家では他人の悪口を頻繁に言うのに、一歩家の外へ出るとそのような素振りを一切見せない母だった。小柄で童顔な彼女は、周りから「可愛らしいお母さん」などと言われていた。賢い人だから、余計な発言や噂話は絶対にしない。他人を信用していないからこそ、自分の話もしない。でも聞き上手で口が堅いから、他人からは信用されていた。大人しめで一歩引きつつも、誰にでも感じよく、にこやかにできる人だった。PTA系のお手伝いなどはテキパキとこなし、学芸会の衣装や幼稚園グッズなども頼まれて作ることが多く、感謝されていた。運動も得意で、幼稚園の父母リレーでは余裕で一位になるような人だった。母は大嫌いな人と関わる時も、そのような素振りを見せることはなかった。本当に器用な人なのだ。しかし、家に帰った途端、イライラを爆発させる。一人っ子の私は、幼い頃から母の毒吐きの受け皿だった。
完璧主義の母は、すべてにおいて完璧を追求した。家事、内職、頼まれごと、すべてを完璧にこなしていた。母は専業主婦だったが、それはそれは忙しくしていた。私が学校に行っている間は毎日、母の祖母の家に電車で通い、身の回りの世話をすべて引き受けていた。さらに、実親や実姉、親戚からの依頼もこなしていたのだ。
昔は、嫁ぎ先でこのような扱いを受けることはあったと思う。ただ母の場合は、義理の両親ではなく、血縁とのおかしな関係があった。そこでは、なぜかいつも母だけが召使いのように働かされていた。母は、結婚する前まで働いていたし、外で仕事をする能力がある人だったと思う。母の友達には働く女性が多かったし、そもそも母の実母は、私が小学生のころまで現役でバリバリ働いていたくらいだ。そういう環境だったから、母が働き続けていたとしてもおかしくなかった。むしろなぜ仕事を辞めたのか。結婚して専業主婦になったように見えていたが、本当は実家やその親族のサポート役に回るためだったのではないか。結婚後も出産後も、実家と親族からの要望に応えながら生活していた母もまた、彼らとの共依存とその支配から逃れられない被害者だった。
過去のエピソードにあるように、私は毎日のように母から怒られ、物事を禁止され、価値観を押し付けられてきた。でも、私が感じていた不満はそれだけではなかった。大人になった今、それがよくわかる。それは、母の愛情がいつも私ではなく、母の実家に向いていたということだ。実家というより、母の実母、私の祖母へと向いていた。だから母は、祖母の役に立つためになら何でもやっていた。祖母のためならと、実家やその親族のために日々奮闘していたのだ。
相当な疲労だったと思う。それでもなお、家に帰ると今度は家のことを完璧にこなす。鬼のように家事と内職をこなし、私の行動を管理し、徹夜で私の洋服を作ってしまうような人だった。そんな生活をしていて、ストレスがたまらないわけがない。実家への愚痴なんかもよくこぼしてはいた。でも最終的にそれらのストレスの矛先は、いつも出来の悪い私へと向いていた。まるで私が彼女の時間を奪っているかのように。
「お母さんは、あなたよりずっと小さい頃からおばあちゃまのために、家のお手伝いをしてきたの。おばあちゃまは苦労してきたから、少しでも楽をさせてあげたくて、何でもしてきたの。あなたは何もしなくていいからお気楽よね。」
言っておくが、私はどんなに母が厳しくて理不尽でも、母の帰りが遅いと事故に遭ったのではないか、事件に巻き込まれているのではないか、と想像しては泣いているような子だったのだ。母が病気で寝込むと、実は悪い病気で死んでしまうのではないか、と不安で夜も眠れない子だった。いつだって、自分のことではなく、父と母がずっと健康に長生きできるようにとお祈りしている子だった。母がどんなに他人の悪口を言おうとも、彼女の裏の顔を外でベラベラ喋るような子ではなかった。過剰な支配下におかれ、他の子供との差を感じ、劣等感や自信のなさ、不安感を常に感じているような子だった。
なのに、「お気楽」とは。これは何度も言われてきた言葉だが、まったく身に覚えがなく、返す言葉も見つからなかった。私はお気楽な子供時代を過ごしていたのだろうか?怒りとも悲しみともまた違う、あまりにも不可解すぎる母の言葉を思い出しては、今も困惑する。