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カシモフの首【小説】 Ⅱ.施主の来訪 ③

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 ――うわぁ、なんと収まりの悪いプランなんだ。これじゃ、まるで……。
 美智はマウスを握りしめたまま、自席のディスプレイの前でしゅんとした。と、そこへ阿部くんが来て後ろから画面をのぞき込み、
「おぉ、まるでクノッソスの迷宮だね。いったん入り込んだらさいご、二度と生きては出られない!」
 意地悪なことを言いながら、阿部くんは印刷されたばかりの図面の束を美智のサイドデスクの上に置いていく。

 あの悪夢のようなプレゼンから十日、二十日とたつうちに、いつのまにかもう年の暮れとなっていた。平和宮殿チームのスタッフはみな一様に目が赤く、疲れた表情をしていた。苦しい設計変更作業――ハミードフ氏が求めた例の四項目――はとうとう今日で終わろうとしている。
 この間、まず手始めに、総ガラス張りだったピラミッドの外装が、9層目より上を残して白御影石のパネルに置き換えられた。これによってピラミッドのファサードは、下から五分の三までが石張り、それより上がガラス張りというツートーンとなった。斜め格子のフレームはそのままなので、外観上の統一感は保たれる。
 次に、7、8層目のフロアが大幅に削減されるとともに、現行案の小会議場が9層目のスラブごと取り払われた。アトリウムはもはや単純な正四角錐の空間ではない。それは上に向かってすぼまっていくが、途中から逆に開き始め、ピラミッドのガラス張りの頂部へ吹き抜けるのだ。新たに出来た上段の空洞の中には、オープンデッキのドーナツ型会議場が吊り下げられた。今や太陽の光は真上からじかに入り、「ドーナツの穴」を通って建物の奥深くまで射し込む。この変更はかなり大がかりなものとなったため、阿部くんほか数名が手分けして当たった。
 第三の要求項目、「地下大会議場のプランを円形の集中式にすること」は難題だった。ホワイエからは完全な円筒形に見える現行の大会議場。しかしその曲面壁は、実はアルファベットの「C」の字のような平面を持ち、奥のステージに向かって開いている。壁の内側に沿って3層のバルコニー席が巡り、中央部分には主要客席が平行に並んでいる。つまり、中へ入ると、ごくありきたりの大きな会議場だ。
 美智はこの馬蹄型の壁とバルコニーの平面を正確な3/4円に整えた。さらに、会議場の中央部を埋めている主要客席を取り外し式に改めた。必要に応じてそれらを奥のステージ上に移し替え、真ん中に円い広場を持つ円形議場とすることができるわけだ。この案で施主が納得してくれればと願うばかりだった。
 そうしていまだ美智の心残りになっているのが、最後の要求項目である「西側出入り口の廃止」と、それに伴うプランの変更だ。
 現行の計画では、宮殿の出入り口は東西南北の各側面にある。ピラミッドの基壇であるなだらかな丘に四方から切通しがうがたれ、これらのアプローチ道が建物を中心として美しい十字形を描く。
 東側の幅広の切通しが正式な参道だ。それはピラミッドの下に入り込み、地下2階の正面玄関に至っている。北側と南側の切通しはより細くて深い。この二つは車両用で、スロープによって地下3階まで潜り、それぞれ荷降ろし場、地下駐車場へ通じている。そして西側の切通しだが、これは言うなれば裏参道。地下2階の西側出入り口と宮殿の背後に広がる大庭園を結んでいる。
「施主は建物の中を通り抜けて向こう側へ出るようなプランが気に入らないんだろう。しかたあるまい」とアレックスが言う。
 美智は泣く泣く西側出入り口をふさぎ、切通しを埋め戻した。それから数日がかりで地下階の平面図に取り組んだ。廊下や通路をすっかりやりなおし、災害時の避難経路は北と南の出入り口に振り分ける。しかし裏玄関を失った代償は大きく、特に大会議場の後ろ側の動線がひどくこじれた。まさに迷宮だ、阿部くんの言うとおり。

 美智はついにさじを投げ、ディスプレイから視線をそらした。彼女のサイドデスクへ次々と届けられる修正済みの図面。手に取ってそれらに目を通しつつ、しみじみとひとりごちる。
「あーあ、なんだかますます浮世離れしてきたなぁ。パンテオンじゃないけど、もうほんと神殿そのもの」
 ガラス張りの頂部を除いて窓がいっさいないピラミッド。天上から真っすぐアトリウムに降り落ちる自然光。これほどの規模でありながら、一般客用の出入り口は東側の正面玄関一つだけ。建物の総床面積は、もとの三万平方メートルから二万八千平方メートルにまで減っている。
 美智がため息とともに図面から顔を上げると、斜め前の席でコンピュータに向かうナースチャの背中が目に入った。彼女はちょうど、アトリウムの内観パースの最後の一枚を仕上げているところだった。9階レベルに吊り下がる新しい小会議場を1階フロアから仰ぎ見たカットだ。
 本来「内なるピラミッド」として完結するはずだったアトリウムは、6階レベルでぽっかりと上へ抜けている。そこに出来た大きな天窓のような開口。このいわば正方形の額縁の先に、白いリング状の構造物が青空を背にして浮かんでいる。実に神々しい、啓示的とでも呼びたい光景だ。
 ナースチャは今まで以上の速さでキーを打っている。つやのある髪が両肩へ流れ落ち、椅子の背もたれにかかって揺れている。
 自らの素性を明かしたあの晩以来、彼女はひどく口数が少なかった。脇目も振らず、ほとんど誰とも話さず、製図に没頭していた。あたかも、目下の苦境は自分のせいだ、だから自分の手で挽回するのだといわんばかりに。
 そのかたくなな後ろ姿を眺めながら、美智はふと思い立った。週末、ナースチャを外へ連れ出してやろう。今度はどこか底抜けに楽しい場所、たとえば東京ディズニーランドなどがいい。さらに、この子はクリスマスや年末年始はどうするのだろうと気になった。元旦に二人で初詣に行くところを頭に浮かべてみる。
 と、そこで携帯電話のメッセージ着信音がいやに大きく響いた。ナースチャが机の引き出しを開け、中から小さなポーチを取り出した。
 ――ケータイ、持ってたのか。当然だよね……。
 美智の胸はちくりと痛んだ。ナースチャが携帯電話を使うのを見るのは初めてだった。もちろんその番号を教えてもらってもいない。自分とだけは打ち解けてくれたと感じていたが、ただのうぬぼれにすぎなかったのだろうか。
 気を紛らわすようにまわりに目を向けると、他のスタッフはあらかた帰ってしまったあとだった。夜の設計室に残っているのは、彼ら二人を含む数名のみとなっている。
「ね、美智、歌舞伎町って、どう行けばいいの?」
 ナースチャが言い、手に持った電話に目を落としたままこちらを振り向いた。
「か、歌舞伎町……? 今から? もう遅いよ、時間」
 美智は答えつつ、自分のディスプレイの時刻表示を見た。歌舞伎町にとってはむしろ早い時間だった。前言を修正する。
「あ、いや、歌舞伎町は新宿駅の向こう側なんだけど、結構広いよ。何丁目?」
「Kabuki―cho、2―XX―X」
「二丁目は少し奥へ入ったところだったかな。でも、車で行けばせいぜい――」
「タクシーはだめ。歩いていく」
 なんで? と聞こうとして、美智は口をつぐんだ。たしかに徒歩でもたいした道のりではない。簡単な地図を描き、事務所から歌舞伎町二丁目までの行き方をナースチャに教えた。ナースチャはそばに立ってこくこくとうなずいていたが、明らかに様子がおかしかった。しゃくりあげるような息づかいをしているうえ、よく見ると全身が細かく震えている。一方、琥珀の目はぐんと明るさを増し、燃えるような輝きを放っている。
 説明が終わるや否や、ナースチャは地図をつかんで駆け出していった。ロッカー室のほうからばたばたと慌ただしい物音が聞こえた。続いて玄関へ急ぐ靴音。それが止むと、あとにはがらんとした静けさが残された。
「……いったいどうしたっていうんだ」
 美智はしばしあぜんとして、開け放された設計室の扉を見つめた。
 次から次へと疑問がわき、美智の胸をじりじりとさいなんだ。ナースチャは誰からメッセージを受け取ったのだろう? なぜああも感情を高ぶらせていたのか? 東京に来てすでに三か月になるのだ。なんらかの交友関係を持っていて当然かもしれないが……。
 ディスプレイの前に座っていたところで、まったく何一つ手につかなかった。ナースチャがうっかり口走った歌舞伎町の住所が、その街区符号と住居番号が、まだはっきりと耳に残っていた。迷わなければ、歩いて二十分かそこらの距離だ。彼女はもう目的地に近づいているだろう。
 美智はついにコンピュータの電源を落とした。それからすばやく帰り支度を済ませると、スタッフに声をかけ、小走りでオフィスをあとにした。エレベーターの中でマフラーを巻きなおす。腕時計を確かめる。外へ出たとたん、師走の冷たい風がほおに吹きつけた。

 設計事務所が入居するビルの周辺は閑散としていた。それが、新宿西口駅に近づくにつれて雰囲気が変わり、通りは急ににぎやかになってきた。大ガードをくぐると、そこはもう人、人、人だ。超高層建築がそびえる日本有数のビジネス街から、中小の雑居ビルがひしめく東洋一の歓楽街へ。跨道橋を挟んで隣り合う二つの都市空間は、それぞれ東京の昼と夜を代表している。
 美智は靖国通りを渡り、ネオンライトでできた城塞のような歌舞伎町の街区へ入った。町の中にはキャバレーや居酒屋、クラブが途切れることなく立ち並んでいた。さまざまな色、大きさ、字体のネオンサインがけばけばしく灯っている。行き交う人々の姿が影絵のように黒々と浮かび上がる。客引きがあちこちにたむろし、盛んに誘いをかけていた。
 例の住所をめざして表通りから外れると、街路はより狭く、建物はより小さくなった。一棟一棟のビルの前で足を止め、どこかに表示されているはずの住居番号を探した。が、予想に反して表示板は見当たらない。まばゆい電飾と夜闇のコントラストに目がくらみ、そもそも外壁面すらよく見えなかった。
 ――このあたりのはずなんだけど……。ああ、もう、なにやってんだ、私。ばかみたい。
 美智は考えが甘かったと思い知らされた。たとえ住所を知っていても、目的の店の名前がわからなければ、その実際の場所を突き止めるのは難しい。
「ちょっと、さっきからここでなにしてるの?」
 とある裏通りを行ったり来たりしているうちに、そこに立っていた女性二人組に英語で呼び止められた。美智は飛び上がらんばかりに驚き、まごついた。
「と、友達を捜してるんです。彼女とはぐれちゃって」
 背の低いほうの、タバコを指に挟んだ女が、美智を頭のてっぺんから足の先まで眺めまわした。
「彼女? ふーん、あなた、女の子が入り用なの? それともやっぱり男の子?」
「あ、そういう意味じゃなくて……」
 彼らはともに体の線がよくわかる短い服を着て、コートを肩に引っ掛けていた。どう見ても歌舞伎町の客ではなく、客を接待する側の人たちだった。背の高いほうの、髪をサイドテールに結んだ女がくすくす笑う。
 美智がいたたまれずにその場を離れかけた時、出し抜けにすぐ近くで男の声が響いた。
「ナースチャ!!」
 ぎょっとなって声のしたほうを見ると、二つ先のビルからナースチャ本人が飛び出してきた。続いて、「ナースチャ!」と、もう一度男の追いすがる声が聞こえた。ナースチャはつんのめるようにして立ち止まった。
 美智は慌てて道路脇に身を引き、電柱の後ろにぴたりと背中をすり寄せた。幸いにも、先の二人組の女はぺちゃくちゃしゃべりながら向こうへ行ってしまった。おそるおそる顔を振り向け、ナースチャが出てきたとおぼしい店のネオン看板をのぞき見る。そこには青地に白抜きの文字で、「クラブ 烏魯木斉」とあった。
 烏魯木斉……?
 謎めいた四つの漢字の組み合わせ。読み方がまったくわからない、と思ったら、傍らに小さく「ウルムチ」とふりがながついている。美智は首をひねった。ウルムチはたしか、中国の西の端にある都市の名前だ。ということは、これは中国人クラブ?
 ナースチャに目を戻すと、彼女はクラブの入り口に背を向け、狭い通りの真ん中に突っ立ったままだった。頭を垂れ、両手を強く握りしめている。ちょうどそこへ若い男が出てきた。見上げるように背が高く、肩幅も広い男。しかし、いわゆる巨漢というのではない。体が薄く痩せていて、異様なほど長い腕をしている。ぼさぼさの長髪のせいで顔はよく見えないが、おそらくアジア系と思われた。
 男はナースチャに追いつき、肩に手を置こうとした。ナースチャはそれを振り払い、身を絞るようにしてなにか叫んだ。すると男は、彼女を後ろから抱きすくめた。
 男がナースチャの耳元で話しかけている間、美智は身じろぎせず電柱に背中を押しつけていた。まわりは静かではなかったにもかかわらず、彼の言葉が美智の耳にまで届いてきた。妙にキンキンと響く声音。それでいて、一語一語確かめるようなゆっくりした話し方。内容はわからない。たぶんロシア語だ。
 さらにいくばくかの時間が流れた。しびれを切らして美智が次に目をやった時、ナースチャはすでにひとりだった。
 ――あ、あれ? あの男はどこへ?
 そっと首を伸ばして四方を見まわしたが、腕の長い男はまるで夜に溶け入ったようにかき消えていた。ナースチャがふらふらと向こうへ歩いていく。と、通りの奥の暗がりでその背中が見えなくなった。彼女はそこの突き当たりを曲がったらしい。美智は電柱から離れ、急いであとを追った。
 雪がちらちらと舞い始めていた。この冬初めての雪だ。
 ナースチャはホテル街を抜け、小さなオフィスビルや集合住宅が建ち並ぶ地区に入った。人通りがほぼ途絶え、あたりは歌舞伎町の中とは思えないほどひっそりしていた。街灯が舗道の上に明暗のまだらを作り、前を行くナースチャの後ろ姿が浮かんだり消えたりする。その足取りはいかにも頼りなげで、踏みしめるべき地面を失っているかのようだ。
 どこをどう歩いたのか、やがて先のほうに光と喧噪あふれる大通りが見えてきた。方角から判断すると、明治通りのようだ。
 目を疑うようなことが起こったのはその時だった。ナースチャが激しい車の往来を無視してそのまま通りを渡り始めた。信号も横断歩道もないところだ。美智はあっと声をあげ、弾かれたように前へ駆け出した。
 一足遅れてそこに追いついた時、ナースチャはすでに車道の真ん中へ差しかかっていた。ひっきりなしに行き交う車の間に彼女の姿が見え隠れする。
「ナースチャ、危ない!」
 美智が叫ぶのとほとんど同時に、一台の車がナースチャのそばをすれすれに走り過ぎた。彼女が提げたショルダーバッグをドアミラーがかすめたらしい。バッグが引き裂け、その中身が路上に飛び散った。けたたましいクラクションが立て続けに鳴り響く。ヘッドライトの光芒の中でナースチャがよろめき、その拍子にふらりと後ろを振り返った。
 美智は息をのんだ。粉雪の舞う道路に立ちつくしたナースチャと、ほんの一瞬だけ目が合った。その顔は冷たく青ざめ、涙が両のほおを伝い落ちていた。 

次回へつづく


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