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日本に「民党」による政権を~「大正デモクラシー」原敬内閣に学ぶ~


 目次

 序 

.原敬が首相になるまで
(1) 首相を決めるのに、民意や世論の影響、政党の影響が強まっていく
(2)政党の役割が「政権の支持」から「政権の担当」に

.原敬内閣の政策
(1)四大政策:教育振興、交通インフラ整備、国防充実、産業貿易振興
(2)積極主義=地域振興、内需拡大
(3)積極主義と国際協調主義
(4)社会政策

4.原敬の政治手法
(1)イギリス型議院内閣制
(2)政党政治の確立
(3)民主化~選挙の大切さ

5.民意や世論を尊重する近代日本の伝統
(1)近代日本における民意や世論の尊重
(2)民意や世論の質の高さ
ー「学びのネットワーク」、「学びによる近代化」
(3)日本国民の豊かな国民感情

6.今日の日本政治における、民意尊重の復権と「民党」の復活
(1)「民党」どうしの「政権交代可能な二大政党制」へ
(2)「令和の自由民権運動」

 2021年は、原敬の没後100年でした。岩手県出身で、「日本初の本格的政党内閣」を設立した、「平民宰相 原敬」。私は、講演依頼やコメントの機会があり、改めて、原敬について、いろいろ調べました。

 明治・大正の日本政治は、「戦前」という枠の中に入れられ、軍国主義に邁進して破滅する「黒歴史」のようなイメージがあると思います。しかし、原敬の時代、「大正デモクラシー」の時代までは、かなりの程度、民主化が進みました。局面によっては、今日の日本政治よりも、自由で、民主的だったということに、気づきました。明治憲法下でも、運用を工夫すれば、民主主義が可能だったのです。

 原敬内閣の成立(1918年、大正7年)は、明治維新(1868年)からちょうど50年かけて、「大正デモクラシー」という民主主義の花を咲かせた、近代日本の快挙です。

 明治のリーダーたちは、はじめのうちはドイツ=プロイセン流の君主制を目指しますが、やがて、より民主的な、イギリス流の議院内閣制に向かいます。原敬内閣設立後は、軍国主義化までの短期間ですが、「政権交代可能な二大政党制」にまで到達しました。明治のリーダーたちは、民意や世論を尊重し、選挙の結果を尊重しました。選挙で国民に政策を問い、選挙で国民の信任を得て、国民のための政策を実行しようとしました。その姿勢は、今日の日本政治よりも民主的ではないか、と思わせるほどです。

 重要なのが、政党のあり方です。明治の初め、自由民権運動から生まれた「民党」と、藩閥政府を代弁する「吏党」がありましたが、伊藤博文が民党に合流するなど、民党を基盤とする内閣(イギリス流の議院内閣制)が志向されるようになり、吏党だった側も、民衆を基盤とする民党を志向するようになりました。

 「大正デモクラシー」が到達した「政権交代可能な二大政党制」は、民党と民党の二大政党制です。今日の日本の政権党は、果たして民党でしょうか、それとも吏党でしょうか。また、今日の日本の野党は、民党としての政権奪取を目指しているのでしょうか、それとも吏党としての与党になりたがっているのでしょうか。

 日本政治が、致命的に劣化しているのではないかと感じさせられる今日、あるべき姿は、実は、過去にあるのではないかと思うのです。それでは、明治のはじめから原敬が首相になるまで、政府が民意や世論を尊重し、政党の影響が強まっていく過程をたどりましょう。

  1.原敬が首相になるまで

 (1) 首相を決めるのに、民意や世論の影響、政党の影響が強まっていく

 明治維新後、首相は、まず、薩長藩閥のリーダーから選ばれ、やがて、元老の指名で決まるようになりました。元老というのは、首相を経験したような大物政治家です。

 第1代:伊藤博文(長州)、第2代:黒田清隆(薩摩)、第3代:山県有朋(長州)、第4代:松方正義(薩摩)、と始まった首相ですが、その後、人材はそれほど豊富ではなく、以上の4人から再登板していきます。

 例外が第8代(重複を1人と数えれば5人目):大隈重信で、大隈率いる進歩党と板垣退助の自由党が合流した、憲政党を基盤とする内閣ですが、4カ月で瓦解します。政党政治は未熟でした。

 その後、藩閥系のニューリーダー桂太郎(長州)と、自由党の発展形である政友会の総裁、西園寺公望(公家)が、交代で首相となる「桂園時代」が到来します。政党の力が無視できなくなってきました。

 桂も立憲同志会を作って、政党を基盤にしようとします。まずは取り巻きで吏党を作り、民衆の支持を得て、民党に育てていこうとしたわけですが、世論は桂を藩閥代表、元老の言いなりと見て、むしろ大反発。大規模な反政府運動、民主化運動である、「第一次護憲運動」が起き、桂内閣は退陣します。「大正政変」です。

 その後、薩摩出身で海軍の山本権兵衛内閣ができますが、シーメンス事件(海軍汚職事件)で退陣となります。元老筆頭の山県有朋は、苦し紛れで大隈重信を再登板させます。大隈が持つ政党(民党)政治のイメージを利用しつつ、山県系官僚、同志会、中正会の尾崎行雄らが構成する、吏党色が満々の、非政友会内閣です。この内閣は、政策面と選挙汚職で行き詰まります。

 山県子飼いの長州・陸軍出身、寺内正毅が組閣しますが、世論の批判にさらされる中、「是々非々」を唱える原敬・政友会に接近し、民党である政友会に支えられて、なんとか内閣を維持します。しかし、シベリア出兵と米騒動で行き詰まります。

 ここに来て、ついに、山県有朋が観念して、首相は原敬しかいない、となります。

 (2)政党の役割が「政権の支持」から「政権の担当」に

 国会開設当初、自由民権運動の流れをくむ政党は、反政府的であり、「民党」と呼ばれました。民党に対抗して、政府側の政党が作られ、「吏党」と呼ばれました。

 二つの代表的な民党、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が、合同して憲政党になり、伊藤博文首相から政権を移譲されたことがありましたが、伊藤は、政権がすぐに倒れると見越していました。案の定、4か月で崩壊します。

 初めからバラバラ気味で不安定だったのですが、星亨ら旧自由党系が純化路線を決断し、外された旧進歩党系が憲政本党を名乗って、憲政党と憲政本党に分裂します。駐米公使になっていた星亨が急遽帰国して、電撃的に政局を仕切りました。

 やがて伊藤博文は、旧自由党系に純化した憲政党と組んで、立憲政友会を結党し、これを基盤に第4次伊藤内閣が成立しました。その時、原敬は幹事長。伊藤系官僚が幅を利かせ、藩閥色が強い内閣が、政友会に支えられた形でした。まだ、本格的な政党内閣とは言えません。

 それに続く桂太郎内閣で、日露戦争になります。日本が国力をふりしぼったギリギリの戦いで、序盤戦に勝利を重ねますが、これ以上やるとロシアが盛り返してくるだろう、というタイミングで、アメリカの仲介で停戦、講和会議となります。

 ロシアも日本の足元を見ているので、日本国民が期待していた巨額の賠償金は、講和条約に盛り込まれませんでした。国民は「日比谷焼き討ち事件」などで抗議の意を示します。

 これに対し、桂太郎は、国民の不満を自分の内閣で受け止めて、責任を取る形で内閣総辞職し、事後処理を西園寺内閣に譲るという、大人の対応をします。それに合意し、桂の影響力は残る形で政権交代を引き受けた、西園寺も大人の対応でした。戦争でいきり立つ国民感情に、ある程度寄り添い、いなしながら、沈静化を図るという政権交代。そのような政権交代もあるのだ、日本史上、実際にあったのだということは、デモクラシーの成熟度として、自慢して良いと思います。

 第2次桂内閣、第2次西園寺内閣と続き、第3次桂内閣で「大正政変」が起きて、「桂園時代」が終わります。この間、政友会が力をつけ、原敬も、内務大臣を経験するなどして力をつけ、政友会のナンバーツーになります。

 その後、元老・山県有朋は本格的な政党内閣を避けようとして四苦八苦し、山本、大隈、寺内内閣と作っていきますが、結局観念して、日本初の本格的政党内閣、原敬・政友会の内閣が成立します。

 2.原敬内閣の政策

 
選挙で国民の信任を得て、国民のための政策を実行しようとした、「日本初の本格的政党内閣」である原敬内閣の、政策を見てみましょう。

 (1)四大政策:教育振興、交通インフラ整備、国防充実、産業貿易振興

  原敬・政友会は四大政策をまとめており、原敬内閣の最初の議会で、「四大政綱」として発表し、実行に着手しました。

 第一に、教育振興です。私学を、専門学校から大学に「格上げ」しました。慶応、早稲田、明治、法政、中央、日本、国学院、同志社が大学になりました。官立学校も、高等学校10、実業専門学校17、専門学校2、増設されました。

 第二に、交通インフラ整備。鉄道が中心です。線路の幅について、狭軌(今の日本のJR在来線の幅)か広軌(日本の新幹線の幅)かで論争があり、岩手県出身の後藤新平が広軌派で、原敬・政友会は狭軌派でした。

 第三に、国防の充実。第一次世界大戦から、総力戦体制や航空部隊の必要性を学んだ日本でしたが、急な軍拡ではなく、時間をかけて、バランスよく整備することとしていました。

 これは、陸軍大臣・田中義一(長州・陸軍)の理解と支持のたまもの、と言えるでしょう。田中義一は、かつては陸軍官僚として「二個師団増設問題」で軍拡を強硬に主張して、内閣を退陣させたこともありましたが、原敬と肝胆相照らす仲となり、国民理解を得ながら、政治的現実の中で、軍備充実を図る、軍人政治家となっていました。

 ちなみに、「二個師団増設問題」は、明治後期から大正初期の、日本政治上、最大の論点のひとつです。軍は軍拡を主張しますが、国民に負担を強いるので、政治家は賛成と反対に分かれます。賛否両論が国会内外で交わされ、拙速が避けられ、時間をかけた議論の末に、結局実現と決まりますが、今日の防衛費倍増の決定過程に比べて、提案と議論の具体性、議論への時間のかけ方など、明治・大正の方が優れていたと感じます。

 原敬没後100年を機に、私は「原敬日記」全巻を入手し、半分くらい、読みました。日記中、原敬が田中義一と会見を重ねて、相互理解を深めていく過程を見つけましたが、その二人の間を取り持った政治家、衆議院議員・小泉策太郎の存在を、初めて知りました。ちょっと脱線しますが、原敬・田中義一の友好関係を作り、原敬内閣が軍部を抑えることに貢献した、小泉策太郎の役割は大変重要ですし、面白い人物なので、紹介します。

 小泉策太郎は、政友会の衆議院議員として長く務めますが、若いころは、あの、「大逆事件」で無実の罪で処刑された社会主義者・共産主義者、幸徳秋水の親友でした。同じ新聞社で働いたことがあり、意気投合して、幸徳秋水処刑後は、遺族の面倒を見たそうです。

 そして小泉策太郎は、今で言う歴史小説家、当時の「史伝作家」でした。それがまた、「明智光秀」や「由井正雪」など、当時は大悪人とみなされていた人物を取り上げて、実は悪人ではなかった、という主題で描いていました。

 原敬死後、小泉策太郎は政友会総裁を継いだ高橋是清を説得し、貴族議員を辞めさせて、平民として衆議院議員選挙に立候補させます。その選挙区が盛岡市選挙区でした。また、田中義一が政友会の総裁として内閣総理大臣になることを助けます。面白い政治家です。

 話を元に戻して、原敬・政友会の「四大政策」、第四は産業貿易の振興です。特に地方の経済振興に力を入れます。これは、内需拡大による、植民地に頼らない、経済成長の路線であり、国際協調に通じ、グローバルな貿易振興の基盤になるやり方です。第一から第三までの、教育、交通インフラ、バランスの良い国防は、この、地方からの産業振興を支えるものでもあり、これが国民の願いでもあったと言えるでしょう。

 (2)積極主義=地域振興、内需拡大

 原敬・政友会は、「積極主義」をスローガンにしていました。その概要は、積極的な財政出動で、地域振興と内需拡大を進めるというものです。

 原敬は、若いころから地方視察が好きでした。新聞記者時代に東日本を回り、若手官僚時代に西日本を回っています。日本各地を見ることが好き、各地の民情や産業を知ることが好き、というのは、日本が好き、日本国民が好き、ということだと思います。1920年に、原敬内閣で第1回「国勢調査」が行われます。

 (3)積極主義と国際協調主義

 「積極主義」は、植民地に頼らない経済成長路線で、「国際協調主義」とセットです。

 鉄道の狭軌・広軌論争ですが、広軌は、実は植民地主義になじみます。後藤新平の広軌論は、満州鉄道も朝鮮の鉄道も広軌なのだから、日本の太平洋ベルト地帯に広軌を通して、中国大陸、朝鮮半島、日本列島を通じて、人や物を大量に輸送できるようにすべき、というビジョンでした。植民地開発と連動した国内開発論です。

 狭軌の方が、同じ予算で、鉄道をより長くより早く作ることができます。これを、日本国内、隅から隅まで張り巡らし、地域経済を振興し、地域社会を発展させるのが優先で、地方経済から日本経済を発展させようというのが、原敬・政友会の狭軌論です。

 原敬首相の国際協調主義がいかんなく発揮される、外交政策を見てみましょう。日本統治下にあった朝鮮では、第一次世界大戦後に高まった「民族自決」主義の影響を受け、1919年3月1に、「三一運動」という民族運動が起きて、朝鮮総督府に対する反抗が強まります。原敬首相は、岩手県出身の斎藤実(海軍)を総督として派遣し、それまでの陸軍軍人総督による「武断政治」から、「文化政治」に転換します。

 中国では、第一次世界大戦中に、日本が中国に広範な権益を認めさせようとして、「対華二十一か条要求」を突き付けていました。これに元々反対だった原敬首相は、対中融和に舵を切り替え、中国に権益を有する欧米諸国とも協調を図りました。

 アメリカとの関係では、対米協調路線です。1908年に、見聞を広めるため米欧に旅行し、初めてアメリカも訪問していました。アメリカが、海軍軍縮と第一次世界大戦後のアジア太平洋の国際秩序をテーマに、ワシントン会議を呼びかけると、積極姿勢で代表団を派遣しました。

 原敬首相は、皇太子(昭和天皇)に、イギリスを中心とした訪欧を推奨し、実現に動きます。天皇や皇太子は日本から出るべきでない、という反対意見や慎重意見もありました。決行されると、イギリスはじめ各国は大歓迎。皇太子にとっても貴重な経験となり、日本にとって大成功の訪欧となりました。

 なかなか終わらない第一次世界大戦、日本もドイツの植民地だった山東半島や南洋諸島に出兵していましたが、国民には厭(えん)戦気分が広がり、国民はシベリア出兵にも消極的でした。国際連盟設立という国際秩序の変化もあって、当時、国際協調が国民の願いでした。

 このように、国際協調主義の保守政治家や保守政党がありえる、というのも、原敬内閣時代の教訓でしょう。国際協調や平和は左翼の主張で、保守は対外強硬が当然、というわけではないのです。

 ちなみに、アメリカでは、保守的な共和党の方よりも、リベラルな民主党の方が、国際関係における原理原則に厳しく、戦争を決断しやすい傾向があります。共和党は自国の経済的利益に敏感で、戦争にはお金を使いたがらない傾向がありました。ただし9.11テロ以降、原理主義的な主張をする「ネオコン(新保守主義者)」が保守の中に台頭し、共和党が好戦的になってしまいました。

 (4)社会政策

 原敬内閣時代(1918~1921)に、日本の労働運動が形になってきました。日本の第1回メーデーが1920年。1919年に大日本労働総同盟友愛会が結成され、1921年に日本労働総同盟に改称されます。

 この間、政府では、1920年、内務省に社会局、農商務省に労働課を設置し、労働問題対策など、社会政策に取り組み始めました。1921年に借地法、借家法、住宅組合法、職業紹介所法が成立します。

 しかし、こうした政府の動きは、労働運動や左派運動の急拡大に対して、台頭する左派勢力からすれば、物足りないものでした。「普選問題」と合わせて、強く批判されます。

 このころイギリスの首相だったロイド=ジョージは、すでにイギリスで発展していた労働組合から支持を得て、「ピープルズ・チャンピオン(人民の王者)」と呼ばれていました。社会政策の分野は、同時代の欧米に比べ、日本では国民の側も政治家の側も未発達でした。労働組合と原敬が、いろいろやりとりする時間が十分にあれば、力を合わせて必要な社会政策を実現することができたかもしれません。

 ロイド=ジョージは、同じ自由党の前首相アスキスと第一次世界大戦の戦争指導で対立してしまい、戦後、イギリスの自由党は分裂して弱くなり、労働党が自由党に替わって、保守党との二大政党制の一翼となりました。もし、自由党が強いままでいて、ロイド=ジョージのリーダーシップの下、労働組合も代表する政党になっていれば、労働党が育たず、今でも自由党が二大政党制の一翼だったかもしれません。アメリカでは、民主党が労働組合も代表するようになっていて、イギリスの労働党のような、労働組合の自前の政党はありませんので、イギリスでもそうなることがあり得たかもしれません。

 原敬が、十分長生きしていれば、政友会が労働組合も代表する政党となり、リベラル保守から左派までの広がりがある政党になっていた可能性があると思います。

 4.原敬の政治手法

 政策の次は、政治手法について、原敬・政友会、原敬内閣の特徴を見てみましょう。

 (1) イギリス型議院内閣制

 原敬は、伊藤博文、陸奥宗光、星亨の系譜を受け継ぎ、選挙で第一党となった政党が与党となり、その党首が首相となって内閣を組織する、イギリス型議院内閣制を目指しました。

(2) 政党政治の確立

 それは、衆議院議員議員の選挙で首相を決められる仕組みをめざした、ということでもあります。藩閥や元老が首相を決めるのではなく、選挙の結果に従おうということです。

 ちなみに、日本では、乱闘や違反はあっても、選挙の結果は厳に尊重されてきました。これは、現代でも、選挙の結果が望ましくない場合に、選挙を無効にする専制政治の国が存在することを考えると、特記すべきことです。近代デモクラシーの源、米国でさえ、トランプ大統領が大統領選で落選した時に、トランプ氏が選挙の無効を訴え、支持者が連邦議会議事堂に討ち入り、狼藉を働く事件がありました。

 なお、日本においては、乱闘や違反も、第1回選挙では無かったとのことで、第2回で政府側が選挙介入を仕掛け、その後再発するようになったものです。

 イギリス型議院内閣制には、機能する政党組織が不可欠ですが、原敬は政党組織作りにも励みました。今日の自由民主党の、政策調査会、総務会、総裁という機関や役職名は、原敬時代の政友会のものを踏襲しています。

 (3)民主化~選挙の大切さ

  原敬の政治は、民主化の政治でもあり、そこでは選挙が決定的に重要になります。

  原敬内閣時代に、「普選問題」が大きな政治課題になりました。普選とは、男子普通選挙のことで、納税額の多い男子に選挙権を限るのではなく、全ての成年男子が選挙権を持つ、ということです。山県有朋は、普選は革命をもたらす可能性があるとして、大変恐れていました。

 原敬首相は、普選問題には、漸進的対応(無理をせず順を追って進む)を基本としました。

 1919年に、選挙法が改正され、選挙権の納税要件を10円から3円に引き下げられました。有権者数は、約2倍になりました。これに対し、野党・憲政会と国民党は、納税要件2円への引き下げを主張していました。

 1920年、野党が「男子普通選挙法案」を提出しました。前年、納税要件2円への引き下げという、普選すなわち納税要件撤廃とは違う主張をしていたのに、成立した法律が未だ実行されないうちに普選法案を出すのは、筋が通らない所があります。また、仮に普選にすれば、有権者数は一気に10倍に増えるということで、かなり急進的な案です。

 これに対し、原敬内閣は、野党が提案した普選法案の是非を争点に、解散総選挙を行いました。1919年の選挙法改正をふまえた、納税要件3円での選挙です。

 普選論者は原敬・政友会を攻撃し、新聞各紙も普選論に賛成して原敬・政友会を批判しました。結果は、政友会の大勝でしたが、原敬首相と政友会に対して、強権批判が強まりました。

 それでは、原敬自身は、どのような選挙を行っていたのでしょうか。

 原敬の初めての選挙は、1902年で、岩手県の盛岡市選挙区でした。当時、有権者は316人で、175票を獲得して当選。一騎打ちで次点になった相手は、清岡等・前盛岡市長で、95票でした。

 原敬は、政談演説会での演説を、直ちに「演説速記」として印刷し、配布するという、独自のメディア戦術を展開します。演説の内容は、国際情勢、立憲政治の発展、地方産業の発展、国民及び国会議員の心構え、等。個別具体的な利益誘導の話はせず、むしろ、地域の発展のためには自立心が必要、と説きました。

 選挙後の有志大懇親会でも、「国家の公事を諸君に訴へなければならぬ、決して一地方の利害を諸君に訴ふべき場合ではないから、政見発表に関しては、私はこの地方に限った問題は一言も申して居らぬのである」と述べています。

 原敬が、政友会の選挙を仕切る際も、利益誘導的な主張を戒めています。松田正久という、党人派で、原敬と並ぶ政友会ツートップの一人も、同様でした。

 なお、最初の選挙の時に「原さん」の呼称が定着し、大臣経験者なのに親しみやすいと評判になりました。

 政友会という政党のリーダーとしては、選挙対策全般で尽力しました。政策の組み立て、演説会の開催や応援演説、他党との候補者調整、各地方の陣営の指導、経済界への働きかけ、と万能でした。

 原敬の指導の下で、政友会が大敗したことが、一度だけあります。1915年、第2次大隈内閣による解散総選挙です。海軍汚職で退陣した前の内閣、山本権兵衛内閣を政友会が支えていたので、政友会の人気が落ちていました。それに対し、脱藩閥イメージで好感度が高い大隈重信が、得意の演説を、鉄道の駅で列車の中から行う「車窓演説」が人気を博しました。文末を「であるんであるんである」で終える独特の演説で、大隈が行けない地域には、レコードに吹き込んで送られました。

 さらに、大浦兼武・内務大臣が、大々的に選挙干渉と買収を行いました。選挙干渉とは、内務大臣が各県の知事や警察部長を通じて、野党の妨害をしたり与党の支援をしたりすることです。この選挙干渉と買収は、後に発覚し、大浦内相の辞任、大隈内閣の退陣に至ります。

 これらの極端なポピュリズム(人気取り)的選挙戦術や、政府・内務省の権力を使った不正は、原敬は、やりませんでした。

 以上、原敬内閣は、民意や世論を尊重した明治・大正のリーダーたちが、時間をかけて作り上げた、日本のデモクラシーの到達点であり、近代日本の快挙でした。今日の日本政治よりも、基本的な考え方、政策、政治姿勢、これら全てが優れていたかもしれません。これを可能にした、民意や世論が尊重される、近代日本の伝統を振り返りましょう。

5. 民意や世論を尊重する近代日本の伝統

(1)近代日本における民意や世論の尊重

 明治維新の際、幕府側も倒幕側も、「天下の公論」を意識し、各陣営が世論対策を重視していました。

 「五か条の御誓文」には、「万機公論に決すべし」(第1条)という公論主義があり、さらに、「人心をしてうまざらしめんことを要す」(第3条)という文言があります。「うまざらしめん」とは「飽きさせない」ということです。民心を「飽きさせない」というところに、民意に配慮し、国民感情にも配慮する姿勢を見ることができます。「飽きさせない」ということを、国是として宣言する政府は、珍しいと思います。

 国会を開設すると、政府との関係は、専制的なドイツ・プロイセン型のつもりだったのが、すぐに民主的なイギリス型に引き寄せられていきます。政府は選挙結果を重視し、民意を尊重しました。第1回議会で、政府の予算案に、民党側が予算削減案を出したのに対し、ある程度削減を受け入れて、予算案を修正したくらいです。

 伊藤博文は、当初、議会や政党を警戒して、ドイツ・プロイセン型の「大日本帝国憲法」を作るのですが、国会の運用が始まると、政党を重視するようになり、やがて政友会の初代総裁になります。藩閥ニューリーダー、長州出身の桂太郎も、政党を重視し、藩閥専制、元老支配という世評を嫌って、自前の政党を設立します。

 日露戦争の講和に対し、世論は強硬論に乗って大いに反発するのですが、桂内閣は世論を抑え込むのではなく、批判を一身に受けて退陣し、政友会を基盤とする西園寺内閣に政権交代するという、知恵を働かせました。

 元老も、次期首相を決めるのに世論を意識するようになり、元老中の元老、山県有朋もついに観念して、原敬内閣を認めました。

 軍もまた、世論を意識していて、第一次大戦後の軍予算抑制を受け入れました。

 実は、軍国主義化が進む昭和においても、軍部は国民感情に敏感だったところがあります。岩手県ゆかり(父が南部藩士の子)の東条英機は、第二次世界大戦時の首相として総力戦のリーダー像に腐心し、「人情宰相」と呼ばれようとして、ゴミ捨て場を視察したりしました。

 (2) 民意や世論の質の高さ
ー「学びのネットワーク」、「学びによる近代化」

 日本の近代化の過程で、民意や世論が尊重された背景には、国民の民意や世論の質が高かった、ということがあると思います。

 そもそも、明治維新を成し遂げたのは、塾や道場による「学びのネットワーク」だったと言えます。松下村塾、佐久間象山や勝海舟の塾、北辰一刀流の千葉道場などが、勤王の志士、改革派の幕臣、開明的な地方人材を結びつけ、そのネットワークが明治維新を成し遂げた、ということです。これは、「学びによる近代化」という、日本近代化の特徴だと思います。

 このような「学びのネットワーク」があったからこそ、明治維新後も、日本中で、都市部のみならず農村でも、近代民主主義や憲法について学ばれ、自由民権運動が全国に広がり、あちこちで憲法試案が作られたのです。

 「学びによる近代化」が、質が高く、強力な「民意」が形成される背景であり、政治家たちが、民意を尊重し、民意を受けて、国のかじ取りをしようとする背景でもあると言えるでしょう。

 ちなみに、江戸時代以来の日本の強みは「学び」だけではなく、「楽しみ」(エンタメ)もハイレベルでした。そのことは、日本国民が豊かな国民感情を持つことにつながり、国民感情の成り行きによっては、国を過つこともあるという、問題にもつながります。

(3) 日本国民の豊かな国民感情

 明治の文明開化は、大正時代に大衆文化として花開きました。いわゆる「大正ロマン」です。

 「大正ロマン」を代表するのは、浅草「凌雲閣」、映画、演劇、浅草オペラ、白樺派、平塚らいてう『青鞜』、柳原白蓮の「世紀の恋」(九州の炭鉱王と離縁して東大生、社会運動家に走る)、モボ、モガ、「今日は帝劇、明日は三越」、月給取り(ホワイトカラー・サラリーマン)、「職業婦人」、童話・童謡誌『赤い鳥』等のこども文化、等々です。

 そもそも、江戸時代の庶民文化は、世界最高水準でした。代表的なものは、人形浄瑠璃、歌舞伎、落語、小唄、読本、浮世絵、瓦版、等々。明治に入り、西洋化を加えて、さらに発展したのです。

 政治を娯楽の一種として楽しむ風潮も発達しました。自由民権運動のころに流行したのが、川上音二郎のオッペケペー節です。「権利、幸福、嫌いな人に、自由湯をば飲ましたい、オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポーポー」(自由湯の「湯」は葛根湯の「湯」で、薬の意味。「とう」と読み、「党」とかけられています)という調子で、品は悪いですが、志は高いです。

 新聞の週刊誌的記事、風刺絵、風刺漫画も発展しました。大隈重信の「であるんであるんである」演説や、そのレコード化もエンタメの世界です。寺内正毅首相は「ビリケン宰相」と呼ばれましたが、流行キャラクターの「ビリケン」に似ていたことと、「非立憲(ひりっけん)」の掛詞です。

 大正デモクラシーと大正ロマン(大衆文化)はセットであり、それは民意(政治的意志)と国民感情がセットであることに対応します。そこに、日本型ポピュリズムの、問題と可能性があります。民意はおおむね健全なのですが、国民感情は暴走することがあります。日露戦争の講和条件に反対する日比谷焼き討ち事件、原敬暗殺につながる原敬バッシング、軍国主義化を加速した排外感情や好戦感情などです。民意は尊重すべき、国民感情には注意すべき、なのです。

 6. 今日の日本政治における、民意尊重の復権と「民党」の復活

(1)「民党」どうしの「政権交代可能な二大政党制」へ

 今日の日本政治が、「大正デモクラシー」期に原敬が実現した、「政権交代可能な二大政党(あるいは連立与党VS野党共闘の二大政党グループ)制」になっているでしょうか。野党側が弱くて、民党として今一つ確立していない、一方で自民党は、与党でありさえすればいい、政策は官僚の言いなりでいい、という吏党になってしまっていて、民党どうしが競い合う形になっていない、民党不在の状態なのではないか、と思われます。

 自民党は、「与党に投票しなければだめだ、自民党が与党なのだから、自民党に投票しなさい」という、選挙での主張をやめるべきです。与党を理由にしていると、理念や政策は問わない、旧統一教会のような団体と結びついていてもかまわない、そしてパーティー券の売り上げから裏金を作ってもかまわない、というふうに、何でもありの専制政治になってしまいます。官僚主導の下で、政治家は利権を追求する、利権政治がはびこります。さらに言えば、日本経済や日本社会に、無原則と事なかれ主義が広がります。国民を基盤とし、民意を尊重しながら政策を形成する、民党であるように、自己改革が必要です。

 野党は、民党として政権交代可能な力をつけなければなりません。民意を形にする政策を組み立て、より多くの国民に支持される党(あるいは政党グループ)の形を作らなければなりません。

 民党は、二つ(あるいは2グループ)必要なのです。

(2)「令和の自由民権運動」

 今日、大正デモクラシーの時代よりも日本の政治が劣化しているのであれば、自由民権運動にまでさかのぼって、政治を立て直す必要があるのではないでしょうか。2024年は、1874年の「民選議院設立建白書」から150年、「自由民権運動150周年」になります。

 「令和の自由民権運動」を通じて、「令和デモクラシー」を実現すべきときではないでしょうか。日本には、江戸時代から、高い民意や豊かな国民感情があり、明治維新後の政治家たちは、民意や世論を尊重し、国民感情に注意してきました。今、政治家に、そのような姿勢と力量が求められ、国民に、主権者としての自覚と責任が求められているのです。

 国民としては、明治・大正のように、政治について、学び、ある程度は楽しむところから、始めれば良いでしょう。そこから、今日における「学びのネットワーク」が立ち上がり、明治であれば「学びによる近代化」ですが、今日なら、「学びによる改革」あるいは「学びによる発展」が実現します。まずは、知ることから。
(終)

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