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カシモフの首【小説】 幕間: ドミトリー、旧都へ飛ぶ

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「ちらっとIDを見せるだけで、どこでもフリーパスとは。いやはや、まさに現代カザフスタンのノーメンクラトゥーラだな、君の友だちのナースチャって」
 ドミトリーはおどけた調子で言うと、アイスティーのグラスを一口すすった。返事はなかった。向かいの席の美智はテーブルに突っ伏したままだ。
 バイテレク塔最上階のカフェ。それは、二層になった展望デッキのうち、下のほうのメインデッキにある。
 ドミトリーと美智が遅れてここへのぼってきた時、アナスタシアはひとり手すりにもたれ、ただ一心に南西の空を眺めていた。誰かと会っていたかどうかはわからない。彼女はほとんど口をきかず、そのうちぷいっと帰ってしまった。こうしてドミトリーたちはまたも置き去りにされたわけだ。
「それにしても、あの子にはなにかこう、人の心を惑わすものがあるねぇ」
 目の前のきれいなつむじを見やりつつ、ドミトリーは楽しそうな口ぶりで続ける。と、ようやく美智が体を起こし、焦点の定まらない目を向けてきた。
「ドミトリー、どうして今日、ここへ来たの? おかげでさっきは助かったけど」
「僕にだってたまには気晴らしが要るだろう。せっかく知り合えた日本人の女の子からはまるっきり音沙汰もないし」
「え? あぁ、ここのところ、いろいろあって……」
「そりゃそうだ、なんせあの火事騒ぎだったんだから」
 ドミトリーはうんうんとうなずいてみせる。
 世界平和宮殿が火災に見舞われた日、彼はロシア大使館の上階からその模様を眺めた。建設現場まで視界を遮るような高い建物はなく、ピラミッドの頂部にまたたくオレンジ色の炎が遠目に見えた。夏の朝空へ白煙が立ちのぼり、草原からの風にゆっくりと吹き流されていく。
 これは単なる事故なのか——。
 ハミードフとの秘密交渉が成功裏に終わってしばらくたち、ドミトリーがロシアへの一時帰国を考えていた矢先だった。窓際に立ってそののろしのような煙を見ながら、彼はいいようのない不吉な予感に打たれた。
 以来、ドミトリーはハミードフ邸の監視を強化した。イシム川対岸の高層アパートメントに要員を置き、昼夜を問わず屋敷の動きを見張らせている。今日は珍しくアナスタシアがひとりで外出したとのこと。なんとなく胸騒ぎを覚え、彼はそのあとを追うことにした。ここで美智と鉢合わせするとは、さすがに思ってもみなかったが。
 ともあれ、せっかく始まった会話を維持すべく、ドミトリーはさらに言葉を繰り出す。
「それで結局、火事の原因はわからずじまいなんだって?」
 うなだれがちに座っていた美智がふと顔を上げた。彼女はそばに置いていたショルダーバッグを手元に引き寄せた。中から取り出したのは一冊の本だ。
「これ、ちょっと見てほしいんだ」
 ドミトリーが手に取ってみると、それはソ連時代に出版された歴史エッセイだった。擦り切れた表紙には、『草原のいしぶみ――十九世紀カザフ民族史――』という題名が入っていた。美智が腕を伸ばし、しおりの挟んであったページを開いてくれる。
「ケネサリー・ハン報恩事業会っていうNPO法人があってね、そこで借りた本なんだけど」
「知ってる。カシモフの首の返還運動をやっている団体だろう。代表はアイベク・ジュヌーソフ。この町じゃ、ちょっとした名士だ」
 ドミトリーは美智に促され、彼女が何度も読み返したという問題の箇所を声に出して読んだ。

 ……かくしてケネサリー・ハンは、おのれの信念の命ずるまま、輝かしくも悲劇的な人生をたどった。その首は、キルギス族のロシア帝国への恭順のあかしとして、西シベリア総督に献上されたという。以来、長い長い歳月が過ぎ、我々がこのたぐいまれな英雄の軌跡をはたと思い起こした時、尊いなきがらはすでに歴史の闇の中にかき消えていた。
 そう、首のない戦士の亡霊は怨嗟の炎に身を焦がし、いまだ広漠たるユーラシアのどこかをさまよっているのである。

「君は全部読んだのかい、ロシア語で書かれたこの本を?」
 前後のページをめくりながらドミトリーは尋ねた。美智がテーブル越しに身を乗り出してくる。
「まさか。現場で通訳をやっている若い子がいて、カシモフに関係のあるところだけ英訳してもらったんだ。それで大筋はわかったつもりだったけど、あの火事のあと、また気になってね。この間、その結末の部分だけ辞書を引き引き原文を読んでみた。そしたら――」
「なるほど、『首のない亡霊』という表現が出てくるな」
「『怨嗟の炎』ともある」
「たしかに。でも予言書じゃあるまいし、それだけでこの本を平和宮殿の火事や怪談話と結びつけるのはどうかな。いや、おもしろいよ。おもしろい発想ではあるんだが……」
「やっぱりミステリー小説の読みすぎだって言うんだね?」
 ドミトリーはあははと声をたてて笑った。美智はひととおりほおを膨らませてから、
「著者のシャハノフって人、十年前に旧首都のアルマティで亡くなってる。これはね、彼が十九世紀のカザフスタンについて書いたものを集めて、死後に出版されたものなんだ。本の最後のほうを見て。友人として賛辞を書いている人がいるでしょう?」
 言われるままにドミトリーはページを繰った。本文の後ろに付いているのは、著者による後書きではなく、別人が書いたいわゆる頌徳文だった。その書き手の名前に目をやって、彼はおやっと眉をひそめた。
 ファルハド・ハミードフ――。
「どう思う?」
 と美智の声。ドミトリーはあごに手を当てて言葉を濁した。
「どうと聞かれても。しかしこれは……、ううむ」
「どんないきさつなのか、調べられないかな。あなたの記者仲間の人脈を通じて」
「待ってくれ。ジャーナリストといっても、僕の専門はだね――」
 ドミトリーは慌てて顔を上げた。
 いつのまにか日が陰り、展望台はやや薄暗くなっていた。美智は椅子の背もたれに寄りかかり、外の景色へ目をそらしていた。あたりを包むセピア色の空気が、彼女の憂いを伝えてくるようだ。もしかすると、うすうす聞いているのかもしれない。ハミードフ家にまつわる黒いうわさのいくつかを。
 どうしたものかとドミトリーは迷った。ロシア側とハミードフとの協定に従い、カシモフの首の発見場所をオムスクとする工作が目下進行中だ。無駄な動きはできるだけ控えたほうがよい。ただその一方で、美智の勘がまったく侮れないこともわかっている。
 ドミトリーは小さくため息をつき、本を閉じた。
「よし。じゃ、成果は約束できないけど、しばらく時間をくれるかい?」

 カザフ語で「りんごの里」を意味するアルマティ。広い国土の南東端、中国との国境近くにあるこの都市は、アスタナとはあらゆる意味で対照的だ。
 天山山脈のふもとに開けた坂の町。都心部にはスターリン・クラシックと呼ばれるいかめしくも雰囲気のある建物群が残り、噴水のある広場や緑豊かな公園があちこちに配されている。長らく政治、経済、文化の中心であったため、多くの知識人や芸術家を輩出してきた。『草原のいしぶみ』を著したバフティヤール・シャハノフは、その系譜に連なる最後の一人といえるだろう。
 ドミトリーがこのカザフスタンの旧都へ飛んだのは、展望塔で美智と話してからひと月後の九月末だった。アスタナからの飛行時間は一時間四十分。本当はもっと早く来たかったが、オムスクへの出張があったのに加え、平和宮殿の竣工式でミリューチン大使が行うスピーチの原稿作成に手間を取られた。式までは、残すところ十日余りとなっている。
 高級住宅街とされるトゥレバエフ通りを、ドミトリーは汗をふきふき、徒歩でのぼっていった。行き先はシャハノフ・ミュージアム。作家がかつて実際に住んでいたアパートメントをそのまま利用しているという。
 アルマティでは南北に走る通りのほとんどがなだらかな坂道であり、トゥレバエフ通りも例外ではない。ただし、その植栽は別格だ。通りの真ん中にエゾマツが二列に植えられ、その間が遊歩道となっている。閑静で、ここを歩いているかぎり、人口百万を優に超える都市の中心部とは思われない。
 道路脇の溝を山水が勢いよく流れている。清らかなせせらぎを聞きながら、ドミトリーはやれやれとつぶやいた。
「この居心地のいい町を捨てて、冬は極寒、夏は砂混じりの風が吹きすさぶアスタナに遷都するとはな。ふぅ」
 目的の建物はすぐに見つかった。外壁の目につきやすいところに赤御影石の記念プラークが掛かっていたからだ。なかなか凝ったもので、シャハノフの四分の三正面像が彫り込まれている。
 ドミトリーはひんやりした階段室の中をのぼった。ミュージアムは三階にあった。ベルを鳴らすと、重厚な構えの玄関ドアが開き、管理人らしいカザフ人女性が迎えてくれた。
「あら、よく来てくれたね。私はグリミーラ。さぁ、どうぞ入って」
 年齢は五十代後半といったところか。ヘビースモーカー特有のかすれ声。久しぶりに訪ねてきた甥に対するような気さくな話し方……。

 ソ連時代に建てられたエリート向けアパートメントは相当な大きさだった。寄木張りの廊下を進み、両開き扉をくぐると、広々とした長方形の部屋に出た。通りに面した連窓から青々としたエゾマツの樹冠が目に飛び込んでくる。さながら大画面に描かれた山水画のごとくだ。
 グリミーラが半ば自分の家であるかのように誇らしげに言う。
「すばらしいでしょう? 場所もいいし。今じゃ高くて、おいそれとは買えない物件だね」
 そこはかつての居間で、今ではギャラリーとなっていた。窓に沿ってガラスの陳列ケースが並び、作家の直筆原稿、書簡、写真、愛用した品などが展示してあった。ほかに客はおらず、とても静かだ。古い掛け時計の音だけが、こち、こち、と響いている。
 ドミトリーの頭の中に、ここで生活が営まれていた当時の家具配置がありありと浮かんだ。
 長い部屋の奥には飾り棚を兼ねたテレビボード、その手前にはソファセットがあっただろう。作家のお気に入りだったというロッキングチェアは、窓と反対側の壁に造り付けられた書架のそばだ。居間とひとつながりのダイニングには、大きなテーブルが置かれていた。親しい友人が来れば、そこで家族を交えて食事をしただろう。ソファに移ってからは、政治談議、芸術談義に花が咲く。
 そうしてソ連時代最後の日々は過ぎてゆき、ちょうど十年前の一九九一年春、カザフスタン独立の七か月ほど前に、バフティヤール・シャハノフの人生はここで突然断ち切れたのだ。
 展示品をひととおり見てまわると、ドミトリーは背の高い書架の前に立った。表紙を表にして並べられた著作は、そのほとんどが歴史を題材にしたものだった。中段の棚には『草原のいしぶみ』も置いてある。彼がそれに手を伸ばした時、暖かく湿った風が室内に入り込んできた。
 振り返って見れば、ダイニングの掃き出し窓が開いていて、その向こうでグリミーラがバルコニーの手すりにもたれていた。ドミトリーはレースのカーテンをくぐり、彼女と並んでトゥレバエフ通りを眺め下ろした。すぐそこのエゾマツのこずえで鳥がさえずっている。街路から涼しげな水音が届いてくる。
 宙に向けて紫煙を吹きつつ、グリミーラが言った。
「どうしてもやめられないの、タバコ。記者時代からの悪い習慣で」
「新聞記者をなさっていたんですか?」
 彼女は以前勤めていた新聞社の名前を挙げた。ソ連崩壊のあとすぐに創刊された独立系新聞だったが、十年と持たず政府系メディアに吸収される形で消滅した。シャハノフ・ミュージアムの管理人になったのはつい最近だという。
 ドミトリーはひと呼吸おくと、
「本棚を見ていてあらためて気づいたんですが、十九世紀についての著作が多いですね」
「シャハノフのライフワークだったといえるだろうね。ソ連時代には、民族問題を先鋭化させかねないという理由で、ロシア帝国によるカザフ草原統治の研究はタブー視されていた。それでも党ににらまれるのを承知で取り組んでいたんだから」
 手すりの上の灰皿に吸い殻を押しつけ、グリミーラは続けた。
「ステップの遊牧民には、記録して文書に残すという習わしがほとんどなかった。だからその実相をとらえるのは本当に難しい。シャハノフはロシアだけでなく、他の中央アジア諸国の文献にもくまなくあたった。さらに、都市から遠く離れた僻村を回っては、これらの資料と現地の地勢を照らし合わせるということをやったんだ」
 風俗や建築にも造詣が深かったシャハノフは、こうしてかつてなく立体的に十九世紀のカザフスタンを描き出した。また、彼は早くも一九七〇年代からケネサリー・カシモフを称揚していた。植民地主義の時代にあって、自由と独立という普遍的価値のために戦った真の世界人だとして。カシモフの首に関心が集まり、その返還運動に火がついたのは、やはりシャハノフの一連の著作活動によるところが大きい――。
 グリミーラの話が一段落するのを待って、ドミトリーは彼女に偽名刺を差し出した。自分はロシアから来た雑誌記者で、アスタナの首都開発とカザフスタン全般について書いている、うんぬん。いつものでまかせを言うと、彼は本題に入った。
「シャハノフ夫妻はこの家で亡くなったと聞きました」
「ふむ、より正確にはね、二人は昼食時にそこのダイニングで倒れ、救急車で市内の病院へ運ばれた。シャハノフはその場で死亡が確認された。夫人は病室でつかの間意識を取り戻したけれど、再び容体が悪化して、昏睡状態のまま三日後に亡くなった」
「死因は食中毒ということですが」
「ええ。当時はマスコミも注目したし、しばらくはどこへ行ってもこの話で持ちきりだった。しかもそのあと、一人息子が行方知れずになって……」
「ちょっと待ってください、夫妻には息子さんがいたと。で、その彼が――?」
「近親者の手で両親の葬儀が行われたあと、いつのまにか姿が見えなくなっていたんだよ。それでまた騒ぎになった。けど、なにせ時は九十年代の初めでしょ。ソ連解体前後の大混乱の中、みな自分のことだけで精一杯。事件は次第に人々の記憶から忘れ去られていった」
「なるほど。そこでなんですが、ひとつ見ていただきたいものがあります」
 ドミトリーは書架から持ち出してきた『草原のいしぶみ』をグリミーラの前で開いた。ページを繰って、巻末に収録された賛辞を示す。グリミーラは筆者の名にちらりと目をやってから、推し量るようにドミトリーの顔を見返した。
「もちろん知った名前だけど……」
 黙ってうなずき、ドミトリーは先を促す。
「……シャハノフは当時、アルマティで有力な知識人サークルを主催していた。ハミードフはたしかこの通りを上がったところに住んでいたし、家族ぐるみの付き合いがあったはず。この本はシャハノフの没後、ハミードフを含む友人たちの手で作られた。だから彼が代表として賛辞を書いたんでしょ」
「でも、二人の友情はいつなんどきも麗しかった、というわけじゃなかったようですね」
 グリミーラは眉根を寄せ、苦々しく笑った。それから彼女は次のように語って聞かせた。あくまで匿名という条件付きで。
 十九世紀半ばのカシモフの乱に、多民族国家カザフスタンの未来への道標を見つけようとした人――それがシャハノフだ。彼が特に重んじたのは、ケネサリー・カシモフはカザフ人だけの英雄ではないということ。カシモフの軍勢には、少数ながら異民族出身者やロシア人までもが加わった。それゆえに、この反乱は単なる民族主義を超えたもの、圧政に抵抗し、自由と自治、ひいては公正な未来を勝ち取るための戦いであったとしたわけだ。
 この見解に対しては、長らく批判がつきまとってきた。封建君主カシモフの本質を見過ごし、民衆の解放者として美化しているという批判だ。
 雰囲気が変わり始めたのは一九八〇年代後半、ソ連邦の改革機運が高まったころだった。シャハノフの言説はにわかにもてはやされ、彼は一躍時代の寵児へと躍り出た。作家のもとには多くの若い芸術家や政治家の卵が集まり、急進的な文化サークルを形成した。彼らの活動がカザフスタン独立運動の一つの母胎となっていく。
 しかし、落とし穴はすぐそこに待ち受けていた。一部の者たちはシャハノフの思想を都合よく解釈し、利用した。ロシアの影響力を排除してカザフ人による統治を打ち立てるという名分のもと、カザフ人の旧共産党エリートによる専制への道が開かれたのだ。それは一つの独裁を、また別の独裁に置き換えることにほかならなかった。
 自ら興した運動の目的が、公正な社会の実現とはまったく正反対のものにすり替えられていく。その暗い流れを目の当たりにしたシャハノフの嘆きは大きかった。彼はサークルを解散し、政権批判に転じた。そして当時のカザフ共産党書記長、つまり現大統領に反対したことで、その後見人を自認するハミードフとも次第に対立するようになっていった。
 そこでいったん言葉を切り、グリミーラは深々と息をついた。
「カザフスタン独立までは同じ方向を向いていた人たちが、いざ本懐を遂げようという時に突如としてバラバラになった。シャハノフは権益をむさぼる政府要人を批判して人気を集めたよ。実際、彼を次期アルマティ市長に推す声もあがり始めていた。そんなさなか、作家とその家族の身にいったいなにが起こったのか、今となっては真相を確かめるすべがない。事はあまりにも素早く、完璧に処理されてしまったからね」
 彼女の話はドミトリーを驚かせはしなかった。それはソ連崩壊このかたユーラシア各地で行われてきた超法規的殺人、その最も早い例の一つなのだ。
 ハミードフが『草原のいしぶみ』に賛辞を寄せ、その出版に尽力したこと。シャハノフの遺志を継ぐかたちで、ケネサリー・カシモフの首の帰還に取り組んできたこと。これらはすべて、暗殺を隠蔽し、世間の目をあざむくためだったと思われる。もちろん、カシモフとハミードフ家をめぐる因縁を少しでも解消したいという意図もあっただろう。

 さて、ドミトリーはグリミーラのあとについてバルコニーから室内に戻った。時間を割いてくれたことに対し彼女に礼を言い、最後にぐるりとギャラリーを見まわした。
 青緑の木立を透かして連窓から西日が射し込んでくる。壁の時計はこちこちと時を刻みつづけている。あらゆる記憶を封じ込める、がっしりした直方体の空間。ここには十年後の今につながるものは、もう何一つ残されていないのだろうか。
 ドミトリーはどうにも立ち去りがたく、しばし部屋の戸口で釘付けになっていた。傍らの壁際にガラス扉の付いた古風なキャビネットがあった。中に飾られているのは大小の写真立て、各種のトロフィー、天然石を使ったミニ地球儀、動物をかたどった陶器の置物、ブリキのおもちゃ、などなど。すでに先ほど見たものだが、一枚の古い家族写真が再び彼の気を引いた。
 そのスナップショットは郊外の自家菜園で撮られたものらしい。シャハノフが畑の畝の間にしゃがみ込み、カメラに向かって笑いかけている。五十を過ぎたころの作家は、映画俳優かと見まがうほどハンサムだ。短髪に日焼けした顔、口元からこぼれる白い歯、シャツの袖からのぞく腕も若々しく、活力がみなぎっている。
 すぐ後ろに麦わら帽子をかぶった夫人が立ち、晴れ晴れとしたほほえみを浮かべている。ぽっちゃりした体つきに、あごの張った面差し。夫よりひとまわり若いが、いかにもしっかり者といった気丈さがうかがえる。
 グリミーラが夫人に寄り添う少年を指さして言う。
「これが行方のわからなくなった息子のダニヤル」
 十代半ば。ひょろっと痩せた体躯。少年は母親の肩を抱き、歯をむいていびつに笑っている。背は彼女より高い。が、手足の置き場が定まらない立ち姿など、よく見ればまだまだ子供っぽい印象だ。また、どこか幸薄い感じがするのは、後に一家を襲った悲惨な出来事が投影されるからだろうか。
 と、その時初めて、少年の陰に隠れるようにして一人の少女が写っているのが目に留まった。年ごろは十三、十四といったところ。プリント柄の袖なしのワンピース姿。はにかむように両手を後ろで組み、カメラに対して半身に構えている。
 ドミトリーはキャビネットのガラス面に顔を近寄せた。
「この娘は?」
「シャハノフには娘はいなかった。親戚か、近所の子じゃないかしら」
 色あせた写真の隅、その淡い琥珀の瞳をした少女に、彼はじいっと見入った。

(次回へつづく)


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