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カシモフの首【小説】 Ⅱ.施主の来訪 ④

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 翌朝の九時、ナースチャは事務所に姿を見せなかった。
 入社以来初めてのことだった。これまでは、始業十五分前には必ず出勤していたのだ。たとえ前日にどんなに遅くまで仕事をしようと。
 椅子がぴったり入ったままの彼女の席を眺め、美智は胸の中でつぶやいた。
 ――昨夜はあんなことがあったからな……。
 結局、あの明治通りでの出来事のあと、美智はナースチャを見失ってしまった。ホテルを訪ねることは、迷ったすえに思いとどまった。夜が明けて朝になれば、またオフィスで彼女に会えるのだからと。
 十時半を過ぎてもナースチャは現れなかった。美智が数分おきに時計に目をやっていると、にわかに事務所の玄関のほうが騒がしくなった。ドアが開けっ放しにされているらしく、共用廊下から大きな声が響いてくる。なんなの、機材の搬入? と誰かが言った時、クボタさんが血相を変えて設計室に飛び込んできた。
「美智、警察が……!」
 間を置かず、ダークスーツ姿の男が三人、アレックスに伴われて入ってきた。うち一人は胡麻塩頭をした初老の男で、おそらくリーダー格。どこか品のある老侍といった雰囲気だ。後ろを歩く若い二人はたぶん部下だろう。
 設計室はざわつき、スタッフは互いに顔を見合わせた。阿部くんが椅子から腰を浮かせたまま美智のほうを見ていた。はたせるかな、アレックスと見知らぬ男たちは真っすぐ美智のところへやって来る。
「ナースチャはまだ出社しとらんのか」
 アレックスが険しい表情で言った。身を固くして座ったまま、美智は首を横に振った。そばで聞いていた胡麻塩男の顔がさっと曇った。彼は急いで間に割って入ると、取ってつけたような笑みを浮かべてみせた。
「やぁ、お仕事中にお邪魔してすみません。私、警察庁国際第二課の柴田と申します。実は、研修生のアナスタシア・ヴェルシーニナさんにお会いしたくて参ったんですが……。ちょっとお話をうかがえますか?」

 それから応接室へ場所を移し、アレックスと美智は柴田と相対した。柴田はひどく穏やかな口調で話した。インターポールからナースチャの国際逮捕手配書が出ていること。身柄の拘束を要請しているのはロシアの司法当局であること。アレックスはすでに同じことを聞いているらしく、腕を組んでじっと黙り込んでいる。
 柴田が美智の名刺を見ながら続ける。
「ヴェルシーニナさんは今朝早く、滞在先のホテルを引き払っておられます。ええと、須藤美智さん、ですね。須藤さんはヴェルシーニナさんの居所について、なにかお心当たりは?」
 まさに衝撃的というよりなかった。美智は自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。すぐに思い浮かんだのは、歌舞伎町で見た「クラブ 烏魯木斉」のネオン看板だ。が、そのことは口にせず、逆に問い返した。
「柴田さん、ナースチャが指名手配された理由はなんなんですか? まずそれを教えてください」
 柴田が眉をひそめて思案顔になった時、応接室のドアが慌ただしくノックされた。入ってきたのは柴田の部下の男だ。男は上司のもとへかがみ込み、なにやらこそこそと耳打ちを始めた。
 美智は隣に座るアレックスにささやく。
「アスタナの施主に、ご家族に連絡を入れなきゃ。向こうは三時間遅れだからまだ朝早いけど、これだけの重大事なんだし」
「こんな話、いったいどう切り出すんだ」
 アレックスはぶすっとした表情で天井をにらむ。と、そこで柴田が部下を下がらせ、二人のほうへ向きなおった。
「ヴェルシーニナさんはすでに日本を離れられました。成田空港に非常線を張っていたんですが、羽田のビジネスジェット専用ターミナルを利用されたようだ」
 美智は息をのみ、アレックスはうーんとうなった。柴田はむしろほっとした表情を隠さず、
「さて、お尋ねの件、彼女の容疑についてですが、サンクト・ペテルブルグでの美術品窃盗、となっております」
「ええっ、ナースチャが美術品泥棒を……?」
 彼女がペテルブルグにいたことは確かだとしても、あまりに突拍子のない話だった。ナースチャが盗みなどするはずがない。だいたいあの子はお金持ちのお嬢さんで――。そう続けようとして、美智ははたと言葉を途切らせた。
 ひとつの場面が脳裏をかすめた。それは、先日のあの忌まわしいプレゼンの最中、ハミードフ氏が壁に貼られた図面の前で立ち止まった時のことだ。彼は地下大会議場のプランを指でなぞりながら、カリムを相手に「エクスポナット」という言葉を何度もつぶやいていた。“Exponat”は「展示品」を意味するドイツ語だが、ロシア語でもそう言うのかもしれない。
 美智は声の調子を下げ、おずおずと尋ねた。
「あの、盗まれたというのは、どんな美術品なんですか?」
「実をいえば、我々もそこまでは知らされていないのです。この場合、日本の警察庁は、インターポールを通じて被疑者の身柄確保を依頼されたにすぎないわけでして」
 柴田の態度は、事務所に立ち入った時と比べ、ずいぶん頼りなげになっていた。よく見るとほおのしみも目立ち、年相応の疲れを感じさせた。彼の言い訳じみた言葉が続く。
「正直申しますとね、この件は眉唾ものだなと思わんでもない。ロシアは近ごろ、自国の反体制派を取り締まるために国際手配を乱発させております。ただ、我々はICPOの正式な要請を無視するわけにはいきません。それにほら、ちょっと前にオウム真理教の事件があったでしょう。あの教団のモスクワ支部の捜査で、ロシア側にだいぶ借りを作ったものですから……」
 半ばうわの空で聞きながら、美智は連想を巡らせた。展示品――美術品――サンクト・ペテルブルグ。なにかがわかりそうで、わからない。
 ナースチャは今朝早く羽田から出国した、と柴田は言った。彼女が昨夜明治通りで姿を消したあと、そんな短時間でプライベート・ジェットを手配できただろうか。やはりハミードフ氏によって事前に準備されていたと考えるべきだ。旧ソ連圏で強い政治力を持つという彼なら、ロシアが仕組んだ今回の強制捜査をなんらかの方法によって察知できたかもしれない。
 しかし、それでは歌舞伎町にいた背の高い男は誰だったのか? 初めはあの男こそナースチャに逃亡を促した張本人かと思ったが、そうでないならあれはいったい――。
「……だからね、そんな政治的思惑から出された手配書であれば、あとで取り下げられることもじゅうぶんありえる。まずは冷静になり、事の推移を見守りましょう。須藤さんの思いが通じて、ヴェルシーニナさんの嫌疑が晴れるといいですね」
 柴田の諭すような言い方に、美智はむっと顔を上げた。
「確かな根拠もないのに、どうしてそんな気休めをおっしゃるんです?」
「い、いや、無責任に聞こえたら申し訳ない。ずいぶんお友達のことを心配していらっしゃったもんだから……」
 しどろもどろに答える柴田を見て、美智は先ほどの設計室でのいさかいを思い出した。控え目にいっても、彼女はかなり取り乱していた。ナースチャの机を勝手に調べようとする捜査員を遮り、「うちのナースチャはそんな扱いを受けていい子じゃありません!」とわめき叫んだっけ? アレックスがどうにか場を収めるべく柴田に掛け合う一方、阿部くんが美智のそばについて一緒に抗議してくれたのだった。
 ほおが熱くなるのを感じつつ、美智は自分に言い聞かせた。
 ――ちょっとカッコ悪いくらいなんだ。誰よりも私がナースチャを信じてやらなきゃね。

 警察が引き上げてからも、事務所はまだ重苦しい空気に包まれていた。そこへ狙いすましたように、カザフスタンの施主からメールが届いた。朝一番に電子ファイルで送った図面を、もう正式に承認するというのだ。それは事実上のプロジェクト終了通告にほかならなかった。
 午後の間じゅう、プロッターは大判の図面を吐き出しつづけた。その音を聞くともなく聞きながら、美智はネットでサンクト・ペテルブルグの美術館やギャラリー関連のニュースを検索した。美術品盗難の情報は見当たらなかった。代わりに目に留まったのは、「クンストカメラ」という博物館で起きた事件についての記事だ。それはロシアではなく、外国の通信社による配信だった。

サンクト・ペテルブルグの「珍奇の館」博物館で強盗か
 ロシア、サンクト・ペテルブルグにある人類学・民族学博物館、通称 「クンストカメラ」でXX日深夜、数回にわたって防犯ベルが鳴った。警察 は警報装置の誤作動であると発表し、ロシア内務省もこれを確認した。しか し、同時刻に博物館周辺で銃声とガラスの割れる音を聞いた通行人がいる。 実際には強盗、もしくはテロに類する事件が起こっていた可能性がある。

 古都の博物館で起こった不可解な強盗事件。美術館とは違うし、それに真偽は未確認とある。柴田が言ったのはこれのことかどうか、いまひとつはっきりしない。事件があったのは約三か月前。ナースチャが東京に来る直前のことだ。
 画面上のその小さな記事に飽きると、美智はカーテンウォールの外の赤みを帯びた空に目を移した。結局のところ、ナースチャはいったい何者なのか? 自分がこの春以来かかりっきりになっていた世界平和宮殿プロジェクトとは、そもそもなんだったのか? 美智にとって、今やすべては理解の外だった。いや、ただ一つだけはっきりとわかることがある。ナースチャの次の行き先だ。

 その長い一日の終わりに、美智は役員室でアレックスと対峙していた。ボスが顔色を変えて聞き返す。
「アスタナへ行きたいって? 平和宮殿の施工監理には、高橋サンが行くことになっているだろう?」
「さっき彼と話したよ。快く代わってくれるってさ。高橋さん、再婚したばかりで、ほんとはぜんぜん行きたくなかったんだって!」
 美智は嬉々として答えた。アレックスはオフィスチェアにのけぞって彼女を見上げていたが、ようやくのことでそのでっぷりとした体を起こした。
「なあ、美智。このプロジェクトはこういう形で終わるしかなかったんだよ。悔しいのはわかるがな」
「なにも終わっちゃいない。むしろこれからが始まり。私を現場へ行かせて。この建物が建つところをどうしても見届けたい」
「まあ落ち着け。もちろんいつかは君に施工監理をやらせたいと思っていた。でも、これ・・じゃない。このクライアントには深入りしないほうがいい。幸いにも本件はデザイン・ビルドだ。あとはこいつを請け負ったトルコのコントラクターが始末をつけてくれる」
 デザイン・ビルド方式とは、施主が設計と施工を一括でゼネコンなどに依頼するやり方を指す。この世界平和宮殿プロジェクトでは、設計事務所は基本設計から実施設計監修まで行うものの、その成果物である実施設計図書については、建築確認申請を含め、工事を担当する建設会社が責任を負う。美智たちの事務所はおいしいところだけをいただき、施工に伴うリスクを業者に押しつけるわけだ。高橋さんがすることになっている施工監理も、あくまで設計者の立場から助言を与える相談役といったものだった。
「正直なところ、君をアスタナに送るのは惜しいんだよ。美智、君は今、うちの事務所でとてもいいポジションにいる。俺の言っている意味、わかるよな?」
「アレックス、そうじゃないの。今の仕事に不満があるわけじゃない」
「だったら、いったいなにが問題なんだ」
 美智は口をつぐんだまま、これまでの自分を思い返した。いつもひとりで遅くまで事務所に残り、ディスプレイにかじりついて仕事をこなしていた。それで夢に近づけるならと、すべての時間を差し出してきた。夜の設計室で何気なくカーテンウォールに目をやり、そこに映り込んだ自分のわびしい姿に幾度はっとさせられたことか。
 そんな献身と引き替えにやっと見つけたもの。心の奥で求めつづけ、初めて手に触れた宝物。それがまさに今日、この手から奪い去られたのだ。まるで何事もなかったかのように、明日からまた以前と同じ生活を送れるだろうか?
「いいか、美智、建築家として立とうとする者は、是が非でも東京やロンドンのような大都市にしがみついてなきゃならん。たしかにここでの職務は楽じゃないし、ときには投げ出したくなることもあるだろう。だが、君ならきっと――」
「聞いて、アレックス、私は……」
ぽつりと漏らし、美智は深く首を垂れた。
「……私はただ、とても孤独なんだ。あの子がいなくなって」
 あっと声をのんだきり、アレックスはしばしぼうぜんとなった。が、やがて小さなため息をつくと、物思わしげに目を伏せた。

次回へつづく


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