先生の気持ちも私は解る気がします」
クリエイティブが出来ない人の気持ちの代弁だ。
「そっか、確かに先生も、そういうのが出来ない人もいるかー」
心の底では、小学生の明さんに驚いている。でも、褒めなかった。尊敬が嫉妬になっていた。ちょっとマウントをとる言い方をしてしまったのかもしれない。
「大人も子供も、得意分野と苦手分野があるかもね」
私の言葉に乗せて、明さんが再び、言った。

「確かにー」
梨沙さんと私は、ハモるように声をそろえた。
生まれつき才能がある人は、それが発揮されなかったり、理解されずに苦しむ事もある。かたや、才能のない人間からすると、羨ましくあり、嫉妬や妬みになる事もあるのだ。

「あ、そういえば・・・」
梨沙さんが思い出したように声を出した

「きな子さん、最近来てますか?」
「あ、10周年の前に来ましたけど・・・いつだったかな・・・」
「そっか、元気なのかなー。全然SNSも投稿してないし」
確かに、私もきな子さんのSNSはチェックしているが、全然気にしていなかった。
「まだまだ落ち着かない世の中ですからねー」
正直、人の事を心配してあげる余裕が私にはなかった。林夫婦は、いつだって優しい。ゴリラの『ビック』も優しかった。あのキャラクターを作り出せるのだ。才能もあって、技術もあって、仕事もあって、なんだかずるいと思ってしまった気持ちで、二人を見送った。
見送った後に、『ビックゴリラ』の感想言う事や、苦労話を聞く事を忘れていたのに気が付いた。

店に入ろうとした時、外からこもった笑い声が聞こえた。
私は、下に降りていった。今出たばかりの林夫婦と、下のママと、きな子さんだ。白いマスクの四人。夕方の太陽で四人の影が長かった。

「あ、悠莉奈さーん」
そう声を出してくれたのは、噂をしていたきな子さんだ。私に気付いて手を振って駆け寄ってきた。私は会いに階段を下りた。
「なんか感動するー」
きな子さんの目がウルウルしている。
「悠莉奈さん、今から、ちょっとだけヘッドスパって、お願い出来たりする?」
「はい、喜んで」
私は、快く答えた。

林夫婦とママと別れて二人で店に入ると、きな子さんはビニールの袋を取り出した。そのビニールの中にはプリンのような容器が二つ入っているのが見えた。
「実は、ティラミスを作ってきたの」
「ティラミス? きな子さんが?」
「コロナ禍で暇だからさ~。あと、もう一つ理由があってね」
「へっ?」
お菓子を作れるとは以外でビックリした。
「ティラミスってイタリア語で『私をもちあげて』って意味なんだって」
「へぇ~ 知らなかったです。素敵ですね」
「元気づけてとか、私を引っ張ってとか、なんかいいよね。それで作ってみたの」
「そうなんですね、石山君いないの残念だなー」
「そしたら、二人で食べよっ」

そして、きな子さんと受付のソファーに座って、ヘッドスパをする前に手作りのティラミスを頂いた。ティラミスは、エスプレッソがビスケットみたいのにしみ込んでいて、この苦みと、マスカルポーネのクリームの甘さでたしかに元気になった。私は、きな子さんの脳内を覗こうか、迷いながら、ティラミスを食べてた。

クリエイティブの事で、嫉妬する恐れとか複雑な感情もあったけど、迷った理由は、二つあった。ティラミスを食べる彼女の表情だ。いつにも増して、疲れ切った顔をしていた。もしかしたら、自分を、もちあげたくてティラミスを作ったように感じたからだ。脳内を覗くと私まで疲れてしまいそうになったのが理由の一つである。もう一つは、石山君、なっちゃん、明さん、梨沙さんの四人を覗いた事で、人の脳内は現実と想像の世界で、覗く私は、そのどちらかが読めないのが理解できたことだ。

私は、あわよくばCGクリエイターの脳内のかっこいい映像を盗んで、悪用しようとどこかで考えていたのだ。キナコモチナイトのパーティー以来、CGクリエイターに沢山出会った事で、彼らに嫉妬心が芽生えていた。私に出来ない事があまりにも沢山ありすぎで、彼らの技術が羨ましかった。しかし、実際覗けた事で、実は常にクリエイティブな事を考えている訳ではない。人間だもの。そりゃそうだ。

そして私は、脳図を観るのを、これで一旦止める事に決めた。
きな子さんの疲れている理由が見えるかもしれないけれど、そこは自分に許可をする事を止めたのだ。特別な能力かもしれないが、自分の愚かさをも感じた。もう、いい、封印する。

それから1年過ぎた。
11年目もパーティーは開催せずに、11周年の感謝の割引だけ開催した。
レンダリング割引は、CGクリエイターから相変わらず大好評だった。

2021年の夏には東京オリンピックが開催された。池江選手の希望の炎は輝いた。2022年12月のFIFAワールドカップは、三苫選手の1ミリで世界が盛り上がった。2023年3月は、WBCで日本が優勝した。大谷選手の最後の試合は、何日も感動の余韻を楽しめた。沢山の暗いニュース、怖いニュースももちろん多かったけれど、日本は頑張っていた。

そして渋谷の開発も止まる事なくどんどん進んでいる。大きな高層ビルが出来てきて、飛行機のルートも変わったので、空を見上げると大きな飛行機が毎日のように見える。
本棚にはCGworldがもう60冊以上揃った。
梅酒を作ってくれたおばあちゃんは、今では空で私を見守ってくれている。
石山君は彼女と結婚をした。
なっちゃんも結婚したが、茨城に行った。
私は、長年の彼氏と結婚の話は出ないまま、ちょうどいい距離感で今もいる。ママもきな子さんも、きっとそうだと思う。


第10章 レンダリング中

2023年5月10日(水)
この日は一粒万倍日と、大安が重なっていた。
今年のゴールデンウイークは、海外に行く人も来る人も増えた。空港の水際対策もなくなったし、マスクを着用しない人も増えて来て、お酒を飲みに行くのも、誘うのも戻って来た。
コロナの感染者数のニュースも、ずっと見ていない気がする。

屋上で、水洗いした白のカットコートをパチンパチンと洗濯ばさみで挟む。
ポタポタ水が床に落ちる。私は洗濯物を干し終えると、大きく手を広げて太陽を受け止めた。青い空を見上げると、うっすら月が見えていた。

そういえば、昼間の月はスピリチュアル的には縁起がよかったはず。
前にもそんな事があった事を思い出し、すぐさま、スマートフォンで検索した。

「昼間の月」

あ、やっぱり。いい事が書かれている。
「吸収力/成長/前向きに歩みを進めることで成長できる」
私は、ちいさくガッツポーズをした。
こういう嬉しい事が重なると、良いアイディアが浮かぶ。
私は、CGクリエイターのお客さんにメールを送った。

「おばあちゃんの最後の梅酒があるので、よかったらシーノウズで一杯いかがですか?」
CGworldの6月号と梅酒を一枚のフレームにし、屋上で撮った写真を添付して送った。

CGworldの6月号は映画『 THE FIRST SLAM DUNK』の特集だ。
22年12月3日に公開され、この間のニュースでは、興行収入132億円を突破し、観客動員数は922万人だった。韓国や中国でも大ヒットとなっている。長年のファンから、バスケットボールや『スラムダンク』のアニメを知らない世代まで、魅了した素晴らしい映画だ。

おばあちゃんの梅酒は飲んでもらってこそ価値がある。いつか脳図にと思って大事にとって置いた梅酒がお店にまだあった。これを使わない手はない。
昼間の月のおかげで、梅酒の提供を決断した。しかし、一本は自分用にと別にした。

ピロン ピロン
返信が届いた
「行く行く~」
すぐさま、返事が来たのは林梨沙さんだった。
「おつまみも持って伺いまーす」
と返って来た。
ここは飲み屋ではなく美容室なんだけど、と思ったのだが、自分がお酒を出すと言っているので、そうなるのは当然だ。自分のアイディアに「わたし天才」と、なんだか自信を取り戻せてきた。私は単純だ。自分らしさを忘れては思い出す。その繰り返しだ。そして、私以外の人達も、そろそろ外出してマスクを外して、お酒を交わしたい時期になっていたのだ。そう、我慢の限界だったのだ。
氷の入った梅酒をソーダーで割る人、ロックの人、なぜか、その二択で水割りの人はいなかった。そして、2杯目のお代わりをする人もいなかった。そういう配慮のあるお客さんが、シーノウズの常連さんだ。
「篠塚さん、おばあちゃんの梅酒効果で元にもどりましたね」
凛々しくなった石山君が、私もそう思っていたタイミングで口にした。
私は、石山君の背中をポンッと叩いて、二人で気合を入れた。

2023年5月11日(木)
明け方、夢を見た。パジャマは汗でびっしょりになり、目が覚めた。
なんの夢だったかは思い出せなかったが、起きた今も胸はドキドキしていた。びっしょりの汗以外は、いつもの朝で、いつもの時間で、いつものルーティンで、家を出た。そして、いつもと違った事が1つ早速起きた。

お店に到着すると、階段の下に白髪の老人が二人立っていたのだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
マスク姿の白髪の二人は、よく見ると大家さん夫婦だった。何年かぶりなので誰かわからなかった。私はマスクをしていなかったが、付けようともしなかった。
「ご無沙汰しています。もしかして、待っていました?」
家賃を滞納したのか? と思い出すように私は目が右上に動いた。
2人は頭を下げた。
「すみません。お電話しようと思ったのですが、散歩がてら来てみました」
おばあちゃんが、申し訳なさそうに言う。
「そうなんですね。階段ですけど、お店に入ります?」
高齢者の階段はきついかと思って、すぐにそんな言葉が出た。
「いやね、この紙見てくれるかしら」
また、おばあちゃんの方が言う。そして、茶封筒から、三つに折れた紙を取り出した。
「はい」
受け取った瞬間、頭をよぎった不安が、私の予想のタイミングより早く来たのだ。

渋谷駅
都市開発
立ち退き

この3行目の文字が太く強く私の目に飛び込んで来た。
心臓が100倍の速さで動き出した。
「わかりました。ご丁寧に持って来て下さったんですね」
「はい、早めにお知らせしたくて持ってきました。」
「それで・・・ だいたい、期限はいつぐらいですか?」
夫婦は顔を見合わせてから、言いにくそうに、今度は、おじいちゃんの方が言った。
「1年後ですかね・・・」
半年前に知らされるよりは親切だ。しかも、もう、ずいぶん前になんとなくの話は聞かされていた。お互い、深々と頭を下げて別れた。詳しくは2枚目の紙に書かれているそうだ。

カン カン カン カン
私は、その茶封筒を右手に持ったまま、スチール階段を一段一段ゆっくりと上り、鍵を取り出し、ドアを空け、店に入った。
「ふぅー」
沢山の息がもれた。その後、ドアに背中を付けた。
今朝の寝汗の正体はこの出来事だったのか。という事は下のBar Asamiも同じになる。石山君にも相談をしないとだ。私は持っていた鍵をクルクルまわした。頭の中もクルクルしている。そして、その日の閉店後、石山君に話した。先の事は、何も決まらなかったし、まだ何も決められなかったので報告だけ。

2023年5月18日(木)
一週間後も私は、立ち退きの事が宙ぶらりんのままだった。
このままでは、あっと言う間に時間が経ってしまう。自分の人生設計が出来ていないばっかりに、石山君とも話合っていないのだ。借金はあといくらだったか、きちんと書き出す作業をしないといけない。
どっちにしても石山君がどう考えているのかも、大きな問題になる。
そうだ、まずは手っ取り早く覗いちゃおう。私には、アレがあると思い出した。アレとは、私が一旦止めた脳図だ。
そう、お店の梅酒は全部飲んでしまったが、一本だけ、自宅に置いていたおばあちゃんの梅酒。

そして私は、その梅酒を小さな瓶に移し替え、お店に持っていった。
「石山君、今日の夜は忙しい? お店終わったら、ヘッドスパの練習させてくれない?」
「大丈夫っすよ。ゴッドハンドが、なんで練習するんすか?」
「練習という名の、感謝の気持ちよ。オホホホホ」
そう言って、「お」の口で、右手を口に添えて笑いながら、誘った。

石山君に、どう考えているか素直に聞くべきか、何も聞かずに覗いてしまおうか私は迷った。石山君に、「篠塚さんはどうするんですか?」と問われるのが怖かったからだ。何も考えてないだなんて、私だったら、そんな経営者は呆れてしまう。予想がつく話をここまで放置して仕事をしている人に、この先ついて行こうとは思わない。もしかしたら、それに気が付いて、準備をしているかもしれない。そうだったら、本当に情けない。
けれど、仕方ない。軽くジャブを打つ感じでサラッと聞いて、サクッと脳内を覗いてみる事にした。

私は、閉店後、スチーマーと、アロマの準備をし、石山君を席に招いた。
梅酒は、ワゴンの下に忍ばせている。
「石山君、ではやるね。イランイランを私が嗅ぎたいから、アロマオイルはそれでいい?」
「はい、僕も寝不足なので、それで」
ヘッドスパのクリームを付ける前に、石山君の肩を揉むと、首、肩がガチガチに凝り固まっている。
「凝ってるね」
石山君は、目を閉じたまま
「ちょっと、夜中まで作業しちゃってまして・・・」
なんの作業だろうと思ったが、彼は目を閉じているので、話かけるのは止めた。
そして、貴重な残り梅酒を取り出し、3滴、投入した。
店内はスチームのおかげで、イランイランの香りが広がる。
久しぶりの脳図のため、すこし不安があったが、脳内が観えると思うと私は鼻から大きく息を吸った。熱くなった私の脳を鼻から吸った息で、冷やそうとしているのだ。

「石山君、立ち退きの件は改めて会議しようね。今、まとめている最中だから、もうすこし待ってね」
ヘッドスパのクリームをスチーマーで温めながら、さりげなく伝えた。脳図の誘導でもある。
「はい」
目を閉じたまま、石山君は返事をする。
まとめてなんかいやしない。これから、彼の脳図次第で、立ち退き後をまとめるのだ。両手にクリームをつけ、石山君の頭を触り、私も目を閉じた。

見えてきた、見えてきた。

グレーの網目が見える。と思ったら、網目がなくなった。グレー一色だ。あれ? うっすら、何かの線。
色とりどりの線が交差していて、そこには曲線もある。
この色味、この画面、どこかで見た事があるのを、私は思い出した。
これは、3ds Maxのビューの画面ではないか。さっきの網目はグリッドで、色とりどりの線はワイヤーフレームとして見えているのだ。
私は、強制終了の『脳戸』を押さないように気を付けて、マッサージを続けた。久しぶりの景色に興奮している。

グリグリと頭をマッサージしていると、3ds Maxの画面がワイヤーフレームから、どんどんソリッドになってきている。色とりどりのモデリングデータは、インテリアの家具だ。壁が見えたり、消えたりする。この、オンになったり、オフになったりしているのは、3ds Maxのレイヤー? ちょっとすると、カラフルなモデリングデータ達は、リアルな質感に変わった。
五席の椅子が五つの鏡に向かって配置されている。
その椅子の下の床の素材が、フローリングになったり、大理石になったり、コンクリートのむき出しになって変化をしている。

待って! さっきの五席の椅子は美容室のスタイリングチェアだ。
この部屋は、もしかして 美容室・・・

予想は確信へ変わった。手を止めずに、どんどん頭をマッサージしていると、キューブみたいな16個くらいの四角が、チカチカ動きだした。小さな四角達が少しづつ消え、リアルな写真に変化している。

こ、これは、レンダリングだ。
レンダリング中だ。
形もくっきり見えてきた。
それにしても、この脳図が綺麗なこと。差し込む光がキラキラしていて、とても上品で、最近の私の好みのインテリア。白い壁に、ナチュラルな色の木材。

これは、いったい、どういう事なんだろう。
石山君の新しい美容室なのだろうか?

私は、石山君の脳図を見れば見る程、私の心の壁がシャッターを閉じようとしていた。
自分でも不思議だが、センスのいい美容室の光景がそうさせたのだ。
派手好きの私が、最近はナチュラル系を好んでいる、コロナのせいか、歳のせいかわからないけど。その私の好みが詰まっているインテリアなのだ。
私の好みが変わった事は私しか知らない。

「篠塚さんっ」
その呼びかけに、石山君の脳図は消え、私のしっかり閉じていた目は開いた。
「ど、どうしたの?」
私は、口ごもった。
「あ、こんなに長く申し訳ないんで、もう大丈夫っすよ」

一体、私はどれくらい長くマッサージをやっていたのだろう。
「うん・・・」
と、私は言った。付け足すように、慌ててとぼけた顔もしてみた。

こんなに無我夢中になって、脳図を見るとは思ってもいなかった。
石山君の脳図が美容室という事は、石山君も色々とこの先の事を考えているのだろうか。
そりゃそうだ。結婚もしたし、将来設計はしているに決まっている。
独立? 引き抜き? それともCG系に転職? まさかっ・・・

私の心は、まさに雷が落ちたような衝撃に襲われた。
石山君の脳図を見るんじゃなかった。
おかげで、立ち退き後のシーノウズ会議も、これでは意識して話す事は出来ない。
最初から、気軽に聞けばよかったと、後悔しかなった。

それにしても、色んなCGクリエイターの脳図を見てきたが、私が一番、求めていた映像だった。私はこういう脳図が見たくて、観たくてたまらなかったのだ。それが、CGクリエイターではなく、美容師の石山君の脳だったとは・・・


第11章 再起動 

2023年6月4日(日)
あれから2週間以上経った頃、きな子さんから随分と久しぶりにラインが来た。
「お返事遅くなってごめん。実は体調崩してました。髪ボサボサ」
あ、随分前の梅酒のお誘いの返事だ。もう、お客さんに提供する梅酒は無くなっている。
どう返事をしようか悩んでいたら、続けて
イ・ヒョンソク引退

私は、引退の文字を見た瞬間、思わず電話をかけてしまった。

「もしもし、きな子さん? 体調大丈夫ですか?」
「うん、今は良くなってきたよ」
「ライン、見ました」
「ね~ 19時から記者会見があるみたい」
「そうなんですね、ビックリですね。今日は何してますか?」
「何もしてないよ」
「良かったらBar Asamiに行きません? 記者会見を一緒に見ましょうよっ」
「いいね、髪ボサボサだけど、行くわ」

電話を切ると、すぐに芸能ニュースを調べてみた。Twitterでのトレンドにもなっていた。
「ヒョちゃん引退」「ヒョンマジ」「ヒョンソク結婚」「ヒョンソク事故」
理由はなんだろう? 私はBar Asamiのママに連絡し二席予約をし、席を確保した。シーノウズは、夜のお客さんの予約はなかったので、これは、タイミングが良かった。

18時になった途端、私は石山君より先にお店を出た。下に行くとBar Asamiの正面のドアを開けて、すぐさま言った。
「ママ、早く来ちゃった」
ママは、何も言わす右手をあげた。

私は、手前の壁際の席に座ったと同時に、ママがおしぼりを持って来てくれた。そういえば、立ち退きの連絡もらってから、ママとも話をしていなかった。
「悠莉奈さん、大家さんと会った?」
「うん・・・ママ、どうする? 私、何も決まってないの・・・」
こくりとママはうなずいた。次の言葉がお互い出なかったので、私はメニューを見ながら壁にもたれた。そうしたくて、壁際の席にしたからだ。
すると、サーモンピンク色の写真集が私より先に壁にもたれかかって置かれている。10周年の時に石山君にもらった写真集と同じ色だ。手に取ると(ウェス・アンダーソンの世界 ザ グランド・ブダベスト・ホテル)と描いてある。
「ママ、これ観てもいい?」
「いいよー」
その本の表紙を見て、私の瞳孔は開いた。このホテル見た事がある。
「ママ、これ何?」
「あ、ウェス・アンダーソン知ってる? その人の前の映画の本だよ。9月に新作の映画が出るから楽しみでね、家から持って来てたの」
「あ、うん・・・・」
これは、確か・・・ママの話は途中から耳に入らなかった。梨沙さんの脳図を観た時に出てきたホテルだ。うん、確かにそうだ。じっと見入ってしまったピンクのホテルだ。まさにこれだ。
そうか、梨沙さんの脳図はこれか。観た映画のシーンだったのか。ペラペラとめくり、答え合わせをする。そこには、私の観た映像と同じ写真が全部載っていたのだ。
「悠莉奈さんも好きなのかな?」
私は、脳図の事を私の脳内で想像していたので、質問をスルーしてしまった。

ドアが開いた。

私とママがドアを見ると、きな子さんが、髪を一つに束ねて立っている。
確かに白髪も増え、髪はボサボサだ。そして、以前よりふくよかになっていた。ゴムのスカートにデロッとしたシャツ。メイクもしていなかったので、見た目が10歳くらい老けてしまっている。
「きな子さん、どうしました? 元気でした?」
私は椅子から立ち上がって、手をきな子さんに差し伸ばした。
「悠莉奈ちゃん、元気じゃなかったのー」
そう言って近寄って抱きついてきた。続けて、きな子さんは震えた声で
「同棲していた彼氏と別れたのもあってね、ホルモンバランス崩れちゃってた・・・」
「いや~ そうだったんですね」
私はボサボサの髪を整えるように頭をなでた。側にいたママは、きな子さんの身体をギュッと抱きしめた。きな子さんの身体は私達が支えないと、崩れてしまいそうだ。

「私の仕事、あと何年かすれば、きっと無くなっちゃう・・・」
きな子さんの口からは、仕事の不安も溢れ出る
「どうして?」
と私が聞くと、再び、声を震わせて言った
「もう、誰もが簡単に建築CGが描けちゃう時代だし、画像生成AIとかChatGPTとか、Midjourneyとか・・・」
きな子さんが、肩にかけていた自分のスマートフォンを出し、何か画像を探している。
「ほら、これ見てみてよ」
見てと言って、私達の顔の前に出して来たのは、綺麗な美容室の写真だった。
「うわっ、すごいやん。これ美容室?」
ママの関西弁が久しぶりに出た。私は、何がすごいのかが解らなかった。
「すごいでしょ? 「CGクリエイター/来店/美容室」ってキーワードで、言葉を入れたらこんな画像が、数秒で出来上がるのよ」
「大丈夫ですよー、大丈夫、きな子さんなら、大丈夫ですよ」
私はそう声をかけると、ママと目を合わせて、二人の手で背中をさすった。きな子さんの目から涙がポロポロ出ていたから、根拠もないが、大丈夫という言葉が出たのだ。

「実は私達も、大家さんから、立ち退きの話をされたんですよ。ね、ママ」
「渋谷の開発、猿楽町までとうとう来たで」
きな子さんは、涙が頬についたまま、両手を口にあてた。
「そっか、この建物なくなっちゃうのね。どうするの?」
「まだ決めてないです・・・」
私は素直に伝えると、ママは何か言いたそうな顔をしている。
「ママは?」
きな子さんが、さらっと質問した。
「私、きな子さんがこんな時に言いにくいんだけど」
・・・
「何、何? 気にしないで言ってよ」
きな子さんの目は細くなって、眉間がこわばった。私も目が細くなった。
「実は結婚する事になりまして・・・」
「えええええええっ」
私ときな子さんは、椅子から落ちた、まるでコントのように。
「誰、誰だれと?」
「いらちやなー、話すから、待って待って」
いらちとは、たまにママが言う言葉で、関西弁で、せっかちみたいな意味だったと思う。その時、ピピピッとオーブンが鳴った。まるで、仕掛けていたようなタイミングだ。
「あ、本当に後で話すね」
そう言って、その場を去るママを見て、私ときな子さんはニヤリと目を合わせた。きな子さんの目からの涙は止まっていて、今は瞳孔が開いていた。
気になる事が多すぎて、頭がついて行けない。とりあえず、本当にというので私達は、ママの言葉を信じた。

お店の時計を見ると、もうすぐ19時になるところだった。話の途中だったが、私ときな子さんは、落ちた椅子に再び座って、スマートフォンから、ヒョンちゃんのインスタグラムを開いた。記者会見と言っても、自分のインスタグラムのライブでやるとついさっき知ったからだ。

19時ピッタリ。ヒョンちゃんが映った。どこだろう?
ホテルの部屋? きっと、ロッテホテルだ。
視聴者の数は、どんどん伸びていく。あっと言う間に、3万人の視聴者になった。

私ときな子さんは、お互いのスマートフォンで視聴した。

「みなさん、こんにちは。イ・ヒョンソクです。
今日はみなさんにお伝えしたい事があって、突然ですがライブをはじめました。
ご視聴してくれている皆さま、ありがとうございます。僕は、芸能界を引退する事になりました。沢山のファンの皆さまのおかげで、ここまで来れました。歌、ダンス、俳優と沢山の事が経験できました。本当にありがとうございます」
私もきな子さんも、黙って見入った。ママもスマートフォンで視聴している。

「芸能界を引退する理由ですが、やりたい事が出来てしまったからです。ある映画との出会いから、僕は出る側から、作る側の仕事がしたくなりました。CG制作がしたいのです。
それは4年前に日本に行った時に出会った人たちの影響もあります」

手から汗が湧き出てくる。
その汗まみれの手で、私はきな子さんの手を握った。
きな子さんも汗をかいていて、その手で、私の手を握り返してきた。

「みなさん、これからは僕が作った作品でお会いしましょう。いつになるかわからない。けれど、たった一度の人生なので、やりたい事をやろうと決めました。どうかみなさん、心も身体も元気でいてください」
うんうん、私はうなずいた。奥でママもうなずいている。
きな子さんの目からは再び、涙があふれていた。
最後に、ヒョンちゃんが大きく手を振った後、ライブ中継は終わった。

その後、私達はお互いのスマートフォンを閉じ、また近くに集まり、ものすごい勢いでおしゃべりがスタートした。
「ちょっと、ちょっと」
「やばい、鳥肌たってる私、みて」
「私も」
「これって~、彼の人生に私達、かなり影響してませんか?」
「してる、してる、シーノウズが彼の人生を変えたよ」
「本人がさっき、そう言ってたじゃん」
「確かにそうですよね、やりたい事をやらなくてはですよね」
「人生あっと言う間だし」
「それにしても、ヒョンやるなー」
バーッと、同じ言葉ばかり出ていて私達三人は、身体も揺れながら話していた。おしゃべりも身体も、どっちも止まらなかった。

「あーあー、くよくよしてた私ってバカみたい。さっきの私、今すぐ忘れて」
と、さっきまで廃人のようだったきな子さんが、髪をかきながら叫んだ。
「あ、それでママ、誰と結婚するのよ。そういえば、なっちゃんも子供が生まれたみたいよ」
きな子さんが、思い出して声を荒げて言った。本調子に戻ってきたのだ。きな子さんのアクセルは全開だ。
「あら、なっちゃんがお母さんになるのね。私の結婚? じゃあ、今からここに呼ぶね?」
「うん、呼べるんですか?紹介してください」「紹介してして」
当たり前だ、呼べ呼べと、私もいらちになった。
「だよね。そうするね、あと、何かお酒頼んでよ。ここはバーよ」
そういえば何も頼んでいなかった。
あはははは 私達は、口を大きく開けて笑った。
やっぱり、笑うのはいい。マスク外して大爆笑最高。私ときな子さんは、生ビールを注文した。

やりたい事か・・・

立ち退きが迫っている中、私も決断しないといけない。石山君の意見も直接は聞いてはいないし、自分の親にも、長年付き合っている彼氏にも、向き合って話をしていなかった。
ヒョンちゃんに影響を与えたシーノウズは、「かわいくかっこよくしか出来ない」以外にも色んな事が出来ている。それは、場所が変わっても出来るはずだ。いや、場所など持たなくても出来るのではないかと、私の心は沸騰してきた。新たな道が開ける予感がしてきた。

「ママ、石山君もここに呼んでもいいですか?」
「もちろん」
「そしたら、林夫婦も呼ばない?」
きな子さんも勢いよく提案してきた。
「あ、いいですね」
私は石山君に連絡をした。まだ近くにいるだろう。きな子さんは梨沙さんの連絡先を探した。
すると、梨沙さんに連絡をする前に、きな子さんの電話が鳴る。
「あ、梨沙さんからだ」
そう、私達に教えてから、電話に出た。
「あ、梨沙さん? そう、今、Bar Asami。うん、分かった、20分後?」
ママは、グラスを持ったままで、まだビールはグラスに注がれていなかった。きな子さんは、電話を切った途端、言った。

「なんかね、実はここに向かってるんだって。しかも、ヒョンちゃんも一緒なんだって」

「それって・・・」
三人で顔を見合わせた。

ママはグラスを置き、私はきな子さんの肩をつかんだ。
「きな子さん、このボサボサの髪、やばいですよっ」
きな子さんは、ハッとしていた。自分のやる気のない風貌を忘れていたのだ。
「確かに、服もメイクも全部最悪じゃん。悠莉奈さん、お願い助けて」
「はい、私、かわいくかっこよくしかできないので」

私ときな子さんは頼んだビールの事も忘れて、すぐさまシーノウズへ飛んで行った。白髪は秘密の粉で隠し、前髪をホットカーラーで巻く。その間にメイクをした。そして、ヘアーワックスを付け、ゆるっとした髪を無造作だけど、おしゃれな感じに束ねてあげた。
10分で完成した。私の手にかかれば、あっという間に、かわいく変身だ。

心と身体はつながっていると言うが、髪も心とつながっている。
きな子さんは、一気にあか抜けて、顔の表情が見違えるほどかわいくなった。そして、笑顔が止まることなく、Bar Asamiに戻ると、なんと、ママが、洋服を持って待っていた。
「きな子さん、良かったらこれ着て」
綺麗なうすいグリーンのワンピースだ。これで元のきな子さんに戻れる。ジャスト20分。ママが奥の化粧室で着替えるよう伝えると、きな子さんはワンピースを持って化粧室に入った。

ブウォーンッ ブウォーンッ

車の走る音とともに、店の前が一瞬、パーッと光が差した。
車のライトに照らされて入って来た人のシルエットは、数人が重なっていて、なんと、同時に全員集合したのだ。それにしても、バッタリ同じタイミングだったのだろう。
石山君、明さん、梨沙さん、その後に背の高い人が二人。
ヒョンちゃんだ。
ヒョンちゃんの後にいる人は・・・

は、と、あれ?
EPIC HAIRの関さんまで来ている。
カウンターの席は、瞬く間に満席状態になってしまった。
そして、化粧室からワンピース姿のきな子さんが出てきた。その瞬間、1つ席が足りない事にみんなが気づいたのだ。

すると、ママが
「けんちゃん、こっちの中に来てっ」
と、厨房に誰かを呼んだ。今、なんて呼んだ?
私ときな子さんは、二人して目を大きく見開いた。
関さんがカウンターの中へ行こうとすると、再び、ママが声を出した。

「悠莉奈さん、きな子さん、彼が私の結婚相手なのっ」
と指差す先には、EPIC HAIRの関さんがいるではないか。
驚きとともに、知らない間に、こんな出来事が進行していたことに気づいた。まるで、舞台裏で起こるドラマのようだ。きな子さんも、石山君も、林夫婦達もその内容を理解して、驚きを共有した。喜びと祝福の気持ちを込め、みんなで大きく拍手を送った。

石山君は、指笛を鳴らしていた。私も大きな声で、みんなに言った。
「今夜は、シャンパンにしちゃいませんかー?」
と、提案したのだ。
すると、ヒョンちゃんが、更に大きな声と、手を高く挙げて
「僕がおごります! あと、ここでもう一つ!」
おごってくれる事で拍手をしようとしたが・・・ヒョンちゃんを見ると、あともう一つと、人差し指を立てている。まだ、何かあるのだろうか? これ以上、何があるのだろう?

ヒョンちゃんは、明さんと梨沙さんの間に入り、
「みなさーん、私の就職先の社長さんと、副社長さんでーす」
と言って、林夫婦の肩を大きな手で包んだ。
「そうなのー、スタジオエイトで一緒に仕事する事になりましたー」
梨沙さんが言った。
今度は、関さんが指笛を鳴らす。重ねるように、石山君も指笛を鳴らすと、歓声と大きな拍手が店に響き渡った。シャンパンが注がれ、私達は、乾杯の杯を何度も何度も交わした。しかし、まだまだ聞きたい事や、改めてお祝いしたい事が沢山ある。あり過ぎるのだ。
まず、さっきのインスタグラムのライブ中継の場所は? ロッテホテルではなかったのだ。それならば、どこだったのか? とか。ママはいつから、関さんと? とか。梨沙さんも何で黙っていたの? とか。 一つ一つ答え合わせをせずには居られない・・・

そして、私は、一番答えを聞かなくてはならない大事な人の存在に、気が付いた。さっきから指笛を鳴らしている石山君だ。
「石山くーん、こっち来てー」
私は、手を招いて、自分の席に呼んだ。
石山君は、シャンパンの入ったグラスを持って来て、私の隣に座ると、
「篠塚さん、やばいっすね。楽しいっす」
私は、微笑みながら、石山君に聞いてみた。
「ねえ、石山君は、シーノウズ立ち退いた後は、どうしたいの?」
考える間もなく、石山君は即答した。
「篠塚さんの決めた事に付いて行きますよ。僕の事は知らないんすか?」

「イッシーknows…」
私は、ボソッと言って、彼の肩に手を置いた。

「僕、篠塚さんとやる新しい美容室の設計を考えながら、3ds MaxでCG作ってるんすよ」
「石山君、3ds Max使ってるの?」
「はい、きな子さんの本を見ながらやれば、簡単っす」
「ほう」
と、私は言った。
嬉しさがあまりにも溢れて、私の脳内はそれに追いつくことができなった。

みんなで集まってお酒を飲むパーティーは、いつ以来だろう。
それが、お祝いの場であるなんて、最高の瞬間である。

私は1年後、「She knows…」のオープニングパーティーを開催することを心に決めた。その時は、CGクリエイター達を招待して、彼らにプレゼンをしてもらおう。今からワクワクが止まらない。この未来のイベントに胸躍らせているのだ。

                完


最後まで読んでくださりありがとうございました!
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