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死にたくない、死んだら困る、ということを真剣に思ったことは一度しかありません。ありませんでした。

2002年の夏から秋にかけての一度きり、「あおいのきせき」を書いていた、或いは「書かされていた」ときのことです。

昼夜の境なく書く事に没頭していて、真夜中の突然の雷雨の中、書き終わって、所謂「現実世界」に「戻って」くるのにまるまる3日掛かりました。

気がつくと明るくて、ああ朝だと思って、気絶するように「意識を失って」覚えているのはシャッターを上げ下げする「ジャー」という音が連続してよく聞こえたことです。あれは、なんの音だったのでしょうか。

以前にも書かせて頂きましたが、

「書き終わって」「意識が戻って」くると、全部の記憶はないし、短期記憶も保てなくなっていました。

椅子に座っていると気付きます。慌てて立ち上がります。その瞬間、全てを忘れます。そして椅子に座っていると気付く。立ち上がった刹那、記憶がとびます。

この状態から脱出するために太陽は三度沈み、そして登りました。

A = A + 非A + Aと非Aの境界

という知見は、命がけで持ち帰って「記録」したものです。

その価値と意味(指示される何かについて)は痛いほど「分かりました」から「あおいのきせき」という「小説」を書き終えるまで、死んだら絶対に困る、と思ったのです。

例えば、この知見を自然法則に応用した結果、「物質世界(所謂この宇宙)」は「ブラックホール」で「意識」と繋がることが「言葉(ロジック)」によって「分かる」と相成ったわけです。

以下、是非ご覧下さい。世界中に衆知が至る前に「こっそり」と。いまなら、これを知るあなたは「特権階級」です。

或いは知見が理解できないのも宜なるかな。すべての「あたりまえ(無意識に採用している論理の前提を含む)」をひっくり返す世界認識ですから今お持ちの「当たり前」をさて置くことが出来なければ、理を排して感情により否定するしかないでしょう。

或いは理で分かる、からこそ自らの偽りを死守するために、全人類の幸福を「生け贄」として、この知見を排するか。

「ことわり(普遍)」は此方にございます故。

愛やら仏やら神やらの素晴らしい事を語りながら、隠蔽迫害脅迫剽窃工作と言う暴力に然といそしむ(んだ)皆様方。 

すべてが明らかになった折の処し方をよくよくお考えくださいませ。

是非。

この20年間に失われたものの価値は計り知れない膨大なものです。

繰り返しますが、大変な機会損失の被害者は、全人類なのです。

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