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カシモフの首【小説】 幕間: ドミトリー、現地入りする

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 ドミトリーは一人の痩せぎすの女と向かい合っていた。
 そこは白い壁に囲まれた殺風景な部屋で、彼らは折りたたみ式の簡素なテーブルを挟んで座っていた。ほかに家具らしい家具はない。ブラインドは窓枠の下まで下げてあった。
 四十代後半とおぼしい女は、コートを脱いでからも、顔を覆うような幅広のサングラスは取らなかった。茶系の地味な服装をしているが、左手の中指にはめた青緑の天然石の指輪が目を引く。彼女は先ほどからずっと居心地悪そうに自分の腕をさすっている。
 ドミトリーは念を押す。
「時期は去年の秋の初めだったと。間違いないのだね?」
 女がうつむきかげんに答える。
「まさにちょうどそのころだよ、なにか大事なものが屋敷に運び込まれたのは。事情を知っているのは邸内のごく少人数。それは『ハン・ケネ』とか『ケネ様』と呼ばれていて、たぶん今も本館のどこかに保管されている」
 ドミトリーは女が書いた報告書に目を落とした。
「カリムについてだが……」


  • カリム――三十四歳、ハミードフとカザフ人の正妻の間に生まれた長男。父の片腕として、多くの汚れ仕事をこなしてきた。ここ数年の間に起こった野党政治家やジャーナリストの殺害事件のうち、いくつかにカリムが関与したのではないかとうわさされている。短い結婚生活の経験があるが、現在は独身。昨年の秋、アスタナの屋敷をしばらく留守にしたあと、左腕に大けがを負って帰宅している。


「単なる秘書ではないというんだな。ハミードフ家の事業の暗部を担っているのがこの男だと。しかしジャーナリスト殺害などについては、証拠があるわけじゃないんだろう?」
「そういう人間って、ひと目顔を見ればすぐわかるでしょうが。あれはまぎれもなく人殺し」
 女がやはりうつむいたまま、さも忌まわしげに言った。ちらりとその様子を眺めてから、ドミトリーは報告書のページをめくった。
「娘はどうしている?」
「ナースチャ? この寒い中、毎日まじめに世界平和宮殿の建設現場へ通っているよ。もちろん首都開発公団の運転手付きの車でね」
「日本から来た建築家の彼女と一緒に?」
 うなずく女。


  • ナースチャことアナスタシア――二十四歳、ハミードフとロシア人の妾の間に生まれた娘。母親はアナスタシアがまだ幼いころにいなくなったらしい。ハミードフはアナスタシアを実子として認知しないまま、自分の家へ引き取って面倒を見てきた。学業優秀で、旧首都アルマティの国立建築アカデミーに進学。二十歳のころ、サンクト・ペテルブルグの建築土木大学へ編入学した。ロシアとカザフスタンの二重国籍者。


「どこへ行ったんだ、その妾だったというアナスタシアの母親は?」
 ドミトリーは書面から目を上げて尋ねた。女が下世話な口調で言う。
「ほかに男を作って逃げたという話だよ。口さがない連中の中には、ハミードフに殺されたんだと言う者もいる。正妻のほうも早くに亡くなっているし、あの家では女は長生きできないってね」
「ハミードフがアナスタシアを認知していない理由は?」
「さあ、それは……。初めは正妻の手前、そのあとは親戚縁者の手前かしら」
「パスポートを二冊持っているとはどういうことだ。カザフスタンではたしか、二重国籍は廃止されたはずだが?」
「ええ、そのとおり。でも、金と権力さえあれば不可能はないのが今のこの国だよ。ロシアだって同じでしょ」
 女を見返したまま、ドミトリーはつかの間黙り込んだ。彼は報告書に目を戻す。


  • ワンガ――出自不詳、かなりの高齢。カザフスタンの民間信仰の流れをくむ女性祈祷師。一九九〇年代初め、当時まだ存命だったハミードフの妻の信用を得て、そのアルマティの家に出入りするようになった。のちにハミードフがアスタナへ拠点を移すにあたり、新首都の現在の屋敷へ迎え入れられた。親族ではないが、あるじに次ぐ権威を持っている。長くパーキンソン病を患っており、病状が日増しに悪くなっている。


「祈祷師とは、またずいぶんと時代がかっているな」
 ドミトリーはあきれたように首をひねった。女が目を伏せたままくすりと笑う。
「お金がありすぎるとね、そのおこぼれはこういうところへも回っていくわけ。世の常として」
「いったいどんなことをするんだい、このワンガという老婦人は?」
「祈祷というより、助言をしていたみたい。ご主人が政策や投資を決める際に。ただ、それもだいぶ前の話。さすがに年を取りすぎて、近ごろじゃ、そういうことも少なくなっている」
「つまりはただの居候か……」
 ドミトリーはあごに手を当てて視線を宙に泳がせた。と、女が初めて顔を上げ、サングラスの奥から見つめてきた。
「私の仕事、ご満足いただけたかしら?」

 一台のリムジンがアスタナの旧市街を走り抜けていく。青いナンバープレートを付けたロシア大使館の車だ。
 道路脇に寄せられ、積み上げられたままの雪。凍りついた歩道を行く人々の危なっかしい足取り。少しずつ日が長くなっているものの、車窓の外を流れる風景に春の気配はまだほど遠い。
 だだっ広く真っすぐな通りに沿って、箱のようなコンクリート造りの集合住宅が延々と続いている。ほとんどは横長の五階建てだが、塔状の九階建てのものが交差点など要所要所を守る。旧ソ連の計画都市のありふれた街並み。今、そのあちこちで油圧ショベルが騒音を発し、溶接作業の火花が飛び散っている。遊閑地に造られるイシム川左岸の新都心とは違い、ここ右岸地区では既存建物の改修、あるいは建て替えが盛んだ。
 さて、リムジンの後部には、ドミトリーと駐カザフスタン・ロシア大使が並んで座っていた。大使はミリューチンという名字で、豊かな銀髪を波打たせ、鼻下に真っ白なひげをたくわえた大男。やや小柄で若く見えるドミトリーとは対照的だ。
 仕立てのよいスーツを着込んだ大使が、座席にゆったり身を沈めて尋ねる。
「君がアスタナへ来てから、そろそろ一か月だな。どうかね、この町は?」
 ドミトリーは背中を起こし、にこやかな笑顔で答える。
「ペテルブルグよりずっと寒いですねぇ。気温もそうですが、特に風がすごい」
「アスタナという呼び名はカザフ語で『首都』を表すんだが、気候の上ではモンゴルのウランバートルに次いで世界で二番目に寒い首都とされている。まったく、よくもまあこんなところに遷都したもんだ。ほかに感想は?」
「中央アジアにいるという感じがしないです。ロシアのどこにでもある地方都市の風景だ。いや、それをもうちょっと粗悪にしたような」
「ふん、本国から来る連中はみな同じことを言う」
 リムジンは既存市街地の西寄りに新しく架けられた橋を渡り、左岸の新開発地区へ入ろうとしていた。橋の半ばを過ぎて道路が下り始めると、そのたもとに大きな屋敷の全景が見えた。灰色のマンサード屋根を持つ白亜の建物はシャトーを模したものだろう。延べ床面積は低く見積もっても千五百平米はありそうだ。
 窓の外に顔を向けたまま、大使が憂鬱そうな声で言う。
「郊外にある大統領の私邸は別格として、それを除けばアスタナで最も大きな邸宅だ。中庭にはヘリポートも備わっているらしい」
 車は屋敷の前の四車線道路を心持ち速度を落として走る。ドミトリーは守衛所を備えた正門の厳重な構えに目を見張った。
「たしかにすごい規模だ。しかも場所がまたすばらしい。旧市街は川を挟んですぐ対岸だし、新都心にもごく近い」
「相手はとてつもない大物だ。ドミトリー、君の仕事にけちをつけるわけじゃないが、この話、確かなんだろうね?」
「百パーセント。さあ、いよいよ本題ですね。大使は彼のことはよくご存じで?」
「カザフスタンの政商、ファルハド・ラヒモビッチ・ハミードフ。奴はソ連時代末期、農業セクターの統括責任者として頭角を現した。現大統領とは共産党時代からの盟友だ。カザフスタン独立後は、政権との太いコネを利用して巨額の財を築いた。今では銀行、携帯電話会社、いくつかのレアメタル鉱山を保有している。一九九七年の首都移転とともに、アルマティからここへ本拠を移した。首都開発公団の総裁の椅子に納まって、アスタナ開発の利権をほしいままにしている」
 やがて屋敷の長い塀が視界から切れた。大使は深くひと息ついてから、では聞かせてもらおう、と言った。ドミトリーはこれまでにわかっていることを短くまとめて話した。
 ハミードフは私財を投じて「首」の奪還を準備。情報を集めるため、自らの娘アナスタシアを留学名目でサンクト・ペテルブルグへ送り込んだ。当該の品がクンストカメラにあるとの確証を得て、昨年秋、計画は実行に移された。
 まずアナスタシアが博物館の構造、設備および防犯体制について報告した。その後、実際に強盗を行ったのは、ハミードフの長男カリムと手下の男二人の計三人だ。カリムは犯行の際に警備員から銃撃を受けて負傷。盗品を携えて手下ともども陸路でカザフスタンへ逃走した。アナスタシアは事件直後に空路で東京へ渡り、アスタナに建設される国際会議場「世界平和宮殿」の設計に参加している――。
「娘はいわば斥候役を務めた、と。彼女、二重国籍だったらしいな」
 じっと聞いていた大使が言った。ドミトリーはぐっと身を乗り出し、
「それなんですよ。一九九五年の憲法改正によって、カザフスタンでは二重国籍が廃止となった。当時、カザフスタン領内のロシア系住民は、どちらか一方の国籍を選択するよう迫られた。法的にはロシア女の私生児であるアナスタシアも同様です。ところが、そこでハミードフは驚くようなことをした。娘に表向きはロシア国籍を選ばせ、裏ではカザフスタン国籍をも持たせたのです。超法規的にね」
「つまり、初めからペテルブルグへ遣るつもりで、ロシア国籍を保持させてきたというわけか。現地で目立たずに行動できるように? だとしたら、これは尋常な話ではない」
「同感です。国籍の件では、その後の捕り物でも一杯食わされました。昨年末、東京でアナスタシアを取り逃がしたあとも、我々はまだこう考えていた。彼女がロシアに戻ったなら、あらためて指名手配すればいい。カザフスタンへ逃げ込んでいる場合は、外務省にパスポートを無効化させていぶり出してやろうと。それがカザフスタン国籍まで持っていたとは」
「用意周到とはこのことだな。クンストカメラ襲撃の準備は、少なくとも五、六年前から始まっていたわけだ。ハミードフの執念のほどがうかがえる」
 リムジンが新都心の敷地に差しかかったところで、大使は運転手に左折を命じた。杭打ちの音が響く工事現場を右に見ながら走る。草を掘り起こされて地肌がむき出しになった平地に、高さ数十階のコンクリート構造物が何棟か建ち上がっている。
 建設が予定されているのは、国会議事堂、最高裁判所、各省庁や国営石油会社が入るオフィスビル、オペラ劇場や国立図書館などの文化施設、それにここで働く人々のための高層集合住宅群だ。すべてが完成したあかつきには、中央アジア随一の現代都市として世界の耳目を集めることだろう。地下資源採掘で得た莫大な資金をつぎ込んで造られるアスタナの新都心。それは現職大統領の政治的野心を形にするものだ。
 東西に長い敷地に沿ってしばらく行くと、凍てついた青空にそびえる奇妙な塔が見えてきた。首都移転を記念して建てられたモニュメント兼展望塔、「バイテレク」だ。細い円柱状のシャフトがすっくと伸び、先端に巨大な金色の球体が取り付けられている。さらに白く繊細な支柱の群れが塔身全体を包んでおり、総じてラッピングされた一輪の花のような外観となっている。
 車は塔のそばを通り過ぎた。ドミトリーがその風変わりな姿を見送っていると、大使がおもむろにまた口を開いた。
「中央アジアのオリガルヒの中には、年を取ってからイスラムに帰依する者がいる。ソ連時代に教育を受けて無宗教だったのが、突然ひげを伸ばし始めたり、酒を断つと言い出したり。急激に財を成し、分不相応なぜいたくを享受する代償として、連中はその胸の内に大きな不安を抱えているのだ」
「そういえば、新都心の西の端で大きなモスクの建造が始まっていましたね」
「ハミードフの『首』に対する執着も、同じような動機にもとづいているのではないかな。不法なやり方で地位を得たからこそ、あとになって心のよりどころを、おのれの人生を正当化しうるようななにかを求める」
 ドミトリーは感心したように聞いていたが、やがてどうも腑に落ちぬというふうに首をかしげた。
「たとえそのとおりだとしても、彼はモノを隠し持ったまま、もう半年もこれといった動きを見せていない。妙じゃないですか?」
 大使は我が意を得たりという顔でうなずいた。
「問題はそこだ。ハミードフは稀覯品を眺めてひとり悦に入っているような人間ではない。頃合いを見計らってまた動き出すだろう。奴の最終目的はなんだと思う?」
 少し考えてからドミトリーは言った。
「わかりません。でも、ペテルブルグの事件のあと、アナスタシアは東京へ送られた。もしかすると、世界平和宮殿となんらかの関係があるのでは?」
「ペテルで大泥棒を働き、日を置かずに東京で建築設計か。まさにスーパーガールだな、あの娘は」
 大使は美しい口ひげの間からため息を漏らし、
「だが、そうとは限らんぞ。ハミードフが関わっているプロジェクトなら、このアスタナにはたくさんある。見ただろう? まるで町全体が工事現場だ」
 リムジンは竣工間近の大統領官邸を右前方に見る位置で止まった。大使とドミトリーは車外に出て、青いドームを戴くクラシカルで仰々しい建物を眺めた。走ってきた道路はここで通行止めになっている。バリケードの少し先には茶色の水面が広がり、数艘の浚渫船が盛んに泥をさらっていた。
 こうして、アスタナ新都心はその東端でイシム川上流の流れに阻まれ、一応の完結となる。大統領官邸のさらに先、川を挟んだ対岸には、灌木がまばらに生えた空き地が広がっている。約六十ヘクタールの規模を持つ大庭園の計画地だ。
 空き地の奥の高台に世界平和宮殿の建設現場が見えた。すでにコンクリートの基壇部分が建ち上がりつつあるのが遠目にもわかった。そのそばではタワークレーンの組み立ても始まっている。
 ドミトリーは両手をこすり合わせ、白い息を吐いた。
「大使、ハミードフの意図を見抜いて先手を打つには、やはりまだ手持ちの情報が足りません。もっと深く探りを入れなくては」
「たしかにな。だが、どうやって? なにかいいアイデアでもあるのか?」
 大使が大きな体ごと振り向いた。川向こうを見つめたまま、ドミトリーはあいまいな笑みを浮かべる。
「時間をください。少しこちらからつついてみるつもりです」 

次回へつづく


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