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ヨコハマ・ラプソディ 18 赤い電話器

十八.赤い電話器  

横浜から帰ったあと、魂の脱け殻と化した俺はまた自分の部屋の中でゴロゴロと無為に過ごすようになった。大学の授業にもまったく出なくなり、小説にもあまり手を付けず、ただ漫画だけを読んで長い一日を潰していた。
そんな、志織と別れてから三ヶ月が経とうとしていた頃の、朝から降っていた冷たい雨が夕方には雪に変わった日の夜。
来月から始まる今年の入寮情宣について話し合っていた執行委員会は、思った以上に長引いていた。
本来なら、情宣ビラの文面を確認するだけですぐ終わるはずだったのだが、女性会議の代表で執行委員の小泉さんが、「『ギメル神聖教』が受験生を勧誘しようと入寮情宣の現場に現れたら、『正統研究会』と同じように対応するんですか」と質問してきた。
「ギメル神聖教」とは、「ギメル聖神の会」から改称した宗教団体で、信者を無理やり「出家」させたり、信者から高額のお布施を要求したりしている、などの良くない噂が最近聞こえ始めていた。
執行委員の意見は割れて、議論はなかなかまとまらなかった。結局、現時点ではまだ噂の段階でしかなく、今後「ギメル神聖教」についての情報を集めてから方針を決定する、との一応の結論で、その場はお開きとなった。

そうしてようやく執行委員会が終わった、午後十一時頃だった。俺は風呂に入ろうと洗面器を抱えて三階の自分の部屋から一階の風呂場へ向かっていた。
三階から二階のロビーに続く階段を下り始めてすぐ、俺は寮の電話のベルが鳴っていることに気が付いた。
受付終了後の夜中にも、電話のベルが鳴ることはちょくちょくあることだが、なぜかこの日は、この時だけは、今鳴っているベルが志織からかかってきた電話だと直感した。そんな気がしたのは初めてだった。
俺は猛ダッシュで、三階から二階、二階から一階へと階段を駆け下りた。
持っていた洗面器から転がり落ちた石鹼箱やシャンプーが立てる派手な音がしたが、構いやしない。しまいには洗面器さえも放り投げて俺は一階へと走った。
階段を下りながら、俺は志織と別れた時の、最後の会話を思い出していた。

「気が向いたらまた電話して」
「うん、電話する」

別れる間際、志織は確かにそう言った。
言ったよな、志織。
これが、その電話だよな。

一階に着いた。まだベルは鳴っている。鳴っているのは黄色ではなく赤い方だ。
やはり、いつも志織が俺に電話をかけてきてくれた、あの赤い電話器だ。
俺は慌てて電話器に駆け寄った。
俺が必死に手をのばし、目の前のベルが鳴る赤い受話器を掴む直前。

電話は鳴り止んだ。

《あのベルはきっと、間違いなく志織からの電話だと、俺は今でも信じている。

なぜなら……》



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三日月 秋
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