見出し画像

不動産鑑定士になった訳

20年以上前の話であるが大学生の自分を思い返すと、世間に疎く将来を過度に楽観的に考えていた。
大学2年時に親からの勧めもあり宅建を取得した。資格も取ったし、あとは社会に出て不動産デベロッパーに入ろうと安易に考え、碌な努力もせずに大学生活を送っていた。

いざ就職活動を開始してみると就職氷河期真っ只中で宅建を持ってるだけでは採用には至らず危機的な状況に陥った。
周りの友人も苦労をしており、先行きが見通せない状況だったと思う。
そんな折に、大学の生協で不動産鑑定士は公的な仕事で年収1000万円稼げるとのチラシを見て「コレだ!」と目標を定めるのだが、論文試験の難易度を理解しておらず辛く苦しい修行の時間に突入した。
不動産関連の最難関だけあって宅建の1000倍くらい難しいと実感した…

遠くの資格学校に通う傍ら、大学の図書館にも通い、朝から晩まで(昔ながらの根性論で)ひたすらノートに書いて覚えるようにした。論文試験に慣れるためにも相当な冊数を使ったと思う。
ただし、すんなりと受かるわけもなく苦労の日々が続いていく。
不動産鑑定士の2次試験は年に一度8月の暑い最中に3日間連続して試験があり、初日は民法と行政法規、2日目は経済学、会計学、最終日に鑑定理論が午前と午後に実施される過酷な試験であった。
3日間体調を維持しなければならず、しかも行政法規以外は論文なので頭も身体(特に腕)も全力で働かせて取り組む自分との闘いのような試験である。

そのような過酷な試験を終えて数ヶ月後に結果が発表されるのだが、特にA判定(不合格者の上位100位以内)で落ちた時には心が折れそうになり、しばらくはやる気を失ってしまった。
その翌年には何とか合格することが出来たが、いまだに不合格となる夢や大学を卒業できない夢を見ることがある。
自分の脳裏に苦しい記憶として埋め込まれているんだと思う。
就職氷河期の期間と重なっていた同世代では同じような思いや経験をされた方々も多いのではないかと思う。

勉強期間中は休憩時に大学のベンチに一人で座っていたが、客観的に自分を見て何者にもなれていない惨めな思いとともに、いつかこの時の経験を糧にして活躍したいとの思いを強く持って取り組んだことが今も記憶に残っている。
ただし、合格することが出来なければ今の状況から何も変わらないため常に焦りも抱えており、まさに背水の陣で臨んでいたと思う。

大学を普通に卒業するより遅れ25歳になる年に不動産鑑定士二次試験合格者として社会人となるが、合格しているとはいえ就職活動は決して順調ではなかった。当時はメールやFAXを使い日本不動産鑑定士協会(現、連合会)のホームページで求人を出している事務所に片っ端からコンタクトを取った。未経験者ということで不採用となることも多かった。
そのなかで、採用頂いた鑑定事務所へ勤めることになったが、ここでの経験が後のキャリアに繋がっていったように思う。

特徴的だったのが当該会社が不動産鑑定業に限らず不動産ファンド業や不動産仲介業、投資業など幅広く手掛けており銀行や証券会社など金融機関出身の方も多く働いていた点だ。
多様なバックグラウンドの方々と一緒に働かせて頂き仕事ぶりや考え方など見習うとともに、不動産は金融と両輪であり、金融について理解することの重要性や大企業で働くことについて興味も出てきて、その後縁あって銀行へ転職することになった。

鑑定士の見習いとして遅くまで仕事をしていたが、鑑定以外の様々なことも経験させて貰えるため、毎日がとても充実しており実務を積むことができた。その後実務補修を経て不動産鑑定士補の登録を終えた。
3次試験を受けられる状況まで来た。

不動産鑑定士の3次試験についても論文試験で難易度が高く、銀行に転職してから何とか受かったがその時のことは、別の機会で記載したい。
振り返ると鑑定士の2次試験受験時の忍耐や、目標達成のための努力、合格したことによる自信など勉強以外で得られたことが多かったように思う。

色々と脱線したが、自分が不動産鑑定士を目指した要因としては就職氷河期であったことが大きい。今となっては、厳しい市況であったことが成長に繋がったと思っている。

いいなと思ったら応援しよう!