
カシモフの首【小説】 幕間: アナスタシア、秘密交渉に立ち会う
アナスタシアは大きなフランス窓のそばに立ち、ライトアップされた中庭のほうを向いていた。
ハミードフ邸本館の第二応接室。北ウイング寄りの奥まったところにあるその部屋からは、涼しげなしぶきを上げる円形の三段噴水が見えた。ただし、今、アナスタシアが注意を払っているのは庭の夜景ではない。彼女の目がとらえているのはガラスに映り込んだ室内であり、真ん中のソファセットで言い争う父と兄だ。
ローテーブルの脇に立ったカリムが、口から泡を飛ばす勢いでわめく。
「なぜロシアと折り合う必要があるんだ、父さん! 連中は今までずっとカザフスタンの正当な要求を無視してきたじゃないか。我々が行動を起こさなければ、カシモフの首はけっして戻ってこなかった」
「大統領は今もロシアとの関係悪化を恐れている。首の奪還を公表することを、どうしても許そうとせんのだ。ロシア側からのこの提案は、あの方にとって渡りに船だろうな」
革張りのソファに掛けたハミードフが言った。彼はさっきから暖炉の上の大時計をちらちらと見ている。
もうすぐロシア大使が屋敷を訪れることになっていた。きっかけはつい昨日、首都開発公団がとあるホテルで催したパーティーだ。ハミードフと二人きりで立ち話をする機会をつかまえると、大使は自らカシモフの首に関わる密約を持ちかけてきたという。
交渉の大枠として大使がほのめかしたのは次の二点だった。
ロシアはハミードフが組織したサンクト・ペテルブルグでのカシモフの首強奪を不問にする。
ハミードフはカシモフの首がロシアから正式に返還されたと認め、これを世界平和宮殿の竣工式で発表する。
カリムは歯を食いしばり、振り上げたこぶしをぶるぶると震わせていた。それを冷めた目で見やりつつ、ハミードフが言葉を継いだ。
「聞け、カリム。力で奪い返したと誇るのもよかろう。だが、ロシアに掛け合って首を返還させたとするほうがさらに大きな勝利となる。間違いなく我々にとって有利な取り引きだ。おまえとナースチャのペテルでの活躍を公にできないのは、ちと残念だがな」
「父さんはどうして奴らを信用できるんだよ? 家政婦を買収してこちらの裏をかこうとしていたんだぞ。俺がたまたま気づいて取り押さえたからよかったものの」
そこで初めてアナスタシアは部屋の中を振り返り、鋭い声で叫んだ。
「だからって、なにも殺すことはなかった!」
「ザリエマははした金と引き替えに、屋敷の警備体制までロシア側へ漏らしていやがった。自業自得というところだ」
むしろ平静な口調で言う兄を、彼女は射るような目でにらみつける。
「それでアパートに押し入って、生きたままベランダから投げ落としたのか」
「ふん、なかなか骨だったぜ。窓際へ運ぶのにも手下ども二人がかりだ。エルランのやつなんて、顔をひどく引っ掻かれてなぁ」
「臆面もなく、よくも……。それにあの新聞記事はなんだ。ギャンブルに手を出し、借金苦の末に飛び降りを図った? いったいどこまで人をおとしめれば――」
「くはは、ロシア人どもへの俺からのメッセージさ! なかなかひねりが利いているだろう?」
「やめろ、二人とも」
ハミードフが割って入った。彼はいらだたしげに息子を一瞥し、それからアナスタシアのほうを振り向いた。
「ナースチャ、カリムの言うとおりだ。裏切り者は断じて許してはならん。ことケネ様の首の件に関してはな。まったくあの女、恩を仇で返しおって……。おまえもよくわかっているだろう。ロシアが東欧やコーカサスでやっているのと同様の破壊工作を、ここカザフスタンで行わないという保証はない。我々は実に危機の瀬戸際にいたかもしれんのだ。ところで、美智はどうしている?」
「ここ数日、ずっとふさいだ顔をしてる。家政婦長は自殺したと言われて、そのまま信じているとは思えない。それに彼女、平和宮殿については、もうかなり前からなにかおかしいと感づいている」
アナスタシアは沈んだ声で言い、力なくうなだれた。ハミードフが考え込むように腕を組んだ時、ローテーブルの上のインターフォンが鳴った。彼がボタンを押すと、守衛の声が告げる。
「旦那様、ミリューチン大使が到着されました」
「首はオムスクで発見されたことにしたいと? 大使、どういうことですかな」
ハミードフが眉をひそめ、ソファセットの向かいに座るロシア大使を見返した。
ダークスーツ姿の大使は見事な銀髪をした二メートル近い大男だ。彼は部屋の入り口側に立つカリム、窓辺のアナスタシアにそれぞれちらりと視線を走らせた。が、二人が同席することに異は唱えず、すぐに屋敷のあるじのほうへ向きなおった。
「ファルハド・ラヒモビッチ、あなたもご存じのように、クンストカメラは一貫してカシモフの首の存在を否定してきました。今になって急にそれが出てきたとはとても言えんのです。加えて、あの事件では博物館側に死者が出た。ペテルブルグ市政府の遺恨は深く、大きい。そこで、政治的負担を軽くするために、いっそ場所を変えてみてはと」
「まさか、いったん首をロシアに戻せとおっしゃるのか?」
ハミードフの目がぎろりと動いた。大使は慌てて頭を横に振り、
「いえいえ、とんでもない。これまでどおり、首はあなたのお手元に置いて保管していただく。あくまで表向き、その出どころをどこにするかという話でして」
額の汗をぬぐいつつ、大使は先を続けた。
「オムスクには十九世紀に建てられた豪商の邸宅が残っています。大きな地下蔵を備えた立派な建物で、これを首の発見場所に偽装しようというわけです」
ハミードフはあごを小さく動かし、カリムとアナスタシアを交互に見やった。カリムはただ目をぱちくりさせるばかり。アナスタシアは黙って父にうなずき返した。
オムスクはロシア中南部の主要都市だ。シベリア地域ではノヴォシビルスクに次いで二番目に人口が多く、カザフスタンの北部国境からわずか百キロの距離にある。十九世紀半ば以降、このあたりのカザフ・ステップを統治した西シベリア総督府が置かれていた。カシモフの首がサンクト・ペテルブルグへ運ばれる途中にオムスクで紛失したとしても、話としてはおかしくない。
「一つの事実からまるで別の、もう一つの事実を作り上げる。ソ連時代からの伝統というわけですな」
ハミードフが冷ややかに笑い、それからまた大使をねめつけた。
「で、首の正式返還の発表を、平和宮殿の竣工式まで遅らせる理由は?」
「オムスクでの偽装工作に時間がかかります。なにしろ急に思いついたことであって、実作業はすべてこれからなのです。やるなら考証家を動員して、いかにも本当らしく仕上げないといかん。ソ連時代と違って、民営や海外のメディアも入ってきますから」
大使はひざの間で両手を組み、ローテーブル越しにハミードフを見た。媚びへつらうような態度だ。ハミードフは目を細めてしばらく大使の顔を眺めていたが、ついにその言葉を口にした。
「よろしいでしょう」
明日からカリムがロシア側と秘密協定の詳細を詰めることになった。また、ロシアがアナスタシアの国際手配を取り下げることも決まった。交渉は山を越えたのだ。
大使がほっと表情をなごませた。彼は立ち上がってハミードフに握手を求め、いとま乞いをしようとした。が、ハミードフは手振りでそれを制すると、さっきまでとは打って変わって朗らかに言った。
「それにしても賢いやり方を思いついたものだ。オムスクだとは。誰の発案ですかな。大使、あなたの?」
ええ、まあ、と言葉を濁し、大使はけげんな面持ちでソファに座りなおした。
そこへカリムが金属製の盆を運んできて、乱暴な手つきでローテーブルの上に置いた。盆にはコニャックの瓶とグラスが二つ載っていた。ハミードフが瓶を手に取り、自ら二人分の酒をつぎ始める。
「とにかく、今日ほど喜びに満ちたすばらしい日はない。大使のご尽力により、思った以上の成果をあげることができた。交渉成立を祝して乾杯といきましょう」
「おお、ファルハド・ラヒモビッチ、あなたはモスクの建立費用を寄進されるくらい敬虔なイスラム教徒だと伺っていたが、まさかコニャックをたしなまれるとは……」
大使の顔色がみるみる青くなっていく。形のいい白い口ひげがぶるぶると揺れる。アナスタシアは哀れむように大柄なロシア人の狼狽ぶりを眺めた。この男は事前に聞いて知っているらしい。ときには手荒な方法も使うが、カリムはもともと毒殺を得意としていることを。
「いや、カザフ人というのは実に柔軟でしてな。よいものはなんでも取り入れるのです。我々がこれほど強い酒を飲むようになったのも、七十年にわたって受けたソ連の薫陶のたまものだ。さあ、大使!」
ハミードフが自分のグラスを高々と掲げてみせた。口元こそ柔らかにほほえんでいるが、目は猛禽のそれのように黄色く光っていた。大使ののどぼとけが大きく上下するのが見える。彼はさんざんためらったあげく、目の前のグラスに震える手を伸ばした。
「見たかい、ロシア大使のあのひきつった顔! だらだらと冷や汗を垂らしやがって、傑作だったな」
カリムが天井を仰いで大笑いした。ソファに身を沈めたハミードフが、満面の笑みでそれに応えた。アナスタシアはといえば、沈鬱な面持ちでソファセットの隅に座っている。
ロシア大使はつい先ほど屋敷を退去した。彼はのどを押さえ、しきりに咳払いしながら、早足で玄関ホールを出ていった。隠微な嫌がらせに対して明らかに色をなしていたが、車寄せでリムジンの後部座席に乗り込むまで無言を貫いた。
大使を見送ったあとも、第二応接室での時間は続く。夜はだいぶ遅くなっていたが、世界平和宮殿の無事完工を祈って、これからワンガによる定例の願掛けが行われるのだ。
「私、今晩のご祈祷には出たくない。もう自分の部屋へ下がっていいよね」
アナスタシアは小声でつぶやき、立ち上がってドアのほうへ行きかけた。と、すかさずその背中にハミードフの声が飛んだ。
「待て、ナースチャ。まだ話がある。実際のところ、美智はどのあたりまで気づいておるんだ?」
「彼女、サイトオフィスのコンピュータでカシモフ関連の記事をたびたび閲覧している。『クンストカメラ』や『サンクト・ペテルブルグ』といった語句を検索した跡もあった」
「そうか。よし、今すぐ美智を呼べ」
アナスタシアは大きく目を見張り、その日初めて正面からハミードフに向き合った。
「お父さん、なぜ……。いけない、絶対に!」
「カリム、美智をここへ連れてくるのだ」
ハミードフが静かだがきっぱりとした口調で言った。アナスタシアは言葉を失い、その場に立ちすくんだ。カリムが彼女を押しのけるようにして部屋を出ていく。
続いてハミードフはソファから身を起こし、どっしりと厚いローテーブルの下に手を差し入れた。すると木の天板の一部が反転し、そこに小さな制御卓が現れた。彼は慣れた手つきでキーを操作する。間を置かず、ぶうんというモーター音とともに、暖炉と反対側の壁の造り付け書架が小刻みに揺れた。それはちょうど真ん中で二つに分かれ、壁面に沿ってゆっくりと左右に動いていく。
書架の後ろにあらわになったのは、隠し戸棚の金属製の扉だった。天井に届かんばかりに大きなもので、しかも金庫に準じた厳重な造りだ。ハミードフが立ってそのそばへ行き、数字が刻まれたダイヤル錠に取りかかった。彼は錠を解くと、両開きの扉を大きく開いて固定した。
やがて廊下のほうから足音が聞こえてきたかと思えば、応接室の戸口に数人の中年の男女が現れた。北ウイングに住んでいるハミードフ家の親族だった。地味で垢抜けない服装に、おどおどした遠慮がちな物腰。この屋敷ではまったく影の薄い者たちだ。
人々の間に混じって、ワンガが姿を見せた。彼女は繊細な花柄をあしらったあずき色の長衣を着ていた。いつにも増して顔色がよくない。
ワンガは部屋の奥へ進もうとしたものの、すぐに立ち止まって激しく咳き込んだ。アナスタシアははっと我に返り、老婦人のもとに駆け寄ってひざをかがめた。その小さな背中をさすりながら、父のほうを振り返る。
「今晩は特にお体の具合が悪い。ご祈祷はとても無理」
「うむ。では、大事をとって休んでいただくとしよう。ナースチャ、おまえがお部屋まで送ってさしあげろ」
ハミードフが二人のそばへ来て、気づかわしげにのぞき込んだ時だ。不意にワンガが彼をにらみ上げ、はっきりとしたロシア語で言った。
「どうして酒のにおいがするのか」
「こ、これは申し訳ない。先ほどロシア大使との話し合いの席でしかたなく……」
口元に手をやり、ハミードフが語尾を濁す。
「まったく、祈祷の場をなんと心得ておる。今夜の願掛けはやめだ。それよりも、この機会にあらためて申しわたしておくことがある」
苦々しく言い捨てると、ワンガは再び足を踏み出した。彼女は開け放しになっている隠し戸棚の前へ進み、幾段かに仕切られた内部の棚を仰ぎ見た。続いていつものようにふかぶかと頭を垂れる。それから部屋の中の一同へ向きなおり、今度はしわがれたカザフ語で語り始めた。
〈昨年秋、ようやくケネサリー公をカザフの地にお迎えできた。まこと、幸い至極と言わねばならぬ。このことは必ずや国に繁栄をもたらすであろう。次になすべきは、公の遺骸を正しく祀ること。今はまだ当屋敷に留め置かれておられるも、いずれ国父にふさわしい場所へ移っていただくことになる。さて、その御霊のよりどころとなる建物は――〉
アナスタシアは人垣の後ろへ下がってワンガの話を聞いていた。と、応接室のドアがそっと開き、美智がカリムに背中を押されるようにして入ってきた。「家族会議……、ですか?」
美智は青ざめた顔で部屋を見まわしていた。が、にわかに驚きの表情を浮かべると、彼女は人をかき分けて前へ出た。ワンガの背後の隠し戸棚は内部照明によってぼんやりと照らされていた。明るさはじゅうぶんではなかったが、上段中央に置かれているのがなんであるか、説明抜きで理解したようだ。
その黄ばんだ人間の首は、上部が半球状になった円筒型のガラス容器に収められていた。台座から金属製の心棒が立ち上がり、頸椎の代わりに頭蓋を支えている。乾いた皮膚に覆われているが、ミイラというより白骨に近いものだ。ほおはこけ、眼窩が深くくぼんで、目があった場所には二本の筋だけが残っている。鼻先は欠け落ち、唇とともにいくつかの歯がなくなっている。
ぼそぼそとつぶやくような口調でワンガが説教を続けていた。
〈――その建物は、けっしてただの墓であってはならぬ。ケネサリー公の偉業をたたえ、徳をしのぶための館、後世に伝えるべき、きわめて品格ある弔いの場としなければ……。ハミードフ家の責務じゃ。それを成し遂げてこそ、一族の過去のあやまち、呪わしい罪をあがなうこともできよう〉
ハミードフがかしこまった表情をつくり、こくこくとうなずく。美智は息をのんだまま、カシモフの首に目を釘付けにされている。
アナスタシアは彼らの様子をじっとうかがっていたが、急にふらふらとよろめき、一歩、二歩あとずさった。彼女は身をくの字に折り、片手で腹を押さえた。なんとか平衡を保ったものの、立っているのがやっとというありさまだ。いっぱいに見開いた目は、もうなにも見ていなかった。唇をかすかに動かしたが、声にはなっていなかった。
夜もすっかり更けたころ。屋敷の本館二階にあるハミードフの書斎にて、アナスタシアは父と一対一で対峙していた。
「どうした、ナースチャ。そんなに顔色を変えて」
ハミードフは大きな両袖机の向こうで横向きに座り、手にしたグラスの底でコニャックを回していた。彼の熱した顔からは、面倒な交渉事を終えたあとの高揚が感じ取れた。アナスタシアは机の縁に両手をつき、強い調子で言う。
「なぜわざわざ美智にカシモフの首を見せたりしたんです?」「世界平和宮殿の建設は順調に進んでいる。いつまでも美智に建物の本当の用途を伏せてはおけんだろう。近々すべてを打ち明けるつもりだが、今日はその手始めにはちょうどいい機会だった」
「彼女はもうとっくに知っている、あれは国際会議場なんかじゃないって」
「そうか。なら、説明の手間が省けてなおよし、だな」
「お父さん! 美智を首の件に巻き込まないでください。あの人はまったくの部外者ではないですか。なにも知らないまま日本へ帰ったほうが彼女のためなの。宮殿の施工監理は私が――」
「誰か一人、全体を見わたせる人間が必要だろうが! 美智は最初からこのプロジェクトの中心にいた」
鋭く一喝され、アナスタシアはぐっと口をつぐんだ。彼女は机の上に目をさまよわせた。そこに置かれたメモ帳、ペン立て、レタートレイ、そして書斎の鍵……。
ハミードフがようやく彼女のほうへ向きなおった。
「聞け、ナースチャ。平和宮殿の建立には、国とハミードフ家の命運がかかっている。なんとしても成功させねばならん。わかるな? 美智は必要だ」
彼はほおを緩ませ、それに、とつけ加えた。
「あの子はもう、我が家の一員のようなものではないか」
ゆっくり椅子から立ち上がると、ハミードフはグラスを手に持って窓際のソファに移った。おまえもここへ座れと言われ、アナスタシアはしぶしぶその隣に腰を下ろした。脚を座面に引き上げて横に流す。父の腕にやんわりと抱き寄せられる。
「ナースチャ、美智の身を案じる気持ちはわかる。だが、心配は無用だ。もうなにも起こりはしない、おまえが恐れているようなことはなにも。今日、ロシア側と話がついた。あとは予定に従って宮殿の工事を進め、秋の竣工式で大統領にケネ様の首を献呈するだけだ」
ハミードフはアナスタシアの髪をなでながら話しかける。「万事うまくいけば、私は第一級国家功労者として顕彰される。ハミードフ家の威信はいっそう揺るぎないものとなるだろう。そこでだ。これを機に、そろそろおまえを私の実子として正式に認知したいと考えている」
アナスタシアはハミードフの肩に頭をもたせ、暗い窓辺へとうつろな目を投げやった。
「昔、お義母さんはよく言っていらした。由緒あるハミードフ家にロシア人の血が混じるのは嘆かわしいって」
「ふふん、世間にはそういうことを言う者もいるだろう。が、私はやはりおまえに報いたい。認知はいわばその証だ。わかるな? 私がおまえのことをどれほど大事に思っているか」
開け放たれた窓から風が流れ込み、レースのカーテンを揺らしていた。生ぬるい六月の夜風。ひとところに滞留し、ぐるぐる渦を巻くかのような不吉な風だ。中庭の照明はとうに消されていた。噴水のほとばしる音ももう聞こえなかった。
ハミードフが手にしたグラスの中で氷がからからと鳴り、アルコール臭の混じった低い声が続く。
「これでやっと大仕事を果たすことができる。もう二度とおまえやカリムの手を汚させずに済む。私はもはや寝覚めの悪い思いをすることもなくなる……」
いいなと思ったら応援しよう!
