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人類における冬眠を妄想してみる

ある中国のSF小説で冬眠の考えが出てきて、自分の考えを色々巡らせてみたら面白かったのでまとめてみることにした

冬眠とタイムリープの簡単な違い

「今もなお施設で眠っている」と「すでに未来にいってしまっている」違いはあるが、実質的に大きな差はない。ただ一部異なるため、記事中に触れる。
どの程度長く冬眠するかによるが、今回は100年以上の冬眠を想定して色々考える 。


空間と時間の心理的隔たりの等価

地理的に離れた人に対する心理的な隔たりと、時間的に離れた人に対するそれが小さくなることで、長期的な視点を今以上に意識するようになるかもしれない。例えば、自分の友人は今の時代のエジプトに住んでいて、もう一人の友人は冬眠して2100年に住むケースだと、時空の差異はあり、どちらも遠い距離にはあるが、どちらも大事な存在に変わりはない。
このように考えることで、将来世代や環境への影響を、空間/地理的に考えている時と同様に考え行動するようになったり、自身は何を後世に遺すかを意識するようになる。加えて、自身も未来にリープする可能性が少しでもある場合、未来をより良いものにしていく動機が生まれる。

また、冬眠は現在進行形で未来に向かう人々がいる/可視化されるため、タイムリープよりも現在と未来の繋がりが、より身近なものとして意識されるかもしれない。


権利の拡張

冬眠先では、富裕層も含む現世の人が決して享受できないようなものがアクセスできる。当然、現世の人は現代の技術の範囲内のものしかアクセスができない。
数百年先にリープした場合、「冬眠してきた人」と「未来の一般住人」とのその時点での格差は、もしかしたら現代の「億万長者」と「発展途上の貧困層」以上のものかもしれない。そこまでではないにしろ、それに近い格差分があるとした場合、冬眠することはその差分のアクセスができる権利を手にすることと等しい。
そのため、仮に一部の人しか冬眠にアクセスできないとすると、それはかなりの不平等と言えるかもしれない。加えて、現代の課題などを現世の人に押し付けて、自分だけそれらが解決されうる世界に行くことになるので、現世の人にとってはセコさを感じられるかもしれない。

ただ、冬眠することが正当なケースがある。例えば、現世の難病患者が同意のもとで冬眠をし、未来の病院に運ばれることでその病気を治すことができるかもしれない。
これは「特定の病気が理由で、その時代の社会にいると病魔からの迫害を受けるために未来に逃れる」と捉えると時間軸における難民と見ることができ、正当性がある。

あまり関係ないが、今はメガネがあるため視力が悪くても生活への支障は少ない。しかし、数百年前に偶然生まれ落ち、視力が悪かったとしたら、それは致命的な支障だったかもしれない。結局、障がいはその時代の社会によって規定される相対的なものなんやなと思った。
そんで今の自分は依存先(仕組みや法、人間関係、機関などなど)が複数存在し、分散的に依存しまくることで、結果としてあたかも自立をしているように見えるだけなんだろうなと。土台がなければ自分で立つことはできない。現世に生きるための十分な土台がないとするのであれば、冬眠を用いて生まれる時代を選び直す権利ぐらいはあってもいいのかもしれない。いつだって人生はやり直せるというのであれば尚更

年齢と年功序列

現代から未来に移住/越境してきた人は、基本的に未来の住民より先祖にあたるが、必ずしも越境した人の年齢の方が上というわけではない。
また能力においては、未来にもともと居住しているネイティブ層の方がその社会にFitしているため、その社会で必要とされるスキルは未来人の方が高いであろう(自動化で人間の能力的価値はもはや不要な時代かもしれない。もしくは、多様性の枠組みの拡張により、能力で判断する時代は終わっているかもしれないが)
加えて、今現在でも現代にそぐわない過去(たった数十年程度)の価値観は批判されることが多い。そのため100~200年差が開くと価値観が根本的に異なり、現代の人が当たり前と認識していることは、未来の住人からは人道に反する行為として認識されているかもしれない(例えば、奴隷制度、戦争、温暖化、労働、家畜。最後の例は、人工/代替肉が完全に普及し、動物との意思疎通が翻訳を通して可能な社会においても継続している場合など。他の細かい例では、チョコの消費による児童労働の加担があるが、これは現状でもすでにアウトだろう)

上記から、年齢そのものは意味を持たなくなり、ただの数値として認識されるようになるかもしれない。仮に冬眠した期間を年齢に加算した場合、見た目が10代の200歳なども存在しうることになる。もちろん、歴史の教科書に載るような過去の偉人が現代まで越境してきたり、未来では廃れてしまった概念の話が聞けるというのは貴重ではあるが。




多様性

国籍/人種/性別などが多様性の枠組みに現状入っているが、そこに時代を含めることができるのかどうか

現在の多様性の枠組みに入っているものは、時代性を共有しているため、どれも価値観が近い。いわば同期同士。一方、時代が異なる人は価値観が相反している可能性がある。
現状では先程述べた通り、数十年前の価値観の一部が徹底的に批判され、辞職や追放などがされている。そのため、未来の価値観では罪とされる人々を、遡及的に罰しないとはしても、社会的に受け入れることが可能なのか。

相反し過ぎて共存が難しい場合、未来社会との関わりを持たない代わりに、保護対象として当時の価値観を基準とした生活を尊重されるのか。例えば、石器時代的な生活を営んでいるとされる北センチネル島の民族は、現代社会との交流を拒んでいるがインドの法によって保護されている


人生リセット効果

空間や人間関係、身体性をリセット(initialization)することで新たな人生を歩む話はよくある。例として、転校、留学、移住、転職、大学/社会人デビュー、裏アカ、整形、VRバ美肉などがある。

冬眠も時代を越境することで人生リセットの効果がある。これは、人間関係がリセットされ、土地が変化/消滅する意味で空間もほぼリセットされるため(身体性においては、未来では肉体的な身体というより、複数のアバター的な身体性がメインかもしれない。知らんけど)

冬眠以外のリセット方法では、同じ時間を有しているため、空間や人間関係がそこに存在しており、それらとコミュニケーションをとることがまだ可能である。一方、冬眠による越境は時代を共有していないため、過去に対してリアルタイムでコミュニケーションを取る手段はないし、過去に戻ることもできない。ここから、冬眠はあらゆる要素がリセットされる点で、他の手法よりリセット度合と不確実性が非常に高いことがわかる。

冬眠にアクセスする権利がどのようにして与えられるかを抜きにし、どのような人がアクセスしやすいかを考えると、現世にしがらみがない/人生に希望をあまり見いだせない人(通称、無敵の人)ほど不確実のリスクが伴う冬眠に抵抗がないと思われる。一方で、現世にoverfitした人、つまり帰る故郷や現在の街並みなどの空間を愛していたり、人間関係/共同体/権力にどっぷり浸かっている社会資本の高い人は決別コストが非常に高いので、不確実な未来に踏み切ろうとはしないだろう(そういう人は土台が安定してかつ幸せなのでそもそも人生リセットする動機がないが)

例外として、未来の社会が脳と記憶を並列化され、自身の過去の経験や性質が一瞬で共有される世界であれば、リセットは難しそう。


島流しと未来流し

死刑の次に重い罰として、かつては島流し、現代では無期懲役/終身刑があり、どちらも空間的追放/断絶と捉えることができる。そこで、未来流しという時間的追放は罰になりうるかが気になった。

未来流しの性質として、現世との時間的隔たりが長いほど不確実性が大きくなる。例えば、途中の社会が豊かな時代であれば冬眠は続けられるが、冬眠を維持できない危機的状況な社会である場合、そのタイミングで起こされてしまうかもしれない。もしくは何かしらの被害/攻撃でそのまま人生終了してしまう可能性もある。仮に問題なく指定の時代に冬眠が終わったとしても、未来の住民との能力含む何かしらの格差が時間の分だけ大きく生じる。そもそも、目覚めた先の社会が悲惨な時代かもしれない。

また、人によって未来流しの印象が異なる。先ほど述べた、現世の空間や共同体との情緒的繋がりが大きい人にとっては、その世界から追放されるため重い罪となりうる。一方で人生リセット目当ての人は、むしろ罪と捉えないであろう。現代においては、死刑目当てで事件を起こす話もある。

実際のところ、冬眠の時間が長いほど、金銭コストも大きくなるであろうというのと、権利の拡張の話から、現代の人がアクセスできない権利や価値を犯罪者が享受してしまう点で罰とは言えないかもしれない。

話がそれるが、現世で犯罪をしたが、その事実が冬眠中にわかった場合どうなるかが気になる。数百年冬眠したら、時効とされるのか、未来の法律で裁かれるのか。はたまた、未来では犯罪ではなく、(むしろ革命的と判断され、)英雄視される行動かもしれない。もしくは、判明した時点で叩き起こされるかもしれない。
そもそも、冬眠前に普通はバレて捕まると思うのでそんなこと起きない気はするけれど

追記:アイヒマンと冬眠と犯罪

「イェルサレムのアイヒマン」を飛ばし読みした際のメモ

  • 勝者の法廷で、遡及的に罰することが許容されるケースが存在するということ

  • そして本来は、国のようなより大きな組織そのものが裁かれるべきではあるものの、歴史にケリをつける意味合いで、それよりもっと小さな単位(≒ 特定個人)を裁くケースが存在するということ(この主張は注意が必要かも)

  • 上記に関連して、単なる殺人というよりかは、特定民族に対するジェノサイドの類

  • アイヒマンは戦後10年以上経過してから拉致されて、イスラエルの法廷で裁かれた

  • 裁判において、歯車論(≒ 必要性)は情状にしかならない。例えば、窃盗犯の経済的苦境は勘酌されるものの罪自体が不問にされることはない。

  • 「人道に対する罪」と「人類に対する罪」が存在する。

    • 捕虜虐待や人質の射殺というような戦時の残虐行為は人道に対する罪であって、人類に対する罪ではないとのこと。

    • ある人種、民族、人間集団の存在を全体として否定すること、否定する権利が自分にあると思い上がることは、人類に対する罪に該当するとのこと。

    • アーレントによると、あらゆる情状酌量があろうとも、この「人類に対する罪」という一点において、妥協の余地なく死刑になるとのこと。

転用

  • 今の我々が冬眠した際、今の我々にとっては合法なことだったとしても、未来では裁かれうること。

  • その際に弁明をするということは、アイヒマンと同じ状況に陥るということ。

  • 例えば、架空に近い話にはなるものの、以下を許容すべきなのか

    • 「技術が発展した世界において、動物に対して、人間と同等レベルの知能と権利を与えるべきかどうか」

  • 道徳的には上記を認めるべきである。しかし、結果として人類そのものがアイヒマン状態になりうるのではないか。

    • 「食肉に対して異議を持つか、食肉をしなくても生存できる社会を推進しなかったこと」という事実に対して、多くの我々はどのように弁明できるのか。

    • 上記の事実に対して、「生存/栄養的な観点で食肉には必要性があった」と反論することはズレている。また、アイヒマンと同等の主張に陥っている。

    • 特定の種族(豚や牛)を対象としているため、性質としてジェノサイドに近い。

  • そのほか、環境問題やカカオの児童労働などは具体的な話の展開は異なるものの、性質として近い。

  • 現代では裁けない人を拉致して冬眠させて、現代ではまだ存在していない、未来の法廷で裁くというのは、あまり現実的ではない。理由は以下。

    • 基本的には、冬眠は対象者の同意のもと行われるはずであるため。
      (個人主義が重視される前提)

    • 「未来で裁いてもらう」ということは、現時点で犯罪とみなしていることとほぼ同義。また、冬眠させること自体が一種の罰則になっている。

おしまい


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