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カシモフの首【小説】 Ⅰ.世界平和宮殿の設計 ➀

【あらすじ】
二〇〇〇年九月、美智(東京の設計事務所に勤めるヒロイン)は、ある重要プロジェクトにかかりきりだった。カザフスタンの新首都に建てられる国際会議場「世界平和宮殿」だ。
そこへ若い外国人研修生、ナースチャことアナスタシアが現れる。クールで知的だが、どこかつかみどころのないアナスタシア。美智は彼女の謎めいた言葉に心惹かれ、その振る舞いの中に宮殿プロジェクトとの微妙なつながりを感じ取っていく。

                           目次・登場人物 [↗]

「細かい描き込みはほどほどにしておこう。まずはこれで施主の反応を見ないとね」
 美智は明るい声で言うと、ようやく体を起こして満足の吐息をついた。
 彼女がCG担当者の肩越しにのぞき込んでいる液晶ディスプレイ。そこにはピラミッドの形をした建物の外観パースが浮かんでいた。コンピュータ・グラフィックスによる三次元の建築モデルが、ちょうど今、敷地の背景写真に合成されたところだ。
 ピラミッドは広大な緑地の真ん中、なだらかに隆起する芝生の丘の上にそびえている。その外装は斜め格子のガラス面となっており、一見しただけでは何階建てなのかわからない。画面手前から奥に向かって、幅のある参道が真っすぐ延びている。それは丘の斜面に切り込んで、ピラミッド足元の地中へと潜っていく。
「こんなのでほんとにオーケイ? コンペの時からあまり進歩していないような気がする」
 マウスに手を置いたまま、CG担当の阿部くんが短髪の頭を傾けた。彼のさわやかな襟足、りりしい肩の線に美智は目を奪われた。
「そんなことはないよ、建築とランドスケープの関係もはっきりしてきたし。きっとだいじょうぶ」
「でもこれ、形も表面も抽象度が高いせいか、どうも実際のスケール感がつかみにくい」
「だからこそいいんだ。記念碑っぽくて、とても世俗の建物には見えないでしょ。つまり、狙いどおりってこと」
「ま、先輩がそう言うなら……。それにしても、思いつきで背景を夕空にしたら、まるで後光が射してるみたいになった。つい拝みたくなるね。ありがたや、ありがたや~」
 阿部くんが画面に向かって両手を合わせてみせる。美智はくふふと苦笑いし、彼の背中を軽くたたいてその場を離れた。

 照明が組み込まれた吊り天井のもと、白く無機質なオフィス空間が広がっていた。幾列にも並んだコンピュータに向かい、人々はそれぞれの作業に追われている。プリンターやコピー機、空調設備が神経にさわる音をたてている。
 美智は痛くなった首に手を当てながら自分の席を通り過ぎた。そのまま設計室を出た彼女は、狭い通路を経て、人けのない休憩室に入った。
 ん~んん!
 窓際に立ち、思いきり伸びをする。と、張り替えられたばかりのタイルカーペットが、靴底を通してその弾力を伝えてきた。床から天井まで届くガラスの外壁――建築家はこれをカーテンウォールと呼ぶ――のすぐ向こうでは、周辺の摩天楼が秋の陽をまぶしく照り返している。そこから先は中小の建物群が果てしなく続き、やがてぼんやりとした空気のかすみの中へ消えていく。
 東京の副都心、西新宿の一角。その建築設計事務所は一九七〇年代に建てられた由緒ある高層ビルに入居していた。オフィスはかなり上のほうにあり、一つの階の半分を占めていた。美智が大手ゼネコンの設計部からここへ移ってきたのは二年前のことだ。決められたデザイン・コードに沿って設計する。施工部の意向を汲んであっさり図面に修正を加える。そんな日々に飽き足らず、安定を捨てて飛び込んだ。結果として、仕事の量はうんと増えた。難しい課題を抱えて夜遅くまで居残ることも多い。でも、
 ――ずっとやりたかったことを、今まさにやっているんだよね……?
 美智は心の内でつぶやき、目の前のガラスに手を伸ばした。そこにうっすら映り込んでいるのは、三十路を控えた健康そうな女だ。背丈があるわりになで肩の体つき。髪はあごより少し上でふんわりと切りそろえている。
「いたいた。こんなところで油売ってた」
 その声にはっと振り返ると、クボタさんが書類を胸に抱えて戸口からのぞいていた。立ち襟の白いブラウスに紺のペンシルスカート。事務的なのに優雅でもある彼女は、総務部に所属する秘書の一人だ。
 美智はスキップしながらクボタさんのそばへ行き、照れ隠しにちらっと舌を出した。
「この時間、ここからの眺めが最高でさ。しばらくいい天気が続いてるし、地平線でも見えないかと思って」
 クボタさんはため息をつきつつ、片手で美智の青シャツの襟を直してくれる。
「あきれた。地平線なんてこの東京のどこにあるっての……。美智、最近ときどきひとりでぼんやりしてるよね。どうした? なにか心配事?」
「ううん、特になにも。悩みがないのが唯一の悩み、かな。しいて言えば」
「実際のところ悩んでる暇もないか、あなたの場合は。とにかくしっかりして、チーフ! 専務がお呼びだよ。役員室に来てくれって」
 休憩室を出て一緒に歩いていると、クボタさんが小声で耳打ちしてきた。ねぇ、阿部くんとの進捗はどう? と。美智はそれを軽く受け流し、通路沿いの一室へ逃げ込んだ。

 役員室といっても、フロアの一隅をガラスの仕切り壁で囲っただけ。そのしつらえは美智たちがいる設計室と変わらない。奥の席で書類に埋もれている人物が、この事務所のボスであるアレックス。英国人だが、長年東京に暮らしている。でっぷりした体躯に両脇を刈り上げたポニーテールという、なかなか愛嬌のある五十男だ。
 オフィスチェアをきしませて美智のほうを向くと、アレックスはA4判のクリアファイルを差し出した。
「おう、美智、ちょっとこれを見てくれるか」
 美智は手に取ったファイルの中身に強く引きつけられた。それは小さな顔写真付きの履歴書だった。
「中途採用ですか。わあぁ、この人、どちらの国出身の――」
「ほとんど新卒なんだよ、彼女。君に面接してもらいたいんだ。ほら、あそこにいるだろ」
「えっ、どこどこ」
 アレックスがあごでしゃくったほうを、美智はきょろきょろ見まわした。役員室のブラインドのスラットは水平になっていたので、通路を挟んで、これもまたガラス張りの応接室が透けて見えた。そこに若い女性がちんまりと座っている。
「履歴書一枚だけ? 推薦状も、ポートフォリオもなし?」
「そうだ。だからとりあえず試験をしてほしい。内容は任せるから、三時間くらいでできる課題を出してやってだね」
 おかしい。設計士として採用を希望する者は、ポートフォリオ――自分がしてきた仕事を作品集の体裁にしたもの――を持参することになっている。学生なら卒業制作だ。これはなにかあるな、と美智は感じた。
「実際に雇うかどうかはともかく、面接にはあくまで前向きにあたってくれ」
 アレックスは「前向き」という言葉を強調し、にやりと口元に笑みを浮かべた。

 さて、美智が応接室へ入っていくと、その新人さんはすっくと立ち上がった。
 背は美智に比べれば低く、百六十センチ台半ばだろう。緩く波打った髪は胸が隠れるくらいの長さ。アーモンドアッシュに染めた美智のボブよりも暗い色だ。つんと上を向いた鼻先にかわいらしいそばかすが散っている。とりわけ印象深いのが、透き通った琥珀色の目。見たこともないほど鮮やかで、まるでそれら自体が光源であるかのように輝いている。
 一方、どうにも引っかかるのは、彼女のくだけた格好だった。グレーのベロア地のTシャツ、黒のぴったりとしたクロップドパンツ、そして椅子の背もたれに投げられた草色のシャツジャケット。こんないでたちで採用面接に現れるとはいい度胸だ。ふと傍らの壁を見ると、帆布製の大きなかばんが立てかけてある。
 ――この子、まさか空港から直接来たんじゃ……。
 いぶかしい気持ちを抑えつつ、美智は英語で話しかけた。
「はじめまして。私、須藤美智といいます。美智って呼んでね。ええと、そちらのお名前は、アナ――」
「ナースチャ」
 かすかにはにかんだまなざし。思いのほか低い声音。
「じゃあ、ナースチャ、これからインテリア・パースを描いてもらいます。平面図と立面図、断面図のファイルを渡すから、それをもとにね。ちょっと難しいかもしれないけど、できるところまででいいから」
 ナースチャは腰を下ろし、美智が参考用のつもりで印刷した図面をまじまじと見た。美智は急がず、しばし間を置いてから続けた。
「どうしよう、設計室の空いてるコンピュータを使ってもらおうかな。それともここへラップトップを持ってこようか」
「イラナイ。ゼンブ、モチマス」
「は……? に、日本語? ごめん、もう一度言ってくれる?」
 ナースチャはそれには答えず、黙って布かばんを手元に引き寄せた。ジッパーを開けて彼女が取り出したのは、大きなカンバスだった。ただし、張り留めてあるのは麻布ではなく、ワットマン紙だ。裏面の四隅には、木枠の内側の邪魔にならない位置に釘が打ってあり、そのうちの一本にひもが結んである。
 美智がぽかんと見ていると、ナースチャはカンバスを縦向きに構え、アクリル製の直線定規を水平にあてがった。ひもを表に引っ張ってきて、定規の両端に一つずつ付いている滑車に掛ける。次にそれを裏面の二本目、三本目の釘に順を追って回していく。また表に戻ってきたひもを、もう一度定規の滑車に掛ける。さらにきりりと締め上げたうえで、四本目の釘に結わえつける。美智はようやく理解した。これは手製の製図板なのだ。
 今や直線定規は左右の縦ひもによって紙面に固定されている。ナースチャはそれを上下に動かし、ズレがないかどうか念入りに確かめた。続いて彼女は二枚組の三角定規と古びた薄い木箱を取り出した。ラシャ布で内張りされた箱の中に並ぶのは、大小のコンパス、大きな円を描くときに使う継足棒、寸法の転記に用いるディバイダー、墨入れのための烏口、などなど。真鍮製品がまとう独特の黄色い光に、美智の目は吸い寄せられた。
 ――うわぁ、きれい! もはやアンティーク物だよ。製図ペンなら学生時代に使ったことあるけど、烏口はさすがに……。
 ナースチャはテーブルから平面図が印刷された紙を取り、製図板の下のほうに角度を振って貼り付けた。それから胸を軽く反らし、長い髪を後ろでまとめ始めた。Tシャツの袖がまくれ、引き締まった左右の二の腕がむき出しになる。彼女は美智の視線に気づくと、唇に髪留めをくわえたまま、片目をぱちっとつぶってみせた。
 最後にひとつ大きく呼吸をしてから、ナースチャはあらためて美智の顔を見た。すると、その明るい琥珀色の瞳が一字一句はっきり命じてきた。

 では・・仕事に取りかかるので・・・・・・・・・・当分の間・・・・ひとりきりにしておいて・・・・・・・・・・・――。

 美智は無言のまま、のろのろと立ち上がった。応接室を出ると、通路に設計スタッフが人だかりをつくっていた。どの目もブラインド越しに部屋の中に注がれている。さながらガラスの向こうの希少動物を観察するかのようだ。
「あれ見て! ひもと滑車が付いてるよォ」
「どこから、っていうか、いつの時代から来たの、彼女?」
「でも、わりとあか抜けたカッコしてるじゃーん」
 次々に冷やかしの声があがった。美智ははっと我に返り、慌てて野次馬を追い払う。
「ほら、みんな、邪魔しない!」
 ナースチャはと見れば、そんな外野の反応などお構いなしの様子だった。彼女は製図板の裏にあるスタンドを開き、紙面をやや傾けてテーブルの天板に固定していた。その上に覆いかぶさるようにして、すでに製図を始めている。左手で三角定規をくるくると滑らせる。右手には針のようにとがらせた鉛筆。線を引くたびに、指先を巧みに使って鉛筆の軸を回転させている。
「ああやって芯の減りが偏らないようにするんだよ。線の太さを均一に保つために」
 そこにたたずんでいた高橋さんがぽつんと言った。ひと昔前まですべて手描きで製図していたという熟練設計士だ。彼は老眼鏡を外して首から下げ、ナースチャの作業をじっと眺めていた。目じりにしわを寄せてほほえみ、まだなにかつぶやきながら。そうだ、そうだよな。やっぱりそうでなくちゃあ……。
 美智は足音をたてずにその場をあとにした。通路のはずれへ行き、壁に背中をつけて寄りかかった。それでどうにか耐えしのごうとしたが、胸の動悸はなかなか鎮まらなかった。
 ――あの子、いったいなんなんだろう?

 数時間後、美智は再び役員室でアレックスと顔を突き合わせていた。製図板から切り取られたワットマン紙を間に挟んでだ。ナースチャがそこに描いたのは、巨大なアトリウムのインテリア・パースだった。
 その8層分の吹き抜け空間は、完全な正四角錐の形をしている。上に行くほど狭まっていく、いわば中空のピラミッドだ。内壁は全面ガラス張りで、トラス状の構造体が斜めの格子模様を描いている。トラスは1階部分で露出し、内側に傾いたV字型の列柱となって、ダイナミックな存在感を放つ。細く精確な鉛筆の線と、ぎりぎりまで薄めたインクによる影入れ。パースはこの空間が持つべき雄大さと空気感を余すところなく表現していた。
「これは、ちょっと絵心のある人間が器用に仕上げた、というものとはわけが違う」
 アレックスがワットマン紙をつかみ上げ、盛んにまくしたてる。
「ほら見ろよ、美智。柱の一本一本はもちろん、壁パネルの目地に至るまで、ことごとく画法幾何学的に導き出してある」
 美智は上司の大仰な身振りをやきもきしながら見守った。
「あー、アレックス! それ、むやみに振りまわさないで。折り目がついちゃう」
「お、すまんすまん、つい興奮して。しかし、今どき手描きでここまでできる人間がいるとはな。知力と芸術的素養がそろっていてこそ可能なことだ」
 手元の履歴書に視線を落とし、美智は言った。
「サンクト・ペテルブルグ国立建築土木大学、建築学部卒業、二十三歳。今までコンピュータで製図したことがないんだって。ロシアではCADの導入が遅れたんだろうね。ソ連崩壊のあと、長いこと混乱していたから」
「平和宮殿チームで面倒を見てやればいいじゃないか。まさにうってつけの人材だ。君もそのつもりで彼女に宮殿のアトリウムを描かせたんだろう?」
 アレックスはあごひげをなでつつ、また美しいパースに見入った。美智は小さく息をつき、応接室のほうを振り返った。
 ナースチャは最初に目にした時と同じ姿勢で椅子に座ったままだった。彼女は横顔をこちらへ向け、両手をひざの上で重ねて、わずかにうつむいていた。二枚のガラス越しに眺める彫像のような姿。そこにはたしかに人の感情を揺り動かすものがある。
 美智は心を押し鎮め、くだんの案件について考えた。
 建物の設計作業はいよいよ佳境に入り、チームはこれからインテリアに取りかかろうとしている。いちばん大切なのはこのアトリウムだが、ほかにも見どころは多い。たとえばピラミッド最頂部の小会議場、3層分の高さを持つ地下大会議場、正面玄関ホールとそれに続く大階段……。
 美智の中で期待と不安が同時に芽生えてくる。自分が目下打ち込んでいるその建築に、ナースチャはいったいなにを、どんな影響をもたらしてくれるだろうか。

次回へつづく


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