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カシモフの首【小説】 Ⅰ.世界平和宮殿の設計 ④

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 美智と一緒に建築展へ出かけた日以来、ナースチャは阿部くんと連れ立って昼食に行くのをやめてしまった。なんの説明もなしにだ。終業時刻になってテニスに誘われても、
 ――やっぱり美智と図面することにした。そのほうが楽しいし。
 と言って断った。まわりの者がぎょっとするほどはっきりした口調で。
「彼女、なにか急に素っ気なくなったんだよなぁ」
 ナースチャが席を離れた際、阿部くんがしょんぼりと肩を落として言った。美智はかける言葉が見つからなかった。気まずい空気が設計室に漂う。居合わせたクボタさんがあきれ顔でその場を見まわした。

 仕事に追われ、設計事務所の日々は飛ぶように過ぎていく。
 秋も深まってきたある夜のこと、美智とナースチャはいつもよりずっと遅くまで事務所に残っていた。アスタナの施主が急に最新の図面を送れと言ってきたのだ。現地で政府首脳に対するプレゼンテーションが行われるという。応じないわけにはいかなかった。
 美智は書類から目を上げ、斜め前の席へ声をかける。
「どう? そっちは終わりそう?」
 ナースチャがディスプレイにかじりついたまま答える。
「今、ちょうど最後のパースを仕上げてる。大階段をのぼりきったところからアトリウムを見わたしたカット」
「ほかの絵は?」
「二枚がレンダリング中。残りはもう完了済み」
 ふうっと安堵の吐息をつく美智。明日午前中の提出にはなんとか間に合うだろう。
 時計の針は十一時をとうに回っていた。当然ながら、設計室には彼ら二人きりだ。ナースチャはインテリア・パースに添景としての人物像を挿入する作業をしていた。それがようやく終わったらしい。彼女が席を立ち、プリンターのほうへ歩いていく気配がした。その足音を聞くともなく聞きながら、美智は仕様書の最終確認を続けていた。
 突如、ヒューンと大きな音がしたかと思うと、天井照明が消え、目の前のディスプレイも真っ暗になった。
「んもう、こんなときに限って、だよ」
 美智はつかの間あっけにとられ、それから小さく舌打ちした。停電だ。おかしなことに、無停電電源装置があるにもかかわらずコンピュータの電源が落ちていた。それまで聞こえていたプリンターの音もぱたりとやんでいる。
 暗闇の中で美智は声をあげた。
「ナースチャ、だいじょうぶ?」
 返事はない。
 夜とはいえ、こんなに暗くなるものだろうかと驚く。ブラインドは上がっているが、さすがにこの高さになると、下の街の明かりは届かないのかもしれない。それでもしばらくすると、設計室の机の配置がぼうっと浮かんで見えた。雨にぬれたカーテンウォールを通して、外からわずかな光が入ってきている。
 美智はそろそろと立ち上がり、広い室内の隅々まで目を凝らした。ナースチャの姿はなかった。
 ――あれ? どこ行っちゃったのかな……。
 その時、オフィスの反対側の端で玄関ドアが開く音がした。続いてカチャッというドアの閉まる音。そこまで聞きとれたのは、異様な静けさのためだ。美智は急いで設計室を出て、手探りで玄関へたどり着いた。
 錠を開けようとして、首からぶら下げている入退室管理用ICカードをかざす。が、壁に取り付けられたカードリーダーは反応しない。取っ手に手を掛けると、ドアはそのまま開いた。
 そこにあったのはひときわ濃い闇だった。非常灯どころか、緑色の誘導灯すら点いていなかった。このビルの共用廊下は窓に面していない。ゆえに照明が全部落ちた場合は、それこそ本当の真っ暗闇になるわけだ。
 しかたなく体を引っ込めようとして、美智ははっと身構えた。誰かが廊下を歩く足音が聞こえた。タイルカーペットを踏む柔らかな音だ。
「ナースチャあ?」
 ナースチャが誤って事務所の外へ出てしまったのではと思った。方向を失って、戻れなくなっているのかもしれない。
 だんだんと足音が遠ざかる。それはエレベーター・ホールの脇を素通りし、長い廊下をそのまま真っすぐ行ったようだ。美智は戸口にしがみついてためらっていたが、ついに意を決し、あとを追い始めた。
 壁に手をつき、床を足先で探りながら歩く。少し進んでは立ち止まり、じっと闇を見つめる。また足を踏み出す。時間をかけて突き当たりまで行き、そこを左に曲がった。
 目が慣れてくるにつれ、完全な暗黒というほどでもないことがわかってきた。ただ、空調が止まったせいなのか、建物はやはり恐ろしく静かだ。もはやさっきの足音も聞こえない。
 さらに歩を進めると、今度は廊下が右へ折れていた。
 ――右? 変だ。サービス・コアの周囲を左回りに歩いてきたはずなのに。
 美智は首をかしげた。エレベーターや階段,機械室などがまとめられた建物中央のブロックを、サービス・コアと呼ぶ。廊下はそれを「ロ」の字に取り囲んでいる。したがって、左回りに歩けば、当然次の角も左へ折れていなければならない。
 成り行きのまま右に曲がる。と、こつこつと自分の靴音が響いて、美智はぎくりと立ち止まった。たった今、床の踏み心地が変わった。明らかに硬くなっている。その場にひざをつき、手で床材に触れてみた。冷たくてつるりとした感触は、磁器タイルか、あるいは人造大理石のものだ。
 美智はなにがなんだかわからなくなった。共用廊下はすべてカーペット貼りのはずだ。頭に浮かんだのは、隣の保険会社の区画に迷い込んでしまったのではないかということだった。このまま引き返そうかと弱気がさした。オフィスを出てからもうだいぶ時間がたっている。
 しばらくしゃがんだまま、自分の両腕をさすった。小刻みな体の震えが止まらない。まずはこれを落ち着かせることだ。
 そうやって息を休めているうち、行く手のほうがほのかに明るくなっているのに気づいた。美智は立ち上がり、おぼつかない足を前へ踏み出した。また壁に手を触れながら、その薄い光に向かって歩く。あたりが少しずつ白んできた。
 ふと見ると、いつのまにか廊下の片側が全面ガラスになっていた。その向こうでは床が途切れ、暗い断崖となって落ち込んでいる。じっと目を凝らせば、闇の中に赤茶色の巨大な壁がそそり立っているのがわかった。それは滑らかな曲面を描きつつ、すぐそばまで迫っていた。
 この光景に美智は見覚えがある。
 ガラスに沿って廊下を急いだ。すると曲面壁はぐんぐん離れていき、大きな吹き抜け空間が現れた。間違えるはずもない。それは世界平和宮殿の地下階。赤茶の木目パネルで覆われた壁は、大会議場を囲う円筒の一部だ。
 ――なにこれ……、夢? いつだったかナースチャとやった建築夢想の続編?
 美智が立っていたのは地下1階の展示場エリアだった。そこはガラス張りの桟敷のような場所で、宮殿の壮大な玄関部を側面から見下ろすことができる。どうやら彼女は地下階後部の入り組んだところから出てきて、大会議場の脇を通ってこの場所に行き着いたらしい。
「わぁー、ここから見ても、やっぱりダイナミック!」
 美智は我を忘れてガラスに鼻を押しつけた。
 すでに見たとおり、地下大会議場前の4層吹き抜けは、深くて暗いクレバスのような空間だ。地の底から大階段が二手に分かれて駆けのぼってくる。うち片方の階段は彼女のすぐ目の前で折り返していく。それは1層上でもう片方と合流しており、ちょうどそこがアトリウムの上がり口になっている。
「クレバス」を挟んで大会議場の向かい側には、2層吹き抜けの玄関ホールが開廊のごとく開いていた。玄関口そのものは美智の立っている位置からは見えないが、外からの光がホールを通して水平に射し込んでくる。
「うん、玄関ホールも吹き抜けにしておいて大正解だったな」
 美智はあらためて思い知った。ただ一枚のスラブを切り取ることで、ナースチャはこの建物に秘められた本来の美しさを引き出したのだ。あの子にはやはり特別な力がある。三次元空間を直感的に把握し、実際の建築として思い描く力。
 ガラスドアを引き、大階段の踊り場へ出た。屋内の空気はここでも正常に澄んでいた。すぐ傍らに切り立った円筒壁、斜め上を仰げばアトリウムがかいま見える。ピラミッドを支える巨大なトラスが露出し、V字型の柱となってそのへりに並んでいる。美智は上から落ちてくる光を頼りにステップに足を掛けた。階段をのぼるにつれ、正四角錐の大空間が、「ピラミッドの内なるピラミッド」が徐々に全貌を現していく。
 学生時代に訪れたローマのパンテオンが美智の記憶によみがえった。正面の柱廊を抜けた先にある大きな円堂。半球形のドームのてっぺんにうがたれた円い開口部。そこから射し込む太陽の光、いや、太陽そのもの。
 一歩一歩踏み出すごとに胸が締めつけられる。自分が設計した平和宮殿のアトリウムはどうなんだろう。時代と場所、用いられる技術は違っても、あんなふうに人の心を動かしうるだろうか、と。
 ――ああっ!
 大階段をのぼりきって地上1階に出たとたん、美智は声にならない声をあげた。彼女は脚をもつれさせ、すぐそばの手すりにすがりついた。
 今や、三十六メートル四方のアトリウムのフロア全体を見わたすことができた。思った以上に明るく、白々とした幾何学空間が広がっていた。四周をV字の柱が巡り、背後の壁に静かな影を落としている。ナースチャのあの手描きパースにそっくりだ。
 もっとも、美智を驚かせたのは、アトリウムの建築としての出来栄えではなかった。彼女の息を止め、心臓を縮み上がらせたもの。それは、そこに立っていた何十、何百とも知れない大勢の人々だった。

次回へつづく


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