見出し画像

カシモフの首【小説】 Ⅲ.草原の首都開発 ➀

【前章までのあらすじ】
半壊したアトリウム、わめき叫ぶ3Dの人体モデルたち、そして床にこぼれた大きな血だまり。美智が見た不吉な夢は、現実に影響を及ぼし始める。
施主のハミードフ氏が来日し、理不尽な設計変更を要求。ナースチャが苦しげに打ち明けた。ハ氏は自分の実の父だと。ほどなく彼女は姿を消し、事務所にICPOの要請にもとづく家宅捜索が入った。設計業務は打ち切り。
結局のところ、ナースチャは何者なのか? 世界平和宮殿プロジェクトとはなんだったのか? 謎の答えを求め、美智はカザフスタン行きを決意する。

<< 最初から < 前回の話              目次・登場人物 [↗]

 薄闇の中にそそり立つ巨大なコンクリートの柱。それを取り巻くように組まれた作業用の仮設足場。水平に渡されたその足場板に立った美智は、ほとんど悲鳴に近い金切り声をあげた。
「オルハン・ベイ、これはいったいなに?」
 ここは世界平和宮殿の建設現場、コンクリート躯体の最下層。彼女が取りついているのは、地下大会議場前のホワイエに立つ二本の独立柱のうちの一本だ。大会議場への門のごとくそびえるそれらは、この建物の基部で最も重要な柱といえる。吹き抜けの中に自立して地上1階レベルまで達し、ピラミッドの荷重を部分的に支えることになるからだ。
 美智は四角い柱を抱くようにして、型枠を外されたコンクリートの表面をなでた。ぶつぶつと砂利が露出し、空隙がたくさんできていた。少したたいただけでバラバラとはがれ落ちそうだ。ジャンカと呼ばれるコンクリートの打設不良だった。
「一か所や二か所じゃないよ。どうするんだ、こんなの!」
「そうかりかりしなさんなって」
 下から見上げていたオルハンが肩をすくめてみせた。彼はコントラクターに所属するトルコ人の工事監督。三十過ぎのころころと太った小男で、その子供じみた笑顔がどうにも憎めない。
「まさか、どうせ最後はパネルで覆われて見えなくなるって言うんじゃないよね?」
 美智が再び足場から身を乗り出して叫ぶと、オルハンは慌てて斜め上方向を指さした。
「違う、違う。施主の前でそんなこと言うわけないだろ。無収縮モルタルで補修することになると思う。あとで提案書を出すよ」
 見れば、ナースチャが階上の玄関ホールから吹き抜けを介してこちらを眺めていた。彼女が施主、つまりハミードフ氏の娘であることは、もちろんコントラクターにも知られている。美智はひとまずはしごを伝って下へ降りた。あきれたことに、オルハンの姿はもうその場から消えていた。
「むうう、なんと逃げ足の速い……」
 文句をつけようにも、ほかの作業員の姿も見当たらなかった。あたりが妙に静かだと思ったら、いつのまにか昼休みの時間になっていたのだ。
 ナースチャが転落防止用の手すりをつかみ、美智を見下ろしつつ小首をかしげた。私たちも昼食に行くんでしょ、と言いたげに。美智はそれを見上げていたが、ふいっと回れ右をすると、玄関とは反対方向に歩き始めた。背中に視線を感じながら、建物の奥へと足を踏み入れる。
 コンクリート躯体の中央部。のちに大会議場が入るこの場所は、今はまだ空に向かってぽっかりと開いた四角い中庭のようになっていた。いずれ大スパンのトラス梁が渡され、天井――地上1階アトリウムの床に当たる――が架けられる予定だ。周囲を巡る3層のスラブのへりから、つららがいくつも垂れ下がっている。地面に掘り込まれた設備用ピットに雪が吹き溜まり、そのくぼみが見えなくなっている。
 美智は工事用ヘルメットを脱ぎ、しもやけで腫れた耳たぶをこすった。
 またぞろ不安が込み上げてきた。このコンクリート躯体はじゅうぶんな強度が出ているのだろうか。耐寒促進剤を使ったというが、冷やしすぎたアイスクリームのように凍っているだけではないのか。つい二週間前、初めてこれを見せられた時の衝撃がよみがえる。東京で描いた図面と、アスタナの荒々しい建設現場。夢とうつつの大きなずれをどう受け止めるべきか。
 とその時、カツンカツンと仮設階段を降りてくる靴音が聞こえた。やがてナースチャが例の独立柱の間を通り、その寒々しい中庭へ出てきた。落ち着かない様子で、しきりにあたりを見まわしている。ぶかぶかのヘルメット、短めの防寒コートにニットタイツの脚。どこか野球のボールガールを思わせる姿だ。彼女がぶるぶるっと身を震わせ、両腕で自分の体を抱きしめる。
 そこで美智は隠れていた側面の柱の陰から飛び出した。
「誰をお捜しですか、お嬢さん?」
 ナースチャははっと目を上げて美智のほうを見た。それからいかにもくだらないというように顔をそらし、無言でもと来たほうへ戻ろうとした。
「ちょっと待って、ナースチャ! なぜそうやって無視する。どうしてちゃんと話をしてくれないの。私、なにか間違ったことでもした?」
 美智が追いすがるように叫ぶと、ナースチャは背を向けたまま立ち止まった。
「無視だなんて。仕事の話は毎日してるでしょ」
「そう、あなたは仕事のこと以外、いっさい口をきこうとしない。あんまりだよ、その態度。アスタナに来られることになって、私がどれほどうれしかったか」
「東京で言わなかったっけ? 『あなたはアスタナへ行かないほうがいい』って」
「それは……。じゃ、教えて。そもそもなぜあんなことを言ったの? なぜここへ来ちゃいけなかったの? 私、どうしても平和宮殿プロジェクトの行く末を見届けたかった。それになにより、あなたのことが心配でしかたなかった。東京の事務所に強制捜査が入って以来ずっと。ナースチャ、あれはいったい――」
「その話はするなって、父に言われてるよね」
 美智はぐっと息を詰めてから、
「ねぇ、ナースチャ、なぜそんなふうに変わっちゃったの? 東京にいたころのあなたとまるで違う」
「美智、東京でのことは忘れて。あれはただの成り行き」
「成り行き……? どういう意味?」
「ちょっと心を許したからって、早とちりしないでほしいんだ。私はあなたの思うようにはならない。すべて自分の筋書きどおりにいくと思ったら大間違いなんだから」
 ようやく振り返ったナースチャは、その酷薄なまなざしで美智をたじろがせた。
「な、なに、筋書きって? 支離滅裂でますます変。あのクールなナースチャはどこへ行っちゃったんだよ?」
「それは美智の思い込み。いい加減に目を覚ましなさい。私、あなたが考えているような人間じゃないの。あなたに心配してもらうほど弱くもないし」
「うそだね。さっきも私の姿を見失って、必死に捜してたでしょ、不安でいっぱいの仔犬みたいに!」
「ただ注意を促しに来ただけ。この低温下で食事を取らずにいると、体の動きが鈍って危険なんだ。ついこの間、お昼抜きで現場を回っていて、ふらふらになったのは誰?」
 すまし顔で言うと、ナースチャはまた背中を向けてしまった。
「美智、あなたはまったくわかっていない。私のことも、そして私の国のことも。ここは、あなたがこれまでに訪れたことのあるどんな場所とも違う。何度でも言うよ。私の忠告に従って、なるべく早く自分の世界へ帰りなさい」
 美智はその氷に覆われた廃墟のような場所に立ち、自分を置き去りにするナースチャの後ろ姿を眺めた。なぜか頭をよぎったのは、過日夢の中で見た光景だった。コンピュータ・グラフィックスによって仮構された宮殿の建築、アトリウムに立っていた大勢の色を持たない人々、そして白大理石の床の上に広がった赤黒い血だまり……。

 人選を改めて美智をアスタナに派遣することは、昨年末に首都開発公団によって承認されていた。カザフスタン側とのメールのやりとりの中で、美智はおのずと知った。やはりナースチャはハミードフ氏のもとにいて、引き続き世界平和宮殿プロジェクトに携わっていることを。
 ビザが下りるのに時間がかかり、美智の現地入りは二〇〇一年の春の初めとなった。以来、彼女は休むことなく平和宮殿の施工監理に取り組んでいる。建設現場へは、毎朝黒塗りのランドクルーザーが送り届けてくれる。ナースチャとともに後部座席で揺られて行くのだが、そのむっつりとした態度には今もってまるで取りつく島がない。
 現場では、道路から敷地へ少し入ったところに仮設のサイトオフィス、食堂棟、倉庫などが並び、ちょっとした小集落を作っていた。美智の新しい職場だ。背後は資材置き場になっている。そしてその向こうのだいぶ離れたところに、宮殿の地下3層を収めるコンクリート躯体が建ち上がっている。
 美智とナースチャの仕事の内容は次のとおり。

  • 午前と午後に一回ずつ建物を見てまわり、工事の進み具合や品質を点検する。

  • サイトオフィスにいる時は、コントラクターが次々と出してくる施工図を精査する。

  • 工事がどうしても図面どおりにいかない場合、コントラクターと協議して解決策を見いだす。

 一日の仕事が終わると、また車でハミードフ邸へ戻った。美智は施主の大邸宅の敷地内にある宿泊棟に逗留しているのだ。与えられた個室は望外に広く、専用の浴室とワードローブが備わっていた。ナースチャとひとつ屋根の下に住んでいるわけだが、彼女の部屋は中庭を挟んで反対側の北ウイングにある。広い邸内では顔を合わせることはまれだった。

 さて、美智が工事現場でナースチャを問いつめたその日の晩のこと。屋敷では美智のアスタナ着任を祝う内輪の夕食会が催された。多忙なハミードフ氏の都合がつかず、延び延びになっていたものだ。シャンデリアがきらめく本館一階の食堂に集まったのは、美智、ハミードフ氏、ナースチャ、カリム、さらに女性二人を加えた計六人だった。会話は英語だ。
 ナースチャの年の離れた異母兄・カリム。当然ながら、彼はもはや東京で会った時のように腕を吊ってはいなかった。ボタンダウンの上に丸首のセーターというまっとうな格好。胸板の厚い均整のとれた体をしているし、額の生え際がやや薄くなっていることを除けば見栄えのよい男だ。問題は、ぎらぎらと油の浮いたような目の表情と、ほおに貼り付いたままの薄笑いだった。
 初登場の女性二人のうち一人は、頭を白い布で覆い、金刺繍入りのローブのような服を着た老婦人、ワンガだ。この家のお抱え祈祷師だと紹介された時は面食らった。彼女はとても小柄。脚が悪いらしく、女中に支えられながらゆっくり歩く。日ごろからほとんどしゃべらず、重く垂れたまぶたの奥の感情は読み取れない。いったい何歳なのか、そもそもどんな祈祷を行っているのかも謎だ。
 もう一人は、家政婦長として屋敷に仕えるザリエマという中年女性。美智がここへ来た初日に玄関ホールで出迎え、屋敷を案内してくれた人だ。仕事柄ゆえだろうか、明るく気さくで、いかにも世慣れた感じ。ただ、斜視ぎみであることを気にしているとかで、時と場所を問わず薄茶色のサングラスをかけている。
 給仕が料理を並べる間、夕食会の参加者たちはみなそれぞれに視線を交わした。テーブルについた美智は息をのみ、思わず言葉を詰まらせた。
「あ、あの、私のためにこんな、こんなによくしていただいて……」
 目の前に運ばれてきたのは、なんとゆでた羊の頭だ。目も耳も付いている天然本物の羊頭。ハミードフ氏が自らそれにナイフを突き立て、各部位を切り分けていく。
「遠来の客人は惜しみなくもてなすのが我々の流儀だ。気兼ねしなくていいのだよ、美智」
 シャツの袖をひじまでまくり上げた彼は、ふだんのいかめしさとはまるで違うくつろいだ口ぶりだ。
 ――ナースチャ、助けてぇぇ!
 美智は正面に座るナースチャにしきりに目配せした。今晩のナースチャは薄緑色のワンピースにベージュのカーディガンを重ね、髪を頭の片側で緩くまとめている。彼女はミモザサラダを口に運ぶ手を止め、しかたがないといったふうにため息をついた。
「お父さん、無理強いするのはどうかと。外国人でこれが特に好きという人もいないでしょう?」
「なにを言うか。大事な客に対する、これがカザフスタン最高のもてなしだ。美智にはなんとしても食べてもらわんとな」
 長いテーブルの中ほどには、羊の頭を載せた皿とは別に特大の丸皿が置いてあった。平べったい麺が敷きつめられ、その上に湯気の立つ羊肉が山と盛られている。こちらのほうが断然おいしそうだ。が、主賓はまず頭を食さねばならないという。
 羊の目玉、耳、そして脳みそが美智の取り皿に移された。ナースチャが唇の前で人差し指と親指を何度かくっつけるしぐさをする。ちょっとだけ口をつけて体裁をとりつくろえばいいでしょ、と言いたいらしい。
「さあ食べなさい。この目玉を食べると、君の目はさらによく見えるようになる。この耳を食べると、君の耳はもっとよく聞こえるようになる。脳みそを食べると……、ワハハ」
 ひとり興に乗り、節をつけてはやし立てるハミードフ氏。東京で受けた第一印象との落差に、美智はあらためて目を見張った。この男だっていつも渋面ばかりではないわけだ。
 端の席に座る家政婦長がずけずけと言う。
「ごめんなさいね。こっちの人間はこれをやらないと気が済まないの。歓迎の儀式みたいなものなのよ。どこの国にもあるでしょ、こういうゲテモノ料理」
 あなたがそれだけ大事なお客様だってこと――。彼女のその言葉で美智は覚悟を決めた。ナイフで羊の目玉を半分に切り、フォークとともに口へ持っていく。ぬめぬめとした食感の中に繊維質のものがある。とにかく味を感じる前に飲み込んでしまう。
 耳のほうはさらに厄介だった。薄い肉はかんでもかみ切れず、なかなかのどを通ってくれない。おぞましさにほおが引きつり、美智は目の縁に涙をにじませた。隣に座るカリムが、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべている。その向かいでは、ワンガが小さい子供のような手つきでフォークを握り、羊の脳みそを口に押し込んでいる。
 ほどなく解体済みの羊の頭がテーブルから下げられた。一同は主菜の麺料理に取りかかった。ハミードフ氏が肉と麺を美智の皿へ取り分けながら言う。
「この料理はベシュバルマクといってな、直訳すると、『五本の指』という意味だ。昔フォークなどなかった時代、素手でつかんで食べたことから来ている。さっきのとは違って、こっちはうまいぞ。日本人は麺が好きだろう?」
 美智は氏を恨めしくにらんだ。さっきの頭はもとよりおいしいものではなかったわけだ。家政婦長が口元を手で覆い、今にも噴き出しそうになっている。
 柔らかく煮込まれた肉はどうかというと、これがたしかにいい味を出していた。きっと上物なのだろう。ラム特有の臭みがない。少々脂っこいけれど、玉ねぎソースをたっぷり吸った幅広の麺もかなりイケる。総じて素朴で豪放、いかにも遊牧民らしい料理だ。
「美智はカザフスタンと相性がよさそうだ。ここで末永くやっていけるな」
 ハミードフ氏が言い、無心に麺をほおばっていた美智は思わずむせ返った。おそるおそるナースチャのほうを見れば、彼女はおもしろくもないという顔で副菜の馬肉の薄切りにナイフを入れている。
 ハミードフ氏が続ける。
「美智、アスタナは首都として出発したばかりだ。君のような才能のある建築家はおおいに歓迎したい。不況続きの日本にいてどうなる? ここのほうがずっとチャンスは多いぞ」
 美智は口の中のものをなんとか飲み下すと、
「才能があるだなんて、私はまだまだ経験が浅いですし」
「いや、あのピラミッドをものにしたのだ。自信を持っていい」
 あくまで根気よく美智は説明した。ピラミッドのアイデアを出したのはボスのアレックスで、自分はそれをまとめただけだと。が、ハミードフ氏は気に留めない。彼は美智のグラスにワインをつぎながら、
「たとえ上司の発案であっても、それを実際の建築に仕立てたのは、まぎれもなく美智本人の力だ。そうだな、ナースチャ?」
 やや間を置いて、はい、とナースチャが答えた。その目は暗くよどみ、どこかあらぬほうを見つめていた。そこでカリムがふんと鼻を鳴らし、蔑むような調子で言う。
「ピラミッドがどうしてそれほどたいしたことなんだよ、父さん。あんな単純な形、子供にでも思いつけるじゃないか。アメリカやヨーロッパじゃ、凝りに凝ったデザインが流行ってるっていうのに」
 「聞け、カリム。気の利いたデザインなら誰にでもできる。大切なのは、外部からの圧力でゆがめられても、まだしっかり機能するデザインかどうかだ。私が美智の案を気に入った理由はそこなのだ」
 かんで含めるようにハミードフ氏は続けた。みなが食事の手を止めて聞き入る。
「考えてもみろ。先進国の大都市でもてはやされるような繊細で技巧的なものを、今この国に持ち込めばどうなるか。政治的横やりやコントラクターのやっつけ仕事によって、すぐだめになってしまうだろう。その点、美智の建築は堅固な幾何学にもとづいている。明快で力強く、そうやすやすとは損なわれない。よしんば無粋で傲慢な施主に引っかきまわされたところでな。はっはっは」
 美智は冷や汗の噴き出る思いで椅子に縮こまっていた。ひとしきり笑ってから、ハミードフ氏はまたナースチャのほうへ顔を向けた。
「それにつけても、うちの娘に美智のような同性の友人ができたのはすばらしい。年齢もそう大きく離れていないし、将来性豊かな建築家同士だ。これから二人で力を合わせ、首都開発公団を盛り上げていってくれることだろう。そうだな、ナースチャ?」
 ナースチャがナイフとフォークを手にしたまま、唇をきゅーっと真一文字に引き結ぶ。
 とその時、ガチャンと食器のぶつかる音が大きく響き、会話が中断した。一同がテーブルを見まわすと、ワンガが椅子の背もたれに寄りかかり、軽いいびきをたてて眠り込んでいた。ナースチャが老祈祷師の小さな体を抱き支える。家政婦長がナプキンでこぼれた食べ物を拭う。
 それを機に夕食会はお開きとなった。

 日がたつにつれ、美智にもハミードフ邸の内情が少しずつわかってきた。この大豪邸のあるじはもちろんハミードフ氏当人で、その肉親はカリム、ナースチャの二人だけだ。にもかかわらず、ほかにもいろいろな人たちが寝起きしていた。
 北ウイングには、小さな子供を持つ家族が幾世帯か住んでいる。彼らは地方から出てきたハミードフ氏の遠縁の親族で、氏のコネによってアスタナで職を得た者たちらしい。また、ワンガは親族ですらないが、ハミードフ氏に次ぐ地位にある。家政婦長は住み込みではないものの、大勢いる女性使用人の長としてそれなりの権限を持っている。さらに、警備員、運転手など、相当数の男たちが出入りしていた。
 ナースチャの屋敷での立ち位置には、なかなか微妙なものが感じられた。ハミードフ氏やカリムはふだんロシア語しか話さないが、彼女はロシア語が苦手な田舎出の人々には流暢なカザフ語で話した。また、背の低い高齢者や子供らと向き合う際は、必ず腰をかがめて目の高さを合わせた。こういうところは居丈高な父親や兄とはずいぶん違う。
 妾の娘として陰でナースチャをそしる向きがあったか? 時にはそういうこともあったかもしれない。それでもやはり、その聡明さや率直な振る舞いによって、彼女はほとんどの者から一目も二目も置かれていた。

次回へつづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?