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合宿所同居で「声かけ」「ホメ殺し」  ~箱根V監督の人心掌握法~

  2006年箱根駅伝。大手町のゴールテープに最初に飛び込んだのは5連覇を目指す駒澤大学でも、好選手が揃った東海大学でもなく、水色と緑のツートンのタスキをかけた亜細亜大学のランナーだった。
 監督の岡田正裕が選手たちによって胴上げされる。ランナー時代の面影が影を潜めた中年の体が1回、2回と宙に舞う。監督就任7年目にしてたどり着いた歓喜の瞬間だ。

 岡田が亜細亜大学陸上部の監督に就任したのは99年の春のこと。13年間率いたニコニコドー陸上部が休部。54歳にして“リストラ”の憂き目にあった岡田は住み慣れた故郷・熊本を離れ、箱根駅伝出場から遠ざかっていた母校を再建するべく単身、東京へと向かった。
 しかしそこで待ち受けていたのは、思いもかけない選手たちの反応。OB会が主導して、岡田の監督就任を強行にすすめたため前任の監督を追い出したように選手たちが受け取ったのだ。
「どうしてもと乞われて監督になったと思ったのに、大変なことを引き受けてしまったなと思いましたよ。反発のための反発というんですかね。『自己主張』だと茶髪、ピアスはあたりまえ、練習前に炭酸飲料を飲んでいるものいたし、タバコを吸っているのもいました」
 選手たちはコミュニケーションをとろうとしない。岡田はまずは選手たちとじっくり話し合い、信頼関係を築くことが必要だと考えた。
「選手を集めて服装も食生活も『自己主張』は結構だと言ったんです。ただし、いずれ君たちは社会に出る、そのときも今の『自己主張』をつづけられるならいいが、まずいと思うならどうすればよいのか考えてくれとね。選手たちは私が頭ごなしに否定すると思っていたらしくびっくりしていましたよ」
 箱根を目指す大学の陸上部はどこも、多いときには月間1000キロを超える走り込みをする。その時に監督と選手が強い信頼関係で結ばれていなければ、辛い練習を耐えるのは難しく、結果もついてこない。時間をかけて選手たちの気持ちをつかみ、自分の考えもわかってもらいたい。そのためには一緒に食事を採り、風呂に入り選手たちと腹を割って話すのが一番だ・・・。岡田は大学からあてがわれた宿舎を引き払い親子以上に年齢の離れた選手たちとともに合宿所で生活をはじめた。
「最初は選手たちも迷惑そうでしたが(笑)、合宿所では食堂で、風呂場で、洗面所で、顔を合わせる選手に片っ端から声をかけました。そうすれば『あっ監督はオレのことを気にかけてくれているんだな』と思うでしょう。そういう中から徐々に選手との信頼関係を築いていきました」

 選手との信頼関係を重視する岡田の考え方はソウル五輪1万メートル代表の松野明美らを育てたニコニコドー時代の経験が生きている
「女子は男子と比べて感情の起伏が激しいですからね。例えば練習で松野ばかりを指導していると、他の選手が『どうせ監督は松野がかわいいんだ』と妬む。気持ちが切れて、もう練習にならないわけですよ。とにかく気持ち良く走らせなければならない、そのために小出(義雄)さんじゃないですが私もとにかく褒めちぎりましたよ。それも各選手なるべく公平に。学生は甘やかすと調子に乗りますから締めるところは締めますが(笑)、今もなるべく良いところをみつけて褒めてやるようにしています」
 当初は朝練で30キロ走などと言おうものなら必ず不満の声をあげていた選手たちも、岡田との距離が縮まるにつれ黙々と練習をこなすようになった。実業団仕込みの指導で着実に力をつけた亜細亜大学は、岡田の就任から3年目にして箱根路に復活。いまでは「このメニューをこなせばきっと自分たちは強くなれるんだ」と前向きな姿勢で練習に取り組むようになったという。
「長距離走というのは監督、コーチがどんなに指導しても最終的には自分との戦いです。個々の選手が自分は強くなれるという確信をもって練習し、自信をもってレースで走ることができれば結果はおのずとついてきます。いかに選手を気持ちよく走らせるかが指導者の腕の見せどころなんじゃないですか」

 胴上げの後、岡田は選手たちに「夢のようだ。みんな、おめでとう」と言った。
 「ありがとう」ではなく「おめでとう」。優勝は選手たちが勝ち取ったものということなのだろう。いかにも岡田らしい選手たちへのねぎらいの言葉だった。

(第82回箱根駅伝後、2006年1月某スポーツ専門誌用に書いた原稿。「実業団仕込み」など抽象的な表現が、編集長のお好みではなく? ボツとなってしまいました。第101回箱根駅伝開催に合わせて蔵出しします)


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