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カシモフの首【小説】 Ⅳ.怪火・亡霊のうわさ ④
夕方近くなったころ、美智は屋敷の中庭へ散歩に出た。
いくつものスプリンクラーがしぶきを上げて回り、その日最後の散水を始めていた。けだるげな微風が濡れた芝生のにおいを運んできた。この草原の町では、昼間どれだけ暑くても、日暮れ時には気温がすっと下がる。一日のうち最も気持ちのいい時間だ。
白樺の木立を抜けて歩き、ライラックの茂みがあるところに差しかかった。当然ながら、花はとっくに散ったあとだった。濃い緑の葉の合間をくぐり、あずまやの八角形の屋根を遠目に眺める。と、その下にぽつんとひとり、ワンガが座っているのが見えた。
ワンガは両手で籐のソファのひじ掛けをつかみ、背もたれから体を起こしていた。あごを上げて真っすぐ前を向いている。たそがれの光の中に浮かぶ小さな影ぼうし。家政婦長亡きあと、老祈祷師に常時付き添う者は誰もいないらしい。
美智は足音をたてないよう、そっとその場を離れた。
頭の中では堂々巡りが続いていた。平和宮殿の火災、首なし戦士出没のうわさ、そしてカシモフの慰霊をめぐるオランジェリーでの論争。一見すると自然な流れのように思われるこれらの出来事だが、はたして本当にそうだろうか。そこになにか釈然としないものを感じるのは自分だけだろうか。
結局のところ、火事の翌日にすれ違った腕の長い男は、その後二度と現場に姿を見せることはなかった。やはりただの人違いだったのかもしれない。そう思いながらも、他方、ある考えが大きなしこりとなって脳裏にこびりついていた。
一連の奇妙な成り行きには、ナースチャもなんらかの形で絡んでいる――。
いや、と美智はすぐにまた首を振った。ナースチャが平和宮殿の竣工を阻むようなことをするはずがない。自分に劣らず、彼女も宮殿の設計と建設に精魂を打ち込んできた。あれはただの建物ではなく、二人が共有する夢なのだ。
「あの子はきっとだいじょうぶ。誰よりもまず私が信じてあげないと」
美智は声に出してそのことを確認した。
知らず知らずのうちに、広大な庭の反対側まで来ていた。木々の間から視界が開け、屋敷の北ウイングが現れた。美智は思わずぎょっと息をのんだ。松の下陰にカリムがたたずみ、二階にあるナースチャの部屋の窓をじっと眺めている。
いつぞやのナースチャの言葉が胸をかすめた。
美智、絶対にカリムと二人きりにならないで――。
「ずいぶん妹に入れ込んでいるようだな。だが、気をつけたほうがいい」
カリムが振り向きもせずに言った。まるで背中に目があるかのごとくだ。宿泊棟のほうへ戻りかけた美智は、顔をしかめて立ち止まった。
「どういう意味?」
「いくら肩入れしたところで、見返りは得られないということさ」
「見返りだなんて。私、そんなもの求めていない」
そこでカリムはようやく美智に向きなおった。
「あんた、これまでこう考えてきたんだろう。『かわいそうなナースチャ! 父親に言われるがまま従い、あの干からびた切首のために人生の大事な時期を費やしてきた。恋やら趣味やら、同じ年ごろの女が夢中になりそうなことはすべてなげうって』、と」
「まさにそのとおりでしょ。どう考えても理不尽だ」
「なら、あんたがあれをこの屋敷から連れ出してやるか? 哀れなとりこを救ってやれよ」
「その言い方! 自分の妹をいったいなんだと思っているの」
「ふはは、冗談はさておくとしよう。俺が言いたいのはだな、現実とは違ううわべだけの姿にだまされるなってことだ。アナスタシアが強いられてしかたなくカシモフの首の件に関わっていると思うのか?」
「それは……、もちろん彼女には彼女なりの信念があるだろうし、あるいはワンガ様がおっしゃるように――」
「おいおい、俺たち兄妹は二人ともハナから信じちゃいないぞ。『ケネ様のご威光』だの、『その御頭が返ってきてこそ国が富み栄える』だの。祈祷師の婆さんに惑わされている親父とは違う」
カリムはいつもの薄笑いを漏らし、それから足元の芝を踏みなおした。
「俺についていえば、必ずしも愛国心から首のことに取り組んでいるわけじゃない。ロシア嫌いなのは確かだがな。そうではなくてハミードフという家のため、そして自分のためだ。国に尽くしても、俺の得になるとはかぎらん。が、ハミードフ家のためになることは、そっくりそのまま俺自身の利益になる」
「ふむ、泥臭い考え方だけど、一本筋が通っているね」
「だろう? 歴史だの、国家だのと大仰なことを言うやつらほど、腹に一物も二物も抱えているもんだ。その点、俺には裏表がない。この草原の地において、最後にあてになるのは血だ。家族だ。俺は家族をなによりも大事に考え、そのためならどんなことでもやってきた。汚れ仕事をいとわずな」
「なるほど。で、ナースチャも同じだと言いたいんだね。彼女は親の言いなりなんかじゃない、むしろ自分のために進んで与えられた役割を果たしてるんだって」
「あいつもそうあるべきなんだ。曲がりなりにもハミードフの一員として」
美智はカリムの顔をじっと見返した。ふだんはもっと暗い色をしているその瞳が、父親のそれに近い黄色の光を帯びている。
――そうあるべき? つまり、ナースチャはやっぱり違うということ? 国のためでもない、自身を含めた家門のためでもないとしたら、彼女はいったいどういう動機で……。
その時、不意にカリムが屋敷のほうへ顔を向けた。美智も釣られてそちらへ目をやった。いつのまにかナースチャの部屋にぼんやりとした明かりが灯っていた。テーブルランプかフロアライトだけが点いているらしい。窓辺に人影がちらちら揺れる。
後ろの茂みへあとずさりつつ、カリムが低い声でささやいた。
「無駄話はこのあたりにしておこう。とにかく、あんたはいろいろと思い違いをしている。そのナイーブさは、ここじゃ命取りだ。せいぜい用心するんだな。いいように利用されたあげく捨てられる、なんてことのないように」
*
世界平和宮殿の用途変更について、政府内部の根回しがやっと終わったらしい。夏の盛りを過ぎたころ、地下大会議場の施工が完全に凍結された。議場の工事はすでに足踏みしていたので、今回の決定には誰も驚かなかった。その真意を知っている美智はなおさらのことだ。
ある朝、ハミードフ氏が久しぶりに現場を訪れ、美智をサイトオフィスの施主の執務室へ呼んだ。
「わああぁ、これ、ナースチャですか?」
A3用紙に印刷されたCGパースを見せられ、美智は我を忘れて大きな声をあげた。それはカシモフの首を納める地下墓室のパースだった。ナースチャが冬の間に、つまり美智がまだアスタナへ来る前に描いたものだという。
机の向こうでハミードフ氏がいかめしい顔をほころばせた。
「あの子には内緒だぞ! 恥ずかしいから君には絶対に見せるなと言うんだ」
パースをじっくり検討する。大会議場を囲う、3層分の高さを持つ円筒状の壁――直径三十三メートル、高さ十五メートル――はそのまま残されている。他方、その内側はといえば、もはやまったくの別世界だった。
地下3階のホワイエから円筒内へ入ると、地底湖のような暗い水面が広がっている。なんと円筒の底がプールになっているのだ。円いプールの中心に一本の円柱が立ち、水中からライトアップを受けている。それはなにかを支えているわけではなく、ぽつんと独立しているモニュメント、いわゆる「記念柱」だ。その古典的な柱頭の上に、ガラスで出来たミニチュアのあずまやが載っている。あずまやの中にはカシモフの首が据えられている!
ロシアのペーパー・アーキテクトの作品を思わせる暗く幻想的な雰囲気。現代建築とは異質ながら、けっして悪趣味に陥っておらず、むしろ不思議な品位を感じさせる。
プールは幅広の観覧デッキに取り巻かれている。デッキからはスロープが持ち上がり、ぐるぐると内壁を伝って、どこへやら薄闇の中をのぼっていく。参詣者たちは下のデッキを、あるいはこのスロープを巡り歩きつつ、さまざまな角度から池の真ん中にそびえる記念柱を眺めるわけだ。
――そうか、だから彼はあの時……。
美智は今、やっと腑に落ちた気がした。東京の設計事務所を訪れたハミードフ氏が、なぜあれほど地下大会議場のプランにこだわったのか。
大会議場改めカシモフの墓室は、ピラミッドのちょうど中央直下にある。これは平和宮殿の建物の中心点であると同時に、イシム川の対岸から伸びてくる新しい都市軸の終極点ともなっている。こういった建築・都市計画上の象徴性、記念碑的価値こそ、ハミードフ氏がさらに際立たせたいと願うものだ。
しかし感心してばかりもいられなかった。コントラクターは現行の図面に従い、会議場としての工事を進めてしまっている。円筒壁だけでなく、ステージとそれに付随する諸室がすでに施工済みだ。
美智はおずおずと口を開いた。「これ、構造上の要件が変わるので、相当な大改造になりますよ」
「この案は魅力的だが、まだただのコンセプトにすぎん。墓室をどうするかについては、君とも相談しながら決めていきたい」
「どんな内容であれ、今から設計、施工じゃ、竣工式にはとうてい間に合いませんけど?」
「百も承知だ。竣工式は上のアトリウムでやる。地下階は、円筒壁の外装パネルの取り付けさえ終わらせれば、玄関ホールからは完成しているように見えるだろう」
「つまり、建物が出来上がっていないのに、竣工式は予定どおりやると……」
革張りの椅子に背中を預け、ハミードフ氏は余裕たっぷりにほほえんだ。
「そう心配するな、美智。式でカシモフの首返還が発表され、それから霊廟への改造を始める。むしろ理にかなったことだ。工事が続く間、世界の注目と期待はいやがうえにも高まるだろうしな」
もう返す言葉もなかった。美智が黙り込んでいると、氏はおもむろに身を起こし、机の上に両ひじを置いて彼女を見上げた。
「君のアスタナでの業務は、秋の竣工式までということになっている。そこでだ、美智、これも乗りかかった舟と思って、式のあともしばらくこの町に残ってくれないか?」
「……契約を延長して、ということですね」
「そうだ。一つはもちろん、平和宮殿の完成に万全を期すため。もう一つは、察しがつくだろうが、アナスタシアのことだ。あれは、才気は年相応に熟している。ただ、いまだに少し神経過敏というか、心の土台が落ち着かないというか。だから、君がそばにいて力になってやってくれると、私としてはとてもありがたいんだ」
美智は思い出した。いつだったか、屋敷の中庭で家政婦長と話した際、ナースチャについてちらりと聞き込んだことを。
あの子、十代半ばのころから情緒不安定でね。どうにかこうにかそれを乗り越えてきたんだって――。
居心地の悪い笑みを浮かべ、ハミードフ氏がつけ加えた。
「返事はすぐでなくていい。なんなら竣工式のあとでもかまわない。しかし美智、わかってくれるな? ハミードフ家にとって君は身内も同然だ。ほかに代えがたい大事な存在なのだ。どんなにすばらしく、誇らしいことだろう。君とナースチャが力を合わせ、カシモフ廟を築き上げてくれれば……」
施主の執務室を辞すると、美智はそのままサイトオフィスを出た。すでに舗装の終わった参道をとぼとぼ歩き、建設中の建物へと向かう。
平和宮殿の工事は現実とは思えない速さで進んでいた。地下階に続き、地上階の内装工事も本格化し始めた。今日は設置されたばかりのエレベーターの試運転が行われる。美智はナースチャとともにその性能検査に立ち会うことになっていた。
この建物には、北面中央と南面中央にそれぞれ二基ずつエレベーターがある。これら合計四基のエレベーターがピラミッドの斜面に沿って昇り降りし、地下3階から地上6階までを結んでいる。世界的にも珍しい斜行エレベーターだ。ちなみに6階から9階レベルの小会議場へは、アトリウム上段の内壁伝いにらせん状のスロープをのぼるか、ガラスの円筒の中を行き来する一基の小さな垂直エレベーターを使う。
美智とナースチャは6階で二手に分かれた。アトリウムを挟んで美智は北側の、ナースチャは南側のエレベーター・ホールで、それぞれエンジニアたちの作業を見守った。
試運転の間、エレベーターは何十回も昇降を繰り返す。加速、減速の具合や振動の有無が調べられる。もう幾度目になるか、美智の乗ったエレベーターは地下からまた6階に戻ってきた。彼女はさすがに飽きてきて、いったんエレベーター・ホールへ出た。ひと息つこうと、アトリウムに面した回廊に近づく。
内壁の斜め格子のフレームにガラスが入ったせいで、アトリウムは今やすっかり様相を変えていた。工事現場特有の荒々しさが消え、空気がそれまでより緻密に感じられた。建物が土木工学的な存在からそれ以上のなにか、つまり「建築」へ生まれ変わろうとしているわけだ。見上げれば、修復の済んだ小会議場の白いリングが浮かんでいる。その先にピラミッドのガラスの頂部が見え、青空の中を夏雲がゆっくりと流れている。
先ほどのハミードフ氏の言葉が美智の耳の奥でこだましていた。氏は彼女をとても気に入って、アスタナにずっと留め置こうとしている。施主から厚い信頼を受けることは、建築家としてはもちろん望ましい。が、より期待されているのは、ナースチャとの関わりだ。
ハミードフ氏のナースチャに対する態度は、母子家庭で育った美智には測りかねるところがあった。氏はナースチャをいまだ十代の少女のままであるかのように扱っている。常に気にかけていると同時に、少しもてあましてもいるような……。娘を持つ世の父親とは、みなこういうものなのだろうか。美智がナースチャのそばにいると、彼はなにかしら安堵を感じるらしい。
まるであのいびつな家に後妻として入り、気難しい一人娘の母親になった気分だった。それならいっそそれでいい。ただ、母親代わりでもいいから、ナースチャ本人に引き留めてほしかった。
手すりにもたれかかり、美智はため息をつく。
「ばかだ、私。日ごろから彼女に正反対のことばかり言われてんじゃないの。東京へ帰れってさ」
ちょうどその時、吹き抜けを挟んで向かい側、一階下の回廊の隅にナースチャの姿が見えた。
ナースチャはトラス柱の陰に立ち、中年のトルコ人作業員と立ち話をしていた。このところまた毎日の施工監理業務をこなすようになった彼女。その凛とした艶っぽさには、やはり誰彼なく引きつけられてしまうようだ。作業員の男は手振り身振りを交え、なにかしきりに話しかけている。
別段おかしくもないいつもの光景。しかし次の瞬間、美智は激しい胸騒ぎに襲われた。
どこから取り出したのか、ナースチャが一通の茶封筒を男に手渡した。男は封筒の口を開き、中身をちょっと引き出して確かめた。彼が歯を見せて笑った時、美智は初めて思い当たった。現場では首なし戦士の話はもう下火になっていたが、それは亡霊を見たと青い顔で訴え出た最初の作業員の一人だった。
――あの封筒は……、もしかしてお金?
男と別れると、ナースチャは自分の受け持ちのエレベーター・ホールへ戻っていく。射し込んだ陽光がアトリウムのガラス壁に反射し、ちょうど逆光になっているからだろう。彼女はこちらの視線にはまったく気づいていないようだ。
何食わぬ顔で回廊を歩くナースチャ。その淡々とした足取りを美智は一心に見つめた。
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