25年目。
2025年。
私いわごんが、スポーツチャンバラを始めたのが2000年の5月だったかな。
というわけで今年で25年目に入るわけで。
当時大会に出ていた選手たちはほとんどが途中でフェードアウトしたり指導者になって試合に出なくなっていたり。
まあオイラも前半2、3年、スポチャン休止していた時期はあるけど、復活してから20年くらいは試合に出続けているわけで。
現役選手の立場で言えば多分もう上から数えて一ケタの古さだろうと思います。
そんな立場で、スポチャン界や自分のスポチャン歴の昔話やら未来への提言やら、思いつくまま、不定期に書いていこうかなと思います。
自分の見てきたことやってきたことが、そのままスポチャンの進化(?)の歴史にリンクしていくのかなー、と思うところもありますし、何か若い子のヒントになることがもしあれば嬉しいですね。
まずは興味ないかもですが、いわごんがスポチャンの門を叩いた時のお話を。
オイラは小学校1年生から大学までずっと剣道やってました。高校からは上段でした。
就職して、最初の3年間は仙台にいました。
そこでは仕事で知り合った同業他社の方に誘っていただいて剣道の道場に通っていました。たまに子供たちの指導もやってました。
で、異動になり京都へ。
社有の独身寮が四畳半ひと間という環境で、剣道の防具やら何やら置いとく場所もなく、それでも何かやりたくて、という思いで探したのが、以前テレビで見たことのあったスポーツチャンバラでして。
初めて体験した日。
スポーツチャンバラ、という名前、そして大学の剣道部のレギュラーでバリバリやってきた自負からナメてかかってましたが、М先生、Y先生、そして先輩方からボコボコにシバかれました。
悔しさと、新しい扉が開いた嬉しさは今でも覚えています。
剣道って、大学出ると警察、教員、実業団以外の大部分の人は段位しか目標がなくなります。
そして高段位になればなるほど、枯れる、という表現をされるほど練り上げて高めていくのですが、
まだ、枯れたくなかった。
バキバキのシバキ合いの中に身を置けること、自分より強い人に鍛えて頂けそうなこと、今まで考えたこともなかった世界選手権なんて目標にも現実的に向かっていけること。
そして、剣道やってきた自分への少しだけの自信。
もうやるしかなかった。
そんなこんなで始まったスポーツチャンバラ歴。
いわごん25歳10ヶ月の春でした。