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公演初日、祖母が亡くなった話

どうも、後関貴大です。
タイトル通りなので、今回はほぼ前置き無しでいきます。
公開するかどうか、少し迷ったけど自分の気持ちの整理としてここに残すことにしました。



「おばあちゃん、先ほど息を引き取りました。」

母からその連絡が来た瞬間、僕は公演初日、そして本番直前の楽屋にいた。

そのとき出演していた舞台『ホテル・ミラクル The Final』は、ラブホテルを舞台とした5本の短編集。
僕はその中の、上演順が最後の作品への出演だった。

楽屋内、出番が終わった他チームの共演者と小声で談笑していると、携帯が音を立てずに振動した。
知り合いに送った宣伝の返信かと思い携帯を見ると、そこに映っていたのは祖母がこの世を去ったことを告げる母からのLINEだった。

「なんで今かなぁ」
思わず口からこぼれたのは、我ながら最低なそんな言葉だった。
本番直前の芝居のこと、自分の悲しみ、母の悲しみ、祖母との思い出、一瞬で色々なことを考え、一瞬で脳のキャパシティが限界を超えた末の一言。

3年前、祖父が亡くなった後、祖母も体調を崩しがちになっていたことは聞いていた。
もうあまり時間が無いかもしれないということまで。

入院しがちになり、母がお世話のため数週間地元に帰ったりといったこともあった為「いつか」は覚悟していたけれど、それにしてもあまりにも突然で不意打ち過ぎやしないだろうか。

その楽屋に居た中で、二人芝居の共演者だった冨岡英香にだけ祖母の死を伝えた。
誰かに伝えることで楽になりたかったのかもしれない。
それと、後関の芝居がおかしくなってたら引っ張ってほしいという意味もあった。
彼女は、それを託せる役者だったから。

迎えた本番初日、正直殆ど覚えていない。
唯一記憶にあるのは自分の長台詞を2、3文節すっ飛ばしたことぐらい。
その日、偶然にも作者の方が観劇されていた。とても悔しいし申し訳ない。

初日を終え、それぞれが開放感と充実感に包まれた楽屋を僕は一人で出て、非常階段で泣いた。
思いっきり、だけど声を殺しながら。
他の共演者の方々に必要以上に無用な心配をかけたくないし、してほしくなかった。

通夜と葬儀は別チームの本番日程だった。文字通りの不幸中の幸い。
シフトを入れていたバイト先に電話を入れ、休ませてもらうことにした。営業終了後の遅い時間にも関わらず、事情を説明したら二つ返事で了承してくれた。本当にありがたい。

それから3日後、通夜のために僕たち家族は空港へ向かっていた。
母の実家は兵庫だった。
羽田空港で蕎麦を食べてから神戸空港まで飛び、そのあとは電車移動。

神戸空港に着いたとき、祖母が車で迎えに来てくれた頃をふと思い出した。
もう迎えは来ない。そのことに少しだけ寂しさを感じた。

祖母が最後に住んでいたマンションに着く。
正確な記憶ではないが、母の生家は阪神・淡路大震災で壊れてしまったと聞いている。僕が生まれる直前の話。
その後移り住んだ家も駅から遠く、坂道が長かったためか、祖父の足が悪くなった数年前から駅近くのマンションに引っ越していた。
だから、最後に住んでいたマンション。

部屋の扉を開けると、少し埃っぽい、けれど確かに懐かしい祖母の家の匂いがした。

荷物を置くためリビングまで進んだその時、プツンと糸が切れたかのように、突然母が声を上げて泣き出した。
時間が止まったような、永遠にも感じられるような、そんな一瞬。

その姿は僕の「母」ではなく、僕の祖母の「娘」のものだった。

思わず母を抱きしめる。
僕も涙が零れていた。

少しだけ落ち着いた母に、水を飲ませようと水道水をコップに注ぎ、手渡す。
だが長い入院生活で家を空けていた所為か、もしくは単純に浄水でなかったからか、その水は飲めたものでは無かった。
後関貴大という男はこういうところでも格好がつかない。

冷蔵庫の飲み物や調味料も殆どが期限切れになってしまっていた為、廃棄することになった。

部屋の整理を他の家族に任せ、僕は東京に忘れてきたベルトや諸々を買いに外へ出かけた。
今思うとその理由は方便で、本当は一人になる時間が欲しかったのかもしれない。

駅前の店が立ち並ぶエリアを歩きながら、もうここに来ることもきっと無いのかと思うと胸が苦しくなった。

買い物を終え、通夜の時間になり葬儀場へ向かう。
祖母の家から徒歩で向かえる距離だった。

葬儀場へ着くと、地元に住んでいる母の兄である伯父と、その配偶者である伯母、そして祖父母と縁があり、僕も朧気ながら幼少期お世話になった記憶のある方(仮にAさんとする)が既に着いていた。

祭壇の近くにはタブレットが置かれており、そこには主に伯父が撮った、祖母が写った写真がスライドショーで流されていた。
祖母は旅行が好きな人で、各地での写真の横には殆ど祖父がいた。
写真を普段撮らない僕だが、大切な人との記録がこうして何枚も残っていることは純粋に素晴らしいと思える。
時折、孫と撮った写真も流れてきた。
推定小学3、4年生の貴大少年はヘンテコな柄のパジャマを着ていた。これも祖母にとって大切な思い出だったのであれば嬉しい。

祖母は無信仰者だった。
その為、通夜も葬儀も身内のみで、仏式に近いが簡潔な式典だった。

黙祷、そして焼香。
葬儀場の方の間の空いた司会進行の元、通夜は粛々と進められていった。
BGMはさだまさし。そういえば祖母が好きだった音楽を僕は知らない。

祭壇には様々な物が置かれていた。
旅行以外にも祖母は多趣味な人で、折り紙、ハーモニカ、他にも色々なものが置かれていた。祭壇にはなかったがPCも触っていて、Windowsにデフォルトで入っているソリティアを延々とやっていた記憶もある。

一度、祖母のハーモニカの発表会を観覧したことがある。もう僕が大学を卒業したあとの最近の話だ。
サークルの仲間に、東京から娘と孫が観に来てくれたと母と僕を紹介し、照れ臭そうに笑っていた。
「長くてしんどかったやろ」と帰り道、自嘲気味に僕に聞いてきたが全然そんなことはなかった。
どんなことにも挑戦する姿勢をやめない祖母の姿は、誰よりもかっこよかった。

通夜が終わり「最後に故人のお顔を是非見てあげてください」と葬儀場の方に促され、棺の中の祖母を見る。
死化粧が施されたその顔は、紛れもなく僕の知っている祖母の顔で、否が応でもその死を実感させられる。
けれどその顔はとても綺麗で美しかった。

これはあとから伯母に聞いた話だが、祖母は亡くなった日のお昼頃まで意識はあったらしい。
あまり苦しまずに逝くことが出来たのではないか、という話だ。

通夜が終わり、お茶を飲みながら全員で祖母の話をした。
車の免許取得時、練習したいからとAさんの車を借りたりと、僕の知らない祖母の話が沢山あった。

それからしばらくして、葬儀場を出て近くの「木曽路」にAさんの車で向かった。
祖父もまだ生きていた頃、家族で訪れたことのある記憶に新しい店だった。

食事を済まし、Aさんや伯父達と別れ、マンションに戻る。
しばらくして母がある提案をした。

「焼き鳥屋行かない?」

祖父母がマンションに移り住んでから、とても気に入っていた焼き鳥屋が近所にあった。
僕も一度連れて行ってもらったことがあったので、そのお店のことはよく知っている。
料理と酒で腹は膨れていたが、明日の葬儀が終わればすぐ東京へ戻る僕は二つ返事で了承した。

少し時間を置いて腹ごなしを済ませ、駅前の焼き鳥屋へ向かう。
店内の客は若いカップル一組だけだった。

折角だから祖母が好きだったものを注文しようと僕が提案をする。
そのメニューは揚げ出し豆腐だった。

いや、焼き鳥じゃないんかい。

祖父の好きだったものも注文しようと思ったが、これまた焼き鳥ではなくお腹に溜まるものだったので、泣く泣く揚げ出し豆腐と焼き鳥数本、そしてビールを注文。
揚げ出し豆腐は、アツアツでとろけるように美味しかった。

母が店の方に祖父母のことを伝えると、祖母がボトルキープに使っていたタグを渡してくれた。
向こうでもお酒が飲めるように、出棺の際にこれも入れようという話になった。

再びマンションに戻り、明日の支度をして眠りにつく。
身体に溜まった疲労というものは正直で、グッスリ眠ることが出来た。


翌朝、目を覚ます。天気は曇り。
まだ食べられる冷凍食品をレンジで温めた。
母が入れてくれたコーヒーを飲みながら、よく祖母が朝に作ってくれたピザトーストやサンドイッチのことを思い出した。

昨日と同じ葬儀場へ向かう。
Aさんは仕事の都合で葬儀に出席出来なかったので、伯父と伯母に一日ぶりに会った。
昨日と同じく、葬儀場の方の間の空いた司会進行の元、葬儀は粛々と進められていった。
BGMはさだまさし、だけでなく祖母が吹いていたハーモニカの楽譜の曲も流れていた。
楽譜を読んだ葬儀場の方が、同じ楽曲を探してくれたらしい。

出棺の為に、花や持ち物を棺に入れる。
ハーモニカの楽譜、折り紙で出来た雛人形、ボトルキープのタグ、水着、色々なものを詰め込んだ。
祖母の顔の横にキムチのパックがあったのは少し可笑しかった。
ただ、何かが祖母の肌に触れたとき、少しだけ弾力があったのが生々しさと切なさを感じて、また涙が溢れてしまった。

全部を詰め終わり、棺の蓋が閉じられる。
先にエレベーターで向かうよう促され、現実感のない足取りで僕は入口に向かった。

棺が霊柩車に運び込まれ、車でその後を追う。
今更ながら葬儀場や火葬場で働く人達は、遺族の悲しみとそこで働く自分のメンタルにどう折り合いを付けているんだろう。移動中そんなことをふと考えた。

火葬場は木々に囲まれた小綺麗な場所だった。
やはり粛々と焼香があり、やがて祖母の身体は焼かれていった。
あっさり。そんな感じだった。

焼き終わるまでの時間、昼食を別の場所で取ることになった。
僕はコロナ禍で参加出来なかったので知らなかったのだが、祖父の葬儀のときも同じ店だったらしい。
店を出て駐車場までの道のりで、伯父にこの辺りはその昔温泉街だったという歴史を聞いた。初耳。

再び火葬場へ。
収骨室の空気は、空調が効いているのになんだかとても重たく感じた。

運び込まれてくる祖母の身体だったもの。
人の骸を直接見るのは、中学生のとき父方の祖母が亡くなった以来だった。

どこからどう見ても骨。
だけど、その頭蓋骨には祖母の面影があった。

火葬場の方から、何がどこの骨なのか説明が始まる。
まるで博物館か美術館の説明のようで、どこか可笑しかった。思わず「へー」と言ってしまう。

あとで調べたのだが、この解説にはグリーフケア(死別の悲しみを抱える遺族へのサポート)の意味もあるらしい。

このnoteもある種セルフグリーフケアとして書いているつもりだ。

収骨を終え、骨壷に祖母の骨は全て納まった。
降るかもしれなかった雨は殆ど降らず、曇天の中、僕の祖母の葬儀が終わった。

マンションに戻り数時間、葬儀場の方がやって来て祖母の家に祭壇が置かれた。
祖母の遺影はよく知っている笑顔だった。


仕事と公演の都合で僕だけ一人、先に東京に帰ることになった。
祖父母が亡くなった以上、兵庫に来ることはもう滅多にないだろう。伯父達は別で暮らしているので祖父母が住んでいたマンションもいずれ引き払うらしい。
だけど、それではあまりにも寂しいから僕は伯母とLINEを交換した。遊びに行ける口実を作るために。

荷物をまとめ、マンションを後にする。
電車で神戸空港へ向かい、飛行機に乗る。
東京に着き、帰宅した頃には夜と深夜の境目のような時間だった。


生前、祖母は毎年僕の誕生日をLINEで祝ってくれていた。

とうとう、また芝居を観てもらえる日は永遠に訪れなかった。
それが、今はただ哀しく、寂しい。

そして「いつか」は本当に突然なんだなと、改めて実感した。
僕は出来るだけ遠くあってほしい両親との永遠の別れを、今回の件でどうしようもなく意識している。

「いつか」は必ずやってくる。
人は生まれたら、必ず死ぬ。

頭ではいくら理解していても、感情がそれに追いつかないのは、それだけ思い出があるからなのだと思う。

別れが辛いのは、その人と共に過ごした時間がそれだけかけがえの無いものだったのだ。

今は、無理ない程度にそうポジディブに捉えようと思う。


おばあちゃんへ。
僕はあなたの孫で本当に良かったです。
グータラで沢山迷惑かけてごめん。大学を一年留年したとき借りた学費も、お母さんに内緒で結局ちょこっと金額オマケしてもらったの、やっぱ良くなかったかなぁと反省してます。
またいつか会いに行くね。
ずっと、ずっと後になると思うけど、そのときにはおばあちゃんの様な誇れる人間でありたいなって思ってます。
だから今はじいちゃんと二人でゆっくり休んでください。本当に今までありがとう。

ではでは。

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