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カシモフの首【小説】 幕間: アナスタシア、宮殿の建設現場に立つ

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 澄んだ冷気の中、アナスタシアは目の前に広がる風景と対峙した。
 挑むようなまなざし、たたずまい。彼女は工事用ヘルメットを深くかぶっている。長い黒髪を横へ吹き流されるまま。
 頭の芯まで凍えさせる風は、片時もやむことがなかった。常に青い大気全体が動いていた。ところどころ雪が残るものの、視界の届くかぎりくすんだ黄色の平原が続く。定規で引いたかのごとく真っすぐな地平線。その一部にかすみがかかっている。
 近くにしゃがんでいたカザフ人の現場作業員が言った。
「野焼きの煙だよ、ナースチャ。春の初めに枯草に火をつけて焼くのさ。新しい草がよく生えるようにね」
 アナスタシアが立っているのは、完工を控えたコンクリート躯体の最上段だ。現状では、まだスラブがない中央部分を除き、ほぼ百メートル四方の平屋根のようになっている。世界平和宮殿の地下3層が入るこの構造物は、ちょっとしたショッピングモールほどの規模があった。
 それ自体はたいした高さではない。が、イシム川河岸のやや小高いところに立っているため、屋上からはじゅうぶんに眺望がきく。
 西を望むと、正面に対岸で建設中の新都心がよく見える。表土が剥ぎ取られて黒々とした平地に、すでにいくつかの建物が建ち上がっている。右手、つまり北側にはソ連時代に整備された旧市街が広がり、再開発がまさにたけなわだ。そして今、アナスタシアが眺めている左手には、春目前の大平原が南の果てまで連なっている。
 日々刻々と様相を変えていく新首都アスタナ。ここはその全景を見わたすにはうってつけの展望テラスだ。
「お嬢さん、ヘルメット姿、かわいいねぇ」
「こっちへおいでよ。そんな端っこに立ってると、体ごと風に持ってかれちゃうぜ?」
 トルコ人作業員たちがちょっかいをかけてきた。防寒コートの裾から伸びたアナスタシアの脚は厚手のタイツに包まれ、足首丈のごつい安全靴を履いていた。ぶしつけな視線の束はそこへ絡みついてくる。彼女が横目でにらむと、男たちは肩をすくめて退散した。
 後ろを振り向いたついでに、アナスタシアは少し離れたところにいる美智を見やった。
 ダウンジャケットで着ぶくれした美智はその場に片ひざをつき、真剣な面持ちで技術者から説明を受けていた。彼女の足元では、コンクリートの表面から人の腕ほどもあるアンカーボルトが何本も突き出していた。それらは約九十センチ角の正方形の形にずらりと並んでいる。
 コンクリート躯体の屋上――将来のアトリウム1階フロアに当たる――には、こういった巨大なアンカーフレームが数十基あった。のちにピラミッドを支える鉄骨がこのボルトに差し込まれ、ナットで固定されるわけだ。
 その時、重く、かつ鋭い靴音が金属製の仮設階段をのぼってくるのが聞こえた。やがて姿を現したのは、ハミードフその人だった。ひざ下まである分厚いコートを着て、耳当ての付いたロシア風の毛皮帽をかぶっている。美智が立ち上がって彼にぺこりとお辞儀をし、それから今日何回目になるか、アナスタシアのほうへ笑みを向けた。アナスタシアはまたしてもふいっと顔をそらした。
 ハミードフは美智に軽く会釈を送ると、アナスタシアのそばまでゆっくり歩いてきた。彼はコートのポケットに手を入れたまま、いかにもあきれたというように首を振った。
「なんだ、おまえはまだ美智に意地悪をしているのか。しょうがない子だな」
 アナスタシアはハミードフの懐に隠れるようにして、しょんぼりとうつむいている美智の姿をのぞき見た。
「私は今も納得していない。お父さん、どうしてあの人を受け入れたのです?」
「またその話か。何度も言っただろうが。このプロジェクトを成功させるためにどうしても必要なことだ」
「平和宮殿の施工監理なら、私がいるでしょう?」
「ナースチャ、建築とは甘いものではない。アスタナを真に世界に誇れる都市にするには、なによりもまず海外の秀でた才能を呼び込むことだ。国内の連中だけに任せておくと、いったいどんな結果が待っているか……。見よ、二流どころの設計者が次々と妙なオブジェを作るものだから、このままでは新首都の顔が恥さらしなことになりかねん」
 語気を強めて言うと、ハミードフは川のほうをにらんだ。釣られるようにアナスタシアも対岸の新都心へ目を移した。ちょうど真向いでは、青いドームを戴いたクラシックな大統領官邸が完成間近だ。そこから先、彼方へ伸びる都市軸に沿って、政府庁舎やオフィスビル群が輪郭を現し始しつつある。そのどれもが形の奇抜さを競い、めいっぱい意匠を凝らしている。
 コーン、コーンという高く金属的な音が絶え間なく響いていた。地盤にコンクリートパイルを打ち込む杭打ち工事の音だ。いずれ遠からず、旧首都アルマティからすべての政府機能がここへ移転してくる。
 アナスタシアは眉を寄せてつぶやく。
「それにしても、美智を屋敷に住まわせるなんて。邸内には今、あれ・・が……」
 ハミードフがふふっと口元を緩めた。
「勝手のわからない町にひとり住まいさせるわけにはいかんだろう、外国人の若い女を」
「理由はそれだけ?」
「そうだ。ほかになにがある? まあ、あえてつけ加えるなら、私は美智の一途で、しかも腹の据わったところが気に入っている。この国でもきっとうまくやっていけるはずだと……。待て、おまえは本当に彼女が嫌いなのか?」
「あの人はここよりも、東京にいたほうがずっといいの。だからお願い、今からでも――」
 と、そこへひときわ強い突風が吹きつけ、アナスタシアは言葉を引きちぎられた。ハミードフがポケットから手を引き抜き、ふらついた彼女の体をすばやく支えた。大地からあらゆるものをさらっていくようなすさまじい風だった。美智はといえば、両手で耳を押さえ、トルコ人たちとともに驚きの歓声をあげている。
 アナスタシアをしっかりと立たせてから、ハミードフがいかめしい口調で言った。
「娘よ、不平はもういい加減にしておけ。それより美智から学ぶことを考えるんだ。ほら、彼女はもうコントラクターの男たちの中に入り込んでいるではないか。労務者を毛嫌いしていては、この仕事はとうてい務まらんぞ」
 ハミードフは帽子をかぶりなおすと、返事を待たずにきびすを返した。アナスタシアは唇をかみ、その峻厳な背中をじっと見送った。

次回へつづく


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