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カシモフの首【小説】 Ⅳ.怪火・亡霊のうわさ ③
あれだけ派手に炎が上がったにもかかわらず、火災調査の結果、建物が受けた実質的な損害は小さいことが裏付けられた。ピラミッドの鉄骨には変形がいっさい見られなかった。耐火被覆をやりなおせば、そのまま利用できるという。一方、出火原因の特定は難航した。新しい事実は明らかにならず、取り上げられるのは不確かな推測ばかり。これといった結論が出ることもなく、調査はうやむやのうちに終わってしまった。
ナースチャはといえば、毎日現場へ出てきたものの、たいていサイトオフィスでぼんやりと座っていた。火事のあと、以前に比べてもめっきり口数が減っている。夏の色は敷地の内外で鮮やかさを増していたが、彼女のまわりだけは日が陰ったかのようにくすんでいた。
美智は単独で宮殿の巡回を続けた。建物のそこかしこで出くわす作業員たち一人一人の容姿に注意を払った。ヘルメットの下の顔はどれも一様に日焼けしているが、彼らの背丈や体つきは実にさまざまだ。ただ、その中に、火災の翌日美智の注意を引いた男は見つからなかった。三日たっても四日たっても。
ある日、美智は砂利敷きを挟んで隣に建つコントラクターのサイトオフィスを訪れた。
コントラクターのオフィスは美智たちのいる施主のオフィスよりずっと規模が大きく、幾棟かのプレファブの平屋に分かれていた。常に大勢の人間が出入りし、がやがやと人声が満ちている。トルコ人技術者が詰めている大部屋。ケバブのにおい漂う食堂棟。彼女があちこちきょろきょろのぞいていると、オルハンが約束の時間に少し遅れて現場から戻ってきた。
「なんだよ、美智。ここにオレよりいい男がいるってのかぁ?」
いかにも心外そうに首をひねってみせるオルハン。美智はぷっと噴き出し、彼の丸い肩をたたいた。
「そう、ひと目ぼれってやつ? 気になって夜も眠れないんだ」
オルハンは大部屋の自分の席に美智を座らせると、壁際のスチール棚からパイプ式の分厚いファイルを持ってきた。それは現場作業員の個人票をとじ込んだものだった。
個人票の書式は履歴書のそれとおおむね同じだ。一名につき一枚。A4判の用紙に各作業員の氏名、年齢、職種、実務経験年数、保持する資格と免許が記されている。右上に顔写真がある。ただ、身長や体重など、肉体的特徴を示す項目はない。万が一事故が起こり、輸血が必要になったときのために血液型が載っているのみだ。
一枚一枚めくっては目を走らせる。が、美智はすぐにそれが無駄であると悟った。小さな写真から例の男を見分けるのは不可能だった。よく考えれば、彼の背格好や雰囲気はわかっていても、これまで一度たりともその顔をはっきりと見たことがないのだ。
美智は天井を仰ぎ、口の中でうめいた。
「ああ、姿の見えない私の恋敵。あいつは今、いったいどこに……?」
「なになに、美智が気になる若いやつってのはどいつだよ。教えろよ」
陽気な声で茶化しながらも、オルハンの目は笑っていなかった。美智はオルハンに人捜しのわけを話していない。が、彼らの頭を占めているのは間違いなく同じこと。「放火」の二文字だ。「背が高くてね、とても腕が長いんだ、均整がとれていないくらいに。で、ちょっと猫背ぎみに歩く。ぶわっと横に広がった長めの髪をしている」
「はぁ? なんだそりゃ、顔もわからないのにひと目ぼれしたのか」
オルハンは拍子抜けしたように笑いつつ、
「腕が長いなんて言われても、さっぱり見当がつかないな。背の高いやつはざらにいるし。トルコ人だと思うか、そいつ?」
「いや、たぶんカザフ人。年齢は二十代半ばから三十歳前後で……」
個人票の束をぱらぱらと繰りながら、美智は自分の考えがいかに甘かったかを思い知った。
この現場には作業員だけで二百人以上、技術者や事務方を合わせると常時約三百人の人間がいる。コントラクター直属のトルコ人たちを除けば、全員が当地で採用された人々だ。カザフ人とロシア人が多く、ウズベク人、高麗人、それにアゼルバイジャン人のようなコーカサス系もいる。二十代から五十代にわたる男たちの出自は、そのままカザフスタンの複雑な国情を反映していた。
美智はファイルを閉じ、夜の歌舞伎町で見た男のシルエットをあらためて心に浮かべた。クラブの前でナースチャを抱きしめていたあの腕の長い男。彼はすでに平和宮殿の現場を去ったのだろうか。それとも、あれは単なる他人の空似だったか? こうなったら毎日しっかり見張って、もう一度鉢合わせするのを待つほかない。
コントラクターは人員を増強し、平和宮殿の建設を本格的に再開した。地上階では、焼け落ちた小会議場の造り直しと並行して、電気や空調、水道の設備工事が行われた。また、設備工事が終わりつつある地下階では、一部内装工事も始まった。
それからしばらくたってからのことだ。宮殿の建設現場に奇怪なうわさが立った。なんと工事中の建物に亡霊が出るというのだ。
「見た」と言うのは、夜間シフトの作業員たちだった。業務終了直後の深夜、鎧に身を固めた首なし戦士が照明の落ちた宮殿内を徘徊する――。初めのうち、数人の間でひそひそとささやかれていたこの話は、またたく間に現場全体に広まった。
首なし戦士は赤々と燃える火矢を携え、小会議場のデッキの上に仁王立ちしていた。
抜き身の剣をひっさげた戦士を見た。アトリウムに面する回廊をのしのしと歩きまわっていた。
暗い地下階のどこかから、亡者の奏でる二弦琵琶の調べが聞こえた。それはそれは哀しげな音色だった。
特にカザフ人作業員たちがひどく怖気づき、中には夜間業務を拒否する者まで出てくる。やがて不穏なうわさ話はハミードフ氏の耳に入った。屋敷でこの件をめぐる論争が行われたのは、その週末のことだった。
「これはつまり、ケネサリー公がご不満を示しておられるのじゃ」
ワンガがしわがれた声を振り絞り、強い調子で言った。
「ばかばかしい。亡霊だなどと、二十一世紀のこの時世に!」
カリムがいかにもあきれたように両腕を大きく広げてみせる。ハミードフ氏は眉を曇らせ、重苦しいため息を漏らした。
「いったいどうしてこんなうわさが……。よりによって首なし戦士とは」
ハミードフ邸本館の「夏の間」。それは食堂から中庭に向かって張り出した優雅なオランジェリーだ。背の高いアーチ窓が連なり、巨大な観葉植物の鉢が並ぶ。部屋の中央では、ハミードフ氏、ワンガ、カリムがそれぞれアームチェアに掛けて向かい合っていた。美智は窓辺のソファに座り、三人の会話に耳を傾けた。ナースチャはソファのひじ掛けに腰を乗せ、美智の肩に手を置いている。彼女が同時通訳をしてくれる。
ワンガがなおも畳みかけた。
「我はそもそもから反対しておったろうが。あんな鉄とガラスの寒々しい建物に公の遺骸を納めるなんぞ。せめて一度は奥クルガルジノへお連れし、その霊を慰めるのだ。あそこの廟に首を仮安置してな」
ハミードフ氏が渋い顔で応じる。
「ばば様、その話はもう……。それに、わざわざあんな遠くまで行かずとも、慰霊ならアスタナでできるのでは?」
「ならん、ならん! まだわからんのか? 満天の星のもと、祖国の大地と一つになること。それを公は望んでおられる。あの御霊屋こそ、慰霊の場にふさわしい」
「ううむ、そこまで言われるならしかたあるまい。ただし、今はいかん。秋口にあくまで内密に行う、ということでよろしいですね」
カリムが椅子から腰を浮かせた。
「父さん、正気か。カシモフの首を屋敷の外に持ち出すというのか?」
「正味一日だけのことだ、カリム」
「万が一のことがあったらどうするんだ。ロシアと話がついたからって安心はできない。国内にも我々のことをやっかんでいる連中がいる。ここで下手に動いては――」
「だからこの幽霊騒ぎが収まってからにしようと言っている」
「首の保安警備を受け持っているのは俺だろ。だめなものはだめだ。奥クルガルジノまで何キロあると思ってるんだ。まったくどうかしているぞ、誰もかれもこんな与太話を真に受けやがって。なにがカシモフ公の怨霊だ、くだらない」
「黙らんか、天の摂理を知らん不信心者め!」
ワンガが前かがみに身を乗り出してカリムをどやしつけた。言葉もたどたどしい、病み衰えた老人――そんな印象は消し飛んでいた。小さな体躯もいつもより大きく見える。カリムはぐっと息をのんで彼女をにらみ返したが、真っ向から口答えすることはできなかった。
「ねえ、『奥クルガルジノ』ってなに?」
美智はナースチャを見上げて小声で尋ねた。ナースチャは上から覆いかぶさるようにして美智の耳元に口を寄せ、
「奥クルガルジノというのは、アスタナからずっと南西へ行ったところに広がる湖沼地帯のことだよ。そこにケネサリー・カシモフとゆかりの深い古い廟が建っている。ただ、中には祭壇があるだけで、誰の遺骸も埋葬されていない」
その空っぽの廟の由来については、もともと二通りの説があったという。一つは、カシモフ一族の別のスルタンの墓であったが、後に盗掘されたというもの。もう一つは、将来のケネサリーの廟として彼の生前に建てられたというものだ。近年の学術調査によって、二つ目の説が有力になっているらしい。
「本来なら、カシモフの首は奥クルガルジノに祀られるべきだろうね。でも、政治的動機が優先された。アスタナに新しく廟を築いて、新首都のモニュメントにしたいってこと」
ナースチャは穏やかにほほえみながら、美智の髪の中に指を入れたり、短い襟足をなでたりした。部屋の真ん中では言い争いが続いているが、そのゆくえにはまるで興味がないようだ。
「おまえはどう思うんだ、ナースチャ」
ハミードフ氏が美智たちのほうへ顔を向けて言った。ナースチャはレギンスの脚をぶらぶらさせながら素っ気なく答えた。
「私にはどちらでもいい。けど、おばあ様の気の済むようにしてさしあげたら?」
「やはり奥クルガルジノでの慰霊は必要だと言うんだな?」
「もしこのまま平和宮殿をカシモフ廟にすると発表したら、学者や文化人のたぐいがこぞって反対の声をあげるでしょう。先に奥クルガルジノで慰霊行事をしておけば、あとで民心をなだめるのがずっと楽になる。その際、あの古い廟が恒久的なものになりえない理由を説明してやるといい。現代の基準から見て小さすぎるとか、耐震性に問題があるとか。こういう手順で異論を抑え込めるはず」
ひととおり言い終えると、ナースチャは唇を固く結んだ。それから美智の頭を抱き寄せ、その髪に顔をうずめるようにした。カシモフの件についてはそれでおしまい、といわんばかりだった。見れば、カリムがなんとか反論しようと口をぱくぱくさせている。ハミードフ氏は得心したように笑みを浮かべた。
結局、平和宮殿の竣工式直前に草原の廟で内輪の慰霊祭を執り行うことが決まった。そのあとは当初の予定どおりだ。カシモフの首はアスタナへ持ち帰られ、竣工式で大統領に献呈される。ハミードフ氏は首のロシアからの正式返還に尽力したとして褒賞を受ける。
もうどうなっても知らないぞと捨てぜりふを吐き、カリムは足音荒くオランジェリーを出ていった。ハミードフ氏が窓辺のソファのところへ来て声をかけた。
「美智、面倒なことに付き合わせてしまったな、せっかくの休日に。だが、これは宮殿建設の成否に関わる重大事なのだ。君にもぜひ知っておいてもらいたかった」
わかります、と美智はうなずく。
続いてハミードフ氏はナースチャにもなにか言おうとした。が、前もってそれを避けるかのごとく、ナースチャは美智のうなじに顔を埋めたままだった。湿った吐息に首筋をくすぐられ、美智はいっときの気恥ずかしさをやり過ごす。その間、ハミードフ氏はじっと立ちつくしていた。文字どおり、魂が抜けたような表情だった。
ハミードフ氏とワンガが行ってしまうと、オランジェリーはしんと静かになった。午後の日差しがシュロの葉陰からこぼれ落ち、白いセラミックタイルの床の上で揺れていた。空調の効いた室内に穏やかな時間が流れる。ナースチャは美智の肩を後ろから抱き、髪に繰り返し唇をつけていた。
「ワンガ様、すごい迫力だったな。びっくりした」
美智はナースチャにもたれ、されるがままになりながら言った。ナースチャが耳元でくすりと笑う。
「痴呆症の哀れな年寄り、くらいに思ってたんでしょ」
「そんなことは……。ところで彼女、ロシア語でしゃべってたよね。しかもかなり流暢だった。カザフ語しか話せないんじゃなかったの?」
「ふだんはカザフ語しか話さないというだけだよ。それと、おばあ様には波があるんだ。今日みたいにしっかりしている日と、ぼんやりとなっちゃう日と」
「さっきの会話に出てきた、ハミードフ家の忌まわしい出自がどうのって、あれはなに?」
「おばあ様の決めゼリフ。あんなの言いがかりみたいなものだけど、父はいつも反論できない。あの尊大な人がだよ?」
美智の髪を指で梳きながら、ナースチャはくすくすと笑いつづけた。
平和宮殿の火事以降、ナースチャの感情の不安定さ、躁うつ的なところはますます強まっているようだった。それは彼女の身だしなみや態度の端々に表れていた。以前のナースチャなら、休日でも部屋着のまま屋敷内を歩きまわったりはしなかったはず。先ほどの父親に対する子供っぽい振る舞いなど、言わずもがなだ。
あの腕の長い男は誰なのか、教えてほしい――。
今日こそはと用意していた質問を、美智はまたもや封印した。今、あの男について無理に問いただせば、よくないことが起こるという予感があった。なにか取り返しのつかない深刻なことが。
ナースチャがくんくんと鼻を鳴らし、また美智のうなじに顔を押しつけた。そして幼い子がむずかるような調子で言う。
「ああ、カシモフの首の話はもうたくさん。たくさんなんだよ……」
オランジェリーでの一幕が終わり、美智は自分の居室がある宿泊棟へと引き下がった。
部屋に入るやいなや、大きなベッドに倒れ込んだ。枕に顔をうずめ、しばらくじっと身動きせずにいた。そのまま少し昼寝がしたかった。が、半ばうとうととしつつ、どうしても寝つくことができない。神経はくたくたに疲れ、しばしの休息を求めている。一方、頭の隅になにかが引っかかっていて、それが眠りを妨げている。
美智はごろりと仰向けになり、まっ平らな漆喰仕上げの天井を見つめた。
宿泊棟の階高はそう高くない代わりに、柱間が広くてゆったりしている。モールディングがめいっぱい施された本館に比べ、その内装はいい意味で簡素だ。より現代的といってよい。
「夜な夜な建設現場をさまよう首なし戦士……」
なんとなしにつぶやいてから、美智ははっと体を起こした。ヘッドボード脇の棚を見やると、借りっぱなしになっている例の歴史の本が目に留まった。『草原のいしぶみ』だ。しばらくぶりに手に取り、腹ばいになってページを繰る。ケネサリー・カシモフの死について触れられている箇所をもう一度たどってみた。
……刑に処せられる直前、ケネサリーはサラートと呼ばれるイスラム教の礼拝を行った。最後のカザフ・ハンの死にざまを見せつけるため、刑場へ大勢のカザフ人捕虜が追い立てられた。とうとう彼は首をはねられる。一八四七年のことだった。
かくしてケネサリー・ハンは、おのれの信念の命ずるまま、輝かしくも悲劇的な人生をたどった。その首は、キルギス族のロシア帝国への恭順のあかしとして、西シベリア総督に献上されたという。以来、長い長い歳月が過ぎ、我々がこのたぐいまれな英雄の軌跡をはたと思い起こした時、尊いなきがらはすでに歴史の闇の中にかき消えていた。
そう、首のない戦士の亡霊は怨嗟の炎に身を焦がし、いまだ広漠たるユーラシアのどこかをさまよっているのである――。
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