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【言語化の実験】「企画の仕方」は音楽が教えてくれた

※【言語化の実験】は誰かに向けて発信するのではなく、私が自分が思っていることを文章にして整理することが目的です。まとまってなかったり、読みにくかったりしますが、読む人のためではなく自分のために書いていますのでご了承ください。

私は音楽と演劇という二つのスイッチを持っていて、今は演劇に興味を持っていますが、そのベースには音楽の経験が生きています。特に演劇に役に立ったことについて、言葉にしてみたいと思います。

音楽と演劇、どこが同じなのか

私は音楽といってもクラッシック音楽を学んできました。最初にピアノ、次に声楽、それからオーボエという楽器です。ピアノは一番長く続けてきましたが、練習が嫌いだし、手が小さいし、あまり上手ではありません。声楽は小学校の頃から音楽の先生にほめられるような感じでしたが、ソリスト向けではない、とはいえ、合唱では浮くし、自分の居場所が見つからない、という感じでした。オーボエは自分がやりたくて、大人になってからようやく始めたのですが、ある程度できるようになるのに一番苦労したかもしれません。ただ、このオーボエという楽器が演劇への迂回路を私にくれたような気がします。

クラッシック音楽は「楽譜」に従って演奏します。それは演劇が「戯曲」に従うのと同じです。大きな編成だと「指揮者」が必要で、これは演劇の「演出家」に相当します。でも、指揮者がすべてを決めるわけではなくて、実はアンサンブルというのは、奏者の「メンバー」でかなりの部分が決まってしまいます。いいメンバーで、お互いが上手に呼応しあって表現できて初めて作品が完成するのです。演奏というのは実は一人でやるものではなくて、たとえ独奏であったとしても、伴奏者や観衆がいて成立するものなので、それを意識してコミュニケーションがとれて初めて演奏として成立します。

「台本」をきちんと読み込んで相手を聴く

それは20年前のことでした。ネットで偶然「アマチュア演奏家協会」という室内楽の全国団体を知り、興味を持って近くの支部長さんに電話をしました。自分がオーボエという楽器をやっていて、室内楽に興味がある、という話をしたところ、「では2週間後にモーツアルトのオーボエカルテットをやりましょう」といわれました。会ったこともない方なのに、です。

 正直、ちょっとびっくりしました。モーツアルトのオーボエカルテットって相当な難曲です。会ったこともない相手にこれやりましょうっていうような曲なのかなあ、と、キツネにつままれたような感じで楽譜を読み込んで持っていくと、支部長さん(チェロ)がヴァイオリンとヴィオラの方を連れてこられてぶっつけ本番で合奏が始まったのです。これが私にとって初めてのモーツアルトのオーボエカルテットだったのです。

 合奏が終わると支部長さんが「私はあなたを試すつもりでこの曲を指定したらちゃんとやってきましたね」といわれました。実はこれが一種の「入会試験」だったわけです。私自身、室内楽は未経験だったので、いきなりこういう試され方をしたことで、自分の自信にもなりました。とにかく楽譜をきちんとさらっていき、いざ合わせ、となったらメンバーの人たちの音を聴いてついていく、大変だけれど、それがわかっていれば、バッハでもブラームスでも、自分のものとして楽しむことができるんだと気づきました。そして、ここからいろいろな方と合奏を楽しむようになり、10年ほど余暇は室内楽づけという生活が続きました。

 ただ、オーボエという楽器はクラッシックに詳しい方でも、モーツアルトのオーボエカルテットとオーボエコンチェルトくらいしか知られていません。一緒にやりましょう、という話をいただくと、ほぼ毎回モーツアルトなのです。それ以外をやろうと思ったら、「自分で企画して提案する」必要がありました。

楽しそうな演目にしないとメンバーが集まらない

モーツアルトと同時代人なのですが、サリエーリという作曲家がいます。戯曲「アマデウス」で有名なあのサリエーリです。私は深く考えたつもりはなかったのですが、自分で提案したのはサリエーリのフルートとオーボエのための二重コンチェルトでした。

それ自体はうまくいったのですが、次に同じサリエーリのヴァイオリンとチェロとオーボエのための三重コンチェルトを提案したのです。

ところが、なかなか受けてくれる人が見つからない。楽譜を見せても、音源を聴かせても、試しに合わせてみても、です。そこで何人かの方にいわれたのが、「モーツアルトに比べると難しい割に楽しくない」という話でした。

実はそういわれてみるまで、「メンバーが楽しい演目か」まで考えていなくて、「自分の楽器が含まれているかどうか」しか考えていなかったんですね。でも、いわれてみれば、「あなたの楽器だからやってください」といわれても、楽しそうじゃなかったら、気が乗らない、といわれても一理あります。

ちなみに私自身はサリエーリよりモーツアルトの方が音楽的にどうか、ということを判断するほどに素養はないです。ただ、「楽しそうじゃなかったら受けてもらえない」ということだけは胸に刻みました。

また、選曲だけではなく自分の立ち位置も大切だと気づきました。「自分だけが楽しくて、ほかのパートがわき役」の楽譜はなかなか積極的に受けてもらえません。自分が脇に回った方がうまくいくことが結構あります。選曲は自分で決めてもいいのですが、周りの奏者の「〇〇をやりたい」というのをヒアリングしておくことも役に立ちます。

オファーはラブレター

演劇をやる方、特に主宰をされる方がみな共通していわれることですが、メンバーを集める、というのは大変なことです。私はこのことを音楽を通して学びました。

室内楽を始めた最初はよくわからないので、入会した当初は手当たり次第にいただいたオファーを受けたり、自分から出したりということをしていましたが、やっているうちに、自分が不完全燃焼したり、メンバー同士がけんかしたりということができてきて、「どうしたら自分もメンバーもハッピーになるんだろう」と考えました。

何度も経験していたのが、「演奏能力はあっても協調性がない人を入れてクラッシュさせてしまう」という事故でした。さらに「演奏能力もないし協調性もない」という人もいます。そのため、できるだけいろいろなところに顔を出して、いろいろな奏者に出会うとともに、評判も知っておきます。

そして、少しずつ学んだのが、「カギになるパートから決めていく」ことです。ざっくりいうと、「習得のハードルが高い」「奏者人口が少ない」楽器の奏者を先に決めます。ただし、そういう奏者はあちこちから引っ張りだこですので、「どうしてもあなたじゃなくてはいけないんです」と熱く口説きにいきます。ここで学んだことは「誰でもいいからやって」でなく「あなたとやりたいんです」というオファーの仕方をすれば、かなり優れた奏者でも、受けてくれる確率はそれなりにあるということです。このため、ラブレターを書くような気持ちでメールを書いていました。

次にその人と楽しくやっていけそうな人という形で「〇〇さんと一緒にやるんですが、入りませんか」という形で声をかけていくとうまくいくことがわかりました。優れた奏者がいることで、アンサンブルへの信頼度が高まるんです。そういうことを続けていくうちに、「今度やるときは呼んでください」という形で声をかけてくださる方も出てきました。こうなると本当にやりやすくなります。

トラブルは未然に防ぐ方がずっと楽

逆にクラッシャーやけんかはどのようにして起きるのかも書いておきます。

アンサンブルのトラブルは大きく二つで、一つは「人間的な協調性」もう一つは「音楽的な協調性」のバランスがとれていないときにおきます。そして不思議なことに、この二つ、そこそこ連動しています。

「人間的な協調性」は圧倒的に参入障壁が少ないパートに発生します。ざっくりいうと、ピアノ、声楽、フルートです。楽器屋さんに行けば楽器があり、教室も探せば簡単に見つけられる、だから、アマチュアとしてやる人も「ピンからキリまで」、アンサンブル的にいうと「はいて捨てるほどいる」のです。一方で「他のパートの奏者に比べてアンサンブル経験が不足しやすい」こと、「独奏や旋律にしか関心が向いていない人が多く、内声や低音楽器の大切や苦労に配慮できず、失礼な言動をしたりする人が多く、結果的に貴重な内声・低音楽器の人たちが嫌になって逃げてしまう」という経験を何度もしました。正直、主宰する人間にしてみれば、フルート奏者やピアノ奏者はすぐに代わりが見つかりますが、ヴィオラやファゴットに逃げられたら次は簡単に見つかりません。

一方で「音楽的な協調性」がない人は内声楽器や低音楽器にも存在します。オーケストラのような大人数なら目立たなくても、室内楽の小編成ですと、全員がバラバラな動きをするので、「音で会話できない」という人は、その人がどんなにいい人でも「あの人とだけは一緒にやりたくない」といって逃げ出す人が出てしまいます。これのやっかいなところは、前者に比べてきちんと言語で表現しにくいため、本人にも指摘しにくく、逃げられた本人がなぜメンバーが逃げてしまったのか理解しにくいことにあります。

 いずれにせよ、クラッシュが起きてしまうと、せっかく苦労して企画して編成を組んでも、本番を迎えられない、がっかり、ということになってしまいます。だんだん、クラッシュの仕組みがわかってくると、主催者が自分の責任できちんとメンバーを選ぶことが、最大のリスクヘッジだとわかってきました。

「自分のことがわかっていない人」が一番難しい

 室内楽をやっている人は独奏楽器をやっている人に比べ、協調性が高く、穏やかな性格の人が多いです。ですから、「あからさまな人の悪口」はそうそうは聞きません。その一方で、そういう人たちの中でこんな言葉が出てきたら気を付けた方がいい、ということに気づきました。

「あの人は自分のことがわかっていないから。」

 具体的にいうと、基本的な楽器の技術や理解ができていないのに、難曲に手を出してしまう人や、自分ができていないのに、周囲に過大な要求をする人、人に間違いを指摘されてもそれを認められない人、などを指します。

自分自身もそういう時期はあったと思うので、あまり攻撃的な表現はしたくないのですが、こういう人は周囲に嫌われやすく、愛想よくしていても、さらっと「ご一緒するのはちょっと…」と避けられてしまいます。

 これはその後の自分にとってもよく勉強になりました。別に「下手な奏者」が嫌われるというわけではないのです。下手でも人の話をよく聞き、過大な要求をしない、自分にできることとできないことをきちんと理解している、という人はそれほど嫌われません。

 その後、こういう「自己認識のゆがみ」は「ダニングクルーガー効果」という認知バイアスの一つだと知りました。知識や技術が浅い人ほど、自分の能力を過大に評価してして自分を守ろうとする一種の防衛反応のようです。そして、その状態のまま、ずっとうまくならない人もいます。一方で、自分ができること、できないことをよく理解して、うまい人に交じってうまくなろうとする人というのは結構いろいろな人に交じってアンサンブルを楽しんでいくことができます。

気がついたらソリストにも慣れてきた

私自身はもともとあまり主役で演奏したいと思っていたわけではなくて、合奏が楽しかっただけなのですが、少しずつ、ソロのお声もいただくことが増えました。その中でその後演劇に特に役に立ったのは「カデンツァ」というモノローグ的な部分です。合奏の中で一瞬ソリストを残して全員が演奏を止めます。それまで周りに合わせていても、この場面になると自分に集中することが求められます。最初はドキドキしましたが、やっていくうちに、メンバーと、そして聴いている人を信頼してポーンと自分の世界に飛び込んでいく感じが面白いな、と、思いました。

 さらにここから新しい冒険につながりました。バッハなどの「声楽入り室内楽」をやっていくうちに、声楽のよいソリストになかなか出会えな時期があって、「なら、自分が歌っちゃえ」と思って担当したところ、メンバーの評判がよくて、「オーボエより声楽の方が向いてるんじゃない?といわれだしたんです。」その中でも思い出深いのがヘンデルの声楽入り室内楽曲です。


自分が一番やりたかった曲をやりきった

室内楽を始めた時、私が一番やりたかった曲がモーツアルトの「踊れ喜べ汝幸なる魂よ」でした。10パート編成の壮大な曲なのですが、室内楽でアンサンブルを始めて10年目でようやくメンバーをそろえて演奏することができました。

 この曲の時は私は一番オーボエを担当しました。信頼してソロをお任せできる声楽のソリストの方にも出会えたし、第一ヴァイオリンにも10年おつきあいした信頼できる方に担当していただけたので、アンサンブルをうまくまとめていただきました。こういう大編成をいいメンバーでやるというのは本当に時間をかけた実績と信頼関係が必要となるのだなと思いました。

 私はこの曲で10年の室内楽生活に区切りをつけ、数年後にフルタイムの教職につきました。そのきっかけの一つはこの室内楽仲間としてお世話になったこの時のヴァイオリン奏者が高校の先生でその方たちにもっと近づきたかった、というのがあります。

 今はごく少数の客演以外で私が音楽を演奏することはないのですが、この10年がなかったら、私は今のようには演劇の世界を渡り歩くことはできなかったと思うのです。

音楽の自由と演劇の自由


 音楽の世界を放浪してから演劇の世界に渡ってきた私ですが、この時に経験したさまざまな引出しを演劇に援用しているのが今の状態です。音楽と演劇は私には体や心のさまざまなところで同じ感覚を使っていると感じています。

 ただ、当然、違うこともたくさんあります。

①楽器は選べるけど、自分の外見や声や身体性は選べない部分がたくさんある。男女、年齢、外見など様々なイメージでメンバーが制約される。
②一方で、クラッシック楽器のほとんどはアンサンブルに耐えられるほどのスキルは年単位で訓練しないと身につかないけれど、演劇は誰でもできそうに思われがち。
③クラッシック音楽は既成曲が基本だけど、演劇は古典をやることはむしろ少ないし、古典には古典の制約もある(なにしろ男女差が激しい)ために取り組みにくい
④演劇の方がスタッフや観客を巻き込むためどうしても規模が大きくなる。
⑤音符よりもセリフの方が制約が多い気がするけれど、声や身体より楽器の方が制約が多い気がする。

 そんなこんなで、いろんな違いも乗り越えつつ、いつか「やりきった」と思える日まで、演劇にかかわっていけたらなあ、と、思っています。

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