![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171061237/rectangle_large_type_2_fb864cd544bc57c4b8a4f26e72429246.png?width=1200)
王様を懐かしむフランス人
しばらく記事をかかないまま数ヶ月過ぎてしまった。
気がつけば1月も半ばを過ぎ、丁度ルイ十六世が処刑された1月21日なので、以前書いた記事を若干編集してアップすることにする。
一九九三年のルイ十六世の没後200周年記念ミサについては、雑誌『歴史街道』に掲載された記事がベースになっている。この記事をもとに、別の企画のために書き直したものがこの原稿である。内容的に若干アップデートが必要な部分もあるが、間違ってはいないので、ほぼそのまま掲載してみる。
フランス人と王党派
フランスには今でも王党派と呼ばれる人々がいる。
つまりフランスに王様を呼び戻そうとしている人々である。ここでは現代のフランスにおける王党派というものに焦点をあててみたい。
私が歴史的な意味で王党派に興味を持っていると言うと、フランス人の多くは、「ロワイヤリスト」というのにはあまりいいイメージがない。彼らはマージナルに過ぎない、と言う。
王党派というと、国王を取り巻く貴族たちの集まりといったイメージが浮かぶが、フランスの貴族たちの子孫が、王党派かと言うとほとんどの場合そうではない。
伯爵の称号を持つシャルル・ド・カストルも著書の中で、自分は良き共和主義者、と明言しているし、実際に話を聞いた貴族階級の人々も、今更国王なんてナンセンス、という意見がほとんどであった。
「もはやフランスに国王が戻ってくるということが信じられなくなっているのです」
という意見もあった。
だが一方で、テレビでインタビューに答えていたノアイユ公爵夫人のように、
「あなたは王党派ですか?」
という質問に、
「もちろんです」
ときっぱり答える人もいる。私が通っていた高等実習学院の常連だった伯爵夫人もそうだ。
また貴族の家柄でなくても王党派、というフランス人にも出会う。
私が親しくしているMさんという女性は、自分は王党派だと公言してはばからない。とはいっても、「アクシオン・フランセーズ」のような政治的な団体に属しているわけではなく、心情的な王党派と呼べるだろう。
Mさんはヴァンデ地方の出身で、ヴァンデ地方という所は革命期に、反革命の大規模な蜂起を起こし革命政府に徹底的に鎮圧された歴史がある。現在でも伝統的にヴァンデ出身の人には王党派が多いと聞いた。
この「ヴァンデ戦争」と呼ばれる蜂起についてごく簡単にのべると、この反乱の舞台となったのは、現在のヴァンデ県を含むポワトゥー、アンジュー、メーヌなどのフランス西部の地方である。反乱の主な原因となったのは革命政府によるカトリック司祭の弾圧であり、一七九三年の春に革命政府が行った「三十万人動員令」という徴兵制度が引き金となって、あちこちの村で勃発した。始めは農民達を中心にして半ば突発的起こったが、貴族出身の元将校などを指揮官に「カトリック王党軍」と呼ばれる大規模な反乱軍が組織されるにいたった。その後共和国軍を相手に各地で善戦したが、九十三年の終わりには壊滅状態になり、その後は生き残りのリーダーを中心に小規模な戦いが九十六年まで続いた。この戦いの犠牲者は二十万人にものぼるともみられているが、今となっては正確な数値の出しようもない。当時のフランスはイギリスを始めとする対仏同盟の攻撃にさらされており、内部での分裂は革命政府にとって致命的なものになる恐れがあった。そこで徹底的な鎮圧が行われたのだが、カトリック王党軍が崩壊した後も、蜂起した地方に特殊部隊が投入され、組織的な虐殺が行われた。現代でも対ゲリラ戦として、村ごと焼き払い虐殺する方法がとられるそうだが、ヴァンデでも女性や子供まで皆殺しにされた。革命から二百年を経た今でもこのヴァンデの虐殺は土地の人々の記憶に生々しく残っている。Mさんの先祖にも、この戦いの中で家族を殺されM家に養子として貰われてきた人がいるそうだ。フランスが共和国であるのが既成事実となってしまった現在、過去の事を云々いっても仕方がないという考え方もあるだろうが、それでは納得できない人々も沢山いる。
初めて彼女のアパートに遊びに行ったときに、ステュディオと呼ばれる一人暮らし向けの、それほど大きくない部屋の中で一際目を引いたのは、髪を高く結い上げた貴婦人の胸像であった。その特徴的な唇や額の形に見覚えがあったので、
「マリー・アントワネットですか?」
と尋ねると、そうではなく、彼女の娘で、マダム・ロワイヤルの名前で知られるアングレーム公妃の胸像であるという答えが返ってきた。胸像は父親から受け継いだもので、言われはよく知らないが、マダム・ロアワイヤルの胸像は大変珍しく、展覧会に貸し出したこともあるそうだ。
「私はこのマダム・ロワイヤルの像が大好きなのよ。いつも彼女が一緒にいるような気がするの」
一人暮らしの彼女の言葉には、尊敬と愛情の響きがこもっていた。
ルイ十六世の追悼ミサ
王党派の集まりといえば、忘れられない思い出がある。
一九九三年の一月二十一日はルイ十六世が処刑されてからちょうど二百年目にあたり、世が世なら王家の一族であったはずの、ブルボン家の血筋の人々を始め、王党派の人々によって、いつにも増して盛大な追悼ミサなどの式典が行われた。
私はその日、Mさんに連れられてサン・ドニ教会でのルイ十六世追悼ミサに参列する機会を得た。
サン・ドニ教会にはフランス王家代々の墓所があり、ルイ十六世とマリー・アントワネットも葬られている。サン・ドニ行きのメトロのホームでMさんと待ち合わせをしたのだが、早くもミサに向かうらしい人々が目についた。ベンチの隣に腰かけた若い男性はジャケットの襟に百合のバッジを付けている。言うまでもなく百合はフランス王家の紋章で、王党派のシンボルでもある。
さらに長い僧服に身を包んだ、高位の聖職者らしき人がホームに姿を現すと、胸にキリストの顔を描いた記章のようなものをつけた男が近づいていき、恭しく膝を屈めて挨拶し、祝福を乞うた。フランスでは王党派とカトリックは切っても切れない関係にある。非キリスト教化の政策を取った革命に対し、王権はカトリックの擁護者と見なされて来た伝統があるのだ。やがて、Mさんが近所に住む友人の女性達三名を伴ってやってきた。話を聞いてみるとMさん以外は特に王党派というわけではなく、私と同じように今回の出来事に歴史的意義と興味を感じて参加したそうだ。メトロに乗り込むと停車する駅ごとに、どんどん乗客が乗り込んできて満員になった。
「皆同じ目的地に向かっているのね」
乗り合わせた中年の女性が言った。みれば車内はそれらしい人々ばかりである。百合をかたどった記章をつけている人をはじめ、百合の模様のスカーフやネクタイを身に付けている人も数多く見られた。仕立ての良いトラッドのコートに、エルメスのスカーフなどを組み合わせたいわゆるB.C.B.G風の老若男女が目についた。保守的で伝統を大切にする彼らの属する階級に王党派が多いのは、当然かもしれない。もちろんもっと庶民的な服装の人も大勢いたが、いずれにしてもサン・ドニ行きのメトロにこのような身なりの良い人々が大挙して乗っているというような光景は普通ではまず見られない。サン・ドニは移民の多いパリ北部に位置していて、治安はあまり良くない。はっきり言って私もこういう機会でもない限り足を伸ばそうとは思わない地域だ。
終着駅のサン・ドニ・バジリックで下車し、教会を目指す人並みに揉まれながら歩いていると、フランスでベストセラーになったジャン・ラスパイユの小説『SIRE』(陛下)、が思い起こされた。ラスパイユは今回のルイ十六世の一連の記念式典の執行委員長も勤めた王党派作家で、個人的にはその暗すぎる世界観に時々ついていけなくなるが、この小説は設定や描写に関しては非常に面白く読むことができた。近未来政治ファンタジー小説ともいえる“SIRE”には、王位継承権を持つカペー王朝の末裔の少年が、秘密裏に戴冠式を行う為にランスの聖堂を目指す旅の様子が物語られている。ランスの大聖堂は歴代のフランス王が戴冠式を行ってきた伝統があるのだ。
ラスパイユの『SIRE』とサン・ドニ王墓の冒涜
ラスパイユの作品は、「引き裂かれた神の代理人――教皇正統記」というのが訳出されているが、この小説は日本に紹介しても、あまり受けいれられそうもない。日本人好みの現代フランスものの系統ではないし、フランスの歴史的、社会的な背景がわからないと意味がないだろう。だがこういう内容の小説が、読まれるということにフランス人の心情の一旦を知る鍵があるのではないか。
小説の中にも、皇太子の一行が立ち寄るサン・ドニ教会が登場する。サン・ドニ教会は荒廃し、半ば見捨てられた様子で描かれている。現実はもちろんそれほどひどくはないのだが、我々がサン・ドニ周辺と言ったときにイメージされる、荒れ果てたパリ郊外のヴィジョンとオーバーラップしている。また、ラスパイユは革命時に行われたフランス王家代々の徹底的な墓荒らしを描いているが、次々に暴かれる棺から引き出される半ばミイラ化した王家の遺骸の描写は生々しく、革命派によって行われた、死者を辱める無神経な仕打ちの数々は読むものに嫌悪感を催させるほどだ。この描写は事実に基づいて書かれたものだろう。
私がたまたまある講演会で耳にしたところでは、ほぼ完全な形で残っていたアンリ四世の遺骸は、動物園のサイとゾウの檻の間で数日間見世物にされたという。その後遺骸からは頭部だけが持ち去られ、オークションにかけられ、現在でもある好事家のコレクターの家に保管されているらしい。
このようにサン・ドニは、革命期に冒涜された経緯があるものの、現在でも石棺だけはそのままの姿を留め、中世からの歴代王と王妃の彫像が、多くは横臥像と呼ばれる横たわった姿で、ずらりと並んでいる様は壮観である。
七十あまりの横臥像には、ゴシック風の硬質で素朴な彫刻もあれば、ルネサンス期の官能的なものまで、様々な様式がある。
アンリ二世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスのモニュメントは、四本の円柱で支えられた天蓋の上に、盛装で跪いた形の国王夫妻の姿が掘られている。だが、天蓋の下には、さらに二体の横臥像が横たわっている。こちらの方は、二人ともわずかに布で体を覆っただけのリアルな裸像で、肉は落ち、骨が浮き出た姿に彫刻されていたのがひどく印象的である。足の側に回ってみると、彫像の裸足の足裏が四つ並んで、にょっきりと突き出ているのだ。王族であっても、死して神の前に出るときにはすべての虚飾を捨てた姿でということなのかもしれない。国王と王妃を裸の死体の姿で彫刻してしまうという感覚は日本人にはないものだろう。
日本人にはわからない感覚と言えば、革命側の人間が、いくら王制憎しと言えども、過去数百年もの王家の墓をすべて掘り起こし、遺骸をうち捨ててしまうという暴挙も、同じである。
中国などでは、「死者に鞭打つ」という風習もあるようだが、日本の場合、うち倒した相手はその祟りを恐れ、冒涜するどころか、神として祀ってしまうのだから。
大革命に命を落としたルイ十六世の像は、もちろん王政復古期に造られたもので、慎ましやかにヴェールを被った王妃マリー・アントワネットと共に合掌し、跪いた、敬虔な姿である。
ユーグ・カペーからのフランス王たちの墓所であったサン・ドニの聖堂は、まさに荘厳な陵であり、ネクロポリスと呼ばれるにふさわしい。今は滅び去ったかつての王国の歴史に思いを馳せることのできる場所である。
話は追悼ミサに戻るが、私とMさんが教会の中に入ると内部はすでに一杯で、側廊の柱の陰にやっと陣取ることができた。フォーレのレクイエムが流れる中、三つの百合の付いた腕章を巻いた青年達が奉仕活動で、参列者の整理などをしている。他にやはり百合の縫い取りを一面に施したベルベットのマントを着た人がうろうろしており、何かの仮装をしてやってきた参列者かと思ったらそうではなく、式典の花束献上者らしき事がわかった。
「モンセニュールはもうお付きになっているらしいわ」
と、Mさんが言った。モンセニュールという称号は聖職者の貎下という意味にも使われるので、ミサをとり行うサン・ドニ司教のことかとも思ったが、よく聞いてみると、正統王朝派の王位継承者、アンジュー公爵ルイス・アルフォンソ殿下が来ているということだった。
王党派と一口にいってもなかなか複雑で、ルイ・フィリップ・ドルレアンの血を引くオルレアン家を支持するオルレアン派と、スペイン・ブルボン家の血を引く正統王朝派がある。この対立は今に始まったことではなく、一八三〇年にルイ・フィリップが王位についた時に溯るが、オルレアン家はいわば宮家のひとつに過ぎず、しかもルイ・フィリップの叔父フィリップ・エガリテはルイ十六世の死刑に一票を投じた「王殺し」ではなかったかというのが正統王朝派の言い分である。この日パリ伯アンリ・ドルレアンを始めとするオルレアン家の人々は、ヴェルサイユのサン・ルイ大聖堂で行われたミサに参列したそうだ。
そうすると、アンジュー公爵を始めとするブルボン家の人々を迎えて行われるサン・ドニのミサに参集したのは、正統王朝派の支持者と見るべきだろう。
だが、Mさん曰く、
「私はどちらかといえば正統王朝派だけれども、フランスに王様さえ戻ってきてくれれば、オルレアン家でもいいし、ナウンドルフの子孫でもいいと思っているのよ。」
ルイ十七世の死については謎が多く、生存説もいくつか存在し、私こそがルイ十七世である、と名乗るものが後に何人も現れたが、カール・ウィルヘルム・ナウンドルフもその一人であった。オルレアン派、正統王朝派に比べ数少ないとはいえ、ナウンドルフの子孫の王位継承権を主張するナウンドルフ派というのも未だに存在するというから驚きである。
彼らも又、同じ日にパリのサン・ニコラ・デュ・シャルドンネ教会に集ったそうだ。
それにしても革命を経験したことのない我々はなぜ今更王朝を復活させようという動きがあるのかと、奇異に感じるかもしれない。しかし現在のヨーロッパ地図をざっと見ただけでも、英国を始め、ベルギー、オランダ、スペイン、スカンジナヴィアの国々など、意外と王国が多い。革命の後にいかに政権がかわろうと、もとからその国を支配していた王家は、ある程度国民を納得させる力を持っているのではないだろうか。
やがて「国王万歳!」という声が参列者の間から起こった。アンジュー公爵を始めとする、ブルボン家の一行が入場してくるところだった。私のすぐ近くにいた若い男性は感極まった様子で、その溢れ出る忠誠心の証であろうか、目を閉じたままじっと手を胸に当てて当時僅か十九歳の公爵を、彼にとっての君主である人を迎えていた。私も公爵を見たかったのだが大勢の人の頭に遮られてしまった。
ミサの始めにルイ十六世の遺言状の朗読が始まった。自分の敵となった人々を赦し、息子にも将来王となることがあっても、復讐を考えてはならないと書き残している、心打たれる内容だ。ルイ十六世というと日本などでも錠前作りが趣味の愚鈍な王というイメージがはびこっているが、私はなかなか立派な人であったと思う。
イギリスと自由通商条約を結んだために、競争力のないフランスの貿易が不利になるなどの失敗があるにはあったが、たとえば「寛容の勅令」によってプロテスタントやユダヤ教徒の権利を認めた事や、拷問を廃止したことなどは意外と知られていないのではないだろうか。革命二百周年の年のある日本の新聞の投書で、ルイ十六世を暴君扱いしたものがあったのには驚いた。もちろんフランスでもそういう傾向はあるのだが、日本では未だに暴虐の限りをつくした王政に対して、民衆が立ち上がったという発想や、無能なルイ十六世と贅沢の限りを尽くした王妃マリー・アントワネットのせいで革命が起きたのだという単純な見方。
ミサが終わってアンジュー公爵が退出すると、参列者は皆拍手喝采で見送り、サン・ドニ教会前の広場は熱狂的な人々で埋めつくされた。
そのあとで再び駅に向かっていくと、メトロの入口でパリに帰ろうとする参列者の波に出くわした通りがかりの人が、こう言うのが聞こえた。
「これだけの人がルイ十六世のために集まったんですか。二百年も経ったのに、彼は幸せ者だね」
さらにMさんとルイ十六世が処刑されたコンコルド広場に向かってみた。この広場では前日アメリカ大使なども迎えて大規模な記念式典が行われた。何故アメリカ大使がと思われるかもしれないが、ルイ十六世がアメリカの独立戦争を援助したことも忘れてはならない出来事だろう。もっともそのせいでフランスの赤字が増大したのだが……。
コンコルド広場もルイ十六世を偲んで集まった人たちで一杯だった。白い百合の花を供える人の姿が目立った。Mさんはたまたま、正統王朝派の腕章を着けて人込みを整理している人の中に、同じマンションに住んでいる人を発見した。いつも建物の中で顔を合わせて挨拶をしていたのに、お互い王党派だということは全く知らなかったそうで、話がはずんでいた。
ルイ十六世の追悼ミサの日の夕方、もう一度コンコルド広場の付近を通りかかる機会があったが、すっかり暗くなって街頭に照らされた広場では、今日一日に供えられた花の撤去作業が始まっていた。次々とバンに運び込まれる花束はやはり白百合が多かったが、バンに二台分はあった。帰る途中で、百合の花を一本手にして急ぎ足でシャンゼリゼ通りを下ってくる青年とすれちがった。ルイ十六世に花を捧げるために、会社が引けたあとでコンコルドに向かっているのだろう。
ルイ十六世の没後二百年の記念行事に対して、メディアの反応はさまざまだった。ルイ十六世の没後二百年を機会に、レクスプレス、フィガロ・マガジン、ヌーヴェル・オプセルヴァトゥールなどの各雑誌が「ルイ十六世を処刑すべきだったか」等の特集を組み、歴史的事実として見直しをしようという姿勢がうかがわれた。しかしテレビなどでは、コンコルド広場に一万人以上集まった人々について、時代錯誤や極右のフランス人の集まりという風な、カリカチュアライズした報道の仕方だった。日本の友人から聞いたところでは、日本のニュースでも最近ヨーロッパで台頭してきている極右的思想の動きの一つとして取り上げていたらしい。しかしそのような安易な判断を下していいものだろうか。確かにフランスで王党派というと、ドレフュス事件などとの関わりのあったオルレアン派のアクシオン・フランセーズなどの団体の名前が頭に浮かび、現代でもファシスト的な思想と結びつけられやすい。
だが王党派を自称している人がすべてそのような政治的団体に所属しているわけではなく、むしろMさんのような心情的な王党派がほとんどだろう。政治的な王政そのものを云々するよりも、コンコルド広場に集まった人々は、過去に失われたフランスのアイデンティティーの一つとしての王様を探しにきたのではないか。
またある雑誌の現代のアクシオン・フランセーズの特集では、東洋人も含めた様々な人種からなる、若いメンバーたちが紹介されていた。創設者シャルル・モーラスの時代はともかく、現代のヌーヴェル・アクシオン・フランセーズは反ユダヤ主義のような思想とは関係ない、と彼らは語る。
保守系のフィガロ・マガジンに乗っていたある若者の投書が思い出される。ちょうどこの雑誌で天皇陛下の即位の儀のグラビア特集が組まれた直後に載ったものだが、
「……この特集を見て、天皇に代表される過去との繋がりを失う事なく、近代化し経済的な発展をとげている日本をうらやましく思う。自分は失業していて未来も暗いし、フランスという国は過去との繋がりも断ち切られてしまい、根無し草のようだ」
という趣旨のことが書かれていたと思う。
ラスパイユの『SIRE』に描かれる近未来のフランスは明らかに失業、セキュリティーの問題、モラルの喪失などで悩む「暗いフランス」、「悪くなってしまったフランス」、
を象徴的に描いたものである。というより、作者の目で見た現代のフランスそのものなのかもしれない。それに対して、主人公の若き皇太子は伝統的な価値、カトリック的なモラルを具現する存在として描かれている。結局このプリンスはランスで載冠して国王になっても、実際には統治することなく去っていくのだが、フランス人の心の中にある一つの救世主願望の物語として読むと面白いだろう。
それでは現代の王党派に希望はあるのだろうか。
フランスは、これまでも共和制、帝政、王政、立憲君主制、共和制、帝政、共和制という歴史を繰り返してきた。第三共和制に至っては、王党派とたった一票の差で、成立したのである。
だが時代は変わり、さすがに王政復古などは今さらという雰囲気はわからないでもない。
これまでの革命の様相やフランス人の気質から見ても、王政に戻そうとすると、また流血沙汰になるのではないかという懸念もある。
これまで述べたように、少数派のナウンドルフ派はともかく、王党派が正統王朝派とオルレアン派に別れている限り、王政復古は難しいのではないかという気がする。
王党派の貴族たちも、どちらの系統を支持するかによって、特定の貴族のサロンに出入りできなくなるなど、人間関係もやっかいらしい。
インターネット上では、派閥に関わらない王党派のフォーラムなどもあるようだが、どちらかを実際に王位につけるということになると、現状では非常に困難なのではないだろうか。
ステファヌ・ベルンのセレブリティ番組などにも、よくアンジュー公爵が登場する。彼は王位継承した暁にはルイ二十世とも呼ばれるはずで、ルイ二十世の名で呼ぶ人もいる。
フランスの大学に通っていたころ、廊下に張り紙がしてあったのを思い出す。ソルボンヌは保守的と言われているので、王党派の学生も多かったのだろうか。オルレアン家の嫡子、ヴァンドーム公爵も、哲学科に在籍していたことがあるはずだ。
張り紙には、ルイ一世から、二世、三世と「ルイ」のつく国王の名前がずらりと並べてあり、最後はルイ十八世で止まっていた。最後に一言、
「これでおしまい。それなのに、ここには数も数えられない奴らがいる」