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ヨコハマ・ラプソディ 18 赤い電話器
十八.赤い電話器
横浜から帰ったあと、魂の脱け殻と化した俺は、また自分の部屋の中でゴロゴロと無為に過ごすようになった。大学の授業にもまったく出なくなり、小説にも手を付けず、ただ漫画だけを読んで長い一日を潰していた。
それでも十二月に入るとすぐに「寮祭」が行われることもあり、ずっと部屋に閉じこもってばかりもいられない。寮祭の実行委員長を、寮自の副委員長である高橋に任せて、俺は今回の寮祭の目玉でもある、演劇集団「炎の旅団」の手伝いに回った。
寮の中庭で行われた公演は、予想以上に法文大生を始めとした多くの観客を迎え、大きなトラブルが起きることもなく、俺たちは盛況のうちに寮祭を終わらせることができた。
それとこの年の正月、俺は初めて佐賀に帰省しなかった。今、母親に会えば、嫌でも志織のことを思い出してしまう。
ほとんどの寮生が帰省でいなくなる大晦日と元日の二日間、俺と七人の寮生は「越冬隊」と呼ばれる寮の特別防衛体制に加わった。といってもなんのことはない。二階のロビーに畳を敷いて毛布やこたつを集め、みんなで酒を飲んで騒ぐだけのことである。
そうやって、あれこれ体を動かし、仲間たちとどんちゃん騒ぎをしている時だけは、心の痛みが薄らぐこともあったが、抉り取られた俺の胸に開いた大きな空洞が、一ミリも埋まることはなかった。
そうやって日々の寮生活を過ごし、やがて志織と別れてから三ヶ月が経とうとしていた頃の、朝から降っていた冷たい雨が夕方には雪に変わった日の夜。
来月から始まる今年の入寮情宣について話し合っていた執行委員会は、思った以上に長引いていた。
本来なら、情宣ビラの文面を確認するだけですぐ終わるはずだったのだが、女性会議の代表で執行委員の小泉さんが、「『ギメル神聖教』が受験生を勧誘しようと入寮情宣の現場に現れたら、『正統研究会』と同じように対応するんですか」と質問してきた。
「ギメル神聖教」とは、「ギメル聖神の会」から改称した宗教団体で、信者を無理やり「出家」させたり、信者に対し高額のお布施を要求したりしている、などの良くない噂が最近聞こえ始めていた。
執行委員の意見は割れて、議論はなかなかまとまらなかった。
結局、「現時点ではまだ噂の段階でしかないから、これから『ギメル神聖教』の情報を集めることにして、そのあとで改めて方針を決定しよう」との俺の意見を一応の結論として、その場はお開きとなった。
そうしてようやく執行委員会が終わった、午後十一時頃。俺は風呂に入ろうと洗面器を抱えて三階の自分の部屋から一階の風呂場へ向かっていた。
三階から二階のロビーに続く階段を下り始めてすぐ、俺は寮の電話のベルが鳴っていることに気が付いた。
受付終了後の夜中にも、電話のベルが鳴ることはちょくちょくあることだが、なぜかこの日は、この時だけは、今鳴っているベルが志織からかかってきた電話だと直感した。そんな気がしたのは初めてだった。
俺は猛ダッシュで、三階から二階、二階から一階へと階段を駆け下りた。
持っていた洗面器から転がり落ちた石鹼箱やシャンプーが立てる派手な音がしたが、構いやしない。しまいには洗面器さえも放り投げて俺は一階へと走った。
階段を下りながら、俺は志織と別れた時の、最後の会話を思い出していた。
「気が向いたらまた電話して」
「うん、電話する」
別れる間際、志織は確かにそう言った。
言ったよな、志織。
これが、その電話だよな。
一階に着いた。まだベルは鳴っている。鳴っているのは黄色ではなく赤い方だ。
やはり、いつも志織が俺に電話をかけてきてくれた、あの赤い電話器だ。
俺は慌てて電話器を目掛けて駆け寄った。
俺が必死に手をのばし、目の前のベルが鳴る赤い受話器を掴む直前。
電話は鳴り止んだ。
《あのベルはきっと、間違いなく志織からの電話だと、俺は今でも信じている。
なぜなら……》
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