カシモフの首【小説】 Ⅲ.草原の首都開発 ③
「ほう、美智さんは『草原のいしぶみ』を読まれたんですか。すばらしい! 近年のケネサリー・ハン再評価の流れは、シャハノフ先生のあの著書なくして語れません」
事務机の向こうに座る男は、にこやかに、大仰なしぐさで両手を広げてみせた。
彼がくれた名刺には、「NPO法人 ケネサリー・ハン報恩事業会 会長 アイベク・ジュヌーソフ」とあった。ケネサリー・カシモフ直系の子孫として、首の返還運動に取り組んでいるという。
年齢は五十過ぎというところ。四角い顔に灰色の硬そうな髪。柔道家のように横に広く、がっちりとした体型だ。一方、物腰は柔らかく、かなり流暢な英語を話す。美智を「美智さん」と、日本語のさん付けで呼ぶ。朴訥としつつも如才ないところが、いかにも社会事業家らしい。
この日は建設現場が休みで、美智は朝から再び旧市街の文化センターに入居するNPOの本部事務所を訪れていた。こじんまりしたオフィスの壁には、何枚もの額入りの賞状とともに、アイベク当人が大写しになったポスターが掛かっていた。同じ写真を使った大小のパンフレットがスチール棚の上に平積みされている。まるで選挙事務所のような雰囲気だ。
「あの本にかぎらず、ですけど――」
美智はおずおずと切り出す。
「カシモフの首はロシアへ持ち去られたというのが定説になっていますよね。でも、確たる証拠もないのに、どうしてそれがサンクト・ペテルブルグのクンストカメラにあると信じられているんですか?」
「話はソビエト時代の一九五〇年代にさかのぼります」
アイベクは待ってましたとばかりにまくしたて始めた。
「ある時、一人の少壮のカザフ人学者がレニングラード――今ではまたサンクト・ペテルブルグとなりましたが――のソ連科学アカデミー東洋学研究所に出向していた。この若者がクンストカメラの古い収蔵品目録を調べていて、その中に『ケネサリー・ハン、遺骸(頭部)』という項目があるのに気づいた。彼は博物館の展示室で実物を見つけることはできなかったが、母国に戻ると、このことを知人に漏らす。そこからカザフ知識層の間にカシモフの首発見のうわさが広まったのです。
当時のことを調べてみると、興味深い事実が見えてくる。まさにちょうど同じころ、正確には一九五四年十一月、ソ連邦共産党書記長フルシチョフがふらりとクンストカメラを訪れているのです。その展示内容を見た彼は、鶴の一声で博物館を閉鎖させた。ホルマリン漬けの奇形児やら、エカテリーナ一世の愛人の頭部やらが、真の科学知識を求めるソビエト青年にとってなんの役に立つのか、と激怒してね。
一九五四年といえば、『バージンランド・キャンペーン』が始まった年です。カザフスタン北部の平原を小麦の大生産地にしようというこの政策は、フルシチョフ自身の肝いりだったとされている。私の言いたいことがおわかりですか?」
「フルシチョフのクンストカメラでの振る舞いは、カシモフの首の存在を隠ぺいするための演技だった?」
美智が半信半疑で言うと、アイベクは歯を見せてにやりとした。
「そう勘ぐりたくもなりますよね。ソ連の食糧事情を左右する重要プロジェクトの開始にあたり、百年前のカザフ人首領の首が現地の民族主義に火をつけかねないと心配されたのは当然です。
ここからは私の想像ですが、クンストカメラを訪れた時、フルシチョフは非公開品であるケネサリー・ハンの首を見せられたのではないでしょうか。彼はすぐにそれが持つ政治的リスクを理解し、一芝居打って博物館をいったん閉めさせた。首はその際、他の不都合な品とともにどこかへ隠された……。
実際、翌一九五五年、まるで何事もなかったかのようにクンストカメラは再開しています。展示内容も前とほとんど同じ。もちろん、改訂された収蔵品リストにハンの首はありませんでした。
現在、博物館側はかたくなに否定しますが、ケネサリー・ハンの首は今もあそこにあると私は信じている。ロシアでそのような品を扱う機関というと、クンストカメラのほかには考えられません。我々のNPOは設立以来、ハンの遺骸の返還を強く求めてきました。必ずやこれを実現し、ハンを故国の地に手厚く埋葬したいと思っております」
すぐには話の内容を消化できず、美智はやっとのことで口をきいた。
「すごく、すごくおもしろいことを聞かせていただいて……」
ふふふとアイベクは苦笑いしながら、
「あまりにも込み入った話でしたかね。そうだ、美智さん、ちょっと散歩に出かけませんか? 文献ばかりひっくり返していてもつまらない。ケネサリー・ハンゆかりの場所をご案内しましょう」
アイベクと美智は建物を出て、共和国通りでタクシーを拾った。車は走り出してすぐにケネサリー通りへ折れた。首都移転前まではカール・マルクス通りと呼ばれていた通りだ。
街には春の光があふれていた。枯れ木のようだった街路樹が小さな新芽を吹いたのは十日ほど前のこと。またたく間に樹冠全体が緑の粉をまぶしたようになり、今ではあたり一面が新緑に包まれている。
ものの数分でソ連時代に造られたというこじんまりしたサッカースタジアムの前に着いた。鉄柵越しに中をのぞくと、観客席は一層だけ。屋根は部分的にしか架かっておらず、色あせたベンチがなんともわびしげだ。
二人はスタジアムの脇を歩き、新築の高層集合住宅の谷間を抜けた。にわかに視界が開ける。イシム川の川べりへ出たのだ。
美智がアスタナに着いた日、この川は真っ白に結氷していた。迎えの車の窓から目を凝らすと、両岸を徒歩で自由に行き来する人々の姿が見えたものだ。それが今では、幅百メートルを超える黒くとろりとした水面となっている。
こちら岸には街灯やベンチを備えた遊歩道が整備され、真新しい高層住宅がずらりと立ち並んでいる。目のちかちかするような黄色やオレンジの外壁。マンサード屋根が架かっていたり、小さなロトンダが載っていたりと、凝った冠飾を施したものが多い。この陽気な建築アンサンブルは、向こう岸のアスタナ市公園の緑と好対照を成している。
護岸の欄干にもたれ、アイベクがおもむろに口を開いた
「ここなんですよ、この町の起こりとなったロシアの要塞があったのは」
美智は思わず、ええっ! と大きな声をあげた。
「カシモフが攻撃したというアクモリンスク砦がここに? なんにも残ってないんですねぇ。石碑のひとつすらないなんて……」
「がっかりさせてしまいましたか? たしかに今ここに立ってみても、往時の様子を思い浮かべることはできません。ロシア側の史料によると、砦はさっきのスタジアムのあたりを中心とし、この川岸を除く三方を濠と築堤で囲まれていました」
アイベクが慣れた口調で続ける。
「十九世紀前半、ロシアがこの場所に砦を築いたのには理由があります。ここはロシア隊商の南下ルートと東西に流れるイシム川の交点に当たっており、特に危険な場所とされていました。平坦で見晴らしのよいステップにあって、川沿いは少し落ち込んでいるうえ、灌木の茂みもある。遊牧民が隠れて待ち伏せし、襲撃してくることが多かったのです。だから現地民を監視し、ロシア商人を守るための拠点が必要だった。ちなみにアクモリンスクという名前は、ここからそう遠くないアクモラの丘に由来しています」
「それを聞いて、少し想像の手がかりがつかめた気がします。身をかがめて草木の間に潜む遊牧民たちの顔が目に浮かぶようですね」
美智がにっこりほほえみ返すと、アイベクは重苦しい顔つきで押し黙っている。なにやら様子がおかしい。やがて彼はあたりをはばかるように声をひそめ、
「先ほどケネサリー・ハンを故国にお迎えするのが夢だと言ったでしょう? 実はですね、美智さん、ハンはもうこの町にお帰りになっているのですよ」
美智は息をのみ、返事もしないまま固まった。
どういう意味だろう。この男は例の話――昨年の秋、カシモフの首がクンストカメラから盗み出されたらしいという話――を知っているのか? いやそれどころか、ひょっとすると首の盗難そのものに関与しているのではないか?
「さあ、参りましょう。一世紀半の時を超え、再びこの地に戻られたケネ様のもとへ!」
今度は高らかに言い放ったかと思えば、アイベクは先に立って遊歩道を歩き始めた。いぶかしみながらあとについていくと、イシム川はすぐ上流で大きく右へ向きを変えていた。ちょうどその曲がり角のところで、小さな円形広場が水面に張り出している。
「なあんだ」
美智は嘆声を漏らし、その場でひとしきりアイベクと笑い合った。
小広場の中央には、堂々とした騎馬像が立っていた。近づいてみると、はたしてそれはケネサリー・カシモフの像だった。赤御影石の台座だけで五メートル、ブロンズ製の本体を合わせると十メートル以上の高さがある。
軍馬は跳躍に備えるように後ろ脚を曲げ、右の前脚を持ち上げている。馬上のカシモフ公はうろこ鎧の上にマントを羽織り、つばを折り返した遊牧民の帽子をかぶっている。像はすっかり完成しているように見えるが、まわりを一部、鉄パイプ製の足場で囲まれていた。正式なお披露目は少し先のようだ。
油断なく川面をにらむ騎馬姿のカザフ・ハン。美智は彫像の峻厳な顔を見上げつつ、
「おもしろいですね。町を拓いた者ではなく、破壊を企てた者が最後にそのシンボルになった」
アイベクが目尻にたくさんのしわを寄せてうなずく。
「いや、まったく同感です。これ以上の歴史の皮肉があるでしょうか」
それから彼は、カシモフ亡きあとの町の歩みをごく簡単に語った。
ケネサリーの死によって、カザフ民の反乱は完全に終わりを告げた。十九世紀の半ば以降、アクモリンスクはこの地における交易の中心、鉄道の要衝として発展していく。町の成長に伴い、砦の濠は徐々に埋められ、築堤は取り壊された。
二十世紀前半、ロシア革命と内戦の影響により、アクモリンスクは一時停滞する。第二次世界大戦中にはスターリンによって、ドイツ人、チェチェン人、イングーシ人、高麗人、ポーランド人その他の少数民族グループがここへ強制移住させられた。
その後、フルシチョフ主導で例のバージンランド・キャンペーンの中心地に選定され、一九六一年にツェリノグラード――文字どおり「バージンランド・シティー」の意――と改称された。この町はカザフ草原の中核都市として整備され、ロシアからの入植の橋頭堡となっていった。
次の転機が訪れたのは二十世紀の末だ。一九九一年、ソ連邦崩壊という事態を受けてカザフスタン共和国が独立した。首都がアルマティからこの町に移転されたのは一九九七年のこと。その翌年にアスタナと改名され、現在に至っている――。
話が途切れると、二人は円形広場のへりに立ってまた川面を眺めた。小さな遊覧船がすぐ目前を横切っていく。打ち寄せる波紋を目で追いながら、美智はアスタナの未来に思いを馳たた。
二十一世紀の初め、攻守ところを変え、遊牧民の末裔たるカザフ人たちがイシムのほとりに砦を築く。左岸に新都心を建設し、右岸の既存市街地と合わせてカザフスタンの新しい首都とすること。それはロシア系人口の多いこの地を「カザフ化」し、強大な隣国ロシアを牽制する重要な手段だ。
彼らのねらいは、政治的にも心情的にも、じゅうぶん理解できる。だが一方で、新たに現れつつある都市景観に強い違和感を覚えるのはなぜだろう。この腑に落ちない気持ちはどこから来るのだろう。それはたぶん……。
不意に沈黙が破られた。
「この町の新建築は出来も悪いし、なにもかもが作り物めいている。美智さん、そうお思いでしょう?」
「ええっ? あの、けっしてそんなことは――」
「いえ、それでいいのです。本当にそのとおりですから」
美智ははっとアイベクの顔を見直した。アイベクは前を向いたまま話し続ける。
「たとえばこのイシム川です。こうやって眺めていると、川幅の広い大きな川のように見えるでしょう? でも実はこれ、ソ連時代に始まった拡幅工事によるものなんです。ちょっと郊外へ出るとわかることだが、本来イシム川は水量が少なく、葦原に覆われて水面がよく見えないほどです。それを、町の見栄えを良くすることを目的に、上流と下流に堰を築いて広い川面に作り替えた」
美智はあらためて注意深く川を観察した。たしかに水面がまったく動いていない。
「水量が多いように見えて、実はほとんど流れが止まった川。うわべは派手だけれど、ひどく作りの悪い建物。せっかく木を植えても、うまく育たない。強い風と塩分を含んだ地下水のためです。やっつけ工事ばかりだから、春先に解氷と結氷を繰り返すたびに、アスファルトや歩道の敷石はぐずぐずと崩れていく……。石油や鉱物資源から得られた富が気前よくつぎ込まれていますが、姿を現しつつあるのはそのような張りぼての町なのです」「驚いた。そんな言い方をする人に会ったのは、アイベクさんが初めてです」
「すごい速さで開発が進む一方、真心や誠実さといったものがなおざりにされている。それが心配なんですよ。こんな時だからこそ、我々はいったん自らの出自に立ち返る必要がある。私は常々、ケネサリー・ハンの再評価がその一助にならないか考えています。困難な時代にあってもハンは安楽な人生を選ばず、カザフスタンの主権と独立を守るために努力された。彼の首を取り戻すことは、人々が真の名誉や誇りについて考えるきっかけになるのではないか、とね」
美智は思った。なんだ、ちゃんといるじゃないか、まっとうなカザフ人男性も、と。
アイベクが腕時計を見て、自分はそろそろオフィスに戻らねばと言った。おうちまで車でお送りするという彼の申し出を、美智は丁寧に断った。ここから歩いて帰れる距離ですからと。
「おや、ハミードフ氏のところに住んでらっしゃるのか。ああ、世界平和宮殿の関係で。なるほどなるほど。ではまた、いずれかの機会に」
四角ばった後ろ姿を見せながら、アイベクはのしのし歩き去っていった。
ひとりになると、美智は川辺の欄干に寄りかかり、再び物思いにふけった。
新築であれ、改修であれ、今行われている開発に通底する一つの欲求がある。まずロシア帝国、次いでソ連邦によって築かれたアスタナの都市基盤。それをどうにかして新生カザフスタンの物語に組み入れたいという欲求だ。そこでケネサリー・カシモフが格好の素材として呼び出され、いわば護国の神とでもいうべき地位を占めた。
この集合的熱狂の延長線上において、サンクト・ペテルブルグでの首の奪還が行われたのだろうか。カシモフがこの町で持つ意味を知ったあとでも、おいそれとは信じがたい話だった。ましてやそこにナースチャが関わっているなど……。あの子が東京で見せた仕事への情熱、創造への情熱は、もっとこう内的、個人的なものであったはずだ。
徐々に見えてきた事の全体像の中に、ナースチャはやはりしっくりと収まっていない。少なくとも美智が思うかぎりでは。
――あっ……?
ふと誰かに見られているような気がしたのはその時だった。背中にじかに触れてくる強い視線。広場を振り返ると、カシモフ像の台座の後ろに背の高い人影がすっと隠れた。あるいは、そんなふうに目の端でなにかが動いた。
美智は水辺を離れ、急いで彫像のそばに戻った。意を決して裏へ回ってみる。そこには誰もいなかった。
あたりにはのどかな休日の陽気が漂い、家族連れや若者たちがまばらに行き交っていた。美智は台座の壁面に片手をつき、もう一度巨大な騎馬像を振り仰いだ。どうやらそのいかめしい雰囲気に当てられ、真っ昼間からありもしないものを見たらしい。
気が抜けたように立ちつくしていると、靴底がなにか硬いものを踏んだ。足元を見れば、石の舗装の上に木くずのようなものが落ちていた。いくつかぱらぱらと。ひざをかがめ、それを一つ手に取ってみた。
赤茶けた色で、長さは二センチほど。両端がとがっており、特に一方の端は針のよう鋭くなっている。ごくかすかだが甘いにおいがする。
「なに、これ? 植物の種……?」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?