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ポーの一族宝塚版・梅芸版比較

 金曜の夜、宝塚版を復習し、土曜の梅芸版ライブ配信を観た。金曜夜時点で宝塚版はなんということをしでかしているのだ、これは宝塚100年超における第三革命だ、と思った。配信を観終わってその気持ちはさらに強くなっていて溢れる思考を止められない。昨日の夜から今日丸々ポーの一族に支配されてしまっている。頭がいっぱいいっぱい。書いてしまわないと何もできない。本作品は「比較・批評どんとこい」という小池修一郎の意図を感じたので思ったままに書いてしまう。

脚本・舞台構成

 宝塚版と梅芸版はほぼ同じプロットで、梅芸版では少しセリフや歌が足されていた。宝塚は最後にレビューを入れるからどうしても尺に限りがある。あのレビューがあるからどんな悲劇でも最後「宝塚を満喫した」という幸せな笑みに昇華されるのだけど。
 梅芸版では最初にエドガーがアランを仲間にしようとする場面が丁寧に描かれ、メリーベルが「アランはまだこの世に未練がある」と訴えかける場面に切実さが増していた。マーゴットのお父さんとレイチェルの会話も増えていて、アランが怒る理由もわかりやすい。総じて初見の人に理解しやすいのは梅芸版だと思う。

 宝塚版と梅芸版をほぼ同じプロットでやる、というのは小池修一郎の勇気と度胸に恐れ入る。俳優的には絶対嫌なはず。公演が途切れることなくずっと舞台稽古を続けている俳優ばかりの宝塚において鳴り物入りで花組が本気出した宝塚版は初演にしてクオリティがとんでもないことになっている。梅芸版俳優にとっては宝塚版と同等のクオリティに持っていかないといけないし、その上で梅芸版らしさを足さないといけないし、観客に比較されるのは目に見えているし、コロナ禍で舞台稽古にも支障があっただろうし、難題すぎる。
 梅芸版のキャストは皆ミュージカル俳優なわけではないし、ミュージカル俳優だったとしても常に仕事があるわけではない。千葉アランはそもそもミュージカル初出演、歌ったことがない。明日海エドガーが歌うま過ぎてデュエットは申し訳ないけど耳を塞ぎたくなった。夢咲シーラも特に最初の歌では歌うのに一生懸命になってしまっている感じで、仙名シーラに軍配が上がった。
 こんな批評が生じるのは目に見えていたなか、プロットを変えなかったのは小池修一郎のポーの一族の世界観に対する執念なのだろう。例えばロミジュリは宝塚版と梅芸版で全然違う作品になって、それぞれの良さがある。ポーの一族は、そういう方向にはきっと持っていけなかったんだろうな。

 あと、連日観たからこそすごく気になってしまったのが、宝塚版と梅芸版で舞台の使い方が左右逆になっているシーンが多かったこと。皆が出たり入ったりする方向が左右逆。何か意味はあるのか……? 単に舞台の違いから生じる問題?

キャスト

●エドガー 宝塚版・梅芸版とも明日海りお
 100点満点で500点くらいな感じ。宝塚版も、梅芸版も。今回微調整は加えてきてるけど、ほぼ同じエドガーがいた。人間の時、バンパネラになったけど受け入れていない時、アランを仲間に入れようと考え始めた時、皆が消えた時、演じ分けがよりはっきりしていた。歌は世界中に届くのではと思うくらい伸びて伸びて際限を知らない。美しいきれいな声をボリュームを持って出せるのは持って生まれた声とそれを磨き続けた努力の賜物。というのが横のアランとの比較で痛いほどわかった。そして目の演技が凄かった。目の色を消す技、曲に合わせてキッと動かす眼球の位置、瞼のコントロール。何の神経を何の筋肉を使っているのか、怖くなるほど繊細に身体を制御していた。それをドアップで抜くカメラワークと相まって、生で観劇するよりある意味すごいものを観た感が強い。
 この人は性別や個性を消して「何ものでもない」中庸の存在になることに成功している。「何ものでもない」ところに役を入れている。俳優は若手の時から個性を出して目立っていかないと、仕事が来ないしいつまで経っても端役のままだ。それはもちろん宝塚でも同じで、若手は観客や先生に一目置いてもらえるように必死になる。でも不思議と明日海さんは個性がない。
 私が宝塚にハマったきっかけの新源氏物語では完全に光源氏がそこにいた。「明日海りおの演じる光源氏」ではなく、完全に光源氏の概念が明日海りおの身体を通して顕現していた。わかりやすいのはエリザベートのトートで、朝夏まなとがやったら「朝夏まなとのトート(ロックンローラー)」、珠城りょうがやったら「珠城りょうのトート(愛希シシィを引き立てるガタイの良い人間)」となるところを明日海りおがすると「死」という概念が現れる。
 何ものでもない存在になるのは多分数多いる役者の世界でも難しいことで、宝塚の男役というシステムの中で「性別を超える」ことのできた人、さらにその中でごく限られた僅かな人が行き着く先なのかもしれない。天海祐希さんも同じような匂いを感じる。

●アラン 宝塚版:柚香光 梅芸版:千葉雄大
 アランはもうなんか……いろいろ難しい。両方に共通するのは、良家の子息が我儘高慢に育った感じ、というのがうまく表せていない点。花男のF4に近いけど、まだ中学生くらいで子どもっぽさが必要。
 千葉アランについて、まず歌ったことのない人を明日海さんの隣に立たせるのはちょっと酷ではないでしょうか。声が野太すぎる。男性でもトレーニング次第できれいな声が出るので、古川雄大さんや三浦涼介さんが演じたらどうだっただろう、と思う。でもたしかに、ビジュアルは良かった。薄い顔、童顔、金髪ストレートヘアで中学生感は出ていた。あの雰囲気が出せる大人の役者はなかなかいない。童顔というと小池徹平さんが思い浮かぶけど、ちょっと違う。
 あと千葉さんは多分、素がかわいい。幕が降りた後のトークで明日海さんから「アラン以外で何の役やりたい?」と聞かれて「メリーベル」と答えていた。えぇ?! ってなるけど明日海さん的にはやっぱり! という感じだったらしく、余計えぇ?! となった。多分根からかわいい人で、そこも見込んで小池修一郎が選んだような気がする。でも肉体が男なので野太い声が出てしまってむしろかわいそうなのかもしれない。勝手にかわいいとかかわいそうとか言ってごめんなさい。

●メリーベル 宝塚版:華優希 梅芸版:綺咲愛里
 あーちゃん。このキャスト発表された時から綺咲メリーベルは適任すぎると思ってたけど、案の定ふわふわのブロンドに浮かぶ困った顔が似合いすぎる。ピンクのフリフリドレスも似合いすぎる。声の幼さも良い。ああいう純粋な少女がとても似合う。華優希さんも十分良かったけど、やはり倒れ方や少女時代とロンドン時代の演じ分けは綺咲さんの方が上手で、キャリアの差を感じた。
 男爵とシーラの口づけを見てしまうシーン、宝塚版ではエドガーがメリーベルの目を塞ぐけど、梅芸版は見ちゃう。わぁっと目を見開いたあーちゃんの可愛さ……。
 メリーベルがクリフォードに十字架を投げつけられ怯えるシーンは、華さんの演出の方が私は好きだった。宝塚版はメリーベルがしゃがみ込んでしまってただ震え叫ぶだけで十字架には手を伸ばすこともできない。一方梅芸版ではメリーベルは怯えながらも立って、十字架に手を伸ばそうとする。梅芸版の方が少しは成長した雰囲気が出ているけど、わかりやすく怯えるメリーベルもありだったのではと思う。まぁ初見の人からしたらあまりにも幼過ぎて抵抗を感じられる、と配慮した箇所なのかもしれない。

●シーラ 宝塚版:仙名彩世 梅芸版:夢咲ねね
 シーラは甲乙つけることができない。総合評価では仙名さんに軍配が上がるけど外の舞台ということを考えると夢咲さんの演技にも納得のところが多い。
 仙名さんはトップ時代の一番のハマり役がシーラだった。キャピキャピしたトップ娘役ではなくて、着実にキャリアを積み重ね実力を磨いた演技派。こういうトップ娘役が1人いると5組全体が引き締まって良いよね。例えば今の星組が若さ、勢い、才能でスパークしてるのに対し、明日海・仙名時代の花組は濃厚実力派で匂い立つ雰囲気があった。そんな仙名シーラはメリーベルとの対比で「大人の女性」の役割であり、エドガーとメリーベルの母という設定である。まだ20歳ながらもポーの一族の状況を深く理解し、エドガーの気持ちにも理解を示した上で母の慈愛を体現しようと努力していた。声の深みに、エドガーという子どもを包み込む大きさがあった。
 一方夢咲シーラは20歳という年齢に重みを置いたのか、エドガーとのやりとりがどこか姉vs弟のような雰囲気になっていた。「ゆうるりと、ゆうるりと」の歌や「あなたは後悔していないの?」「どうして? 私は望んでポーの一族に入ったのよ」というシーン、仙名シーラと夢咲シーラでは全然違う。素っ頓狂な声で「どうして?」と聞く夢咲シーラはどこかエドガーへの諦めを感じた。もう構ってられないわよ、って。
 シーラがメリーベルに対する大人であり、母であることを考慮すると私は仙名シーラの演技の方がリアリティを感じた。男爵が一族に加えようと選んだ娘なのだから頭が悪いはずがなくて、特殊な一族に加わってもうまくやれるだけの器量の良さがあったはず。
 クリフォードをターゲットに決めた後のシーラは、梅芸版の演出の方がわかりやすかった。海辺の小屋に向かう前に男爵と眼くばせするシーンや、大袈裟な雷の怖がり方。品のある女性ならいくら怖くても肩に腕を回して抱きつくようなことはするかなと思ったけど、わかりやすさはある。初見の人への配慮か。
 夢咲さんが圧倒的勝利を収めているのは、美。婚約式で老ハンナ様からエナジーを送り込まれ倒れ込んだ時のデコルテから首筋、小さなお顔の美しさといったら……! 息を呑んだ。梅芸版の方が数え切れないくらいシーラの衣装がふんだんで、どれも夢咲さんの美しさを存分に引き立てていた。
 
●ポーツネル男爵 宝塚版:瀬戸かずや 梅芸版:小西遼生
 瀬戸さんがすご過ぎて……。男爵は宝塚版の方が良かった。小西さんは歌や台詞から伝わってくる感情が足りない。改めて瀬戸さんの感情のコントロール、感情を声に乗せる技がすごいんだなと気づいた。エドガー「あなたの血を吸ったら僕とあなたの関係はどうなるの? 仲間? 親子?」男爵「一族だ!」と一喝するシーン、瀬戸さんは凄味だけでなく、一族を想う気持ちが表れていた。勢いだけではだめなんだな。
 キングポーに「なんだその悪趣味な衣装は」と言われるシーンは梅芸版の衣装の方が悪趣味。
 
●老ハンナ様/マダム・ブラヴァツキー 宝塚版:高翔みずき 梅芸版:涼風真世
 涼風さんもキャスト発表時から適任すぎると思ってて全く期待を裏切らず、「昔は妖精、今妖怪」のキャッチフレーズからしてハマり役。特にマダム・ブラヴァツキー。夫情報によると、当時のロンドンでは本当に降霊術が流行っていてコナン・ドイルとか著名人も参加していたらしい。マダム・ブラヴァツキーも実在の人物。
 老ハンナ様は、高翔さんが温かいおばあちゃんなのに対し、涼風さんは気品に満ちた役作り。プライドある一族の要人らしさが表れている。

●キング・ポー 宝塚版:一樹千尋 梅芸版:福井晶一
 ジャンバルジャンがキング・ポーやってるww と思わずにはいられなかった。低音バリトンボイスが素晴らしくて、流石としか言いようがない。一樹さんももちろんすごかったけど、こういう役は男性がやるからならではの魅力がある。

●医師クリフォード 宝塚版:鳳月杏 梅芸版:中村橋之助
 女性に人気で非科学的なものを信じない医師、という役柄を実直に表現。妙に鳳月さんと橋之助さんの顔や雰囲気が似ていて、不思議な感覚だった。きっと役をわきまえているということだろう。
 橋之助さんは歌舞伎役者かつ宝塚ファン。お正月のNHKの番組ではいかに宝塚が好きかを熱弁されていて、この作品に出るのはきっと夢心地だっただろう。声の出が良くて、見て聞いて気持ち良いクリフォードだった。

●ジェイン 宝塚版:桜咲彩花 梅芸版:能條愛未
 桜咲さんの抑えた演技がすごく良かった。能條さんは少し現代の女の子っぽ過ぎたか。ジェインにはシーラに「あの娘、気に入りましたわ」と言わしめる奥ゆかしさ、上品さが必要。ただ大人しいだけではない。加えて当時の雰囲気を出すにはメイクも変えないと、何となく今のファッション誌に出ていてもおかしくない顔に感じた。
 
●レイチェル 宝塚版:花野じゅりあ 梅芸版:純矢ちとせ
 どちらも魅力的なアランのお母様でございました。梅芸版ではレイチェルのシーンが足されていて、そりゃあクリフォードもハロルドも堕ちるわという魅力が出ておりました。
 
●ハロルド 宝塚版:天真みちる 梅芸版:?
 天真みちるさんは退団されて、少し前までcakesで連載をされていた。ポーの一族についてもいろいろと書かれていたのでその情報も相まって、温かく見守るように観た。梅芸版はレイチェルのシーンが増えたこともあり、人間味に溢れていた。階段から落ちるシーンは宝塚版の方がきれいに見えたかな。

●マーゴット 宝塚版:城妃美伶 梅芸版:?
 しろきみちゃんもう少し長くやってほしかったな……! 退団後のインタビューでかなり役を憑依させるタイプのような発言があり、宝塚の娘役は肉体的精神的に大変だったのだろうなと思う。アランの許嫁の年上の女の子という役柄を濃く、濃く演じていた。梅芸版でも感情の起伏の激しい女の子がよく表されていて良かった。にしてもアランに上から目線で「もうすぐお金持ちのみなしごになるんだから」とドヤすのは言い過ぎよな。子どもは時に残酷。

●お花屋さんのディリー 宝塚版:音くり寿 梅芸版:?
 音くり寿ちゃんもかわいすぎてもう……! ポーの一族では新たな魅力まで見せてくれた。エドガーに血を吸われるシーン「(血が)まだ止まらなくて……」という台詞を言いながら、言ってる途中に、どんどん妖艶な雰囲気に変わる。数秒に過ぎないシーンがとんでもない長い時間流れたように感じる。強烈な雰囲気の転換があるからこそ、エドガーが血を吸ってしまったことに自ら驚き恐怖するシーンがリアリティを増す。梅芸版はバラを落とすシーンや「ありがとう」というタイミングがずれていて、最後まで改善を続けてほしい。毎回うまくいくわけはないよね、とわかっているから。

●アンサンブル
 梅芸版も宝塚版に負けない人数で、充実したアンサンブルだった。特に男性がバレエ経験者が多いのか跳びまくってて、跳躍の高さに驚く。女性では美麗さんが背高くてすごい目立ってた。宝塚版は帆純さんだったかな? ガチのバトントワリングが一層花を添えていた。

ポーの一族は宝塚における第三革命

 宝塚における第一革命はベルばらで、トップ男役・娘役コンビではなくトップ男役・二番手男役が主役という形を作り出した。さらに女性が男性を演じる宝塚で女性が男性に扮したオスカルをトップ男役が演じるというなんかもう頭がこんがらがる設定を生み出した。この混乱、動揺、不安というのは魅力を生み出す正体である。ただのきれいな女の子に惹かれないのと一緒で、ミステリアスな理解不能な超越した部分があるからこそ生身の人間が演じる舞台に魅せられてしまう。ベルばらにおいて「性別の撹乱」という手法で宝塚は第一革命を起こした。
 第二革命はエリザベートが起こす。こちらは「人ならざるもの」を主役にすることで、舞台表現の幅を広げた。元のウィーン版の意義が大きいが、ウィーン版のトートはシャツに黒いパンツと人間っぽい。より死という概念に近づけた宝塚版の功績は大きい。
 ポーの一族は「性別の撹乱」と「人ならざるもの」を組み合わせて主役に仕立てているので、ベルばらとエリザベートの文脈を強く受け継いでいることがわかる。これは100年以上舞台を続ける歴史ある劇団だから成せる業だった。細かい演出でもベルばらとエリザベートの影響を強く感じる。 男役が2人並ぶ構図はベルばらそのもの。 ポーの一族の最初の群舞はまるでハプスブルグ家のよう。トートダンサーのようなエドガーダンサーがいる。エドガーがアランをバンパネラにしようとしてメリーベルが「やめて! まだこの人未練があるわ」と叫ぶシーンは、トートがエリザベートを黄泉の世界に連れて行こうとして拒まれるシーンを想起させる。ラストシーンはベルばらと同様のゴンドラ。
 さらに明日海さんはベルばらもエリザベートも経験し、大成功させている。この経験は絶対エドガーの役作りに影響しているだろう。宝塚のトップでもここまでの人はなかなか出てこないわけで、やはり明日海りおでないとエドガーは見れない、ポーの一族はできない、ということになると思う。

男女の舞台でポーの一族をする意義

 小池修一郎が述べている通り、 梅芸版で明日海さんをエドガーに配置し、実現させられたという事実に社会の変化を強く感じる。少し前まで宝塚ですら「女の人が男の役やってるとか気持ち悪い」という意見が一定数あったにもかかわらず、急速に社会は変化し「一般の舞台で女性が男性、しかも少年を演じる」ことが受け入れられた。萩尾望都先生が原作を描いた頃にはとても一般社会で受け入れられなかっただろう……。そんな時代に原作描いている先生、本当にすごい。
 そして男女がいる舞台だからこそ、また宝塚に比べ(ショーがない分)尺が長いからこそ、丁寧に描き深みを増したシーンが多い。演出できる幅が広がって脚本家もやりやすいだろうし、観客にとっても理解しやすくなっている。

さいごに

 幾分梅芸版に辛口な箇所が多かったような気がするけど、私が見た宝塚版は東京千秋楽(=完成度MAX)、梅芸版は1/23マチネ(=今後も公演多数)で梅芸版もこれから間違いなく進化する。
 小池修一郎が作る美の世界、一幕ラストの盆が回りながらエドガーの歌に乗せて全てのステークホルダーの思惑が交錯する場面、全ての要素を漏れなく組み入れつつ世界観をまとめあげるシーンに最も顕著に表れている。あの美の世界が1回でも多くこの世に現れますように。目撃する人が1人でも増えますように。
 他のミュージカルがバタバタと休演になっている中、奇跡的に感染者を出さず公演を続けている。もはや感染対策に気を遣っていても感染する状況で、多数のスタッフが関わるミュージカルで感染者が出ていないのは奇跡としか言いようがない。どうか千秋楽まで公演が続けられますように。 

《終わり》

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