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絶望から初出場への歴史的転換点~1998フランスW杯アジア予選 日韓戦@ソウル

1998年、日本は初めて、サッカーのワールドカップ本大会に出場しました。今でさえ、7大会連続で本大会出場を果たしていますが、忘れてならないのは、ものごとには必ず「初めて」ということがある、ということです。

当時、2002年の日韓共同開催は既に決まっており、1998年のフランス大会に出場できないと、「史上初、本大会未出場国がホストカントリーになる」というありがたい汚名を、永遠にいただくことになります。
ですから、アジア予選突破は「悲願」などという生易しいモノではなく、「至上命題」、いわば「必達目標」であったわけです。

今回のカタール大会でも、最終予選3節終了時で勝点3、という最悪のスタートだった訳ですが、この時の苦しさに比べれば、屁でもないです。
今から考えると、これぞ産みの苦しみというやつだったなと思いますが、当時は必死でした。

そんな中、最終予選の分水嶺となったのが、1997年11月1日に行われた、韓国との一戦でした。

私は、西村幸祐氏、後藤健生氏、湯浅健二氏という錚々たるサッカージャーナリストが主催する、2泊3日のソウルツアーに申し込み、現地で代表チームをサポートすることにしました。
韓国へ行くのも、もちろん「ナショナルチームを外国で応援する」のも、産まれて初めて。
何もかもが新鮮で、いろんなことが感じられ、ものすごく貴重な体験となりました。

以下は、私の渡韓記です。
もう25年も前なので、拙い文章で恥ずかしい限りなのですが、なるべく当時のとおり手を加えずに、掲載しようと思います。
とっても長いので、興味のない方は無視して下さい。

ちなみに、もうひとつのワールドカップ - 燃えたぜ!! 我らサポーターという本にも、当時、抜粋掲載されました。

どれだけ苦しい状況だったか、まず説明しよう

日本は、1次予選を難なく(5勝1分0敗)1位通過した。
計10チームで争われる最終予選で、日本は、韓国、UAE(アラブ首長国連邦)、ウズベキスタン、カザフスタンからなるB組に入り、ホーム&アウェイの計8試合を戦うことになった。

当時W杯のアジア出場枠は、「3.5」だった。
各組1位の2ヵ国が本大会出場権を獲得し、各組2位同士で第3代表決定戦を行い、この勝者が3番目の出場権獲得。
敗者がアジア4位としてオセアニア1位との大陸間プレーオフに回りその勝者が本大会出場というレギュレーションであった。
 
最終予選で日本は、苦戦していた。
ホーム国立競技場で韓国にまさかの逆転負けを喫し、中東~中央アジアのアウェイ戦でも勝ちきれない試合が続いていた。
第4節、アウェイのカザフスタン戦は、タイムアップ寸前に追いつかれ、負けに等しい引分けを喫してしまった。
試合終了後、加茂周監督は現地で電撃更迭され、岡田武史ヘッドコーチが監督に繰り上げ就任した。
もちろん、アジア予選中の監督交代など前代未聞だったし、日本サッカー協会もそれぐらい切羽詰まっており、緊急スクランブル状態だった。

で、監督交代というカンフル剤が速効したのかと言えば、そうは上手くはずもなく、岡田監督になっても「引分け病」は続いた。
特に6節は2位浮上の絶好機であったホームUAE戦を、またもや引分けてしう。
その結果、1勝4分1敗、勝点を伸ばせず自力2位が消滅し、試合後には国立競技場周辺でサポーター暴動が勃発した。
方や韓国は、2節を残してB組1位が確定しており、つまりW杯本戦切符を既に手にしていた。
6節終了時点でのB組各国(勝点)の順位は、以下のとおりである。
①韓国(16)、②UAE(8)、③日本(7)、④カザフスタン、⑤ウズベキスタン

つまり日本は、残り2節で勝点を積み上げ、UAEが取りこぼしてくれるのを祈るという、もう後がない状況だった。

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