集まって考える

 書くことがない。でも、書く。
 いつもと違って書きたいことがないということをネタにNoteと向かい合っている。これを書くのはあくまで暇つぶしのためである。
 こないだ研究会で、講座の中で、なかなか学生に文章を書くことを促せないと話をしたところ、「問題意識がないと書けないよ」と言われたが、果たしてそうなのか?確かにそうであろう。全ての行為には暗黙のうちに目的がある。この文章を書くのも暇つぶしという目的がある。暇つぶしのための文章書きということでは、問題意識は何なのかということを考えてみると、これが実に難しい。少し考えてみると、自己を問い直すためというのが問題意識に該当するのかもしれない。僕は、日々自己を掘り続けることが人生にとって重要だと考えている。それを残しておくというのが書くという行為である。他者の思想に介入することは難しいのである。
 今日は、学生時代から関わりのある後輩を中心とした研究会の日だった。発足して3年くらいになるが、どうやらそろそろ50回目くらいになるそうだ。なかなかいいペースで続いている。それもこれも少数で行っていることと、会の度に次の日程と報告者を決めるということが肝なのであろう。読書会や研究会は、一冊読み終わった後で次何を読むかを議論しているうちになんとなく自然消滅することが多い気がする。このような研究会が継続されていることは僕にとっては非常にありがたい。大学教員の端くれとして日々生活しているのだが、同僚と腰を据えて研究の話をする機会がない。同僚との話というのは、学園本部の愚痴や学生対応をどうするか、諸々の雑談ばかりである。こんな話に嫌気がさして、最近は必要がなければ同僚とはあまり話さないようにしている。距離を取るって大事。となると、自分の研究の話をする機会がなかなかない。「休日にご苦労さん」と言われたこともあるが、この研究会で自分の研究の進捗報告や他の人の研究の話を聞いて、みんなでああだこうだ議論する時間は僕にとって必要な時間なのである。むしろ休日の醍醐味になってきている。研究者なんだから研究の話しようぜというごく当たり前のことが通用しない特異な空間にいると、こういう当たり前が非常に嬉しくなる。自分の研究の穴を指摘されることは、自分の見えていない部分が見える、自分の研究に新たな価値を見出すチャンスなのである。僕の人生のテーマである「自己を掘ること」の最たる例で、自分の好きなことに関する理解を更新する最高の機会である。バフチンの対話論の中にあるように自己を豊かにするには他者の声が必要なのだ。
 僕らの場合は研究会もしくは専門書の読書会だが、小説の読書会なんていうのもいいかもしれない。小説についての解釈をみんなでああだこうだ議論する。その人なりの読み方に触れ、自己の読み方を更新する。こんなこともしてみたいなと思いながら、明日の仕事に備える。

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