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カシモフの首【小説】 幕間: ドミトリー、事の背景を知る

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 その日の夕刻、ドミトリーが美智と落ち合ったのは、旧市街の共和国通り沿いにある安レストランだった。
 アメリカのダイナーをまねたような気さくな雰囲気の店だ。大きなガラス窓から西日――近ごろはすっかり日が長くなった――が射し込み、店内は真昼のように明るい。見まわせば、仕事帰りの人々や学生らしき若者たちでずいぶんにぎわっている。
「世界平和宮殿は、国際会議場ではない……? どういうことなんだい、それ」
 ドミトリーは虚をつかれ、ブース席の向かいに座る美智をまじまじと見返した。
 アーモンド色のショート・ボブと澄んだ優しい目。紺と白の縦縞シャツにデニムのパンツという春夏の装い。久しぶりに再会した美智には、やはりはつらつとして温かい雰囲気がある。一方、気がかりなのは、その浮かない表情と片ほおに貼られた大きな絆創膏だ。現場で転んだ際、鉄筋に引っ掛けたらしい。
「実をいうとね、平和宮殿の用途は変更されつつあるようなんだ。今、私が建てているのは国際会議場なんかじゃない。あれはたぶん巨大な墓、いわゆる『マウソレウム』だよ」
 美智はそこでいったん言葉を切り、テーブルの上のビールを取ってごくごく飲んだ。やがて吐息とともにグラスを置くと、彼女は堰を切ったようにまた話し出した。
 まず、昨年の晩秋、東京でハミードフが要求した設計変更について。いくら新首都を象徴するモニュメントだからといって、なぜ施主が国際会議場としての機能を損なうようなことまでするのか、美智にはまったく解せないことだった。しかし、今ならわかる。その真意は、建物の構成をカザフスタンの伝統的な宗廟建築に近づけることにあったのだ。
 頂部を除いてピラミッドの外装を石張りに変えたり、最上階の小会議場を取り払おうとしたりしたのは、ドーム天頂の開口からのみ採光するという原則のためだ。また、地下大会議場を集中式プランにせよとは、言い換えれば、廟建築は明確な幾何学的中心を持つものだということ。そして西側出入り口を廃止させたのは、墓室を素通りしてその裏へ抜けるような動線は、廟としてふさわしくないからだろう。
「そんなこんなで、ピラミッドの2階から8階までの業務フロアは窓が無くなって――いっさい窓なしだよ?――回廊を介してアトリウムに面するだけとなった。特に7,8階フロアは、アトリウムが上へ伸びたせいで削られちゃって、やむなく機械室にされた。9階レベルに吊り下げられる新しい小会議場は実用的とは言えないし、一種の展望スペースみたいなものだよ。さあ、これでもまだ国際会議場と呼べる?」
 美智が語尾を跳ね上げるようにして問う。ドミトリーはビールをひと口すすってから、
「世界平和宮殿は、今や国際会議場から霊廟に作り変えられようとしている。で、君は言いたいんだな、そこにケネサリー・カシモフが祀られると」
「そういうことだろうね。もしあなたが言ったとおり、本当にその首がロシアから持ち出されたんだとしたら」
「去年の秋の初めにサンクト・ペテルブルグでカシモフの首が奪取された。それを受けて秋の終わりごろ、東京に平和宮殿の設計変更が命じられた――」
 美智はうなずき、
「とっぴな話だとは思う。でも、施工が始まってからも、そう考えざるを得ないようなことが起こってる。たとえば、地下大会議場の内装用建材の発注は遅れている。施主がコントラクターの提案書の承認をずるずると引き延ばしているんだ。おかしいでしょ、一方ではしきりに工事を急がせておいて」
「この先、大会議場が墓室に改造される前触れってわけか」
「さらにもう一つ。知ってる? 最近になって、大きな会議場を備えた新しいコンベンション・センターの建設計画が持ち上がっていること。敷地は、平和宮殿から東側の大通りを挟んで目と鼻の先だよ。こんな近くに似たような建物を建てる理由はなに?」
 でかした、美智! とひざを打つことこそしなかったものの、それはドミトリーにとって望外の収穫だった。実のところ、彼がかねてより望んでいた平和宮殿の現場取材は不可となっていた。美智は手を尽くしてくれたようだが、どうしても施主の許可が下りないという。しかし意気消沈したのもつかの間、彼女の口から思いがけない話が聞き出せたわけだ。
 美智がやや焦りを含んだ声で念を押す。
「まだ記事にしちゃだめ。いい? あくまで推測だし、現場取材が駄目になった埋め合わせに、ちょっと教えてあげただけなんだから」
 彼女はテーブルにほお杖をつき、ビールグラスをじっと見つめている。どこまで事件の真相に気づいているのか、その表情からは読み取れない。ドミトリーは試しに言ってみた。
「君に断りなく記事に載せたりしないよ。しかし、じゃあ結局、ペテルブルグで首を盗んだのは、あのハミードフ氏を含むアスタナ首都開発公団の関係者、ということになるのかい?」
「えっ……、いや、ほら、首都開発公団って、まちづくりが仕事でしょ。違うんじゃないかな。そ、それはともかく、深夜に博物館から盗み出すなんて、なんだかとてもロマンチックだと思わない? まるで映画か小説みたい!」
 しどろもどろになったあげく、美智は急に明るい声を出した。
「はは、ロマンチック? それを言うなら、むしろ『ドラマチック』のほうが――」
 笑顔で口にした言葉を、ドミトリーはぐっと飲み込んだ。彼の脳裏にクンストカメラの事件現場の光景がありありとよみがえった。廊下の壁にうがたれた弾痕、乾いて床にこびりついた血のり……。

 同じ日の晩、ドミトリーはやはり旧市街にあるロシア大使公邸を訪れた。
 大使公邸はロシア大使館の敷地内に併設され、大使館の建物、職員の宿舎と一体になっている。ちょっとした城塞のような風情。まぎれもなく市内で最も大きな外国公館だ。
「君から連絡があったあと、私も少し動いてみた。例の話、どうやら本当のようだ」
 ドミトリーを居間へ通すやいなや、ガウン姿の大使は興奮ぎみにまくしたて始めた。
「副市長と内々に連絡を取ったんだ。彼が言うには、新首都にケネサリー・カシモフの記念堂を建てるという話が出まわっているらしい。少し前から、カザフスタン政界の上層部で。これは君がその日本人建築家から得た情報と符合する」
「大使、まとめると、事の次第はこうでしょう」
 ドミトリーはソファに浅く腰掛け、息を整えてから続けた。
「サンクト・ペテルブルグでカシモフの首強奪に成功すると、ハミードフはそのことをアスタナの大統領に報告した。併せて、計画中の世界平和宮殿をカシモフの宗廟に改変することを進言し、極秘に承認を得た。彼の娘アナスタシアがペテルブルグから東京へ送られたのは、この急を要する設計変更を監理するためだった」
「まずそんなところだろう。これだけでもじゅうぶん驚くべきだが、実はさらに面白いことを聞き込んだ」
 大使は話しながら、にやりと片眉を持ち上げてみせる。
「ハミードフはもちろんカザフスタン国籍者だが、その出自はウズベク系、それもかつてカシモフ一族と敵対したコーカンドの血筋らしいのだよ。ソ連時代には重要でなかったこの事実が、カザフスタン独立後、カシモフの再評価が進むにつれて急に意味を帯びてきた。奴には急所を突かれる前に手を打ち、政権内での地位を補強する必要があった」
 大使のネタ元は、二人いるアスタナ市副市長のうちの一人、カザフ人サークルからは疎外されているだろうロシア系副市長だった。そんな人物のところにまでこれほど詳しい情報が降りてきている。カザフスタン政府内で激しい綱引きが行われている証拠だ。
「それにしても、見事に意表を突かれました。平和宮殿の現代的なデザインに惑わされ、まさかあれが廟であろうとは考えも及ばなかった」
 ドミトリーがしみじみ漏らすと、大使がいくぶん落ち着きを取り戻した声で言った。
「これですべてがはっきりした。ハミードフの最終目的は、カシモフの霊廟を建設し、その首を寄贈して国の英雄になることだ。ドミトリー、我々は急ぐ必要があるぞ」
「と、おっしゃると?」
「ハミードフとの秘密交渉に乗り出すべきだ。クンストカメラの事件はロシアの報道管制によって伏せられている。一方、理由はわからんが、ハミードフ側はいまだカシモフの首奪取を公表していない。つまり、ロシアでもカザフスタンでも、首が盗まれたことは表向きになっていないのだ。奴になんらかの見返りを与え、首はロシアから正式に返還されたことにすればよい。それで我が国の面目は保たれる」
「うーん、はたして彼は誘いに乗ってくるでしょうか」
「交渉の余地はおおいにあるはずだ。私がじかに会ってもいい」
「大使ご自身が? いや、しかし……」
「ほかに誰がやるというんだね。ハミードフが連邦保安庁の人間を受け入れると思うか? それに、君には引き続き正体を隠しておいてもらいたい。よしんば交渉に成功したとしても、まだ陰で動いてもらわねばならんのだからな」
 ドミトリーは視線を下げて黙り込んだ。彼の内心を見透かすように大使が言う。
「連邦保安庁の方針はわかっている。交渉など、万策尽きたあとの最後の手段だと言うんだろう。ところで、ハミードフ邸内の情報提供者には、今なにをやらせている?」
「……屋敷の見取り図を作らせています」
「なんだと? そんなものを作って、どうするつもりだ。君、まさかスペツを、特殊部隊を呼ぼうというんじゃ……。いかん! 私が駐カザフスタン大使であるかぎり、そのような無体は絶対に許さんぞ!!」
 大使は大柄な体を前に乗り出し、テーブルをばんばんとたたいた。顔を赤らめ、銀髪を振り乱しつつ。ドミトリーは、まだ決まったことはなにもない、と言い訳したうえで、
「大使、考えてもみてください。サンクト・ペテルブルグの事件では警備員一人が殺され、一人が重度の障害を負いました。表向きはともかく、ロシア本国政府の一角では強硬論が渦巻いています。カザフスタンと事を構えるまではしなくとも、実行犯に対する報復は必ずやるべしと」
「それこそが君に与えられた究極の任務であるわけだ。で、実行犯というと、ハミードフ本人、長男のカリム、そして――」
「カリム配下の二人の男。彼らはハミードフの関連企業で警備を務めていた者たちです。身元は特定済みですが、行方はまだつかめていません。最後の一人がアナスタシア」
「あの娘も対象なのか」
「当然そうなります。彼女が事件で果たした役割の大きさを考えると」
 大使はソファの背もたれに体を沈ませ、指先で眉間を押さえた。
「物理的報復だとは……。本国の連中はアスタナを小さな田舎町だとでも思っているらしい。そうやってカザフ人やカザフスタンを見下してきたことが、ペテルブルグの事件が起きたそもそもの原因だった。違うかね?」
 ドミトリーはしばし黙っていたが、やがてほっと小さく吐息をついた。
「大使のお考えはわかりました。私が報告書を書きます。ハミードフとの交渉について、保安庁指導部に伺いを立てましょう」
「なんだ、ずいぶんあっさりしてるんだな。もちろんそのほうがこちらは助かるが」
 大使が顔を上げ、意外そうに目をしばたたく。
「勝ち目のないゲームはしない、好機が来るまで待つ、がモットーでしてね。正直なところ、私自身も交渉するのがよいと考えていました。ただ、本国側を説得するうえで一つ大きな問題があります。カシモフの首の出どころをどうするか、なんですが」
「出どころとはどういうことだね? クンストカメラに決まっているじゃないか」
「ええ、事実はそのとおりです。が、先ほど申し上げたとおり、サンクト・ペテルブルグでは死人が出ました。仮にハミードフとの秘密協定が成立したとする。あの事件はなかったことにされた。そこで大使、想像できますか? 後日、ペテルブルグ市の代表団がアスタナへ来て、首の返還を記念する式典に和気あいあいと参加しているところを」
「そう言われてみれば、たしかに無理があるな。ううむ」
「なにか方策をひねり出さねばなりません。実は前々から考えていたことなんですが――」
 その時、ドミトリーのジャケットの内ポケットで携帯電話が鳴った。
「あ、まさに『うわさをすれば』です。ハミードフ邸の彼女からだ」
「例の内通者か? 交渉でいくと決まった以上、きわどい仕事からはすぐに手を引かせたほうがいい」
 ちょっとお待ちを、というように人差し指を立てると、ドミトリーは特に躊躇することなく通話ボタンを押した。あとから考えても、彼にしては珍しく不注意な振る舞いだった。
「どうした。この番号には直接かけるなと言ったはずだが?」
 女は無言だった。アロー、アローと何度か呼びかけてから、ドミトリーはようやくはっと息を止めた。電話はまだつながっている。かすかに向こうの息づかいを感じ取れる。が、いくら待っても、彼女は返事をしなかった。
 一分、二分……。
 ドミトリーと大使が青ざめた顔を見合わせた時、
「ロシアの犬どもめ……」
 押し殺した男の声が言い、ふつっと通話が切れた。

(次回へつづく)


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