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カシモフの首【小説】 幕間: ドミトリー、博物館へ呼ばれる

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 美しい、とドミトリー・クドリャフツェフは思った。
 彼は身をかがめ、展示台の上のガラス瓶をより間近くのぞき込んだ。古びた広口の瓶はホルマリンで満たされ、中に胎児が浸かっていた。目を閉じて、ぴったりとほおを寄せ合うシャム双生児の姉妹。彼らの小さな体は蝋で作ったように白い。
 ここはロシア第二の都市、サンクト・ペテルブルグ。深夜に跳ね橋となることで知られる宮殿橋のたもとに、ちょっと特徴あるバロック様式の建物が立っている。ネヴァ川の堤防に沿って延びる三階建ての本館。その中央からすっくとそびえる高い塔。ペパーミントグリーンの外観を白い軒蛇腹や付け柱が引き立てる。ピョートル大帝によって創設された人類学・民族学博物館、通称「クンストカメラ」だ。
 秋晴れの昼下がり、ドミトリーはこの建物の二階にある展示室にぽつんとひとりたたずんでいた。周囲を見まわせば、さっきの双子のほかにも無脳症や単眼症、人魚症など、さまざまな奇形児の標本が並んでいた。子供たちは指をくわえたり、ひざを抱きかかえたりして、窮屈そうに黄色い液体の中に沈んでいる。すべて十七世紀末のものというから、彼らはもう三百年もの間、こうしてここに留め置かれているわけだ。
 その時、慌ただしい靴音がして、初老の紳士が現れた。背こそ少し丸くなっているが、薄い白髪をきちんとなでつけ、目には穏やかな知性をたたえている。
「ああ、お待たせしてすまんかった! ドミトリー・セルゲーヴィチ……? 今日は非番だというのに足を運んでいただいて――」
 ドミトリーは礼儀正しくほほえみ返す。
「ただ『ドミトリー』で差し支えありません、館長」
「では、そうさせてもらおう。しかしドミトリー、君は聞いていたよりずっと若く見える」
「これでも四十を過ぎているんですよ。それに、よく言われます。小柄で細身で、美術教師みたいだ。連邦保安庁の捜査官とは思えない、とね」
 たしかにドミトリーは男としては小柄なほうだ。が、細身というのは正確ではなかった。彼は地味なジャケット姿の下に、体操選手のように鍛えられた体を隠している。
 雑談もそこそこに、二人は展示室を出た。博物館は先ごろから臨時休館となっており、館内はひっそりと静まり返っていた。途中、廊下のあちこちに張られたバリケードテープがドミトリーの目を引く。彼はほどなく、大ネヴァの川面を見下ろす館長室へ通された。

「首?」
 ドミトリーは一瞬たじろいだものの、すぐさま革張りの椅子の中で肩をすくめた。
「首というと、つまり……、人間の首なんでしょうね?」
 館長が眼鏡をずらし、広い執務机の向こうから上目遣いに見返してくる。
「そのとおり。盗まれたのはまさしく人間の切首だ。ただし百五十年ほど前のものだがね。ふーむ、あまり驚いておらんようだな、君は」
「我が国で最も古い博物館、クンストカメラ。ドイツ語で『驚異の部屋』。覚悟はしていましたよ、ここはグロテスクな収蔵品で有名ですから」
「たいへん結構。それなら話が早い」
 カーテンを引いて部屋を暗くすると、館長はスライド映写機の電源を入れた。壁のスクリーンに問題の品が大きく映し出された。
「ミイラ化した人間の頭部。一九五〇年代に撮影されたものだ」
 ドミトリーは身を乗り出し、そのモノクローム写真に目を釘付けにした。「首」は黒い円形の台座の上に、あごをやや上向きにして据えられていた。眼窩が落ちくぼみ、目の表情はよくわからない。ほおには彫刻刀で刻んだかのような無数の深いしわがある。耳の上に残っている髪は生々しいが、いかんせん画像が不鮮明だ。総じてそれはどこか木彫りの像のごとく見えた。
「いったいどういう御仁なんですか、これは?」
「うむ、少し込み入った話になる。これは十九世紀の半ば、中央アジアから当時ロシア帝国の首都だったサンクト・ペテルブルグへ送られてきたものだ」
 そこで初めて館長は遺骸の正体について語り始めた。ドミトリーは薄暗がりに身を沈め、じっと耳を傾けた。
 話が続く間、さまざまな情景がドミトリーの脳裏をよぎった。葦原を流れるステップ河川、その岸辺に建つ砦、迫りくる遊牧民の大集団、風を切って飛ぶ無数の火矢。彼はまた、さまざまな音を聞いた。馬のひづめの音、沸き起こるときの声、銃声や大砲のとどろき、刀を打ち合わせる音……。草原でいくつもの昼と夜が過ぎ、長い話に一区切りがついた時、ドミトリーは深い感嘆の吐息を漏らした。
「知りませんでした。この博物館にそんないわくのあるものが展示されていたとは」
「いや、これは展示品ではない」
 館長はカーテンを開けると、窓辺に寄りかかってひと呼吸した。ドミトリーは目をしばたたきつつ、いぶかしげに次の言葉を待った。
「先ほど、込み入った話になる、と言っただろう? 実はここからが問題の核心なのだ。クンストカメラには、正規の展示品のほかに、けっして公開されることのない秘密の収蔵品がある。この『首』もその一つだ」
「ちょっと待ってください。すると犯人は、これまで展示されたこともなければ、公式の収蔵品リストにもないものを盗み出したと?」
「そういうことになるね。実のところ、一九九一年のソ連邦解体とカザフスタン独立以来、かの国から『首』の所在について問い合わせが相次いでいた。政治家、外交官、ビジネスマンから学者、ジャーナリストまで、あらゆる人々がその返還運動に乗り出したのだ。ところが我々はといえば、政府の方針に従ってそんな収蔵品の存在を否定してきた」
「そして彼らのうち、しびれを切らした誰かが今回事に及んだ――」
 ドミトリーはつけ足した。館長がうなずく。
「犯人はカザフスタン関係者に違いない。ロシアにとっては同盟国であり、捜査は極秘に行われる必要がある。この事件が報道管制によって伏せられているのもそのためだ。さあドミトリー、これでもう君が呼ばれたわけがわかっただろう?」
 午後の陽が斜めに射し込み、館長室の寄木張りの床を照らしていた。背の高い窓を通し、ネヴァ川を行き交う船の汽笛が聞こえてくる。
「それにしても、事件発生から時間がたちすぎています」
 しばらくしてドミトリーは憂鬱な声を出した。今度は館長が肩を持ち上げてみせる。
「この三週間余り、お上は本件の扱いを決めかねていたのだよ。盗まれたのは、ロシアにとって特段価値のあるものではない。しかし一方で、もしこれが急進的なイスラム主義者のしわざだとしたら? 『首』はカザフ人の反ロシア・ナショナリズムをあおるために悪用されかねない。加えて、さらに別の深刻な問題がある。犯行の際、当博物館の警備員一名が射殺され、もう一名が瀕死の重傷を負っているのだ」
「さっき廊下に囲いがしてあったところですね」
「しかり。議論の結果、この件を連邦保安庁の管轄とすることが、今朝ようやく決まった。すぐにも正式な通達があるだろう。諸君にはぜひ事の背景を解き明かし、強盗犯たちを処断してもらいたい」
「お言葉ですが、館長、すでに三週間もたっていれば、犯行グループは盗品ともどもとっくに国境を越えているのでは?」
 そこまで言ってから、ドミトリーははっと息をのみ込んだ。館長が笑みを浮かべ、同情するように頭を振った。
「これは長い仕事になりそうだな、ドミトリー君」

 さて、いったん話を切り上げると、二人は館長室をあとにした。先に立って廊下を歩きながら老館長が言う。
「この博物館は、川沿いの表通りからは、塔を中心とした左右対称の建物に見えるだろう? だが実際には、L字型に中庭を囲うプランになっている。本館の西の端に、別棟が直角に接していてね。秘密収蔵庫はその地下にある」
 やがて彼らはくだんの別棟に入り、業務用階段を使って地下へ降りた。
 そこは古さと新しさが入り交じった空間だった。レンガ造りの太い柱が奥へ向かって二列に並んでいた。ヴォールト天井から空調ダクトやスプリンクラーの配管が吊り下がっている。床は清潔なコンクリートのたたきだ。時間をかけて近代化されてきたことがわかる。
 ドミトリーが部屋の中を進むと、整然と置かれた金属棚はどれも空になっていた。後ろに立った館長が言う。
「事件のあと、この部屋にあった品は、残らず対岸のエルミタージュ美術館の関連施設に移された。ここはもう収蔵庫としては使えないだろう」
 ひとつため息をつき、館長はまたとうとうと語り出した。
 十八世紀から十九世紀にかけ、ロシア帝国は急速に版図を拡大し、東欧、コーカサス、中央アジアを支配下に置いた。各地で戦利品がかき集められ、一部はクンストカメラにも持ち込まれた。やがてネヴァ川に面した本館は手狭になり、十九世紀末にこの別棟が建て増しされる。一方そのころ、未公開のまま保管されていたものをすべて展示室に陳列しようという機運は消えていた。植民地経営が軌道に乗り、略奪品によって帝国の威光を示す時代ではなくなっていたのだ。むしろ、この種の展示が被支配民族の公憤を呼び、サンクト・ペテルブルグが政治テロの舞台となることのほうが懸念された。
 二十世紀初めの社会主義革命のあと、これらの品を公開することはさらに難しくなる。ソ連邦は各民族の自発的な意思によって結成されたという建前のためだ。それは西欧の帝国主義諸国とは違うということを示さなければならない。となれば、例の「首」のようなものをペテルブルグの中心でさらすのが、いかに不都合であることか。第二次大戦後、別棟の地下にこの秘密収蔵庫が整備されると、「首」は他の未公開品とともにここへ移され、そのまま門外不出となった。以降、ソ連科学アカデミーの会員のみがそれを見ることを許されてきた。あくまで研究のための資料として――。
 そこで館長の話が途切れた。間を置いてからドミトリーは振り返った。
「館長、そろそろ本題に移りましょう。事件当夜、強盗犯はどうやって地下のこんな奥まったところにある部屋までたどり着いたんですか?」
「あとで見てもらうつもりだが、覆面姿の三人組が押し入ったのは、この別棟の中庭側バルコニーだ。男たちはさっき我々が降りてきた階段で地下へ降り、収蔵庫の扉を短時間でこじ開けている。だが、目的のものを持ち去ろうとした時、棚に取り付けられた警報装置に引っかかった。警備員が本館から駆けつけ、たちまち激しい撃ち合いになった」
「なるほど。最後に失敗を犯したとはいえ、連中はなかなか手際がいい。いや、あまりに良すぎる。あの階段ひとつとってもそうだ。あれは職員専用で、博物館の案内図にも載っていないのでしょう? 館長、これは申し上げにくいことですが――」
 館長は苦々しげに唇をゆがめ、
「内部の者が手を貸した、と言いたいのだね? しかしドミトリー、それは君の考え違いだ。当館の職員は私も含め、全員が厳重な取り調べを受けている。疑わしい点は見つかっていない」
「ふむ、では、賊はこの建物をあらかじめ熟知していたことになる。なにかまったく別の方策によって……」
 ドミトリーはあごに手を当て、ほの暗い虚空をにらんだ。

「いいか、スタッフ一人一人の身元を洗うんだ。どんなささいなことも見逃すな。なにか引っかかると思ったら、すぐ私のところへ持ってこい」
 自分を取り囲むいくつもの顔を見まわし、ドミトリーは檄を飛ばした。
 この日、連邦保安庁の彼のチームは、運河沿いに立ち並ぶ建物のひとつで家宅捜索を行っていた。外観は古いが、内部はシステム天井に石膏ボード壁という、安手で今風のオフィスになっている。ここに入居するインテリア・デザイン会社が、今年の春から夏にかけてクンストカメラの内装改修工事を請け負っていた。博物館の機密の流出元ではないかと疑われるゆえんだ。
 部下たちが散っていくと、ドミトリーは窓際に立って青黒い水面を見下ろした。
 ネヴァ川の左岸支流であるフォンタンカ運河。それはエルミタージュ美術館やマリインスキー劇場を擁する歴史地区を縁取るように流れている。小さな会社がオフィスを構えるには、かなり恵まれた立地だ。対岸の中低層でクラシックな街並みが目をなごませる。ここからもいくつか見える名高い庭園。その色づいた木々が早くも葉を落とし始めている。ペテルブルグの秋は短い。
「まさか、そこにあるものをすべて押収されるわけではないでしょうな。そんなことになったら、私どもはいったいどうすれば……」
 おろおろとうろたえた声が聞こえ、ドミトリーは背後を振り向いた。部屋の真ん中では、会社の代表だという痩せっぽちの男が捜査員の一人に泣きついていた。その脇にでっぷりとした主任デザイナーの女が立ち、書類棚から次々とファイルが引っ張り出されるのをしかめ面で見守っている。
 二人はともに六十歳前後で、サンクト・ペテルブルグ国立建築土木大学の現役教授だった。少ない俸給を補おうと、九〇年代の半ばに共同でこの会社を立ち上げたという。学閥を活かして実入りのよい公共案件を請け負い、学生や卒業生を安い賃金で使っているのだ。ソ連崩壊後の混乱を生き抜くのに必死なのは誰も同じだった。
 ドミトリーはその場を離れ、別室で行われているスタッフの聴取の様子を見に行こうとした。すると、経理担当者のコンピュータを調べていたリューダがこちらへ向かって手招きした。
「ディーマ、ちょっと見て。この子、事件の少し前に辞めてる」
 上司を気負いなく愛称で呼ぶ彼女は、ドミトリーの腹心の部下の一人だ。たしか「マレット」と呼ぶのだったか、短い髪を逆立て、襟足だけを長く伸ばした髪型をしている。その見かけによらず世故にたけており、こういう捜査では頼りになった。
 ドミトリーがそばへ行くと、リューダは画面に映ったある女性スタッフのプロフィール写真を指し示した。
「勤務記録によれば、建物の実測やら工事監理やらで、何度もクンストカメラに出入りしていたみたい」
「アナスタシア・ヴェルシーニナ、建築土木大学の卒業生か。まだ若いな」
「ここは若い女の子だらけの職場だよ。それよりこの写真を見て、なにか感じない?」
 リューダがドミトリーを見上げ、意味ありげな笑みを浮かべる。
「顔か? ロシア人にはいろんな血が混じっている。こんな顔ならどこにでも――」
「私の知り合いにウズベキスタン出身の奥さんを持つ人がいてね、彼の娘がちょっとこんな感じ。ここまで美人じゃないけど」
 ドミトリーは口をつぐみ、じっと画面をのぞき込んだ。女の面立ちはどこかあどけなさを残しているが、その琥珀色の瞳には強い光が宿っていた。つつましやかさと芯の強さの両方を感じさせる。そう、テュルク系の顔立ちといえなくもない。
 主任デザイナーの女が呼ばれ、難儀そうにリューダのそばに座った。アナスタシアについて聞かれると、
「学業の出来不出来はよく知らないけど、学部長の一押しだったから雇った。クンストカメラを担当してもらったよ」
「彼女が自らこの仕事を志願してきたんですか?」
 腕組みをして立ったまま、ドミトリーは質問した。
「それは覚えてないね。ああいう古典的な装飾は経験がないと難しいんだけど、絵がうまくて飲み込みも早い子だったから適材適所だよ。無口でおとなしくて、きれいな図面を描く。いるだろ? そういう娘」
 リューダがおばにでも話すような調子で口を挟む。
「学業のほうは知らないって、それ、どういうこと? 自分の学部の子だったんでしょ。建築学部の学生って、そんなにたくさんいるの?」
 主任はますます不機嫌な顔になった。
「あの子は三年次からの学士課程のクラスでは見かけたけど、なぜか一、二年生向けの基礎養成コースには初めからいなかったんだ。私らはずっと基礎コースの担任でね」
 ドミトリーはリューダと目を見合わせた。彼は最後にもう一つ尋ねる。
「アナスタシアの住所はわかりますか?」
「運転手が知っているかも。追い込みで夜遅くなった時、何回か自宅まで送らせたから」
 主任は重い体を引きずるようにして戸口まで行くと、廊下に向かって大声で怒鳴った。ヴォーヴァ、ちょっとこっちへ来て! と。

 ドミトリーはリューダとともに、その中年の運転手のあとについて建物を出た。彼の車の後部座席に乗せられ、アナスタシアが住んでいたという住所へ向かう。令状なしだが、ここはあえて成り行き任せだ。
 途中、並んで座るリューダが思案顔で言った。
「一、二年次にいなかったということは、彼女、三年次からの編入生だったってことかな」
「だとすれば、なおさら気になる。地元出身者ではない可能性が高まったのだから。時間も惜しいことだ。誰か大学へやって、学生課に照会させよう」
 上着のポケットから携帯電話を取り出そうとして、ドミトリーははたと手を止めた。彼はシートの背もたれから体を起こし、慌てて窓の外を見まわした。車は長い橋の上に差しかかり、大ネヴァ川を越えてワシリエフスキー島へ渡ろうとしている。
「お、おい、この道はもしや……」
 そこから目的の建物までは数分とかからなかった。二人は玄関フロアで管理人に身分を明かし、最上階にある一室に踏み入った。予期したとおり、中はもぬけの殻だ。ドミトリーが南側の寝室の窓を開けると、すぐ眼下にクンストカメラの中庭が広がった。一部は木の枝に遮られているものの、L字型に配された三階建ての館舎の全貌がわかる。そのアパートメントは博物館のちょうど裏手に当たっていたのだ。
 人影ひとつない、うら寂しい風情の中庭。木立の真ん中に枯草だけになった円い花壇があり、それを囲むようにいくつかベンチが置かれている。右手の建物が事件現場となった別棟だ。薄黄色の簡素なファサードには、賊が侵入したというバルコニー、先日ドミトリーが館長立会いのもとで検分した二階バルコニーが見える。翻って正面奥の本館はといえば、表通り沿いと同じくペパーミントグリーンに塗られ、白い窓枠や付け柱が華やかだった。中央から立ち上がる塔は、かつて天文台として使われたもの。頂部にアーミラリ天球儀が取り付けられており、曇り空の中、数羽のカモメがそのまわりを舞っている。
 精緻な箱庭のごとき情景を前にして、ドミトリーはうわずった声を漏らした。
「驚いたな。どうやら大当たりのようだ」
 隣に立ったリューダがいみじくも言う。
「ここからなら、模型で検討するみたいに、館内の動きをひと目で把握できただろうね」
「夜の見回りの時間、その経路、勤務交替の段取り。双眼鏡さえあれば、手に取るようにわかっただろう。お手柄だな、リューダ」
 さしてうれしくもなさそうにリューダは首を振った。
「ディーマ、信じられる? アナスタシアがペテルへ来たのは少なくとも三年前だよ。あんな若い子が博物館強盗の準備のために送り込まれ、それほど長い間ここで情報収集をやっていたなんて」
 そう言われて初めて、ドミトリーは部屋の中をじっくりと見わたした。
 すすけた天井のモールディング、空っぽの造り付けクローゼット、シーツがはがされたベッドマットレス、うっすらとほこりがたまった板張りの床。そこには生活のにおいが感じられず、ましてや犯罪がらみの目的で利用された形跡はない。
 一方、状況証拠は積み上がっている。アナスタシアにはクンストカメラのすべての図面があった。この部屋に住んで、日ごと夜ごと博物館の様子を観察することができた。管理人の話によると、彼女が姿を消したのは事件が起こった日の前後だ。
 余念を振り払おうとするかのように、ドミトリーはパンッと両手を打ち鳴らした。
「事件の背景については、まだなにもわかっちゃいない。だが、あの娘が我々を真相へと導いてくれる。まずは大学の線からだな。徹底的に調べよう。彼女の正確な身元、それから現在の居場所だ」

次回へつづく


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