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カシモフの首【小説】 Ⅱ.施主の来訪 ➁

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 秋も終わりに近づき、急な冷え込みとなったある日のこと。
 世界平和宮殿の施主であるハミードフ氏――その肩書は「アスタナ首都開発公団総裁」――が来日し、東京の設計事務所を訪れた。プロジェクトの大きな山場だ。
 アレックスが応接室で客の相手をする間、設計チームのスタッフは会議室で待機していた。ホワイトボードを兼ねた会議室の壁。そこには大判の図面とパースがずらりと貼られていた。美智は図を指し示すための金属製の指示棒を手に取った。首元に巻いたスカーフをクボタさんが直してくれる。
 阿部くんはテーブルに両手をつき、指先で小刻みに天板をたたいていた。ナースチャはといえば、自分の片腕を抱くようにして立ち、伏し目がちに床の一点を見つめていた。いつもより硬く、どこか平板な表情だ。
 ――私だって施主とじかに会うのは今日が初めてなんだよ。緊張してるんだろうけど、ちょっとの辛抱だからね。
 美智が胸の内でそう呼びかけた時、複数の靴音が近づいてくるのが聞こえた。ドアが開いてまずアレックス、そしてスーツ姿の男が二人入ってきた。ハミードフ氏とその長男のカリムだ。
 聞いていたとおり、ハミードフ氏には有無を言わさぬ威圧力があった。犬や狼の群れの頂点に立つ個体を「アルファ・ドッグ」と呼ぶが、彼はまさにその種のオーラをまとっていた。軍人を思わせるいかめしい顔つき。六十歳を過ぎてなお黒々とした髪。眼光は鋭く、人の心の奥底まで射抜くかのようだ。
 一方、秘書として同行してきたカリムは、なぜか片腕を三角巾で吊り、その上にスーツの上着を羽織っていた。おそらく三十代前半。面長の父親とは違い、ほお骨の張った、少し横に広い顔をしている。より東洋的な目鼻立ちともいえるが、筋骨たくましい体躯は肉やチーズを食べて育った人間のものだ。
 あれっ? と美智はいぶかった。気のせいだろうか。ハミードフ氏が窓際に並ぶ設計スタッフを見わたした際、ほんの一瞬ナースチャと目を合わせたように感じられたのだ。アレックスが美智をプレゼンターとして紹介したが、氏が美智のほうを振り返るまでには不自然な間があった。
 張りつめた空気の中、美智は図面の前に立つ。
「クライアントのお二方もよくご存じのとおり、平和宮殿の機能は大まかな三段構成となっています。下から地下大会議場、ピラミッドのアトリウムまわりの業務フロア、最頂部の小会議場の三つです。本日はこのうち真ん中のゾーン、これまで平面計画が一部未定だった地上2階から8階までの業務フロアに焦点を当てていきたいと思います」
 各階の平面図はいくつかの色で塗り分けられている。色の助けを借りてそれぞれの用途をおさらいしていく。オフィス、ビジネスセンター、講義室、図書館、プレスルーム、催し物会場……。美智は話しながら、ちらちらと施主の様子をうかがう。
 おかしなことに、ハミードフ氏は美智の言葉にちっとも耳を傾けなかった。彼はプレゼンテーションの進行とは関係なく、見たい図面の前で立ち止まった。といって、自身の意見をさしはさんで話の流れを止めるわけでもない。会議室は次第に異様な雰囲気に包まれた。
 美智は説明を中断し、氏のそばへ行った。きつい香水のにおいが鼻を打ってくる。
「あの、ご不明な点などありましたら、どうぞ遠慮なくお尋ねください」
 その申し出に対してもハミードフ氏は無反応だった。まるでなにも聞こえなかったかのように、引き続きカリムとロシア語で話し込んでいる。
 ――な、なんなんだ、この人?
 美智はあっけにとられた。しかたなくアレックスに目配せを送り、指示を仰ぐ。アレックスは眉をひそめたまま首を小さく縦に振った。とりあえず待て、というように。
 ハミードフ氏は地下階のプランにとりわけ長く見入っていた。問題があるとしたら大会議場か。それとも議場まわりの動線計画か。やがて得心がいったようにうなずくと、氏はようやく美智のほうへ向きなおった。ぎらぎらした目で彼女を見据えつつ、カリムにあごをしゃくって合図する。美智は喜ぶどころではなく、むしろ恐怖に縮み上がった。
 カリムがスーツの懐から折りたたんだ紙を取り出した。彼は苦労して片手でそれを広げ、朗々と声を張り上げて読み始めた。
「我々『アスタナ首都開発公団』は、世界平和宮殿プロジェクトの発注者として、次の四項目の設計変更を御社に要求する。

 一.ピラミッドの外装は、9層目より上のみをガラス張りとし、残りは窓
   なしの全面石張りに変更すること、
 二.最上部の小会議場を取り払い、アトリウムに直上から自然光が入るよ
   うにすること、
 三.地下大会議場のプランを円形の集中式に変更すること、
 四.地下2階の西側出入り口を廃止すること。

 以上」
 会議室がしんと静まりかえった。指示棒を握りしめたまま、美智はぼうぜんと立ちすくんだ。地下階の動線どころではない。これらの変更要求は、建物の性格を根っこから変えようというものだ。顔に血が集まり、目も耳もかっと熱くなる。
 そこでアレックスが前へ進み出た。
「ミスター・ハミードフ、業務用空間には、必要とされる日照時間というものがあります。いくらアトリウムに面しているとはいえ、外装を全面石張りにしてしまえば――」
 ハミードフ氏は手を挙げてアレックスの言葉を遮った。
「私はあなたがたの仕事には感銘を受けている。先進国の建築家が作るものは実にすばらしい。ただ、少々複雑で繊細にすぎるのだよ。我々の宮殿は単純、かつ力強くなければならない。外観も、内部もだ」
 仰々しい咳払いを挟んで、一方的な言葉がさらに続く。
「四項目の手直しに加えて、もう一つ大事なことがある。鉄骨造のピラミッドに先立ち、鉄筋コンクリート造の地下階の構造図を引きわたしてもらう。すぐにも基礎工事を始めたい」
 美智ははっと我に返り、ハミードフ氏に抗弁しようとした。
「そんな無茶な。今おっしゃった変更の中には、全体の構造に影響を及ぼすものもありますし――」
「私に同じことを言わせるな」
「――設計が完全に終わるまでは……」
 アレックスが美智を制止し、手振りで後ろへ下がらせた。彼は自らハミードフ氏に歩み寄ると、なだめすかすような調子で話し始めた。いや、あなたの鋭い洞察には感心した。デザインを改善するための貴重な助言をいただいた。なるべく早く修正した図面を提出しましょう……。
 スコットランド英語のおべっかが続く。ハミードフ氏が重々しくうなずく。その間ずっと、美智は両のこぶしを握りしめていた。ふと目を上げると、カリムがじーっと彼女を見ていた。その口の端に薄笑いを浮かべて。
 施主の二人が会議室から出ていく際のことだ。ハミードフ氏が思い出したように足を止め、美智のほうを振り返った。
「そうだ、施工監理のために誰か一人、アスタナへ来てもらうことになっていたな。君が来るのかね?」
 美智は肩を震わせながら、ようやっと短く返事した。
「いいえ、違います……」

 さて、客人を送り出してしまうと、アレックスは美智を役員室へ呼んだ。
 ボスは腹を突き出すようにオフィスチェアに座り、しばし無言で手にした一枚紙をにらんでいた。例の「設計変更要請書」だ。美智は所在なくたたずんだまま、ガラス越しに設計室を眺めた。チームの面々はそれぞれの席で机に伏したり、腕を組んで天井を見上げたりしていた。ナースチャだけが椅子から立ち、こわばった面持ちで役員室のほうを見ている。
「やれやれ、ずいぶんと手ひどくやられたもんだ」
 アレックスが穏やかな声で切り出した。
「この仕事を長く続けてると、どうしても今日みたいなことはある。ただ、初めてのプレゼンでこれじゃ、さすがにきつかっただろう。よく我慢したぞ」
「もうなにもかもおしまいだよ。アレックス、どうしよう?」
 美智は振り向くと、涙声で言った。アレックスは彼女を見上げ、ふははと豪快に笑う。
「どうやら施主の毒気に当てられたらしいな。落ち着け、美智。ハミードフは無理難題を言っているようだが、よくよく考えてみるとそうでもない。まず、ピラミッドの外装を石張りにするのは簡単だ。斜め格子のフレームはそのまま残して、複層ガラスを御影石のパネルに置き換えるだけでいい」
「冗談じゃない。石の貼り方がどうであれ、宮殿の業務スペースはすべて窓なしになっちゃうんだよ?」
「まあ、そういうことだね。次に、アトリウムの採光の問題については、俺にアイデアがある。7~9層目のスラブを小会議場ごと取り払って、吹き抜けをピラミッドのてっぺんまで伸ばす。そして真ん中が抜けたドーナツ型の会議場を新しく空中に吊り下げるんだ。国連安保理の議場のようなやつだよ。構造エンジニアがどう言うかだが、たぶんいけるだろう。アスタナには地震もないことだし」
 美智は耳を疑った。なんてアクロバティックなことを思いつくのか、と。
 現行のデザインでは、アトリウムは建物の外部に面していない。小会議場のすぐ下の7、8層目――ギャラリーやホワイエとなっている――が明かり取りの役目を果たし、斜め上から間接的に光を取り込んでいる。一方、今アレックスが出した案なら、施主の望みどおりに真上から直接光が入るようになる。だがその代わり、建物の有効床面積はぐっと減ってしまうはずだ。小会議場の座席も、かなりの数を失うことになる。
 先日夢で見た光景が美智の脳裏に浮かんだ。空に向かって大穴が開いていたあのアトリウム……。アレックスの声がずいぶん遠く聞こえる。
「……それから、地下大会議場のオーディトリウムを正円形にするのも、難しいとは思うが、できんことはないだろう。問題は四番目の要求項目だな。西側出入り口が廃止となれば、大会議場まわりの動線計画をそっくりやりなおさねばならん」
 円、六角形、八角形など、一点を中心に放射状に広がる平面構成のことを「集中式プラン」と呼ぶ。これは幾何学的で美しいが、会議場のプランとしてはおよそ実用的ではない。客席がステージをぐるりと取り巻いてしまうと、議長席やスクリーンをうまく配置しがたいからだ。千五百席もある完全な円形の国際会議場など、聞いたことがない。
 さらに、正面玄関の反対側にある西側出入り口は、宮殿のいわば裏玄関だ。建物の背後には約六十ヘクタールにもおよぶ大庭園が計画されていて、広い園路が敷地のへりを流れるイシム川の岸辺まで延びている。西側出入り口をふさいだりすれば、来訪客はこの庭園へ抜け出ることができなくなる。加えて、火災時などの避難経路の確保も難しくなり、ただでさえ複雑な地下階の動線がいっそうもつれてしまう。
 美智はじっと唇をかみしめていたが、もう耐えられないというように口を開いた。
「施主はコンペ段階の案を気に入っていたんじゃなかったの?」
 アレックスが肩をすくめる。
「そのとおりだよ。俺が夏に初めてアスタナで会った際、ハミードフはコンペ案をそのまま継承、発展させることを望んでいた。それが今になって、こうも唐突に態度を変えてくるとはな……。ほら、先ごろ、急に最新の図面を送れと言ってきたことがあっただろう? あの時、なにか事情が変わったのかもしれん」
「納得できない。どういうやり方で窮地を乗り切るにせよ、この四項目の変更って、そもそもいったいなんのため? こんなことしたら、国際会議場としての機能を損なうだけなのに」
「わからん。でも、俺の思うところ、施主はこの建物に象徴性を求めているのではないかな、機能よりも」
 美智は絶句した。
 ――象徴? いったいなんの……?

「集中式プランの会議場だなんて、サーカスでも始めようってのかぁ!」
 ろれつの回らない声で美智はわめいた。カウンター席に並んで座るナースチャは、自分のグラスにほとんど手をつけていなかった。美智が無色透明の酒を水のように飲むのを、ただあぜんと見守っている。
 二人が立ち寄ったのは、事務所から歩いて行けるところにある日本酒バーだった。店内にはヒノキの香りが漂い、大きめの音量でアシッドジャズが流れていた。落としぎみの柔らかな照明が心地よい。金曜の夜だからだろう。若い客たちの明るい声であふれ、華やいだ空気が立ちこめていた。
「親子そろって、なんて尊大で無礼なんだ。人を見下して威張ってる。権威的って、ああいう手合いのことをいうんだよね」
 だん、と音をたてて、美智は空のグラスをコースターの上に置いた。それまで黙っていたナースチャが遠慮がちに尋ねる。
「この時期の大きな設計変更は契約外なんでしょ。どうなるの?」
「アレックスは丸のみするつもりらしい。まともに話が通じる相手じゃないからって」
「そうか……。じゃ、あの四項目はやるんだね」
「しかたないよ。建築なんて、建築家の思うままにならないことのほうが多いんだから。それよりも許せないのはね、プレゼンテーションの間、まるでその場にいないかのように扱われたこと。私は透明人間じゃないっての!」
「美智が怒るのも当然だ。あんな不遜な態度をとるなんて」
 ナースチャが暗い声でつぶやき、それから日本語でつけ加えた。
「ゴメンナサイ」
「ええー、なんであなたが謝るの。まさか旧ソ連諸国を代表して? あはは、そんなはずないよねぇ。だいたい向こうの人だって、みんながみんな、あんなふうじゃないだろうし」
 アルコールでふやけた頭を揺らしながら、美智はナースチャの意図をいぶかった。彼女は「ごめんなさい」を間違って用いたのだろうか。気の毒だね、残念だったねと同情するつもりで。英語のI'm sorryにはそういう意味もある。
 ふと見ると、ナースチャはひざの上で両手を握りしめ、ぴくりとも動かなくなっていた。うつろな視線はカウンターの上をさまよい、唇が薄く開いたまま固まっていた。彼女はきっとあきれているのだ、もうこの辺で終わりにしなければと思いつつ、しかし美智はどうしても愚痴をやめられなかった。
「あ、そうそう。プレゼンの時、ハミードフのおやじさん、ナースチャのこと見つめていなかった?」
「美智、私、言わなきゃならないことがあって……」
「あいつ、あなたのことが気に入ったのかもしれないよ。傲慢に加えて女好き。まったく、なんだって娘みたいな年ごろの子に――」
「私、あの人の娘なんだ」
「そう、まさに娘みたいな……!」
 手を打ち鳴らそうとして、美智はそこで凍りついた。
 ――なに? たった今、ナースチャはなんと言った?
「ごめん、美智、これまでずっと黙っていて。彼は、ハミードフはね……、私の実の父なんだよ」
 切れ切れに言葉を並べると、ナースチャは力なく首をうなだれた。

 バーを出たあと、美智は急に気分が悪くなった。バス停のベンチに座って休んだがだめだった。文字どおり、胃がのど元までせり上がってくる。「私のところへ行こう、ここから遠くないから」とナースチャが言った。ものの数分でタクシーが着いたのは、どこか大きな建物の車寄せ。外へ出て見上げると、それは都内でも指折りの高級ホテルだった。
 緑あふれるロビーでは、フロントクラークの女性がほほえみかけ、Good evening, Ms. Vershinina! とあいさつした。天井の高い豪華なエレベーターで上へのぼる。内装に天然木が使われ、シェード付きのブラケットランプが掛かったエレベーターだ。
 廊下の突き当たりの部屋に入ると、美智のアパートの数倍もの広さがあった。外壁二面が全面ガラスの窓になっていて、手前にダイニングテーブル、奥にソファセットが置かれていた。テレビボードを兼ねた間仕切りの向こう側に大きなダブルベッドが見える。敷きつめられたカーペットの毛足は柔らかく、室内は半袖で過ごせるほど暖かかった。
「どうぞ、楽にしてね。ベッドで少し横になるといい」
 ナースチャは言うと、まっすぐキッチンに向かった。美智は言われるまま寝室へ行き、ベッドの端に腰掛けた。
 ――こんなところに住んでいたのか、日本に来てからずっと……。
 なにもかもが非現実的に感じられた。窓の外では西新宿の高層ビル群が夜空へ伸び、東京都庁舎のツインタワーがすぐ近くに見える。ホテルは設計事務所から一キロと離れていない。ここからなら毎日徒歩で行き帰りできるだろう。
 ナースチャが水の入ったコップと薬包――さっきフロントデスクで所望したものだ――を持ってきてくれた。彼女は体をかがめ、心配そうに美智の目をのぞき込んだ。コートはもう脱いで、ベージュのニットワンピース姿になっている。薬は飲みたくないと美智は首を振ったが、命令調であっさり返された。いいから言うとおりにしなさい、と。
「私、ハミードフの実の娘なんだ。兄のカリムとは腹違いだけど。カザフスタンの旧首都アルマティ生まれ」
 ナースチャは美智の隣に座ると、バーで口走ったことを再確認した。美智は飲み干したコップを手に持ったまま、おずおずと訊いた。
「お父さんと苗字が異なるんだね」
「アナスタシア・ヴェルシーニナは本名だよ。母方の姓を名乗ってる。事情があって」
「ナースチャってカザフ人、なの? 履歴書にはサンクト・ペテルブルグの大学の名前しか書いてなかった。それで私、てっきりあなたをロシア人だとばかり……」
「私の母はカザフスタン出身だけどロシア人。だから私はカザフ人とはいえない。カザフスタン人が正解。美智も知ってるよね。カザフスタンという国名はカザフ人の国という意味だけど、実際にはいろいろな民族が住んでいる。当然、私みたいな混血の子もいる」
「アレックスは承知してたんだ、あなたが施主の娘だってこと」
「夏の終わりごろ、彼、契約のためにアスタナへ行ったでしょ。その時、父が自ら要請した。私を研修生として東京の事務所に受け入れるように」
「なんだ、じゃあ、あの採用面接は形だけのものだったのか」
「ううん、そんなことない。初めてこっちで顔を合わせた際、アレックスは言ってた。私にどんな仕事を任せるかは美智次第だ、だから面接には本気で臨むようにって。とにかく彼に当たっちゃだめ。私が父のことを伏せるよう頼んだんだもの。事務所のみんなに特別扱いされたくなかったから」
 まったく拍子抜けするような話だった。プロジェクトの中心にいるような気でいたが、自分だけがなにも知らなかったわけだ。美智は両手でぎゅっとひざをつかんだ。
「ナースチャ、私、あなたのお父さんについて、ずいぶんひどいこと言っちゃった。プレゼンがうまくいかなかったぐらいでへそ曲げて、憂さ晴らしのために施主をけなすなんて最低。どうか許して」
「気にしなくていい。父が無茶苦茶なのはまぎれもない事実だから。あの人は他人にかしずかれることに慣れてしまってるんだ」
 ナースチャはベッドスローの上に後ろ手をつき、じっと宙の一点を見つめた。上向いた瞳がフロアランプの明かりを受け、透きとおるような黄金色を帯びていた。父親とは似ても似つかないながら、たしかに目の光り方だけはそっくりだ。美智は肩越しにその様子をうかがっていたが、体をずらしてナースチャのほうに向きなおった。
「あのさ、ずっと聞きそびれてたんだけど、ナースチャはなぜサンクト・ペテルブルグでの生活を切り上げて東京へ来たの?」
「さっき言ったとおり、父の勧めだよ。日本の一流事務所で働くのはいい勉強になるって」
「ね、あなたがこっちへ送られてきたの、ほんとは今日のプレゼンテーションで出た設計変更と関わりがあるんじゃない?」
 ナースチャがぎくりと身を起こし、表情をこわばらせた。彼女の顔を見返しながら、美智はごく平静に続けた。
「プレゼンのすぐあとは、頭に血がのぼっていて気がつかなかった。けど、よく考えてみたら、あの四項目の変更要求って、ただの思いつきみたいなものとは違う。なにか深い意図を持って、前から準備されていたように感じるんだ」
「それは……、その件は私とは関係ない」
「じゃあ、質問の仕方を変える。隠さずに言ってほしい。あなたは今回の設計変更の目的を知ってるんじゃないの?」
 ナースチャは目をそらしてしばらく押し黙っていた。が、やがてがっくりと肩を落とし、頭を垂れた。美智は慌てて息を詰まらせる。
「あの、私、べつにあなたを責めてるわけじゃ――」
「ごめんね、本当にごめん。美智が精魂込めて作ったものを損なうことになってしまって。でも、父のことはどうにもならないんだ、私の力では」
 深くうなだれたまま、ナースチャはかすれ声で言った。長い髪が幾重にも流れ落ち、肩に掛かって下向きの円弧を描いていた。ことさら弱々しく無防備に見えるのは、丈が短めの服を着ているからだろうか。編み目の細かいニットが体の線を引き立てる。両脚をきちんとそろえ、彼女はしおらしげに座っている。
 ――はぁ、かわいいな、やっぱり。
 話をはぐらかされたことを忘れ、美智はその艶っぽい姿に見とれた。ふだんの凛としたナースチャもいいが、こうして打ちひしがれている彼女にも惹かれる。
「ねぇ、ナースチャ、ここ数日元気がなかったのは、お父さんが事務所へ来ることを気に病んでいたんだね。よそ様の家のことだから、私が首を突っ込むべきではないと思う。ただ、それにしても、どうしてあなたが謝る必要があるの? 父親がどんな人であれ、ナースチャはナースチャでしょ。あなたが負い目を感じることなんてない」
 ナースチャがのろのろと顔を上げた。その瞳は先ほどまでの光を失い、どんよりと暗く濁っていた。彼女は美智の手を取ると、それを自分のひざの上に置き、両手でゆっくりとなでさすった。
「美智、ほんとにそう思う?」
「心からそう思う。なにがあろうと、あなたはあなた。きっときっとだいじょうぶ」
「私の相手をするの、実はもううんざりなんじゃない?」
「なぜまたそんなことを……。好きだよ、ナースチャ大好き。Mmmmmwah!」
 美智が唇を突き出してキスのまねをすると、ナースチャは消え入りそうな淡い笑顔を見せた。

次回へつづく


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