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カシモフの首【小説】 Ⅰ.世界平和宮殿の設計 ➁

< 前回の話                      目次・登場人物 [↗]

 事務所にとっても美智にとっても、今、最も大事なプロジェクト――それがカザフスタンの新首都アスタナに建てられる国際会議場「世界平和宮殿」だ。
 今年(二〇〇〇年)春、この事業のために国際設計競技が催され、世界の名だたる設計事務所とともに、美智が勤める事務所も指名された。これを受け、アレックスは若いスタッフを集めて宮殿の設計チームを編成、そのチーフに美智を抜擢した。彼女は初めて大きな公共建築を一から設計する機会を得たのだ。
 ピラミッドはどうだろう、と初回の打ち合わせで言ったのはやはりアレックスだった。設計競技に臨むにあたっては、まず競争力のあるコンセプトをひねり出すことが必要だ。チームの面々を前に、彼は次のごとく力説した。
「途上国の指導層というのは強くて明快なイメージを好むものだ。小さな形態が寄り集まって緑の中に埋もれているような、そんな優しい案じゃだめだよ」
 いかにも百戦錬磨のアレックスらしいと美智は感心した。敷地は川を挟んで大統領官邸の対岸だ。そんな象徴的な場所にピラミッド型の建築物が建つとすれば、これはワシントンDCにおける連邦議会議事堂と巨大なオベリスク――ピラミッドの簡易版といっていい――の関係を思わせる。ピラミッドこそ新首都にふさわしいモチーフかもしれない。
 美智はまずランドスケープを操作して、なだらかな正四角錐台の丘を築いた。そして、この丘の上面にぴったりと載る総ガラス張りのピラミッドを描いた。高さと底辺がともに六十メートル。エジプトのギザにある本家と比べ、もっとほっそりしたプロポーションを持つ。
 彼女は設計競技の要項に沿って、人工の丘の地中に3層の客席を持つ大会議場を収めた。ピラミッドについては、1層目を多目的スペース、2~8層目をオフィスやビジネスセンターに充て、それらを中央のアトリウムのまわりに配した。このアトリウムは建物の外殻と相似形、つまりピラミッドの内なる中空のピラミッドだ。最上階の9層目は展望台を兼ねた小会議場とした。総床面積はほぼ三万平方メートルに及ぶ。
 Marvelous! と一言だけ言って、アレックスはすぐにこの構成を気に入った。
 構造は、土の中に隠れる部分を鉄筋コンクリート造、ピラミッド部分を鉄骨造とした。ここでも目を引くのはピラミッド。3フロアごとに組まれたそのトラス構造だ。これはダイアグリッドと呼ばれるもので、建物本体を支えるのはもちろん、斜め格子の装飾的オブジェクトとして屋内外に視覚的な統一感を作り出す。
 夏にアスタナで選考が行われ、美智たちの案は見事に一等を勝ち取った。並みいる強豪を押しのけての快挙だった。その後、カザフスタン側と正式に契約が結ばれ、設計チームは晴れて宮殿の基本設計に取りかかったわけだ。

 カタ……、カタ、タ……、カタ……。
 ナースチャが背をかがめてコンピュータの前に座っている。彼女は右手の人差し指でそろりそろりとキーボードをいじる。まるで爆発物でも扱うような手つきだ。
「そう、ここはそのショートカットで。うん、上手だね。なかなか筋がいいよ。じゃあ次は――」
 阿部くんがそばについてCADを教えている。彼の子供をあやすような甘い声が嫌でも耳に入ってくる。当然のこと、誰もがその様子を好奇の目で見た。
 同輩のヨリ子が美智のほうを向き、わざとらしく口をとがらせる。
「ちょっとぉ、美智、なにあれ? 気が散って集中できなーい」
 もとは香港からの研修生で、そのまま事務所に居ついてしまった劉さんは、
「いや、若い。若いって、いいですねぇ~。ハッハッハ」
 ベテランの高橋さんが両手で顔を覆い、激しく頭を振りながら、
「オレの、オレの阿部くんが……。あんまりじゃないか、ううぅ」
「もう! 誰にだって初めてはあるでしょ。みんな、おおらかに見守ってあげてよね」
 美智がたしなめると、設計室のあちこちで忍び笑いが漏れた。
 ナースチャが平和宮殿チームに配属されたのは、ある面では当然の成り行きだった。ソ連邦解体から約十年。その構成国の一つだったカザフスタンでは、いまだロシア語がカザフ語より広く使われているという。またプロジェクトの契約上も、設計図書は英語とロシア語の二か国語で表記することになっていた。ロシア語要員がいるとおおいに助かる。
「すげー美人」と阿部くんはうなった。クボタさんに言わせると、「クール」だ。昨日の面接を経て、今朝が初出勤となったナースチャ。彼女は与えられた席――美智の斜め前だ――に座り、終始無言、無表情でディスプレイに向かっていた。近ごろの設計事務所ではCADで平面図や立面図などの二次元図面を描き、3Dソフトを使ってCGパース、つまり建物の完成予想イメージを作る。ナースチャにはまず、これらを覚えてもらわなければならない。
 気もそぞろに午後の会議をやり過ごし、美智は急いで設計室に戻った。ナースチャを見ると、彼女は背筋をぴんと伸ばし、もう両手でキーボードを操作している。
 美智は阿部くんの席へ行って尋ねた。
「で、首尾はどう?」
 阿部くんは半ばおどけたように眉を上げてみせ、
「普通じゃないよ、あの子。もちろんいい意味でさ。こっちが言うことを、一度聞いただけで片っ端から覚えていくんだ」
「だいじょうぶそうだね、よかった。それにしても困ったもんだ。みんな、気晴らしのためにからかうようなことばかり言って」
「はは、特に悪気があってのことじゃ……。ま、大人げないのは確かだよね」
 阿部くんは小器用で、あらゆる建築系ソフトウェアに通じている。人当たりもよく、新人の指南役にぴったりだ。が、美智は彼に任せきりにせず、暇を見つけては自らナースチャの演習の進み具合を点検した。そのためにこそ、彼女を目の届く場所に座らせたのだから。
「図面を描くときは、いつも誰かに見せて説明する心構えでね。CGはもっとこう、きゅっと遠近感を効かせたほうがいいかな」
 美智は気さくな調子で話しかける。基本的にはすべて英語でのやり取りだ。ナースチャはこくこくとうなずき、試し刷りされた自分の図面に目を注ぐ。彼女が落ちかかる髪をかき上げると、滑らかなほおの線がいっそう引き立った。黒々としたまつげの陰で淡い瞳が揺れている。なにか思いつめたような光を帯びながら。
 一見落ち着きはらって見えるが、この子はやはり必死なのだ。彼女のしぐさの端々にそう思わせるものがあった。秘めた意志の強さ、プライドの高さが伝わってきて、美智はじんわりと胸打たれた。
 ――そうだ、私が預かった子なんだから、まず私自身が信じてあげなきゃ。
 ナースチャは美智の作図上の注意をよく守った。また阿部くんからは、CG制作における技巧やちょっとしたコツを貪欲に吸収した。彼女が基本的なことを覚えるまでには、一週間とかからなかった。
 コンピュータで製図するなら誰がやっても同じ、とはならない。確信を持たずに描かれた図面はどこか収まりが悪いものだ。その点、ナースチャの手になる二次元図面は、精密かつ信頼に足るものだった。さらに、彼女のパースには独特の透明感と奥行きがあり、それは時間とともに誰もが認めるところとなっていった。

 そんなある日、いや、ある晩のことだ。
 美智は斜め前の席を見やり、そこに座っている背中に向けて小さくひとりごちた。今日も遅くまで精が出ますね、同志! と。
 世界平和宮殿プロジェクトを任されて以来、美智は毎日のように残業している。ナースチャはたいてい美智が帰り支度を始めるまで自席でコンピュータに張りついていた。その晩も例に漏れず、人けの失せた設計室には彼ら二人きりだった。
 夜のとばりが下りると、美智はいつものようにカーテンウォールのブラインドを上げた。ガラスには煌々と明るい室内照明が映り込む。が、それでも東京の夜景は見えるし、少しは息がつけるのだ。
 しばらくして、ナースチャがディスプレイに向かったまま言った。
「美智、玄関ホールの天井を切り取って、2層吹き抜けにしてもいいんじゃないかな」
 美智はナースチャのそばへ行き、後ろから画面をのぞき込んだ。えっ、と目を疑う。
「これ、世界平和宮殿の入り口部分の3Dモデルでしょ。ナースチャ、こんなのやってるの?」
「昼間、インストラクターの彼が言った。もうそろそろ実図面に触れてもいいだろうって」
「阿部くんが? でも、いきなりこんな難しいところを……。それで、天井を切るとはどういうこと?」
 黒髪のかわいいつむじを見下ろしつつ、美智はさりげなく尋ねた。ナースチャは首を後ろに反らし、ちらりと美智を仰ぎ見てから、
「ほら、今のままだと、玄関ホールから奥の大階段が一部しか見えない。ホールの上にかぶさっているスラブを取っ払うのはどう? アトリウムへのぼっていく階段がもっとはっきり見えるようになるよ。そのほうが美しいじゃない?」
 やや鼻にかかった低めの声。ナースチャがこれほどまとまった言葉を、しかも自分から話すのは初めてのことだ。美智は身をかがめ、ナースチャの肩越しにマウスをつかんだ。3Dソフト上でカメラの視点を平和宮殿の正面玄関前に据える。あたかもこの場所を初めて訪れた客になったつもりで。
 そのころ設計チームでは、盛り土で隠れる宮殿の下部3層を「地下階」、ピラミッド部の9層を「地上階」と呼ぶようになっていた。正面玄関は「地下2階」だ。それは丘の斜面にうがたれた切通しの突き当たりにある。
 美智が人差し指でマウスのホイールを回すと、カメラはCGで組み立てられた建物の中へずんずん入っていった。ガラスの風除室を突っ切り、セキュリティゲートを通り抜けたところで、問題の玄関ホールが画面いっぱいに映し出された。左右に広いホールは、どこかがらんとした感じ。すぐ先で床と天井が切れていて、地下の中庭とでもいうべき四角い吹き抜けの大空間に面している。そしてその奥にすっぽりと収まった円筒形の施設。あれが大会議場だ。
「たった半日でここまでできちゃったの? がんばったねぇ」
 平静を装いつつも、美智の声はうわずっていた。
 ホールの端までカメラを進め、吹き抜けをじっくり見まわした。正面には大円筒が圧倒的な量感をもってそそり立つ。階下の地下3階に目を落とすと、円筒壁の足元に大会議場前ホワイエが広がっている。吹き抜け空間はそこから一気に4層分上昇し、会議場の真上に当たる地上1階アトリウムの前端へとつながっている。深い縦穴、あるいはクレバスを思わせる険しさだ。この中を左右対称の大階段が二手に分かれて駆けのぼっていく。
「ドラマチックだし、なかなか悪くないと思うんだけど……」
 美智は首をかしげながら、いったんカメラを後ろへ引いた。それからマウスを前後に動かし、画面上で3Dモデルをくるくると回転させた。天井を仰いだり、隅まで行って見返したり。玄関ホールの空間をあらためていろいろな角度から眺める。
 そうやっているうちに、ナースチャがなにを言いたいのか、だんだんわかってきた。ホールの高さが不足しているのだ。そのため玄関口から建物の奥への見通しがきかず、先述の大きな吹き抜けがいまひとつ活きていない。ただ、だからといって、天井スラブを切り取るのは無理な注文だった。そんなことをすれば、当然上の階、つまり地下1階の床面積が減ってしまう。
 その時、不意にナースチャがマウスを握る美智の手の上に自分の右手を重ねた。ほのかな暖かみが、吸いつくような手のひらの感触が伝わる。と同時に、なぜかはっきりした胸の痛み覚え、美智は思わず目をつぶった。
「照明の設定がまだだから、暗くてちょっと足元が危ないかな……」
 ナースチャのつぶやく声が妙にひずんで響く。すぐそばで聞いているはずなのに、それはどこか遠くから届いてくるかのように感じられる。
 再び目を開いた時、美智は薄闇の中にぽつんと突っ立っていた。そこは設計室ではなかった。真っ暗な天井に覆われた、左右に平べったい空間。そう、今まさに議論の的となっている平和宮殿の玄関ホールだ。
 照明の消えたホールには、やはり頭を押さえつけられるような圧迫感があった。上下に狭い視野の向こうがぼんやりと明るんでいる。大階段はといえば、ここからはせいぜいかいま見えるくらい。設計意図に対し、物足りなさは否めない。
 美智はおそるおそる足を進め、くだんの4層吹き抜けに出た。ちょうどそこが大階段ののぼり口だ。それはいわゆる両階段になっていて、独立した左右のスケルトン階段が切り立った吹き抜け空間の両縁を巡っている。金属フレームに支えられた軽やかな造形の美しさ。はっと左手の階段を見上げると、ナースチャが半階上の踊り場の少し先に立っていた。
「ほら、美智、ここからあそこまでの3スパンだよ」
 玄関ホールの天井スラブは吹き抜けによって断ち切れ、軒先のごとく端部が露出している。ナースチャはそこへ向かって両腕を広げ、取り払うべき範囲を示してみせた。続いて彼女は階段の手すりから身を乗り出し、今にも落ちそうになりながらスラブのへりに触れた。とたんにスラブはするすると縮み始め、美智のたたずむホールが2層にわたって吹き抜けた。
 天井に遮られていた視界がにわかに開けた。何度か折れ曲がりつつ上へ向かう大階段は、今やその全貌があらわになった。さっきまで暗かった地下広間に荘厳な光が降り落ちてくる。
 ――ああ、そうか。そういうことなんだね。
 美智は身震いがして、肺が苦しくなるほど深く息を吸い込んだ。
 ナースチャが踊り場から手を差し伸べている。黒御影石のステップを踏み、美智は走って彼女に追いついた。いっそう間近く迫る大会議場の円筒壁。頭上を仰げば、すでにアトリウムの一部が見え隠れしている。ピラミッドを支える巨大なトラスがむき出しになり、V字型の柱となってその縁に並んでいる。柱越しに射し込む光に導かれ、二人はアトリウムをめざして大階段をのぼっていく――。
 そこで出し抜けにオフィスチェアのきしむ音が聞こえた。
 つないでいた彼らの手と手がほどけた。宮殿の建築はたちどころにかき消えた。まるで闇の中へ溶け崩れるかのように、なんの跡形も残さず。次の瞬間には、美智はもう設計室の白々とした均一な照明のもとに戻っていた。
 うーんと声を発し、ナースチャが大きく伸びをした。彼女はそのまま椅子の背にのけぞると、後ろに立つ美智のみぞおちのあたりにぐったり頭をもたせかけた。琥珀の瞳が逆さまに見上げてくる。例によって、言葉よりも雄弁に語りかけながら。

 美智・・あなたは私の言うとおりに従うの・・・・・・・・・・・・・・・いい・・――?

「これでいこう」
 翌日、役員室でそのCGパースを見て、アレックスは即座に言った。言うまでもなく、それは天井スラブが切り取られ、新たに2層吹き抜けとなった玄関ホールのパースだ。
「ふむ、むしろこっちのほうがしっくりくる。玄関ホールから大階段、そしてアトリウムへのつながりがぐっと滑らかになった」
 アレックスはしきりにうなずきながら、パースと断面図を見比べた。美智は同じくA3用紙に印刷された地下1階の平面図を示し、
「上のレストランと展示場エリア、だいぶ狭くなっちゃうんだけど」
「まあ、なんとかなるだろ。やはりこれくらいの規模の公共建築なら、玄関ホールにも華のある演出が必要になってくる。悪くない、悪くないぞ、美智! 近ごろますます勘が冴えてきたな」
「あ、いや、私じゃなくて……」
 美智は首を振って、ガラス越しに設計室のほうを指さした。アレックスは、えっ? と顔を上げ、きょろきょろあたりを見まわした。

次回へつづく


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