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カシモフの首【小説】 Ⅱ.施主の来訪 ➀

【前章までのあらすじ】
同じひとつの仕事に取り組む中で、美智はナースチャと少しずつ打ち解けていった。彼女を建築展へ誘ったり、自宅アパートで夕食を共にしながら話し込んだり。
ある日、二人で遅くまで残業していると、突如として大停電が起こった。真っ暗な事務所ビル内を歩きまわるうち、美智はなんと設計中の世界平和宮殿に迷い込んだ。成り行きのまま奥へと進み、壮麗なアトリウムに出た美智。彼女がそこで目にしたものとは――。

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 美智は世界平和宮殿に閉じ込められ、なすすべもなく立ち往生したままだった。
 彼女は大階段をのぼりきったところで手すりにしがみつき、目の前の光景から顔をそむけていた。ひざががくがくと震える。倒れないよう体を支えているだけで精いっぱいだ。
 正面に広がるアトリウムには、何百という大人数がいるらしかった。ここへ上がってくるまで人の姿はまったく見えず、話し声も足音も聞こえなかったというのに。さらに不気味なことには、彼らはみな、頭のてっぺんから爪先まで真っ白だった。最初は白い服を着ているのかと思ったが、そうではなかった。髪も顔も手足も、全身がペンキをかぶったように白いのだ。
 美智は口の中で繰り返した。
「落ち着け、美智。落ち着け、落ち着け、落ち着け」
 しばらく待ってから、おそるおそる目を上げた。どうもおかしい。人々はいっこうに身動きする気配がないし、物音ひとつたてずにいる。美智は階段からすぐのところで寄り添っている二人組に近づいてみた。そしてやっと理解した。彼らが生身の人間ではなく、建築パースで用いられる3Dの人体モデルであることを。
 一人はモーニングコートを着た男性だった。もう一人はアフタヌーンドレス姿の女性で、かかとの高い靴をはいていた。彼らの体の表面はポリゴン、つまり多角形の面が集まって出来ている。だから、目鼻はあっても表情まではよくわからない。色と質感が指定されていないこともあって、まさしく面取りされた石膏像のようだ。こういった人体モデルがあるいは単独で、あるいは数人がグループになって、広いアトリウムのあちこちに立っていた。
 美智はごくりとつばを飲み込む。
 ――ここがどんな世界であれ、最後までこの目で見届けてやる!
 アトリウムの中央へ向けて足を踏み出した。が、大階段の上の天井が切れ、壮大な「内なるピラミッド」を見上げたとたん、彼女はまたしてもがくぜんと立ちつくすことになった。
 正四角錐であるはずの吹き抜け空間が、下から三分の二くらいのところ、地上6層目あたりで途絶えていた。そこから先にはなにもない。四方の内壁がすっぱりと断たれ、一辺十メートルほどの正方形の大穴が空に向かって開いているのだ。当然ながら、最上階の小会議場は丸ごと消えていた。外から見てみないことにははっきりしないが、建物のピラミッド部の上半分がごっそり失われているらしい。
 大量の自然光がじかに降り注いでくる。真四角に切り取られた青空に薄い雲がゆっくり流れていく。と、その中を黒っぽい鳥影が斜めに横切って飛んだ。
 美智はぽかんと頭上を仰いでいたが、そこでようやく思い至った。これはつくりごとの世界、ナースチャの手になるCGパースの世界だ。色を持たない人物像や頂部の欠けたアトリウムは、この仮想世界がレンダリングの途中であることを示している。まだ演算が終わっていないため、あちこちに不備や欠落があるわけだ。
「そうだ、ナースチャを捜していたんだ。どこ行っちゃったんだろう? やっぱりここへ出てきたのかな……」
 ぶつぶつとひとりごちながら、美智は再び歩き出した。
 アトリウムの総ガラス張りの内壁に、トラス状の構造体が美しい斜め格子を描いていた。トラスは1階部分でむき出しになり、V字型の柱となって大広間の四周を巡っている。幾何学の原理によって秩序立てられた涼やかな建築空間。完成済みの部分についてはすべて設計どおりだ。
 先へ進むにしたがい、3D人体モデルの群像は密になっていった。実にさまざまな人体モデルが立っていた。カンドゥーラをまとったアラブ風の男性、眼鏡をかけたスーツ姿の女性、ダウンベストを羽織り、カメラを手にした男性、カザフのものらしい民族衣装を着た女性。ドレスコードはないようだが、おおかたは正装している。人々は並んで歩いていたり、向かい合って握手をしたり、あるいは立ち話に興じたりしていた。
 美智は彼らの間を縫うように歩いた。ときどき足を止めては、周囲に目を凝らす。やはり屋内には何一つ動くものは見当らない。
 アトリウムのちょうど真ん中あたりで、幾重にも囲まれた人だかりができていた。奥へ分け入ってみると、中央がぽっかり空いて、円い広場みたいになっていた。輪をなした人体モデルたちは、その内側をじっと見つめている。
 彼らの視線の先になにか黒くて平らなものが落ちているのがわかった。美智は這うようにして人垣から抜け出した。が、いざ広場の中心に近づくやいなや、ぎょっと身をすくめて後ろへたじろいだ。白い人造大理石の床の上にどす黒い液体がこぼれていた。差し渡し一メートルほどで、どろりとしたぬかるみの縁が赤くにじんでいる。それは大きな大きな血だまりだった。
 ――なぜこんなところに血が? しかもこの量……。
 その場にかがみ込み、混乱した頭で考えた。この血の海はレンダリングの不具合などではない。明確な意図をもって、あえてここに置かれたものだ。
 不意にすぐ近くで「ウウウウッ」という奇妙な音がした。
 美智ははっと顔を上げた。ここへ来てから自分の足音のほかに初めて聞いた音だった。間を置かず、「オオオーッ」という音が別の方向から聞こえた。彼女は血だまりのそばにひざをついたまま、まわりを取り囲んでいる群衆を見た。
 それはただの音ではなかった。人体モデルが声を発していたのだ。ほどなくして、あちこちからくぐもった悲鳴があがるようになった。人々は凍りついたのどを管楽器のごとく吹き鳴らしている。そこへさらにため息やうめき声が入り混じり、やがて大きな喧騒となって渦を巻き始めた。
 美智は歯を食いしばり、両手で耳をふさいだ。気がつくと、明るかったアトリウムは夕暮れが迫ったように薄暗く、寒々しくなっていた。見上げれば、厚みを増した雲が正方形の空の中をすごい速さで流れている。
 その時、目の端でなにかが動いた。振り向くと、一つの影が人体モデルの人だかりの後ろを駆け抜けるのがかいま見えた。それはV字柱の列柱を斜めに横切り、またたく間にアトリウムの奥隅へと消えていく。美智は立ち上がってあとを追おうとした。が、飛び散った血のりに足を滑らせ、顔から先に床へつんのめった。衝撃で視界がくらむ。
「ナースチャ、待って――!」
 
 実際のところ、眠っていたという感覚はまるでなかった。が、自分の叫び声に驚いて美智が次に目を開けた時、案の定なにもかもが無に溶け去っていた。平和宮殿のアトリウムも、人体モデルの群集もだ。
 すぐには身動きできず、しばらく机に突っ伏してまぶたをしばたたいていた。ブラインドが上がったままになっており、ガラスのカーテンウォールから強い朝陽が射し込んでくる。勝手知ったる東京の設計室。天井照明が点いているところを見ると、どうやら停電はすでに復旧したらしい。
 やがて美智は体を起こし、椅子の背もたれに寄りかかった。大あくびをしたとたん、のどが引きつれた音をたてた。シャツの脇腹のあたりが汗でぐっしょりとぬれている。
「オフィスにお泊りしちゃったよ……」
 なんという生々しい夢だったのだろうと思った。激しい運動をしたあとのように全身がだるかった。一方で、首回りや両腕の皮膚はぞわぞわと粟立ったままだ。アトリウムで見た光景が、あの赤黒い血だまりが、今もありありと脳裏に焼きついている。
 足を投げ出してぼんやり自席に座っていると、サイドデスクの上に置かれた数枚のA3用紙が目に留まった。刷り上がったばかりの平和宮殿のCGパースだ。美智はそれらを手元に引き寄せ、一枚一枚ゆっくりとめくっていった。
 正面玄関をくぐったところから玄関ホールを見通した絵。地下大会議場前の吹き抜けと大階段を仰ぎ見た絵。大階段をのぼりきったところからアトリウムを見わたした絵。どれも構図は文句なしにすばらしい。そのうえ人物添景がバランスよく配され、活気と臨場感に満ちている。最終版といっていい出来だ。
 ――今日にも施主に提出すべく、昨夜ナースチャが仕上げていたパース……。
 美智ははじかれたように立ち上がった。斜め前の席にはナースチャの姿はなかった。そのまま設計室を飛び出す。
 会議室、応接室と順々にドアを開け、中へ踏み入ってみた。誰もいなかった。こんな早い時間だからあたりまえだ。役員室は鍵がかかっていて入れなかった。オフィス中を歩きまわり、最後に休憩室まで来た時、やっとナースチャを見つけた。
 総ガラスの窓際に置かれた長椅子の上で、ナースチャは目を閉じて仰向けに横たわっていた。美智は駆け寄ってひざをつき、そのぐったりした体を揺り動かそうとした。が、よく見ると、胸が静かに上下している。彼女はただ眠っているだけだ。
「ああ、よかった。びっくりしたぁ」
 美智は安堵の吐息をつき、自分のほおに両手を当てた。その時初めて、首に掛けた吊り下げひもの先から入退室管理用のICカードが無くなっていることに気づいた。さっき大慌てしていた際、どこかに引っ掛けて落としたらしい。いったん休憩室を出て、再びオフィス内を歩いてまわった。通路はもちろん、机の下や引き出しの中をくまなく捜したが、カードはついに見つからなかった。
 はて、と美智は首をひねる。昨夜、停電中にオフィスの外でなくしたのだろうか。だとすれば、共用廊下へ出たところまでは夢じゃなかったということになる。もう深夜まで残業など二度とするまいと思った。現実と夢の境目もわからないとは、まったくどうかしている。
 美智は休憩室に戻ると、ロッカーから持ってきた自分のカーディガンをナースチャの体に掛けた。それから近くの椅子を引き寄せて座り、彼女の寝姿に眺め入った。
 ナースチャはまぶたを固く閉じたまま、規則正しい呼吸を続けていた。長い黒髪が合成皮革の座面の上に広がっている。汗で湿った顔は鼻先だけがつんと高く、かすかに開いた唇の間から白い歯がのぞいている。文字どおり泥のような深い眠り。ちょっとやそっとでは目を覚ましそうにない。
 無理もないな、と美智は思った。ここのところ、自分とともに毎日残業していたナースチャ。昨夜は突然の停電に巻き込まれたあげく、ついにはオフィスに泊まり込むはめになった。彼女は痛ましいほど疲れ果てている。
 壁の時計を見れば、午前八時を回っていた。あと半時間もしたら、所員たちがぽつぽつと出社してくる。美智は決めた。アレックスに事情を説明し、ナースチャを好きなだけ寝かせておいてやろう。ほかのみんなにもお願いして、休憩室への出入りを控えてもらおう。
 ふとなにか寝言を言ったかと思うと、ナースチャがぎりぎりと歯ぎしりをする。悪い夢でも見ているのか、苦しげに眉根を寄せている。彼女がもがくように動かした手を、美智は柔らかく握った。その思いがけず幼い寝顔をあらためてのぞき込む。

次回へつづく


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