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「水の中の八月」と、ふしぎなふしぎな1995年、1996年 — 九州をまわる・番外編 —
1995年、この「大変な年」、僕は代々木上原に居を構えておりました。
朝、仕事場に向かう道すがら、当時駅下のコンコースにあったミスター・ドーナッツの店内に、天本英世さんのお姿をよくお見かけしたことを懐かしく思い出します。
1995年の「水の中の八月」という石井聰亙(岳龍)監督作品にも、天本さんは出演なさっておりましたが
「甘い幸せな生活(1996年)」を書いていたときには、そのことを存じ上げなかったと思います。
「水の中の八月」は映画館ではなく、ビデオを借りて拝見したと記憶していて、ビデオが出たのは「甘い幸せな生活」を書き上げた後であるからです。
にもかかわらず、
にもかかわらず、
「本質」の表現方法において、
そのイメージにおいて、
この二作品が非常に似通っていることに驚くのです。
このイメージを追っていくと映像化された(或いは映像化の元になった)『系図 ―若い人たちのための音楽詩―(1996年)』という作品をも引き寄せてくることになります。(なんなら「新世紀エヴァンゲリオン(1995年)」もその列に加えることも可能かと思われます)
何故、この時期、同じような「本質を巡る表現方法の類似」が、みられたのでしょうか。
この問題を「意味付けされない偶然(出鱈目の設定≒いわゆる科学的態度」
であるとか
「神の差配(超越者の存在を設定)≒宗教」であるとかいった安易な
思考の放棄
をせず、
ロジカル(論理的)に、
そして極限に於いてレンマ的に思考していくことが、
これからの時代は求められるのです。
そうしてその始まりは
その始まりこそ「あおいのきせき」の知見と、
(with)「非あおいのきせきの知見≒音義」
によるのです。
下のニュースに接したのを機会にこのブログをアップいたしました。
監督が1995年に撮られた映画は、五感と、それを超えた何かを「見せよう」として下さった意欲作でした。真夏の思春期の倦怠感を直に感じることの出来る、優れてリリカルな恐怖とも言うべき作品は、九州の力を結集して、石井監督をはじめ、みなさんで作り上げた感があって、畏れと希望を描いた、とてもとても魅力的な映画に仕上がっています。
そうして、本質(「√-i」にも例え得る「何か」)
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を、きれいに指さしていて。。。博多の言葉がとても心地良い。
しかし、「僕」はどうして個人の経験にまったく還元不可能な九州や京都にこれほど惹かれるのでしょうか。
ところで、つい先だって、お目出度いニュースがありました。
「水の中の八月」キャスト 葉月洋:戸田菜穂さん。
弟はシンガーソングライターで歯科医師の戸田康平[5]。
戸田康平
「セピアの海」(編曲)
「照らされる場所」(編曲)
コ、インシデンス。偶然の共時性