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麗しき毒蛇の復讐 第1章



                           原作:和田慎二
第1章 毒蛇の帰還

沖縄気象台が平年より七日早く沖縄地方の梅雨明けを発表した翌日、北マリアナ諸島の東方沖で、その年の六番目に発生した台風「マルピート」。
フィリピンによって命名された「残酷な」という意味の名を持つその台風は、ハワイ島とグアム島のほぼ中間地点にあるウェーク島付近にて熱帯低気圧として発生した三日後、最大風速が三十四ノット(十七.二メートル)を超え台風六号となった。
北太平洋上をゆっくりと西に進みながら徐々に発達していった台風六号は、やがてサイパン島の北東、約七百キロメートルの海上で中心気圧が九八〇ヘクトパスカルまで低下すると、進路を南南西の方角へ変え、小笠原諸島の南端へ向かってやや速度を上げて進んで行った。
その後も次第に進路を北寄りに変えながら、この年起きていた北赤道海流の異常ともいえる高い海水温によって、膨大な水蒸気というエネルギー源を得た台風六号は急激な発達をとげると、八丈島の南南東、約百八十キロメートルの海上において、ついに中心気圧が八九五ヘクトパスカルにまで発達する。中心付近の最大風速は七十メートル、最大瞬間風速は九十五メートルに達した。
一九五一年の統計開始以来、日本に上陸した台風で最も中心気圧が低かったのは、一九六一年の第二室戸台風で九二五ヘクトパスカル。その次に低いのが一九五九年の伊勢湾台風で九二九ヘクトパスカルである。「マルピート」はそれらに匹敵するほどの強烈な台風として、早ければ三日後にも「超大型で非常に強い」勢力で、日本列島に上陸する可能性があった。
しかも、気象庁が発表した台風進路の予報円の中心を結ぶ線は、日本の首都圏を貫通し、さらに東北地方まで日本列島を縦断するもので、ネット上には阿鼻叫喚の書き込みが相次いだ。
このまま予報円内を進んだ場合、関東地方に上陸する台風としては、過去類を見ないほどの最強クラスの勢力であると、気象庁は人々に強く警戒を呼びかけた。

台風六号は北上するにつれ、これまでの予想よりも進路を東寄りに変えつつ、日本付近の低い海水温によって次第に勢力を弱めながら伊豆諸島に接近し、やがて御蔵島と三宅島、及び房総半島の大半を暴風域に巻き込み、三宅島で最大瞬間風速四十二.八メートルを記録し、勝浦では三十四.七メートル、館山でも三十一.一メートルの最大瞬間風速を記録した。
さらに千葉県内の広い範囲に停電と山間部でいくつもの土砂崩れを発生させると、未明には犬吠埼をかすめるようにして北上し、やがて日本列島から急速に離れていった。

千葉県内では、土砂崩れよって計十二か所の通行止めが発生するとともに、山間部から大量の流木が海に流れ出ることによって、東京湾での海苔養殖に壊滅的な被害が出ることが懸念され、他にも漁船の転覆等、様々な漁業への被害がいくつか報告されたが、幸いなことに台風六号による大きな人的被害が出ることはなかった。

同じ日の午後五時十八分、今度は東京湾を震源とするマグニチュード六.八の地震が発生した。
東京都葛飾区に住む五十代の女性は、夕食の準備の合間に台風六号による被害の状況を夕方のニュースで見ている途中、下からドンと突き上げる衝撃を感じた直後、「テーン テーン」と鳴るチャイム音を聞いた。同時にテレビ画面の上部に映る「緊急地震速報」の赤いテロップを目にする。
すぐに画面下部には「東京都で地震 強い揺れに警戒 東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、山梨」とのテロップが映り、「チャラン チャラン」と警戒を煽る旋律と「緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください」というアナウンスが繰り返し流されるのを聞くと、女性はガスの火を消したかを確認するために、慌てて台所へ駆けこんだ。
時を同じくして、都内の電車の中、高層ビルのオフィス、あるいはエレベーターの中など首都圏の至るところで、携帯電話がヴァイブレーションと共に「ブワッ ブワッ ブワッ」という不気味な警告音を鳴らし始めた。だが多くの人は、何をどうしてよいかわからず、きょろきょろと周りを見回すばかりだった。
そのすぐ後に彼らを襲った縦揺れとは比較にならない激しい横揺れは、多少の地震には慣れっこになっていたはずの関東の人々を、再び東日本大震災が襲いかかってきたかのような錯覚と混乱と恐怖に陥れた。

地震発生からまもなく、気象庁が発表した最大震度は、東京都中央区を始めとした震度五強。この地震による津波の心配はない、とも合わせて発表された。
今回の地震によって都内で水道管破裂の情報が十数件寄せられたほか、電車・地下鉄の多くに一時遅れが発生し、あるいは一部の電車が運転を見合わせた。
首都高速では一部で通行止めとなり、もしくは速度規制を行ったが、首都圏への影響は、いずれもそのような軽微なものに止まった。けが人も三人の軽傷者が出ただけだった。
震源が深かったため、マグニチュードが六.八と比較的大きかった割には、深刻な被害は出なかった。
一日のうちに関東地方を襲った台風も地震も特に大事に至らずに済んだと、人々は安堵し、ほっと胸をなでおろした。

だが、彼らは知らなかった。
今回のような二つの災害どころか、過去日本人を襲ったいかなる台風や地震よりも、遥かに恐ろしい災厄を日本にもたらそうと企む、一匹の麗しき美貌を持った毒蛇が、今まさに日本に上陸しつつあることを。

同日の夜、午後七時二十五分。夜のとばりが下りた成田空港に、台風六号の置き土産である乱気流の影響もほとんど受けず、ほぼ定刻どおりに到着した日本航空JL5070便から降り立つ、一人の女性の姿があった。
漆黒のスーツを身に纏い、颯爽と長い黒髪をなびかせて空港内を歩く女の名は、Reina・Hikawa・Anderson(麗奈・氷川・アンダーソン)。彼女の周囲には、思わず振り返る、多くの男性の目線があった。
入国審査と税関検査を滞りなく終えた氷川麗奈は、自分がかつてアメリカ留学から帰国した時と同じ、北ウイングの国際線到着ロビーへと姿を現した。
三十年前、二人の妹が出迎えてくれた到着ロビーには、代わりに地味な色のネクタイを締め、ダークスーツに身を包んだ五人の部下が麗奈の到着を待っていた。

「麗奈様、飛行機での長旅、お疲れ様でした。車の用意ができております」
「ありがとう、ご苦労様。世話になるわね」
部下の一人が運転する黒塗りのメルセデスの後部座席に、麗奈が優雅に身を滑らせるようにして乗り込むと、彼らは一路東京方面へ向けて走り去った。

近年、アメリカで業績を急拡大させているバイオ系企業、「3R&M Corporation」の共同創業者の一人であり、現在はその会長夫人である氷川麗奈は、アメリカ国籍を持つ元日本人女性だ。しかし、彼女が人前に自分の姿を晒すことはほとんどなく、彼女の人となりをよく知る人物はアメリカ国内にはほぼ存在しない。
今回、麗奈は二つの大きな目的を持って来日した。
彼女が三十年前に果たせなかった野望を、以前とは違う形ではあるが今度こそ実現させることがひとつ。
もうひとつは、「暗闇機関」と称される日本における非公開の治安維持組織と、かつてその組織に所属していた一人の人物に対する復讐である。
彼女はこれらの目的を果たすための、大企業の会長夫人とは違う、もうひとつ別の顔を持っていた。
それは近年、彼女が極秘裏に組織した「R機関」という名の非合法武装組織の「ボス」という、ある意味、真実の顔である。

メルセデスが成田国際空港線から東関東自動車道に入った頃、麗奈は助手席に座る黒部という初老の部下に声をかけた。
「それにしても、同じ日に台風と地震が関東を襲うなんて、日本って本当に自然災害の多い国ね。で、明日の計画に支障はありそうなの?」
「いいえ、問題ありません、暗闇指令の明日の予定に変更がないことは、戸塚を始め、各所から確認を得ております」
「C計画を遂行する上でも、明日の作戦に失敗は許されない。そのことをよく自覚しておいて」
「はい、心得ております。今のR機関には、それだけの人材が揃っております。お任せください」
「期待しているわ」

台風六号が去った後も、生憎、台風一過の晴天とはならず、関東地方は再び南下した停滞前線の影響で厚い雲に覆われていた。やがて雨雲からポツポツと降り出した雨粒がメルセデスのフロントガラスを濡らし始め、車のワイパーが雨を拭い取る。
麗奈は後部座席のサイドガラス越しに見える夜景に目線を移しながら、黒部に対し、もうひとつの質問を重ねた。
「それとサキについて、何か新しい情報は得られたの?」
「はい。新たに水島直子と三井律子、いずれも旧姓ですが、サキの元クラスメイトだった二人からの目撃証言を得ることができました。奴が生きていることは、まず間違いないと思われます。発見は時間の問題かと」
「そう……」
麗奈はニタリと頬を歪めると、サイドガラスから見える夜景に目を凝らした。きらびやかな光の森は、人間が生み出した薄汚い闇を覆い隠すように人工の光を輝かせている。
三十年ぶりに訪れた復讐のチャンスに、麗奈は下腹部から沸きあがってくる、全身を震わせるような興奮を覚えつつ、かつて「海槌麗巳」と名乗っていた頃の、人生最大の「ライバル」と激しく戦った、苦々しくも刺激に満ちた日々に思いを馳せた。
「待ってなさい、サキ。必ずあなたを見つけ出して、私と妹達の積年の恨み、きっちりと晴らして見せる」

一九五七年から始まったとされる日本の高度経済成長期に終焉をもたらした、一九七三年の第一次オイルショックによって訪れた深刻な不況をものともせず、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長した新興財閥「海槌コンチェルン」。
その創業者であり会長でもある海槌剛三には、株の不正取引などの黒い噂も多かったが、日本の六大財閥の一つにまで数えられるようになった大企業の会長に逆らえる人は多くなかった。
海槌剛三には、美貌と才能を誇る三人の娘がいた。
彼らは海槌家によって日本国を支配するという野望を抱き、三姉妹はそのため「学園統合作戦」と名付けられた作戦を実行に移した。それは先ず「鷹の羽学園」という、ある私立高校に、特に裕福な生徒達を集め、彼らに洗脳教育を受けさせ、将来生徒らが日本の指導的立場に立った時、彼らを背後から操ることによって日本を支配する、というものだった。
やがて海槌家が鷹の羽学園の経営権を奪うと同時に、長女である海槌麗巳が学園の理事長兼校長となった。三姉妹はその過程において、同学園の生徒を含めた複数の殺人及び殺人未遂等、数々の凶悪事件を次々と引き起こしていた。
だが彼らの野望は「暗闇機関」と呼ばれ、複数の特命刑事を運営する、国家的な非公開の治安維持組織によって潰え去ることになる。
その暗闇機関の一員として、ある時は自らの出生の謎に苦しみ、一時は自分の姉かもしれないと悩んだ海槌麗巳を見事追い詰め、ついに海槌家の野望を阻止した者がいた。
その人物こそ、麗巳にとって唯一かつ最大のライバルであり、暗闇機関のトップ、暗闇指令が任命した初代学生刑事、通称「スケバン刑事」、麻宮サキである。
麻宮サキと暗闇機関における彼女の担当エージェント、神恭一郎らの活躍により、海槌剛三は鷹の羽学園の理事長室において、過去、麻宮サキの父親を殺害したことを当の麻宮サキの目の前で自白に追い込まれた。
その音声が麗巳の理事長就任と二一世紀における優秀な人材を育成することが社会的急務であると、呼び寄せたマスコミの前で誇らしげに述べていた記者会見場のスピーカーから流され、筒抜けになっていたことがわかると、剛三はその場で拳銃自殺した。海槌亜悠巳、久巳の姉妹もまた自分らの罪を問われ警察に逮捕された。
数日後、神恭一郎は海槌麗巳の手による凶弾に倒れ、麻宮サキはその悲しみを胸に海槌麗巳との最後の決戦へ挑み、両者は共に相討ちとなり、当時どちらも死亡したとみなされていた。

麗巳は麻宮サキを道連れにしようと、海槌コンチェルン傘下で、すでに閉鎖されていた薬品工場で自ら大爆発事故を引き起こしたが、機転を利かせて駆け付けた二人の部下の手によって、辛うじて救出され、命からがら工場から脱出していた。
その際、落下物の直撃を受けて絶命した一人の部下を工場内に放置したことで、結果的にそれが麗巳の身代わりとなり、警察の目を欺くことにも成功した。
その後、密かに日本を脱出し、香港及びシンガポール経由でアメリカに渡った麗巳は「氷川麗奈」と名前を変え、非合法手段によってアメリカ国籍を取得した。

彼女は長い歳月をかけ、かつて自分が米国留学中に学んだ新戦略理論、ポリティカルシミュレーションテクニック、確率論、意思決定科学等を基にした独自の理論を構築するに至る。さらに自分の理論を基に、かつての自分の父と肩を並べるほどの巨額の財を成すことに成功した。
しかし、自分はできるだけ表には立たず、彼女の法律上の夫をずっと前面に立ててきた。
だが、麻宮サキと最後に戦った時に自分自身も味わった、毒ガスと大爆発による苦痛と恐怖は麗奈のトラウマとなり、さらに麻宮サキが自分を殺しに来るという悪夢を見続け、苦しむこととなった。
しかしながら、麻宮サキはすでに死亡したとされる存在であり、彼女にはどうすることもできず、夜が来るたびに、悪夢の恐怖に怯えるしかなかった。
その状況は、ある日を境に大きく変化することとなる。それはさから五年前に東京からかかってきた、一本の電話から始まった。
一時期、破綻した海槌コンチェルンの元破産管財人を務め、その後、わずかに残っていた海槌家の財産を管理していた黒部からの電話は意外な内容だった。

「麗奈様、木村和美という女性のことを覚えていらっしゃいますか?」
「木村和美? 知らないわね。それがどうかしたの?」
「鷹の羽学園における麻宮サキの同級生なのですが。実は私の部下に大崎という男がおりまして、その大崎と木村和美とは近い親戚関係にあたるそうで。今から十日ほど前に親類の葬儀で久しぶりに顔を合わせた時、木村和美が上野のアメ横で、死んだはずのクラスメイトに会ったと言い、そのクラスメイトというのが、どうやら麻宮サキらしいのです」
「なんですって!」
「その女性は、人違いだと言ってすぐに立ち去ったそうですが、木村和美によると、確かに麻宮さんのはずなのにと、首を傾げていたそうです」
「もう少し詳しい状況を教えて」

麗奈はその後日本から入ってきた情報の詳細を知ると、木村和美の証言は、かなりの信憑性を持つものであるとの確信を得た。
生きていた! 麻宮サキが生きていた!
麗奈は歓喜に打ち震えると同時に、長年、密かに温めていた計画の歯車がカチリと噛み合い、回転し始める音を確かに聞いた。

「来るべき時がついに来た。黒部からの情報によれば、暗闇機関も学生刑事さえも、恥ずかしげもなく未だに存在し続けているという。そのような愚劣で不必要かつ目障りな存在は、麻宮サキ共々、私がこの手で叩き潰してくれる。三十年前のような過ちは二度と繰り返さない。そのためには、私の命令を忠実に守り実行する、洗練され武装された組織が必要になる。早急に新しい組織作りに着手しなければならない。そうして今ある日本社会のシステムを破壊し再構築し、今度こそ、日本という国家を私自身の手で支配して見せるわ」
そのための「武器」も、今や麗奈は手に入れつつあった。

バシッ バシッ
薄暗い地下の廊下には奥の部屋から届く、拳が人の顔を殴る、くぐもった湿った音が響いていた。灰色の真新しい建物は、今もホルムアルデヒドなどの化学物質による、新築独特の匂いが漂っている。
今や十八人の学生刑事を擁する暗闇機関の、未だトップに君臨する暗闇指令はR機関によって拉致され、都心から遠く離れた秩父山系の奥深い山林の中に構えられた、氷川麗奈の日本における秘密の拠点に捕らわれていた。
バシッ
「吐け! 麻宮サキの居所はどこだ! 奴は今何をやっている!」
「何度聞かれても同じことだ。麻宮サキは死んだ。三十年前にな」
バシッ
再びR機関の工作員が暗闇指令の頬に拳を叩きつける。その工作員は素手で人を殴ることに、強く快感を覚えるタイプの人間だった。
暗闇指令はパイプ椅子に座らされ、体中を縄できつく縛られていた。顔は醜く腫れ、唇から血を流し、左目は真っ赤に充血している。
「奴はまだ生きているはずだ! どこにいる! 吐け!」
「麻宮サキは死んだんだ」
「そうやって強情を張っていると、俺に殺されちゃうよ。いいのかい? ほら、早く吐け!」
暗闇指令の大きく腫れあがった頬に、工作員の右ストレートがめり込む。
「麻宮サキは死んだ。プッ」
暗闇指令は血まみれの口の中から、折れた奥歯を吐き出した。
その時、自動ドアがゆっくりと開く音がすると同時に、黒いロングワンピ―スを身に纏い、右手にムチを持った氷川麗奈が、不敵な笑みをたたえながら部屋の中に入って来た。
「お、お前は!……」
麗奈の顔を見た瞬間、激しく驚愕した暗闇指令だったが、すぐに落ち着きを取り戻した。
彼は三十年前に死亡したとされる麻宮サキの所在に、正体不明の彼らが異様なまでに固執する理由が、自分の推察通りであったことを悟った。

「三十年経った今でも、この顔を覚えて頂けているなんて、光栄ですわ。暗闇指令さん」
「そうか、お前が黒幕か。俺が疑っていたとおり、やはり生きていたんだな。みず……」
いきなり、麗奈が暗闇指令めがけムチをふるう。
その一撃で暗闇指令が着る紺色のスーツと白いワイシャツの左肩が大きく裂けると、醜くミミズ腫れとなった肌が露出した。
「さっさと白状しなさい! 麻宮サキは今どこにいるの!」
「死んだ人間は生き返らない。麻宮サキは死んだ。何度聞かれても同じことだ」
「ふん」
麗奈が再びムチを同じ左肩にふるった。今度は肉が裂け、血が辺りに飛び散る。
「知らないふりをしても無駄。ちゃんとした目撃情報もあるのよ!」
「ほお。だが残念ながらそいつは他人の空似と言う奴だ。何度も言うが、麻宮サキはもう死んだんだ。遺体は暗闇機関が荼毘に付した。この俺が言うんだから間違いない。遺骨は今、両親と共に三人で、山あいの静かな霊園で眠っている。もうそっとしといてやれ。お前も、こんなくだらない復讐のような真似事はやめて、もっと前向きな人生を送ることを考えたらどうだ」
「ふん。偉そうな口を」
麗奈は暗闇指令を冷ややかな目で睨み付ける。
「亜悠巳と久巳は、まだ年端もいかない未成年だったのよ。その二人に対して、執行猶予も付かない懲役刑を言い渡したのは、どこ国の司法かしら。亜悠巳は口から大量の血を吐き、久巳は拒食症に陥って、ガリガリにやせ細った状態で死んでいった。どちらも麻宮サキと、日本という国家への呪詛の言葉を吐きながらね」
「彼女達が犯したのは、殺人という重罪だ。それに複数の殺人未遂と殺人教唆の罪もあった。亜悠巳と久巳が、求刑を下回るそれぞれ五年と三年の懲役で済んだのは、彼女たちが将来、更生することを司法が期待したからだ」
「おためごかしはいらないの。あれが海槌家に対する報復以外の何ものだと言うの?」
「あれはまっとうな判決だった」
「ふん。それがかつて人権派で鳴らした裁判官の発言とはね。私、今でも思い出すの。お父様が自殺し、妹達が逮捕された、あの日のこと。その度に血が逆流し、はらわたが煮えくり返る。本来、私達は日本の支配者になるべき存在だった。その支配者としての最高の頭脳を持つこの私を日本国外へ追いやり、あれほどの才能豊かな妹達を獄中で死に至らしめた罪深き日本という国家。なんという愚かな国というべきかしら。まさしく愚かな日本が生み出した悪しきものの象徴。それこそが、『暗闇機関』であり『麻宮サキ』という存在だわ」
「だがお前たちは、その麻宮サキの捨て身の戦いによって敗北した。負け犬の遠吠えは見苦しいぞ」
暗闇指令は唇の端から血を流しながら、ニヤリと口元を歪めた。
それを見た麗奈が、キッと右の眉毛を吊り上げると語気を強めて言った。
「槇原! 銃を貸しなさい!」
名前を呼ばれた工作員が、脇のホルスターから自動拳銃ベレッタⅯ92FSを抜き、スライドを引き薬室に初弾を装填させると、銃身を握りながら銃把を麗奈に向け差し出した。
「麗奈様。どうぞ」
「麗奈? それがお前の今の名前か」
「暗闇指令さん。今から私が十数えるうちに、麻宮サキの居所を素直に白状しなさい。さもなければ、この銃であなたの頭が吹き飛ぶことになるわよ」
「好きにしろ」
「ふん」
麗奈がベレッタの安全装置を外し、腫れあがった暗闇指令の顔を冷ややかに睨み付けながら、銃口を暗闇指令の額に押し当て、引き金に指をかけた。
「十……九……八……」
麗奈がカウントダウンを始めた。
暗闇指令は、殉職したかつての部下達の顔を、一人ずつ思い浮かべていた。
(神、依田、宮瀬、西脇、小野原、滝本、上総、それと小椋。俺ももうすぐお前達のところへ行く。そっちで酒でも用意して待っていてくれ。今度こそゆっくり、旨い酒を酌み交わそうじゃないか。なあ、お前達……)
「……二……一。……さようなら」
地下の狭い部屋に一発の銃声が響き渡ると、それはすぐに二発、三発と続く。真新しい白い壁は飛び散った赤い血で染められた。
満足そうに微笑んだ麗奈は、ベレッタを槇原に渡すと静かにつぶやいた。
「まずは一人目」

翌日、まだ日も昇らぬ早朝。新宿駅からほど近い大きな公園に、草むらに頭を突っ込んだ、身元不明の男性の遺体が放置されているのが、公園でジョギングを行っていた一人の男性によって発見された。
遺体の顔は原形をとどめていなかった。
それが、あと三か月後に引退する予定だった暗闇指令の最後の姿だった。

暗闇指令暗殺の報を受けた、暗闇機関の幹部達が早速緊急会議を開く。
「いったい! 護衛の連中は何をやっていた!」
「それにしても余りにも情報が少ない」
「とにかく情報だ! まずは情報収集を徹底して行え!」
「それと、我々の身の安全を図る必要もある。各種のセキュリティ・レベルを最高まで上げろ!」
「現在行っている学生刑事達の捜査は一旦全部中断だ! 暗闇機関のエージェントを総動員し、全員至急本部に集めろ!」
だがいずれの対策も虚しく、緊急会議の翌日、次期暗闇指令と目されていた幹部の遺体が、とある郊外の河川敷で射殺体となって発見された。

暗闇機関は警察庁や警視庁に対し、情報の提供等、捜査の協力を仰いだ。しかし、何故か彼らの動きは鈍かった。
「どういうことだ。警察の動きがここまで遅いとは」
「いや、遅いなんてもんじゃない。ただの不作為だ。サボタージュだ」
「所詮、警察なんざこんなもんだ。日頃何かと我々を目の敵にしている奴は多いからな」
「特に最近は酷かったからな。戸塚をはじめとする例の老人どもが裏で動いているという情報もある」
「あのクソジジイどもか。奴らならやりかねん。とにかく、ジジイどもの情報を急いで集めろ!」
しかし、警戒の強度を上げていたにもかかわらず、残り数人の幹部達も、やがて一人、また一人とR機関によって次々と射殺体、あるいは溺死体となって発見された。
いきなり組織の中枢を破壊された、暗闇機関の学生刑事及びエージェント達は大混乱に陥った。

今回の復讐を計画するにあたり、氷川麗奈は五年の間にじっくりと多額の秘密資金を使い、時の日本政府に多大な影響力を持つ、複数の元政治家や元高級官僚、大手マスコミの社主等を徐々に手なづけていた。
その中心人物が、元日本自由保守党幹事長の戸塚栄太郎である。彼は政界入りする直前まで、警察庁長官官房の主席審議官を務めていた。
戸塚は一九八〇年代終盤、当時の司法長官の部下として働いていた。その司法長官の庇護の下、関根蔵人というスーパーエリートによって設立された「青少年治安局」という名の国家機関が存在したが、戸塚はその設立にも深く関与した。関根蔵人は一時、暗闇指令さえも太刀打ちできなかった人物である。
だが、関根蔵人の邪悪な意図に気付き、青少年治安局に反旗を翻した三代目スケバン刑事によって関根蔵人は倒され、青少年治安局もすぐに廃止された。
元々戸塚は司法長官の部下時代、青少年治安局創設以前から、学生刑事の存在を疎ましく思っていた。子供に何ができるのかと。治安維持は大人の仕事であると。
青少年治安局廃止以降も、暗闇指令への対抗意識を燃やし続けてきた。

日本への帰国から遡ること約三か月、麗奈は戸塚らを密かにアメリカに呼び寄せ、ある極秘の会談を行っていた。
「暗闇機関などといった、高校生に刑事の真似事をさせる治安維持組織など、本来あってはならない存在です。国際的に見てもあれは日本の恥です。日本政府はあのような非公開組織の存在を許しておいて良いのでしょうか。暗闇機関のような恥ずべき組織は、速やかに解体し、排除すべきものです」
麗奈が切々と戸塚らに訴える。
「まさにおっしゃる通りです、麗奈さん。学生刑事など、本来日本には不要なもの」と、戸塚栄太郎は吐き捨てるように言った。
「学園内といえども、犯罪捜査はきちんと警察官採用試験に合格し、または国家公務員として採用された正式な警察官が担うべきものなのです」
長年、暗闇機関への不満を抱いていた戸塚がそう述べた後、戸塚達は麗奈側と、ある秘密の合意に達した。
今日まで学園がらみの犯罪に対する捜査について、着実に成果を出し続けてきた暗闇機関に対し、戸塚達は徐々に発言力を失ってきた。
氷川麗奈との接触を機会に、一気に日本国内の警察行政の主導権を完全に警察庁に取り戻し、一本化し、さらに強化しなければならない。今後発生が予想される様々なテロ対策を含め、日本国内の治安維持を盤石なものとするには、是非ともその必要がある。
我々が持つこの大いなる国家的目的、日本の国益のためには、ある程度の付随的犠牲が出ることは、やむを得ない。
「では皆さん、我々の日本における今後の活動に対し、是非ともご協力のほど、よろしくお願いしますよ。もちろんマスコミ対策も含めてね」
「もちろんです。手抜かりなどはあり得ません。お任せください、麗奈さん」
こうして麗奈と戸塚らは、密かに手を結んだ。
だが戸塚達も、麗奈自身が日本国内での恐るべきテロを画策していたとは、この時点ではまだ夢想だにしていなかった。

そうしてついに、R機関の魔の手は学生刑事へも延びていく。
ある土砂降りの雨の日、一人の男子学生刑事が、高校からの帰宅中にR機関に襲撃され、無残に殺害された。遺体には複数の銃創とナイフによる刺し傷が残されており、心臓をナイフで一突きにされたことが致命傷になったと推測された。学生刑事としての最初の犠牲者だった。
その死は他の学生刑事やエージェント達に、多大なショックを与える。
彼は学生刑事達の中で、最も戦闘能力が高いと目され、数々の難事件を解決に導いていた特に優秀な学生刑事だった。
その事件を皮切りに他の学生刑事及びエージェント達も、R機関によって、ある者は殺害され、ある者は意識不明の重体へと陥っていった。
それでもやはり、警察の動きは芳しくなかった。かつて「マッポの手先」と蔑まれた学生刑事は、いともあっさりと警察に見捨てられた。

やがて、最後の暗闇機関の幹部が、彼自身が殺害される直前に、全ての学生刑事及びエージェントに対し、最後の指令を下す。
「襲い来る敵を倒し、仲間の学生刑事達を守れ」と。
この危険で困難な状況から逃げ出そうとする学生刑事は、一人もいなかった。そこは全員、暗闇指令が直々に選んだ、本物の戦士達だったのだ。
かつての関根蔵人によるクーデター未遂事件等の教訓を経て、暗闇機関と学生刑事機構の体制を抜本的に見直し、学生刑事には以前にも増して、選びに選ばれ抜いた者だけをスカウトし、彼らの心のケアにも丁寧に対応してきた。

学生刑事達は生き残ったエージェントの助けを得ながら、様々な抵抗を繰り返し、いくつか画期的と言える善戦もし、幾人ものR機関の工作員達も捕らえてきた。捕まった者の中には、複数の幹部クラスもいた。
だが結局、暗闇機関を含めた組織として上手く戦えない彼らは、きちんと組織として動き、様々な情報技術を駆使したうえで、銃で武装したR機関の前に次々と敗れていった。
R機関の工作員達は、概ねかなり練度の高い訓練を受けており、仮に捕らえられ、暗闇機関のエージェントによる厳しい尋問を受けても頑として口を割らなかった。
辛うじて聞き出せた情報は「R機関」という彼らの組織の名称と、「R」がボスの名の頭文字ということのみ。秘密を口にした工作員は、自白した当日の深夜、自害した。

やがて、暗闇指令暗殺からわずか一か月余りで、暗闇機関はほぼ壊滅に追い込まれることになる。
しかしながら、麗奈にとって一番肝心な麻宮サキの所在だけは、未だに杳として掴めなかった。

暗闇機関において最後に残った学生刑事がいた。彼女の名は「雨宮優子(あまみやゆうこ)」。
学生刑事機構の議長を務め、ヨーヨーを扱う技術も抜群に秀でていた雨宮優子は、仲間からの信頼も厚く、元々一匹狼的な性格の強い学生刑事達を上手くまとめてきた。
さらに自身へのR機関の執拗な追撃をかわし続けながら、仲間を助けるために昼夜を問わず奔走していた。
しかし暗闇機関という組織の支援をほとんど失った状態では、おのずと抵抗にも限界があり、優子は次々と仲間を失っていった。

ある日、優子は生き残った全ての学生刑事達で、起死回生を図る奇襲作戦に打って出た。
だがそれは、麗奈が仕掛けた冷酷な罠だった。
ある一人の仲間の「裏切り」により、優子は自分の武器である重合金ヨーヨーを失い、そこにR機関の攻撃を受け仲間達が次々と倒されていく。
絶体絶命のピンチに陥った優子だったが、かろうじて一艘のモーターボートを奪い、その場から脱出することができた。

黒髪のポニーテールと、所々を仲間の血で赤く染めた夏服のセーラー服を激しく潮風にはためかせながら、雨宮優子が必死に洋上をモーターボートで疾走する。
外洋の海は波も高い。幾度も波に乗り上げボートが激しくバウンドする度に、優子はスロットルを素早く戻し、着水と同時にスロットルを開ける。その操作を何度も繰り返す。
すでに遠くの後方には、高く水しぶきを上げながら追いかけてくる、敵の白いモーターボートの姿が優子の目に捉えられていた。その距離は僅かながらも徐々に縮まりつつある。
やがて燃料計の警告灯が赤く灯り、モーターボートの燃料が底をつき始めたことを知らせた。多少距離はあるが、操縦席から見える一番近い島へと優子は向かうことにした。
「なんとかあの島まで! 頼む! 燃料、なんとかもってくれ!」
だが、あっという間に燃料計の針はエンプティを指し、ついにはエンジンから異音が発生し始めるとボートの速度もみるみる落ちていく。
それでも敵のボートに追いつかれる前に、優子は無人島となっている目的の島まで辛うじて辿り着くことができた。

島には過去、人が住んでいた形跡があり、海岸にはかつての船着き場とみられる朽ち果てた木の桟橋の残骸と、島の奥には一部が崩壊し廃墟となった様子の大きな建物が見えた。
優子は船着き場近くの岩場にモーターボートを止めると、打ち寄せる波のタイミングに合わせ、素早く上陸する。
だがすぐに工作員が乗るモーターボートが追いつき、彼らは優子を目がけ容赦なく拳銃を発砲した。
優子の側に生えていた雑草の葉が次々とちぎれ飛び、灌木の枝が折れ、幹に弾丸がめり込む。
優子は敵の銃弾に追い立てられながら、島の奥にある廃墟の中へと必死に逃げ込んでいった。

R機関の工作員が持つ銃は、米軍もⅯ9の名称で制式採用する自動拳銃、ベレッタⅯ92FSで統一されている。
その拳銃の弾倉には十五発の銃弾を装填できる。予備として複数の弾倉を持つ工作員が、素手の優子一人に銃弾を節約する必要性はほとんどない。
ベレッタの銃口から吐き出される九ミリ弾を派手にばら撒きながら、五人の工作員が廃墟の中で、優子を徐々に追い詰めてゆく。

壁や天井が黒くくすんだ、薄暗くカビ臭い廃墟の中を敵から逃れようと走り回るうちに、優子は廊下に転がる一本の赤茶けた、頑丈そうな金属の棒を見付けた。
あまりこういった、凶器といえるものを使うことなど良しとはしない優子だったが、武器となるヨーヨーを失った今の自分に、悠長なことを言う余裕はどこにもない。素早く金属棒を拾い上げ、肩に担ぎ上げると、すぐに廃墟の奥へと走り去った。
やがて手分けして自分を探す敵工作員の一人を発見し、気配を消し、音を立てぬよう背後から近づく。敵工作員は左右を見回しながら、廃墟の奥へと進んでいくが、まだ自分に気付いた様子はない。
ふいにその工作員が立ち止まるそぶりを見せるやいなや、優子は素早く廊下の角に逃げ込んだ。
間に合った? 敵に姿を見られなかったか?
優子は金属棒を握りしめる手に、ギュッと力を込めた。
手のひらに汗をかいているのを自覚したが、茶褐色の錆がうまい具合に滑り止めになってくれそうだ。
黙って耳を澄ませると、かすかに聞こえる工作員の足音が、徐々に遠ざかっていく。
廊下の角からそっと身を乗り出し覗いてみると、やはり工作員は自分には気付いていない様子で銃を構えながら歩いていた。
再び静かに工作員の跡をつけ、やがて敵のすぐ背後まで近づいた優子は、錆びだらけの金属棒をゆっくりと振り上げると、工作員の頭部を目がけて一気に叩き付けた。
「ウッ」と短いひと言を発した工作員は気を失い、ベレッタを手にしたまま、リノニュームが剥がれコンクリートが剥きだしになった廊下に倒れ込もうとする。
優子は工作員が音を立てないよう襟首をつかんだ後、背中で体を支えたが、工作員の手から拳銃が落ちそうになり、思わずその銃を手で掴んだ。
基本的に、学生刑事に拳銃の使用は許可されていない。正当防衛か緊急避難時のみ、使用した場合は一切責任を問われないことにはなっている。だが優子に拳銃を使う気はなかった。
これまで、数多くの仲間の命を奪ってきたベレッタⅯ92FSの黒き銃身は、忌むべきものの象徴でもある。そんなものを手にすることさえ、優子には唾棄すべき行為に思えた。
嫌悪感を抱きながらも優子はベレッタから弾倉を抜き取り、それらを別々の部屋に隠すと、次の工作員を探すべく、静かにその場を離れた。
それから五分と経たないうちに、別の工作員を二階の薄暗い廊下で発見した優子は、また同じように敵の背後へと、そっと忍び寄る。
音を立てないよう足元に全神経を集中させ慎重に敵に近づき、二メートル、一メートルと徐々に間合いを詰めていった。
工作員は優子に気が付かないまま、前を向いてゆっくりと歩いている。優子が金属棒を静かに持ち上げた。
今だ!
しかし、ハッと優子の殺気に気付いた工作員が、振り向きざまに拳銃の引き金を引き絞ると、轟音と共にベレッタの銃口から吐き出された九ミリ弾が優子のスカートごと左足をかすめていった。
太腿に激しい衝撃を感じながら、優子は手に持つ赤茶けた金属棒で工作員の右側頭部に強烈な一撃を与えた。だが、工作員も気を失う寸前、もう一度引き金を引き、放たれた銃弾が優子の右脇腹をかすめていく。
火箸でえぐられたような、熱さと痛み。
衝撃と激痛で壁ぎわに倒れ込んだ優子の手を離れ、金属棒は耳障りな音を立てて廊下を転がり、さらに下の踊り場へと階段を転がり落ちていった。
銃声と金属音を聞き付けた他の工作員の走る足音が、遠くと近くから廃墟にこだましながら聞こえてくる。
優子は歯を食いしばって痛みに耐え、壁に赤くべったりと血痕を付着させながら無言のまま立ち上がると、すぐに走り去った。
幸い撃たれた傷自体は、それほど深いものではない。皮膚と少しだけ肉をかすめ取られただけだ。とはいえ、二つの傷口からの出血は、簡単には止まりそうになかった。
敵の三つの足音はますます近づいてきた。

ついに優子は廃墟の奥の、とある一室に追い込まれた。この部屋の先にもう逃げ場はない。
優子の血痕を追って、いずれ工作員がここにたどり着くのは、ただ時間の問題に過ぎない。

優子が逃げ込んだ埃っぽい部屋の中には、へし曲がった金属の柵、アルミ製と見られる配管の一部など、大小様々なガラクタが散乱しており、壁や天井は一面、黒い煤で覆われている。煤の色はかなり薄れかけていて、この建物に火災が起きた後、長い時間が経過し、今日までずっと放置されてきたことを示していた。
部屋の奥、黒ずんだ天井の隅には、ぽっかりと大きな穴が開いており、その下には断面が白い、崩落したばかりと思われるコンクリートの欠片がいくつも落ちている。あるいは先日東京湾で起きた大きな地震によって、脆くなっていた部分が崩れ落ちたものかもしれない。

優子は失血の影響か、先ほどからめまいを感じ始めていた。ハンカチを傷口に押し当てて血を止めたいところだが、優子は銃で撃たれた仲間の止血をした時に自分のハンカチを使い、そのままになっていた。
「とにかく血を止めなきゃ」と、セーラー服の赤いスカーフに手を伸ばしかけた時。
カツッ
さっきまで消えていた敵の足音が、再び遠くから響いてきた。すぐにそれは、ゆっくりと近づいて来る。
敵は足音をたてることを、それほど気にしていないようだ。
優子の手元に、すでに武器はない。めまいも強さを増し、足元もおぼつかなくなり始めた。
白いソックスを赤く染める、太腿の傷口から流れ続ける鮮血と、自分の血でぐしょぐしょに濡れた夏服のセーラー服。優子は自分の脇腹を見たあと、壁にもたれながら顔を上げ、煤にまみれた黒い天井を眺めた。
天井はめまいに歪み、やがてグルグルと回転し始めた。徐々に膝にも力が入らなくなりつつあり、壁を支えに立っているのがやっと、というありさまだ。
ヨーヨーを失い、自慢の体術もろくに使えそうにない今の状況では、銃を持つ複数の敵工作員を倒すことなど、ほぼ絶望的と言わざるを得なかった。

無残に殺された仲間の仇をとるまでは、何としても生き残る。その一心でここまで逃げ続けてきた。しかし、たった一人での逃避行も、このガラクタと埃にまみれた薄汚い部屋が、ついに終着点のようだ。
(私も、いよいよここまでか。ごめん、みんな。あんた達の仇、取れそうにないや)
諦めかけた優子の右の目から、ポロリと溢れた一筋の涙が頬を伝い、静かに床に落ちた。

その時。

優子は涙で歪む視界の端に、くすんだ廃墟には場違いな、一個の赤い色をした物体を捉えた。
部屋の隅に白い断面を晒して散らばる、大小様々なコンクリートの破片に混じって転がっていた物は、見覚えのある丸い形をしていた。
自分が暗闇機関から支給されたヨーヨーに似たそれは、だが少し太く見えた。
「まさか……」
脇腹と太腿の激痛に耐えながら慌てて駆け寄り、優子は左手を伸ばして砂ぼこりにまみれた丸い物体を拾い上げた。
それは赤い側面に三つの同心円状の輪を持ち、銀色の本体にいくつかの傷を残した、間違いなく金属製のヨーヨーであった。
自分が持っていたものよりもかなり太く、見た目以上にずっしりと重い。
ヨーヨーの赤い側面を開くと、そこには確かに鈍い金色をした桜の代紋があった。
「なぜ、こんなところに……」
しかしよく見ると、ヨーヨーのチェーンは途中で切断されている。
(クッ! これでは使えない……。はっ、そうだ!)
一瞬失望しかけた優子だったが、すぐに自分のポケットの中に予備のチェーンがあることを思い出した。
スカートの右ポケットに手を入れると、触り慣れた極細のチェーンが持つ、滑らかな金属の触感があった。手錠を支給されていない学生刑事が、容疑者を拘束する際にも使用するヨーヨーのチェーン。
問題は、敵がこの部屋に入って来るまでに、チェーンを付け替えることができるか。
何より、自分が持っていたものよりも遥かに重いこのヨーヨーに、自分のチェーンが耐えられるかどうかだ。

優子は静かにヨーヨーの側面を閉じると、急いで元のチェーンを外し、自分が持つチェーンに付け替える。
この作業はこれまで何度も繰り返し行ってきた。しかし、銃による傷の痛みとめまいを抱えながらの、薄暗い部屋の中での作業に優子は焦りを禁じ得ず、指先が細かく震えてしまう。額から流れ落ちてくる汗が目にしみて、どうにも鬱陶しかった。

(よし、なんとか間に合った!)
廃墟に響く足音から推察すると、敵がいる位置はこの部屋からはまだ少し距離があるように思える。あとは新しいチェーンが、なんとか耐えてくれることを祈るしかない。
優子は左手で太いヨーヨーをがっしりと掴むと、素早く部屋の隅に立つコンクリートの太い柱の陰に回り込み、静かに息を潜めた。

頬に長い傷を持つ一人の工作員が優子の血の跡を追跡し、両手でベレッタを構えながら優子が潜む部屋に足を踏み入れた。
すかさず、銃口を左右に振る。
ガラクタが散乱する部屋に優子の姿は見えなかった。
(だが奴は間違いなくこの部屋のどこかにいる。あいつは俺の獲物だ。しかし、あれだけの器量を持った奴をただ殺すのはちょっともったいない。その前に少しいたぶり、楽しませてもらおうか)
自らの猥雑な想像に興奮した工作員の顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。

傷の痛みを必死に耐えながら、息を殺し柱の陰に潜んでいた優子は、かすかな「ジャリッ」という足音を耳に捉えると、緊張のあまりヨーヨーを固く握りしめていた左手からほんの少しだけ力を抜いた。
すぐに黒い服を着た工作員の姿を自分の視界に捉えた刹那、敵を目がけサイドスローでヨーヨーを投げ放った。
愚かな妄想で油断をし、ヨーヨーをもろに胸に食らった工作員は、六メートル以上も吹き飛ばされ、激しく壁に激突して崩れ落ちる。銃を持った男の右手がパタリと床に落ちて動かなくなった。
だが、戻ってきた極太のヨーヨーを掴んだ瞬間、優子はあまりの衝撃の強さに驚愕し、同時に困惑した。
「痛いっ! 何これ……。当たれば威力はすごいけど、このヨーヨーはそう何度も使えないわね」

ヨーヨーを左手で構え、血泡を吹き白目を剥いて失神している工作員を横目で見ながら、優子はそっとガラクタまみれの部屋を出る。
次に廊下で出くわした工作員も、優子は極太のヨーヨーの一撃で弾き飛ばした。敵は銃弾を一発も放つことなく、血反吐を吐きながら吹き飛び、コンクリートの壁に頭から激突して気絶した。
しかし、たった二度ヨーヨーを使っただけで、優子の左腕はひどく痛み、すでに痺れ始めていた。
(あーっ、痛いっ! だけどこんな凄いヨーヨー、いったい誰が使ってたんだろう?)

刻々とめまいが強くなるのを自覚した優子は、時間をかけて残りの工作員を見付け出す余裕はないと判断し、先にモーターボートでこの島から脱出することを選択する。
自分が乗ってきたモーターボートにはすでに燃料はない。ならば、工作員達のモーターボートを奪おうと船着き場へ向かうことにした。
鍵はボートに付いたままだと信じるしかないが、なければ、その時はその時だ。なんとかして最後の工作員を倒し、一人ずつ工作員の服を調べればよい。
だが、敵のモーターボートが着岸し、最後の工作員が降りたタイミングを、走りながら振り向きざまに目撃した優子は、敵がボートからキーを抜く時間の余裕はなかったと判断した。

外に敵がいないことを確かめ、廃墟から勢いよく飛び出すと、優子は船着き場へと一気に走り出す。
撃たれた傷の痛みを必死に耐えて、めまいが起こる度にもつれそうになる両足を懸命に前に出した。

船着き場の、敵のモーターボートまであとわずか二メートルというところまで来た。
波にあおられ大きく揺れているモーターボートに、どうやって飛び移ろうかと考えた時、優子のそばの地面に次々と銃弾が着弾し、土埃が跳ね上がった。
「残念ながらそこまでだ。雨宮優子」
振り向いた優子の目の前に、最後の工作員が姿を現し、ニヤリと唇を歪めると、すかさずベレッタの引き金を絞る。
優子は工作員の銃撃を必死に避けながらも、次第に海沿いにある、高台の崖へと追い込まれていった。

失血のせいで、優子は視界そのものがぼやけ始めた。敵の姿も二重・三重に見える。
優子をもてあそぶかのように、工作員がベレッタⅯ92FSを乱射した。
「雨宮優子! これでお前達、学生刑事も全滅だ! ハハハハハ!」
甲高い笑い声をあげながら、工作員がベレッタを撃ち続けた。
優子の背後で足元の遥か下から、荒々しい波の音が聞こえてくる。
「どうした! 学生刑事さんとやら! 俺を逮捕してみろ! ハハハハハ!」
ベレッタから放たれた九ミリ弾が、ヒュンと風を切る音と共に優子の身体をかすめていく。
必死に敵の銃弾をかわしながら、優子は最後の力を振り絞り、極太のヨーヨーを投げ放ち工作員の胸にぶつけた。
同時に敵の銃弾を肩に浴び、凄まじい衝撃で後ろへ吹き飛ばされた優子は、そのまま、なすすべなく荒れ狂う大波の中へと落ちていった。

一度海中深く沈み込みながらも、優子は意識を失うことなく、かろうじて海面に浮上した。
ただでさえ痛い銃による傷に、海水が強く沁みる痛みが加わるせいで、なんとか意識を保つことができている。
だがそれも、もう限界のようだ。
自分は仲間の仇を打つことなく、このまま海に沈んでいくのか……。

朦朧とした意識の中、優子は自分の霞んだ視界の隅に、波間に浮かぶ薄茶色の物体を捉えた。それは一本の流木に見えたが、荒波にもまれ浮かぶだけで精一杯の自分に、そこまで泳いでいく体力は明らかに残されていない。
優子はヨーヨーで流木を引き寄せようと考え、見事一度でヨーヨーを流木の枝に巻き付けることに成功すると、必死に両手でヨーヨーのチェーンを手繰り寄せていく。
(仲間の……仇を……取るまでは…………絶対に……死ねない!)
思った以上に太かった流木にしがみついた瞬間、優子の意識は急速に深く暗い闇の底へと沈み込んでいった。

台風六号による土砂崩れによって東京湾に流れ出て以来、長く孤独な漂流を続けていた流木は、今、一人の少女という道連れを得て、再び広い海原を漂い始めた。



「グズグズすんな! 早く寄せろ!」
「たい子さん。ありゃあ土座衛門だよ。せっかく獲った魚が穢れっちまう」
「うるさい! いいから早く拾い上げろ! これは船長命令だ!」

最初、ボロ切れが絡まっているだけに見えた大きな流木には、近付くにつれはっきりと人が、それも若い女性がしがみついているのが確認できた。
半袖のセーラー服を着た女子高生とおぼしき女性は、流木とチェーンで絡まっているようで、海に飛び込んだ漁船員が、まずは女の子の指からチェーンを外そうとしたが、ギュッと固く握りしめられた指は死後硬直のせいか、なかなか開かない。
仕方なく船員はチェーンが絡まっていた木の枝をへし折り、他の漁船員も手伝って、なんとか木の枝ごと女の子の体を漁船の甲板の上に引き上げることができた。
しかし、濡れた黒い髪の毛に、緑や茶色い海藻を絡ませた若い女性の生白い顔面は、とても生きた人のものとは見えず、漁船員の中には胸の前で手を合わせる者さえいた。
それでも、女の子の頸動脈に手を当てた、濃い髭を生やした船員は、自分の指先に弱いながらも確かに規則的なリズムを感じ取った。
「脈がある! この子、生きてるぜ!」
「うおーっ!」
「ヨッシャー!」
漁船の全乗組員が大きく歓声を上げる。
彼らの喜びの声を聞きながら左腕に毛布を抱え、右手に薬箱を持って船内の奥から出てきた沖合底引き網漁船・唐沢丸の船長吉田たい子は、ひげ面の船員にしっかりと抱きかかえられた少女の、細い指からのびる赤いヨーヨーを見た瞬間、思わず息を吞んだ。
「この子、まさか……」

つづく

 

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三日月 秋
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。