【哲学とは目的地に行くための地図である】

「漫画の芸術性を語りたい」

学部3年生も終わりに差し掛かる頃、卒論のテーマをそろそろ決めないといけないってときに、ふとこの考えが頭をよぎりました。
僕は漫画が大好きでこれまでもたくさんの作品を読んできました。ドラゴンボール、NARUTO、ワンピースなどの少年漫画、NANAやタッチなどの少女漫画、美味しんぼや味いちもんめなどのグルメ漫画、東京喰種や進撃の巨人などの青年漫画といったようにジャンルも幅広いです。
僕に至福の経験をさせてくれた漫画たちの素晴らしさを伝えたい、この考えは前々からありましたが機会もなく頭の片隅に置いておく程度でした。そこに卒論という四年間の勉強の集大成ともいえる場に訪れ、これまで抱いてきた思いを学問研究に照らし合わせて発表してみたいと思うようになりました。
しかし、いざ研究を始めてみると、どうにも思うようにならない。それもそのはず

「漫画に芸術性などなかった」

当日学部四年生だった自分には分からなかったことですが、今現在も研究を続けているとこの考えの方がしっくりきます。
それはなぜか。芸術とは哲学だからです。哲学っていうと難しく感じるかもしれませんので、言い換えると、哲学=目的地に到達するための地図みたいなものです。

「哲学という地図は自分の考えを伝えていくために生まれていく」

誰しもまだ行ったことのない場所に行くのに地図なしで行くのは不可能に近いです。その場所に詳しいガイドを連れるか、目的地までの地図を持たないと、道に迷うのは当たり前です。これを学問に置き換えて考えると、哲学はまだ答えのない問題に無理やり答えを出すようなものです。もっというと、答えの出てない問題を論理的に考えていくための方法ということです。
古代ギリシャでは、人々は「万物の根元は何か」という問いにぶち当たります。タレスという人は「万物の根元は水である」と言いました。この人の言っていることが、今の科学常識からすると間違っているといえるでしょうが、当時からすると彼の考えは画期的でした。なにせ万物は神が構築したという考えが一般的だった世界で、水が根元だと言ったんですから。そして、彼がこの「万物の根元は水である」という1つの哲学=地図というものを作ったおかげで、論理的な思考と共に数学といった他の学問が発展しました。その他の哲学者も彼の考えをを証明するため、もしくは批判するために自身の哲学=地図を持ち未踏の地に挑んでいきました。その成果が今現在僕たちが享受している学問たちなのです。

「漫画とは作者の表現手段の1つでしかない」

人間誰しも自身の考えを表現するときには色々な媒体を駆使して伝えます。それを伝えるために文語や口語といった原初的なメディアを用いて、SNSのようなソーシャルネットワークや新聞、ラジオ、テレビといったマスメディアなど多様な表現の発表手段のなかから最適なものを選び世に送り出そうとします。漫画もその多様な表現手段の1つでしかないということです。そこに描かれているものは究極的には作者の書きたいことなんでしょうが、それはあくまで地図であり目的地に行くための道しるべでしかありません。
ジェンダーの研究家で上野千鶴子さんという著名な研究者がいます。彼女の目的地は自身の考えるフェミニズムを世に広げていくことです。そのための哲学=地図としてジェンダーという理論モデルを採用しています。ご自身でも「ジェンダーや社会学はフェミニズム活動のためのツールである」と述べており、彼女の思想を表現するのに最も適していたツールがジェンダーや社会学で、それらを世に最も効率よく伝えられるメディアが講演、論文、書籍などのメディアだったのです。

話が少し逸れてしまいましたが、漫画に置き換えてこの哲学という課題を考えてみると、漫画は作家自信が表現したいものを伝えるメディアでしかないという結論に至りました。その途上で、漫画自体に作家の個性や哲学、芸術性が滲み出てくるのではないかと思います。重要なのは漫画の芸術性を語ることではなく、なぜ作者は漫画という表現ツールを用いたのか。それにのせて伝えようとする作者の主張は何なのかということを考えることだったのです。

ここまで話した上で冒頭の問いに戻ると、漫画の芸術性を語るというのは無理な話で、出来るとしたら何でこの作家さんは自分の考えを伝えるために漫画という哲学=地図を選んだのかという点です。それは目的の場所に行くためにカーナビで行くのか、地図で行くのか、ガイドと共に行くのか、これらのなかで最も効率のよい手段は何なのかを考えることです。 皆さんがこれから何かを表現したいときに、どんな哲学を用いるのが一番効率がよいのか。それは小説といった文芸なのか、漫画といったポップカルチャーなのか、あるいは学術論文のようなアカデミックな文体なのか。これらを使い分けることが、自身の意思表明をより的確に伝えていくキーになってくるのです。

「哲学とは表現の武器であり論理的思考の始まりである」

皆さんも日々いろんなことを思考しそれを表明することがある、もしくはしていきたいと思われてるかと存じます。そんなときに哲学は必要不可欠です。20世紀のドイツの哲学者でヴァルター・ベンヤミンという人がいました。彼は当時まだ映画が学問対象として成立していない頃、なぜ映画が人々を魅了するのかを考えようとしました。そのときに彼が打ち出した哲学=地図が「アウラ(オーラ)」というツールです。アウラとは芸術作品に帯びている神聖性のことで、古来よりの芸術(宗教絵画など)にはこのアウラを帯びているので芸術としての価値が保たれる。だが、映画などの複製芸術には複製であるがゆえに、作品自体の一点性つまり価値(アウラ)が周落した。そのおかげで大衆は複製芸術を神聖なものじゃなく、もっと気軽なものとして接することができたと主張しています。(ここら辺の話はベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』という論文にまとめられていますので興味のある方は、ちくま文庫で多木浩二という人が解説をいれてる翻訳が出版されてるのでぜひ!)

こうやって考えてみると哲学って全ての始まりなんだなぁとつくづく思います。昔から哲学は学問の王道だって言われてきました。学問に勤しむようになってその言葉の意味がようやく分かるようになりました。全ての論理的思考の始まりである哲学は、実は一番実用的な学問なのです。よく文系の知はいらないなんて言われますが、そうではないんだと今ならはっきり言えます。物事を語る上で文脈は非常に重要です。哲学はその文脈を形作ります。そして、物事を理解するためには論理的な思考が必要です。これらを鍛えるためにも自身の哲学をもちこれらと日々接することが重要なんだと思います。皆さんももし時間があれば、ぜひ一度そういった哲学の類いに触れてみてはどうでしょうか?きっと自身の見識が広がり、これまで見えてこなかったものが見えてくると思います。

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