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ADHDの人は「普通に生きる」べきなのか
1.“普通”にこだわるのは誰か
「普通に生きていれば、それほど苦労はない」とよく言われます。でも、そもそも「普通」って一体誰が決めたのでしょうか。
日本社会では、多数派と同じ行動や価値観を共有することが善とされがちです。
学校や会社でも、要領よく集団に溶け込むことが当たり前のように推奨されます。
しかし、ADHD(注意欠如・多動症)の人には、そうした「普通」にうまく適応できない難しさがあります。
周囲は「みんなができるんだから、あなたにもできるでしょ」と言いがちですが、その陰には、人それぞれが持つ認知特性や感覚の違いがまったく考慮されていません。
橘玲的に言えば、社会の押しつける「普通」という仮面を疑うことは、われわれが本来持っている自由を取り戻す最初のステップです。
誰かが勝手に決めた平均値にすべての人間が従う必要はないし、それを鵜呑みにしてしまうと、本来の自分を見失いかねません。
ADHDの人は、とかく「落ち着きがない」「何度も同じミスをする」などと批判され、自分自身を否定しやすい立場にあります。
けれども、それは社会が定める“普通”というルールの外にいるだけで、人間としての価値まで否定される筋合いはありません。
むしろ、「普通」という概念を相対化できるからこそ、より柔軟で独創的な生き方を発明できる可能性を秘めているのです。
ADHDの困難を考えるとき、まずは「普通に生きる」ことの呪縛から解放される必要がある――これが最初のテーマです。
私たちが当たり前だと思っている価値観を一歩引いて眺めるだけで、“普通”がいかにあやふやで、実は特定の人間には都合が悪いかが見えてきます。
この問題意識を押さえてから先に進みましょう。
2.刺激過多がもたらす“過剰なリアル”
ADHDの人は、ときに周囲が見過ごすような些細な刺激に過剰に反応してしまいます。
騒がしい場所が苦手だったり、些細な物音に集中を乱されてしまうことも多い。
結果として、通常業務すら著しく疲弊してしまい、“平穏”から遠ざかるように感じるのです。
こうした特性を「気が散りやすい」と言い捨てるのは簡単ですが、実際には本人にとって想像以上のストレスです。
周りからは「なんでそんなこともできないの?」と言われるたびに、自分は人より劣っているのではないかという思いが強まり、やがて自己否定感に結びつきます。
これはまさに「生まれつきの認知スタイルによって、社会システムとの相性が悪化している」状態です。
多くの人が苦なくこなせることが、ADHDの人にとっては高いハードルになるのだから、それを一律に「努力不足」として断罪するのは酷でしょう。
たとえば、集中したいのに周囲の会話が耳に入ってしまう、仕事に取り組もうとしても視界にある些細な動きが気になってしまう――これらは本人の意志だけでは解決しにくい問題です。
一方で、集中力が必要なクリエイティブ領域や瞬発的な行動が求められる場では、ADHD特性がプラスに働くこともあります。
平穏な日常を手に入れるには、まず自分が“何に弱いか”を正確に把握し、それらをうまくコントロールする環境や仕組みを作ることが要です。
社会が「普通」と呼ぶ状態に無理に合わせようとするより、自分の特性に合った居場所を見つけたほうが、はるかに合理的だと考えられます。
3.うっかりミスが生む自己否定の罠
「うっかりミス」というのは、文字通り些細な間違いかもしれません。
しかし、それを繰り返すことで自分への信頼を失い、やがては強い自己否定感を抱くようになります。
期日に遅れて上司に怒られたり、大事なメールを送り忘れたり、レジの支払いで財布を忘れたり――本人には悪気がなくても、周囲から見ると「またか」と思われがちです。
ADHDの特性として、不注意が挙げられます。
たとえ頭では理解していても、作業工程で何かが抜け落ちてしまう。
そうした小さなトラブルの積み重ねが当事者を苦しめ、自己評価を下げていく原因となるわけです。
ところが、現代の社会構造は「ミスする人」を許容するゆとりを失いつつあります。
大勢の同僚が同じ仕事量をこなす中、ADHDの人だけがしょっちゅうミスを起こすと、周囲の評価はどうしても厳しくなりがちです。
誰でもミスはするとはいえ、回数や頻度で比較されれば明らかに不利になります。
ここで重要なのは、こうした“うっかり”をゼロにするのは現実的ではないと認めることです。
むしろ、「ミスをいかにリカバーするか」「ミス自体を減らす仕組みをつくるか」に意識を向けたほうが、はるかに生産的でしょう。
ADHDだからこそ欠かせないツールやルーティンを整え、周囲の協力も得ながら自分を追い詰めないようにする。
自己否定が深まると、やる気や行動力まで奪われます。
それは社会にとっても損失です。問題は当人の心がけだけでなく、組織やコミュニティのあり方にもかかっている。
しかし、すぐに社会全体を変えるのは難しい。だからこそ、自分ができる対策に目を向けるべきだと私は考えます。
4.社会のルールが苦しいなら、なぜそこにい続けるのか
日本社会には、暗黙の同調圧力があります。
就業時間に厳格で、マルチタスクを当然のようにこなす風土です。
こうした環境がADHDの人に過度な負荷を与えているのは明らかです。
でも、それなら「なぜそんなに苦しいところに身を置き続けるのか?」と問う視点は必要でしょう。
日本人は「自分の適性」と「社会の要求」が合わない場合でも、なぜか必死に適応しようとします。
長時間労働や細かい事務作業に向いていないなら、別の職種や働き方を模索すればいいはず。
それでも多くの人は、「せっかく就職したから」「みんな我慢しているから」と言い訳して、実質的な行動を起こしません。
ADHDの人にとっては、むしろ自分が苦手な分野に固執してストレスを溜めるより、自分の強みを活かせる分野を探したほうが合理的です。
テレワークが可能な職場に移る、一部リモートを認めてもらう、あるいは思い切ってフリーランスになる――選択肢はいくらでもあります。
日本の労働市場がまだまだ流動的とは言えないものの、特に若い世代であればチャレンジしやすいはずです。
また、社会の変化も見逃せません。
コロナ禍を機にオンライン会議や在宅勤務が普及しました。
通勤が苦手な人には大きなチャンスでしょう。
あるいは、海外に移住して働き方を大きく変える例もあります。
結局、「社会が悪い」「周囲が厳しい」と嘆くよりも先に、いまの環境を抜け出す具体策を探したほうが、生き延びる可能性は高い――これが橘玲流の解決策です。
5.“普通”を自分仕様にアップデートする思考実験
それでも「普通に生きたい」という欲求は、多くの人にとって切実です。
誰かに特別扱いされたり、余計な注目を浴びたくないという感情も理解できます。
ならば、まず“普通”そのものの定義をアップデートしてみたらどうでしょう。
ADHDの人が望む「普通」とは、突き詰めると「過度なストレスなく、日常を回せる状態」ではないでしょうか。
つまり、“社会的平均”ではなく、自分の身体と心が無理なく動くことを指すのです。
たとえば朝が弱いなら午後から働くスタイルを模索する。
タスク管理が苦手ならアプリとリマインダーで外部化する。
ミスが多いならダブルチェックのルーティンを欠かさない。
これらは、すべて自分なりの“普通”をカスタマイズしている例です。
他人がどう評価するかより、自分が生きやすいかどうかが基準です。
これはきわめて個人的な問題ですが、実は他人の常識に合わせて生きるより、よほど効率的でもあります。
社会の多数派が良しとするライフスタイルが、自分にも合うとは限りませんから。
自由な社会では、人は自分の幸福を最大化するために動いていいはずです。
「普通って何?」という疑問に答えはありません。
だからこそ、自分専用にアップデートした“普通”を作り出し、それを日常化するほうが賢いと言えるでしょう。
ここに、ADHD当事者が平穏を得る鍵が隠されています。
6.ミスを防ぐテクニックと“ミス許容度”のバランス
ADHDの人が実践できるテクニックは数多くあります。
スマホのタスク管理アプリ、ToDoリスト、カレンダーのアラーム設定、付箋メモの貼り付け……挙げればキリがありません。
ただし、いくらテクニックを駆使しても、ミスをゼロにするのは難しいのも事実です。
仕事や学業を続けるうえで、まったくミスをしないのが理想だとしても、ADHDの特性ゆえに完璧を目指しすぎると自滅しかねません。
むしろ重要なのは、「ミスを最小化するシステムづくり」と同時に、「ミスが起きても大丈夫な環境づくり」を進めることです。
たとえば、同僚とタスクを共有し、相互にチェックできる体制を組む。ミスが起きたときにすぐ修正できる余裕をスケジュールに組み込む。
上司やチームメンバーとこまめにコミュニケーションし、トラブル発生時に責められないような関係性を育てる――こういった“ミス許容度”が高い職場風土は当事者のストレスを大きく減らします。
もちろん、社会全体がすぐに変わるわけではありません。
でも、こちらから働きかけたり、そういう組織を探す努力をしたりすることで、“ミスを責めずにカバーできる”環境に巡り合う可能性は高まります。
テクニックだけでなく、人間関係や組織の選択といった広い視野で戦略を立てるのが賢明だといえます。
7.他人との距離感と自己防衛――孤独を恐れない生き方
ADHDの特性を理由に、コミュニケーションの摩擦が生じることは少なくありません。
衝動的に話してしまう、相手の話を最後まで聞けない、感情が先走ってしまう――これらは当事者が最も苦手とする場面かもしれません。
一方で、「これだからADHDは……」という偏見を向けられれば、孤立するのを怖がってさらに空気を読みすぎたりして疲弊する場合もあります。
社会との程よい距離感を維持しながら、「どうしても無理な相手とはつき合わない」選択肢を持つことが、自己防衛の基本です。
日本人はとかく人間関係を重視し、衝突を避けたがる傾向が強いですが、誰とでも仲良くなれるわけではないのです。
特にADHDの人は、「自分を否定しない相手」を厳選し、そうした人々との関係を厚くするほうが賢明でしょう。
また、当事者会やオンラインコミュニティなど、理解ある場に参加することも有効です。
そこでは「うっかりミスあるある」や「衝動買いエピソード」などが笑い話として共有でき、当事者同士がホッとする瞬間がある。
孤立感に苛まれるより、むしろ自分に合ったコミュニティを持つほうが安心感を得られます。
重要なのは、孤独と一人の時間を混同しないことです。刺激が多いと疲れやすいADHDの人は、適度に一人で過ごす時間も確保すべきですが、それはネガティブな孤立ではありません。
休息と交流のバランスを取ることが、平穏な毎日につながります。
8.ADHD特性を武器にする:強みの活かし方
ADHDというと“不注意”や“衝動性”ばかりが注目されがちですが、一方で「創造力」や「行動力」に優れているケースも多いと言われます。
集中したときの没頭力が高い、思いも寄らないアイデアが浮かぶ、未知の分野に積極的に飛び込める――これらは世間一般の“普通”を超えたスキルといえるかもしれません。
クリエイティブ産業やITベンチャーなどでは、逆にADHDの特性がプラスに評価される場面があるのです。
定型的な事務処理が苦手だからこそ、ビジネスの新しい発想を生み出せる可能性があるというわけです。
日本社会はまだまだ“平均的な人材”を好む傾向がありますが、グローバル化や多様化の波が大きくなっている以上、「人と違う特性を武器にする」戦略が有効になる局面は増えるでしょう。
もちろん、強みを活かそうとするには、自分の弱みを補う仕組みも必要です。
どんな天才的ひらめきを持っていても、すべてがうまくいくわけではありません。
とはいえ、社会の決めた“普通”を目指して埋没するよりは、得意分野に特化するほうが自分も楽になり、結果として周りからの評価も得やすいはずです。
結局、ADHDであるがゆえの生きづらさを、すべて“ダメな面”として捉えるのはもったいない。
自分にとって最適なポジションを見つければ、凡人には思いつかない道を切り開けるかもしれません。
そういう意味では、ADHD特性は大きな武器になり得るのです。
9.社会改革を待たず、自分の人生を最適化する
ADHDに対する社会の理解が深まり、学校や職場で適切な合理的配慮が行われれば、それは理想的です。
とはいえ、すぐに日本全体が変わるわけでもありません。自分が生きている間に、劇的な社会改革が起きるという保障はない以上、個人の戦略としては「自分の人生を最適化する」方が合理的だと考えられます。
「世界を変えるより、自分の立ち位置を変えた方が早い」ということです。
たとえば、企業内での部署移動や副業、フリーランスとしての独立など、個人でコントロールできる範囲は意外に広い。
それを試みずに「社会が悪い」「周りの理解が足りない」と不満を募らせても、平穏は遠のくばかりです。
もちろん、制度的な支援を活用するのも一つの手です。障害者雇用枠や自治体の相談支援、医療機関でのカウンセリングや投薬など、使えるものはどんどん使えばいい。
ポイントは、それらを自分の主体的な選択として取り入れることです。
ADHD当事者にとって、社会に合わせるばかりが正解ではありません。
むしろ、社会から適度に距離を取りながら、自分なりのやり方で生産性や生活の安定を確保する方法を模索するほうが、はるかにストレスを減らせます。
環境を変えるという視点を持てば、制限された世界観から抜け出しやすくなるでしょう。
10.最終結論――自分が基準でいい
ここまで見てきたとおり、ADHDの人が「普通に生きる」には、まず“普通”にとらわれすぎない意識が重要になります。
社会には社会のルールがあり、その中で摩擦なく生活できるのが理想かもしれませんが、ADHD当事者には合わない部分が多いのも事実です。
だからこそ、自分にフィットするペースや仕組みを構築し、“自分が基準でいい”と割り切る必要があるでしょう。
もちろん、それを実践するにはある程度の勇気がいります。
周囲の理解を得られないかもしれないし、転職や転居など大きな決断が必要になるかもしれない。
けれど、社会の「普通」を盲信して息苦しくなっている状態が続くよりは、よほど健全な選択ではないでしょうか。
生き方を変えれば、うっかりミスや刺激過多で感じていた苦しみも、まったく別の角度から見えるようになります。
自己否定に陥るほどの重荷だったものが、実は自分の特徴の一部であり、それを武器に変えられるシーンもある――こんな発見はめずらしくありません。
ADHDであることをマイナスだけに捉えるのではなく、むしろ「自分の特性をどう活かすか」を考えれば、自分ならではの“普通”を作ることができます。
どんな社会でも、最終的に自分の人生を引き受けるのは自分だけ。だからこそ、遠慮なく自己流のアプローチを突き詰めるべきだと、私は思うのです。
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