私は幼い頃から母との関係に頭を悩ませており、母が作り上げた絶対的なルールに苦しめられてきた。母の価値観を徹底的に押し付けられ、自分の想いを否定されて育った私は、自己肯定感が低く、常に生きづらさを感じていた。集団行動は特に苦手で、数少ない友人との関係も微妙なものだった。思春期になると、私は母から逃げる方法を模索する。そして17歳の時、留学という国外脱出の切符を手に入れた。母が近くにいては私は完全に潰れてしまう。日本には二度と帰ってこないという気持ちでオーストラリアへ渡った。「逃げた」という言葉の方がしっくりくるかもしれない。
私にとって高校留学は特別に大変なものではなかった。語学の壁はもちろんあったが、母がいる家で暮らすことを考えたらいくらでも頑張れた。オーストラリアの公立高校では、Year 11(日本で言う高二)の途中から編入したにもかかわらず、一年半で全ての単位を取得し卒業。日本への帰国は全く考えていなかったので、そのまま現地の大学に進学した。私の場合、大学卒業と同時にある資格を得られたため、比較的簡単に永住権を取得することもできた。その後は就職したり転職したり、現地の人と変わらぬ生活を送ってきた。何よりもオーストラリアという土地が大好きだったし、ここでの12年間で私の心はかなり回復したはずだった。友達もたくさんいたし、昔の自分からは想像できないほど社交的に暮らしていた。
それでも、男女関係においては長年かなりこじらせており、その辺の悩みは尽きなかった。私はいつだって、母が絶対に許さないような相手をあえて選ぶように付き合ってきた。母の言葉を借りるなら、育ちが悪く、教養もなく、職業すらも不安定な男たちだ。そんな彼らと私の価値観はあまりにも違いすぎた。歯車が徐々にあわなくなり、最終的には彼らに振り回され、傷つき、別れ、それでもまた同じような男性に惹かれ、同じ事を繰り返していた。
前回書いた通り、私は2009年に日本に帰国している。男女関係以外は全て上手くいっていたはずだったのに。男女関係だって、一度別れてしまえば次に進めるのが私だった。だが、最後に交際した相手と別れる時は話が少し違った。彼が私に執着し始めたのだ。その言動からかなりの違和感を感じた私は、彼と同じ街で暮らすことがすっかり怖くなってしまった。
そんな不安定な気持ちを抱えて、今後のことを考えていた時、今度は母が私に頻繁に連絡を入れてくるようになった。この頃の私たちは表面上では、普通に連絡を取り合う仲ではあった。ただ何かを察したのか、母は私が不安定だったこの時期に、電話やメールでしきりに接触してきたのだ。誰か特定の人がいるのかなど、私の心がざわつくようなことを色々と言ってきた。きっぱりと撥ね付ければ良かったのだが、心が弱っていた私はすっかり母のペースに主導権を握られてしまった。ストーカーになりつつある元交際相手と、母からの過度な連絡の板挟みとなった私は、物事を普通に考えられなくなっていた。もう何もかもが嫌になり、一刻も早く環境を変えたいと思うようになった。
私が日本に帰国したのはその半年後だ。17歳の時、母から逃げてきた私は、12年後せっかく自分が作り上げてきた環境を全て捨て、また母の元へと戻ってしまうのだ。自由にきままに生活していたはずの私だが、母の存在からは完全には解放されていなかった。