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カシモフの首【小説】 Ⅰ.世界平和宮殿の設計 ③

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 カタカタ、カタカ、カタタタ、カッタラララ……。
 ナースチャが画面に向かってキーを打っている。歯切れのよいタッチタイピング。キーボードとマウスを使い分け、すさまじい速さで図面を描いている。通りかかる誰もが足を止め、その様子にじっと目を向ける。
 阿部くんが腕を組み、感嘆ともあきれともつかない声を漏らした。
「手つきがさ、CADオペというより、まるで鍵盤奏者みたいだよな。しかも楽譜なしの即興演奏」
 美智は彼と並んで立ち、ナースチャの「演奏」を眺めた。自然と口元がほころんでくる。
「もともと手描き製図の能力はあったし、なにをやるべきか、前もってわかってるんだろうね」
 見た目はクールで、ふだんは感情を表に出さない。それだけに時折見せる笑顔はいっそう愛らしい――。気がつくとナースチャは設計チームに溶け込み、ごく当たり前のように平和宮殿プロジェクトに加わっていた。美智とのやり取りの幅は大きく広がり、化粧パネルの割りつけといった細かいことから、インテリア全体のコンセプトにまで及ぶ。日本語交じりの英語もほほえましく、彼女はスタッフの間で人気者になっていった。
 阿部くんがナースチャの席に引っかかっては、ごはんに遊びにと誘っているのを見かけた。彼らがそろって退勤することが増えたため、美智はまた以前のように夜の設計室でひとりきりになった。

 そんなこんなで、働きづめの毎日は回る。
 ところで、超高層のオフィスに勤めていると、お昼を買いに降りるのが面倒だ。昼休みになったかと思えば、エレベーター・ホールにはすでに長蛇の列。やっと乗れたエレベーターは各階に止まり、なかなか目的の階までたどり着けない。だから事務所のスタッフは、持参か配達の弁当を所内で食べることが多かった。阿部くんとナースチャは下の食堂へ通っているようだが。
 ある日、休憩室で昼食を共にしていると、クボタさんが何気ない口ぶりで言った。
「阿部くんたち、仕事帰りにテニスに行ってきたんだってね」
 空になった弁当箱を閉じながら美智は答える。
「うん、中央公園の向こうにある屋内コート。ナースチャ、かなり本格的にやっていたらしい。阿部くん、こてんぱんにされたってさ」
 もちろん話はここで終わらない。まわりに人がいなくなったところで、容赦ない追い打ちがかかった。
「いいの? 取られちゃうよ」
「いいもなにも。阿部くん、ナースチャとお似合いなんじゃない? かっこいいし、気が利くし」
 美智はさらりと言うと、バーカウンター風になっている給湯スペースに立った。向かいのスツールに腰掛けたクボタさんが意外そうな顔をする。
「でも彼、ついこの間までは、ずいぶんあなたになついてたでしょう。先輩、美智先輩って。あなただってまんざら――」
「はぇっ? だから違うって。そういうんじゃないから」
「ふーん、そういうんじゃないんだ?」
 二人分の緑茶をつぐ際、美智は急須がぶれないよう努めなければならなかった。さながらポリグラフ検査を受けているようだ。ほお杖をついて美智の手つきを見ていたクボタさんが声の調子を変えた。
「ねえ、そんなに素質あるの? あの子」
「ナースチャ? あると思う。三次元的な空間把握がずば抜けてるし、それを表現する力も持っている。まだ存在しないものを、目の前にあるかのように描いてみせる力。建築の構想力のほうはどうだろ、もう少し見てみないと」
「才貌両全ってことかぁ。ただ、たしかにきれいな子だけど、ロシア美人って感じじゃないね。テレビで見るロシア人のイメージとはちょっと違う。黒髪とか、あの目の色とか」
「広い国だから、きっといろんな人がいるんだよ」
「それにしても美智、近ごろ彼女が親離れ・・・して寂しいんじゃない?」
 美智はカーテンウォールの向こうへ目をそらした。近隣の高層ビルがすぐそばまで迫っている。はるか下の街路を人々が蟻のように行き交うのが見える。
「……なんというか、阿部くんやナースチャとの間に距離を感じる。それが寂しいといえば寂しいかな。若い人に指示を出して、まとめていく感じ? これも悪くないけど」
「あなたたち、さして大きく年が離れているわけでもないのに」
「でも、気になるとしたら、そこなんだ。それに最近じゃ、自分で製図する機会が減ってる。かつて所属していたドラフトマンたちの世界が恋しいよ」
 昨晩たまたま見かけた情景が美智の胸をよぎった。1階のビストロで窓辺の席につき、ひとり夕食をとっていた時のこと。すでに退勤した阿部くんとナースチャが植え込みの向こうを歩いていくのが目に入った。阿部くんはスポーツバッグを提げ、ナースチャの顔をのぞき込むように話しかけていた。ナースチャは伏し目がちながらも楽しげな笑みを浮かべていて……。
 クボタさんの優しい声が美智の耳に届く。
「私、事務方だから、設計のことはわからない。けど、今の話って、上に立って大きな仕事をしていこうって人がみんな経験することじゃないかな。平和宮殿チームを任された時点で、あなたはもう一人前の建築家への道を歩き出している」
 美智はカウンターに寄りかかり、しばしの間口をつぐんだ。両手で包むようにして湯呑みの中をのぞいていると、クボタさんが「あっ、そうだ」と手を打ち鳴らした。彼女はトートバッグの中から細長い紙切れを取り出し、
「これ、あげる。午前中に○○出版に寄った時、もらったんだ。美智が興味を持つだろうなと思って」
 見ると、それはある建築展のチケットだった。表には、『シルクロードの道はずれ――中央アジアの無名建築展』とある。
「わあ、時期的にぴったりの内容だね。もらっちゃっていいの? 二枚とも?」
「もちろん。たまには定時にあがって行っておいでよ、阿部くんを誘って」
 クボタさんがにんまりと笑う。美智は手にしたチケットをつくづく眺めた。
 縁取り文字で記されたその題名もおもしろい。が、背景に使われている写真ははっと目を奪われる鮮やかさだった。手前に白い羊の群れと、それを追う牧童の少年が写っている。奥には赤茶けた遺跡がいくつか見える。そして横長の紙面いっぱいに広がる緑の草原。宇宙的ともいえる空の青。

「あっ、午後七時で終了だって!」
 道路ぎわに立てられた案内板を前に、美智は拍子抜けした声をあげた。腕時計を見れば、もうあまり時間がない。どうする? という顔で後ろを振り向くと、ナースチャはがっかりするふうでもなく、ただちょっと小首を傾けてみせた。
 住宅としゃれたカフェやレストランが混在する表参道の裏通り。彼らは小さなギャラリーの前で立ち止まっていた。ハナミズキの植栽の陰に、うっかり見落としそうな入り口がある。と、ちょうどそこから受付係らしい男性が顔をのぞかせた。
「まだじゅうぶん余裕がありますよ。閉館を少し遅らせますので。さ、どうぞ」
 美智とナースチャは彼のあとについて手押しの回転扉をくぐった。
 今日のナースチャは、黒のひざ丈のワンピースを着て、髪を後ろでまとめている。平素よりもさらに大人っぽい感じ。両耳には銀のイヤーカフを着けている。唐草をあしらった透かし細工のカフで、若い女性向けとはいえない古風なものだ。
 ギャラリーの中には、天井が高く、奥に細長い展示室が一つきりだった。左右の壁に白黒の写真とイラストが交互に掛かっていた。あとは中央に模型がぽつんと一点置かれているだけ。ほかに客の姿はなく、まるで二人のための貸し切りのようだ。
 入ってすぐのところに、ユーラシア大陸の白地図があった。日本列島が右端ぎりぎりに見え、左端はヨーロッパ南東部で切れていた。大陸を横断するように描かれた一本の線が目を引く。それは中国の華北から始まり、モンゴルやカザフスタンを西に突っ切って、カスピ海北岸経由で黒海方面へ抜けている。シルクロードの主要ルート「オアシスの道」ではなく、北回りのいわゆる「草原の道」だ。この弓なりの線に沿っていくつかの丸印が散りばめられている。
「なるほど、だから『シルクロードの道はずれ』というわけか。ほら、ナースチャ、それぞれの建物の所在地が示してあるよ。こうやって見ると、草原の道って、今のアスタナのあたりを通ってたんだ」
 返事がないので、美智は振り返った。ナースチャはいつのまにか部屋の中ほどへ進み、展示台に据えられた模型に見入っていた。その真剣な横顔に大ぶりのイヤーカフがくっきりと輝いている。
 美智は隣に並び、そっと声をかけた。
「お墓だね」
 ナースチャが無言のままこくりとうなずく。
 それは十九世紀前半に建てられたという宗廟の木製模型だった。なかなか精巧な作りで、高さは三十センチほど。モノクロームの展示空間内にあって、暖かい色と質感が引き立っている。木の香りまで漂ってくるようだ。
 建物は三つのボリュームから成っていた。ホールケーキ用の箱のような正方形平面の墓室、その上に架かる半球状のドーム、そして正面につけ足された小さな前室。模型の台座にある縮尺定規から見当をつけると、縦・横・高さともに十メートル余りだ。まさにケーキのように前半分が切り取られ、中がのぞけるようになっている。
「すごい壁の厚さ。こんな小規模な建物なのに」
 美智は前かがみになり、その切り口を間近に見てため息を漏らした。ナースチャがつま先立ちし、模型を真上から見下ろしながら言う。
「上に載っているドームのためだよ。ドーム屋根は外へ開こうとする力を持っているから、墓室の外壁の重さでそれを抑え込んでるんだ」
 二メートル近い厚みを持つ壁は、一部が中空になっていた。そこにかかる複雑な負荷を考えると、これは奇妙なことだった。美智は首をかしげつつ、屋根部に目を移した。ドームは椀を伏せたような単純な形だ。頂部に設けられた小さな円い開口部が気をそそる。
「ぽっかりと穴の開いたドームなんだね。図面が見たいな」
 美智が体を起こして周囲を見まわすと、ちょうど近くの壁に同じ廟の写真と図面が掛かっていた。
 大きく引き伸ばされたモノクロ写真。実物の建物は当然ながら総レンガ造りだ。外壁は痛々しいほど風化しており、模型で示されている軒蛇腹の装飾積みがほとんど見えなくなっている。
 ペンで描かれたエッチング風の断面図。墓室の内部は幅よりも高さが勝った、垂直性の強い空間だった。その輪郭は首のないずんぐりとした瓶を思わせた。細かいタッチで影がつけられ、ドーム頂部の天窓から薄暗い室内に射し込む光が表現されている。
 墓室の奥の壁寄りに祭壇がある。祭壇の下には石棺が埋められ、中に横たわる遺骸までもが描き込まれている。見る者の心をひんやりとさせる仕掛けだ。ただ、よりいっそう美智の注意を引いたのは、光とともに外から建物に飛び込む黒い影だった。それは天窓を抜けてドーム内に入り、今にも墓室の底へ舞い降りようとしている。
 ――これはなに……? 鳥?
 美智が図面の前で頭をひねっていたところ、不意にナースチャが後ろから寄りかかり、肩にちょこんとあごを乗せてきた。
「これは御霊、つまり廟に祀られた死者の魂を表してるんだ」
 彼女は低くささやくと、美智の背中を抱いたまま片腕を前に伸ばした。右上から左下へ、指先で斜めに宙を切り、急降下する鳥の軌跡をなぞるようにする。
「ナースチャ、なんでそんなこと――」
 知ってるの? と聞こうとした美智の耳に、携帯電話のようなものがそっと押し当てられた。手に取ってみると、さっき受付で渡された音声ガイドだった。女性ナレーターの声が聞こえてくる。
「頂部に穴の開いたユニークなドーム建築。それは、この時期の遊牧民が持っていた独自のシャーマニズム的世界観を示すものです。草原において、人の魂は死の瞬間に肉体を離れ空へのぼる。しかし日を置いてまた故人の墓廟に飛来する――。これをテングリ信仰と呼びます。魂はまさにドームの天窓から墓室へ入り込む。そして床下に埋葬された遺体と再び一体化するわけです。時代が下るにつれ、残念ながらこのような土着の信仰はすたれていきました。十九世紀後期に入ると、イスラム建築の理念に基づく閉じたドームが主流となるのです……」
 なんだ、ナースチャは先にこれを聞いていたのか、と美智は納得しかけた。が、いや待てよ、と思う。このナレーションは日本語だ。いくら覚えが早い彼女でも、こんな難しい内容をすぐに理解できるはずがない。それとも、このガイドには英語版のナレーションも入っているのだろうか?
 もたもた音声ガイドをいじっているうちに、ナースチャはさっさと先へ行ってしまった。
 ほかに紹介されていた建物も、大半が遊牧民の手による小さな廟建築だった。正方形や八角形など様々な平面のものがあるが、頂部に採光窓を持つドーム建築という点では似ていた。写真を見ると、やはりその多くが風雪のために傾いている。ドームの上に載っていた頂塔が崩れたり、根元から失われたりして、往時の外観は見る影もなかった。

 二人がギャラリーを出た時には、外はもうすっかり暗くなっていた。
「シンプルな展示だけど、とてもよかった。解説も丁寧だったし」
 ナースチャが満足そうに言い、夜空に向かってぐーんと伸びをした。彼女はきびきびした足取りで先に歩き出す。美智は心ここにあらずといった体で、左右に揺れるそのポニーテールを追った。
 今しがた見た不思議な断面図が脳裏によみがえる。ドームの円窓から墓室に射し込む光、ひらひらと舞い降りる鳥のシルエット、そして床下に埋葬された人体。夜の都会の暖気に身を浸しながら、同時に美智の心はあの草原の小さな廟の中にとどまっていた。
 黙する死者のための建築から、刹那の愉楽を求める生者の都市へ――。表参道まで戻ると、赤々とした車のテールライト、道を行く人々の談笑がやっと美智を現実に引き戻した。きらびやかなガラスのファサードを背に、ケヤキ並木が黒い影絵を描いている。
 せっかくナースチャを事務所の外へ連れ出したのに、今日もまた彼女と会話らしい会話はできなかった。美智はかえすがえす残念に思う。初デートで建築展は失敗だったかな、と。
 青山通りに向かってしばらく歩いたところで、ナースチャがふと立ち止まった。
「美智、これからなにか予定あるの? 特に決めてないんだったら、ここで一緒に食事しよう。ほら、このお店、とてもすてき」
 美智がはたと気づくと、そこはとあるフランス料理店の前だった。小粋な外構え。かなり名の通った店だ。
 ――ここで? 予約もしてないし、なにもばっちり表参道に面したお店を選ばなくてもいいのに。給料日前だよーっ。
 思わずふてくされたような声が口をついて出る。
「ごめん……、今晩はやめとく」
「どうして? 展示会のお礼もしたいし、ここは私に任せて言うとおりに――」
 ナースチャが言い終わるより早く、美智は彼女の手を引っ張っていた。
「そうだ、私んちへ来ない? なにかぱぱっと作るから。ね? ワインもある!」

 四谷三丁目駅から少し歩き、二人は美智の住むアパートに行き着いた。ドアを開け、小さなキッチンと浴室の間を抜けると、そこには八畳間が一つだけ。手前に丸テーブルと椅子が二脚。ベッドは奥のベランダ側に、掃き出し窓と並行に置いてある。
 ナースチャは壁際のスチール棚の前に立ち、そこにごちゃごちゃと置かれた雑貨をのぞき込んだ。彼女はいちばん上の段の写真立てに気を引かれたらしい。その写真の中では、美智が母と池のほとりに並び、にっこりと笑みを浮かべているはずだ。
「これ、どこ? きれいなところ……。この人、美智のお母さん?」
「うん、それね、兼六園っていう日本庭園で撮ったんだ」
 美智はキッチンに立ち、昨日作った肉じゃがを温めなおしながら話した。実家は金沢であること。母子家庭で育ち、父親の顔を知らないこと。会計士をしている母親は、美智の教育にとても厳しかった。子どものころはつらかったけれど、おかげで都内の難関大学へ進学できた……。
 バゲットを切ってトースターで焼き、カマンベールチーズを載せる。ほうれん草のお浸しを冷蔵庫から出し、白ワインをグラスについだ。
「さぁ、食べよ!」
 その簡単な食事の間、美智はナースチャにいろいろと聞いてみたかった。家族のことや、故国での生活について。建築を志した理由。東京ではどこに住んでいるのか。でも、どう切り出せばいいのかわからない。
 ナースチャはすぐ目の前で器用に箸を使っている。襟の付いた黒のワンピースという上品な格好はそのままだが、今はギャラリーで見せた張りつめた雰囲気を解いていた。
 沈黙に急き立てられるように美智は明るい声を出す。
「あ、あのさ、阿部くんに聞いたんだ。ナースチャって、テニスがとてもうまくて――」
 すると、むやみに振りまわした手が当たり、自分のワイングラスを倒しそうになった。ナースチャがすかさずそのプレートを押さえた。グラスは中身を一滴もこぼさず、狭いテーブルの上に静止する。
 美智はぽかんと口を開けて固まった。ナースチャは穏やかにほほえみ、それからそばの壁へと視線を移した。そこに掛かっているのは、彼女が採用面接の際に描いた世界平和宮殿のアトリウムのパース。美智のかけがえのない宝物だ。
「これを描いている時ね、とても美しいと思った。美智がピラミッドに与えた幾何学的構成。なんて涼やかなんだろうって」
 細いアルミフレームに入ったパースを眺めながらナースチャが言った。美智はそのつんとかわいい横顔を見つめ、
「自分ひとりで決めたわけじゃない。構造エンジニアに助けてもらったんだ」
「でも、方向性を定めたのは美智でしょ。3層組みの立体トラスがそのまま外装の斜め格子になる。しかもその単純な図柄の中に、内部のアトリウムの輪郭がほのめかされている」
「十二メートルのスパンを決めたら、あとは納まるところに納まったよ。幾何学にはでたらめがないから。すべてに報いがあるっていうか」
「きっとあなたの純粋さや潔癖なところが表れているんだね」
「そんな……、潔癖? 私、自分の手狭な部屋すらちゃんと片づけられないのに」
 美智は横目で寝乱れたままのベッドを見た。ベッドカバーの下から、朝取り込んだ洗濯物がのぞいていた。ナースチャが小さく噴き出す。彼女が手にしたグラスの中でワインが揺れる。
 初めて見せる無邪気な笑顔。美智は思った。この子も自分と同じ世界の住人だ、と。
 ――あなたも幾何学の言葉で話ができる。あなたと私は通じ合える。心と体を結ぶ、あの建築の領域で。
 ひとしきり笑ってから、ふとナースチャが聞いた。
「美智、平和宮殿の設計が終わったら、あなたはアスタナへ行くの?」
「ううん、私じゃなくて、高橋さんが行くことになってる。海外での施工監理には、やっぱり彼くらい経験がないと」
「そうか、そうだね、あなたは行かないほうがいい」
 一転して冷気を帯びたその声に、美智ははっとナースチャの顔を見なおした。
「それは、どういう……?」
「美智にはふさわしい居場所があるってこと、この東京の街に。わざわざよそへ行く意味なんてない」
「でも、ほんと言うと、現場へ行ってみたいんだ。実際に建物が建ち上がるところを自分の目で――」
「あなたはここで必要とされている。事務所では誰もがあなたに敬意を払っている」
 ナースチャの表情は淡々としていたが、その口調には断固とした響きがあった。美智は釈然としないまま首を横に振った。
「敬意だなんて、私、駆け出しだよ。それにそんなこと言ったら、ナースチャこそ大人気でしょ。みんなあなたに興味津々。中にはぞっこんって人も」
「ケイタのこと?」
 慶太というのは阿部くんの下の名前だ。美智は息をのみ、早口になった。
「ね、ね、うちの事務所でいちばんかっこいいの、誰だと思う? ダントツで阿部くんだよね。彼、見た目だけじゃない。仕事はできるし、根が明るくて人当たりも優しいし」
「美智がいちばんかっこいい」
「私? あはは、違う違う。男性陣の中で、だよ。ナースチャって、年上好き? じゃあ、たとえば……」
「美智がいい」
 ボトルを一本空けたせいか、美智は少し酔いが回ってきた。見ると、ナースチャもほおが上気し、色素の薄い瞳をうるませている。
 クールで知的だが、どこかつかみどころのないナースチャ。彼女はまわりをよく観察しており、時にはこうしてすてきな気遣いも見せてくれる。一方で、やはりふだんは口数が少なく、自分のことを進んで話そうとはしない。ともあれ、今はこれでじゅうぶんだと美智は思った。ナースチャがこの部屋にいるだけでうれしい。こうして二人でしゃべり合えるだけでうれしい。
 棚の上の時計がいつのまにやら遅い時間を指していた。今夜は泊っていくように言うと、ナースチャは素直にうなずいた。
 美智はクローゼットからなにかのイベントでもらったLサイズのTシャツを取り出した。パジャマ代わりにとそれを手渡そうとしたところ、歯ブラシをくわえたナースチャが浴室の中で振り返った。ローライズの下着一枚になった彼女は、驚くほど引き締まった体をしていた。幅の狭いいかり肩。位置が高くて形のいい胸。少女のように骨盤を引っ込めていて、脚には筋肉の凹凸が美しく現れている。
 狭いベッドに横になると、ナースチャは美智に背中を預けてきた。彼女は後ろ手で美智の手を取り、自分の腰に巻きつけるようにした。まるで高所作業用の安全帯でも装着するかのごとく。そうやって背後からナースチャを抱きかかえていると、美智は不思議なほど心が安らいだ。甘やかなぬくもりとともに、眠りはほどなく訪れた。

次回へつづく


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