"校舎は全てを知っている。" シンプルだが好きな表現だ。 それまでついた嘘も、こっそり隠れて交わしたやりとりも。全ての思い出を、校舎だけは静かに見てきた。この捉えには、畏敬の念に近いものを感じる。 校舎は全てを知っている。 卒業期に、また子どもに投げかけたい言葉だ。 しかし、学校に来ていない子達のことを知っているのは何だろう。彼らを知る人、知るものは何だろうと意識することを忘れてはいけない。
最近、一日に同時に国語と道徳の授業があったので、両者を比べて、ふと考えさせられたことを記録しておく。 中学3年、国語の授業は『おくのほそ道』。生徒が中2までの国語で何を押さえて学習してきたのかは分からない。ある程度生徒とやり取りしてそれを確かめる。すると、少なくとも視写という言葉を知らないことが分かった。 なら、教えてあげればいい。その意義、方法と、実際に生徒がやってみた後の活動価値のフィードバック。具体的には、暗唱部分と視写練習の範囲を一緒にして、その効果を体感しやすく
先日、勤務校のパートナー校(小学校)の全校研に助言者補助として呼ばれたのだが、授業後の討議ではもっぱら【AARだから…】という言葉が飛びかっていた。 小学校は今年度、教科書が改訂された(中学校は来年度)。そのタイミングで、札幌市がAARを大きく打ち出して「学びは子どもがコントローラーを持つことが大切だ」という考えを教師に持たせようと、まずは小学校で普及させようとしている。 しかし、議論では、現場の先生方が「AARだから教師側は〜〜ができない」といった「縛り」「不安」「窮屈
生成AI時代の到来に伴い、国語教育も転換を迫られています。 とはいえ、ただ焦るよりもこれからの時代、技術革新によって「何を得られ」「何を失うのか」ということを整理して我々教員も進んでいくべきだろう・・・ということで、昨日セミナーが行われ、登壇しました。 〈告知一部引用〉 THE 生成AI時代~国語科授業改革セミナー2024皐月in札幌 日時:2024年5月11日(土) 09:10~16:50 会場:札幌市産業振興センター 登壇者:西村弦・冨樫忠浩・髙原隼希・太田充紀・髙
初めての学年主任を、2学年からここまで2年間務めた。 その学年の卒業式が、来週に迫っている。 この卒業期で強く感じていることは、「何を言おうが伝えようが、1週間程度で子どもをコントロールすることなどできない」ということだ。3年間の関わりが、この1週間を決めている。逆に、1週間でうまく言葉にできない思いがあっても、3年間の関わりがそれを補ってくれることもあるのだろう。 2年間(実質3年間)、幾度となく子どもたちに成長や変化を求めてきた自分の関わりが、子どものこの1週間の態
3月に入り、早くも「学級開きをどうしよう」という若手教諭の声がちらつき始める。 藤倉先生はどうするんですか?と聞かれても、これがなかなか役に立たない。 そもそも、僕のスタンスが「学級開きってそんなに気合い入れるものなんですか?」という程度のもので、お世辞にも気合いが入っているとは言えない(笑) 大体にして、教育というものは日々の積み重ねがものをいうのだ。学級開きでこれをやらなかったから、1年間、取り返しのつかない刑に処されるというものではない。むしろ、逆なのだ。学級開き
世を賑わせ続ける「主体的に学習に取り組む態度」の評価について意見を見ると、そのほとんどが概念自体への文句か、「こうすればクレームもこない、説明責任も果たせる」という言い訳的な類のものである。 まぁSNSを見ているだけだから、そんなものかと言えばそうなのだが、これがなかなかどうして、校内研修会レベルでも同じ現象が起こることがある。 しかし、こんな仕事の仕方は正しい姿なのか。正しい正しくない以前に、楽しいものなのか。 もっとシンプルに「どうやったら子どもの学力向上につながる
歌詞道徳は、なかなかできない。少なくとも、今の自分にはできないと思っている。 理由はいくつかある。 まず、内容項目が決まる。その次に、その候補となる歌詞を打ち込んで広げてみる。しかし、手が止まる。「あ、ここのこのフレーズが「キモ」だな」と一瞬は思うものの、他のフレーズとの観念的な整合性が合わないことにすぐ気づいてしまう。「なんか、薄っぺらい思考階層で終わるな…」と、そこで思考が止まってしまうのだ。 また、上記の問題を解決するための教材研究の時間が取れ(取ろうと思わ)ない
キセキ (忘れた) 未見の我を発見せよ おかげさまで ポップコーン(学級目標タイトル) DIVE DIVE Reset&Start DIVE 澪標 学級通信も様々なタイトルを変遷します。 学級通信のタイトルを自分で決めていると、昔のタイトルを振り返る際、その時の自分の思いやスタンスが現れていることがわかるものです。 現在は「澪標」(みおつくし)。掛詞。決して身を滅ぼすまで立ち向かうという原義ではないと説明しつつ(笑)、全力を尽くそうという願いを中3にこめている。 直感
“「犬」や「猫」、「馬」…その共通点は「動物」であることだ。“ この思考過程を「抽象化」という。中学生が国語科で学習する知識である。 この位置関係から考えると「動物」が上位語であり抽象概念である。逆に「犬」は動物の具体と捉えていることがわかる。 しかし、「犬」は本当に具体と言えるのだろうか。当たり前のことだが、犬にもたくさんの種類がある。柴犬もいれば、シェルティドッグもいる。これらの細かい犬種から見ると、「犬」が抽象概念であることがわかる。 つまり、「具体と抽象」は、相
道徳授業を作る際に、他教師に事前にインタビューした内容を教材として扱う人がままいる。「生命の尊さ」をねらいとする授業なら、「先生たちにとって「我が子が生まれた瞬間」ってどんな感じでしたか?今度の道徳の授業で生徒に示そうと思うんですよね、差し支えなければ教えてください」といったことである。 生徒が「お、自分たちの知らない、学校の外での先生たちの話だ」となり、生徒を「のせる」ための仕掛けとして機能させたいのだろう。 その意図はわかるが、これがなかなかどうして、授業として最後ま
教育関係のブログを、ジャンル別に分けて記録していきます。 見ていただいた皆さんに何か届くものがあれば幸いです。