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vol.164「ヒロシマ、ナガサキをはしごした夏。とっさに『原稿』を書いた話。

1945年7月25日 原爆投下指令書。「8月3日頃以降、天候が許し次第、広島、小倉、新潟、長崎のうちの一つに、最初の特殊爆弾を目視攻撃により投下することとする」
8月2日 グアムの航空軍指定部から発令。「第20航空軍は8月6日に日本の目標を攻撃する。第1目標:広島、第2目標:小倉、第3目標:長崎」
8月5日21時20分 観測用B-29が広島上空を飛び「翌日の天候は良好」と報告。

8月6日 0時37分 気象観測用のB-29が3機、先発隊として離陸。広島、小倉、長崎へ向かう。
同1時45分 エノラ・ゲイが離陸。広島へ向かう。
同6時30分 爆弾の投下準備を完了。機長から搭乗員へ、運んでいるのは世界初の原子爆弾であると初めて明かされた。
同7時15分頃 先行機から気象報告。投下目標が広島に決定。
8時9分 エノラ・ゲイが広島市街を目視で確認。観測用の機器を落下傘で投下。
8時12分 機を自動操縦に切り替え。爆撃手が照準器に高度・対地速度・風向などを入力。投下目標を相生橋に合わせた。

8時15分17秒 原爆「リトルボーイ」が自動投下された。
(Wikipediaをもとに要約)


◆遅れてやってきた修学旅行。

前回の辰年、2012年の8月6日(確認すると月曜日)。はじめて広島の平和記念公園を訪れた。

前日まで大阪で、朝倉千恵子社長(株式会社新規開拓)の「営業力強化セミナー」を受講して、あとは福岡まで帰省するだけ、というタイミング。
朝、ホテルで平和記念式典のTVニュースを観て、「あ、途中下車すれば行けるじゃん」と思いついて、急きょ決めたものだ。

修学旅行が長崎、南九州、北海道だったから、ヒロシマには行ってない。8月6日当日に行ける機会はそうそうない。
急いで着替えてチェックアウトして、新大阪駅へと向かった。

路面電車を降りると目の前に原爆ドーム。
公園内には祈りの像、平和記念像、平和の池と慰霊碑。
資料館では、変形した鉄骨。
焼け焦げた三輪車。
止まった時計。
人影の焼きついた石。
女の子の残した折り鶴。

爆発時のリトルボーイと市街地模型の距離の近さに、「これは助かるわけない...」と生々しい恐怖を覚える。主義主張とか信条を抜きに、一度は自分の目で見ておくものだと思った。

実行に移してよかった。これまでの半生でも記憶に残る、有意義な休みだった。

◆登校日の意義を、今さら知る。

小学校当時、夏休みの登校日といえば8月6日だった。ヒロシマと、8月9日のナガサキについて、毎年平和授業が行われた。

「広島では約21万人、長崎では約7万人。平地の広島と起伏のある長崎とで、死者の数が大きな差となった」
「最初、小倉へ向かったけど、曇っていたために長崎へと目標が変更になった」
と教わったと覚えている。その日の天気、地形、どこに居合わせたかで、大勢の人々の生死が決まったことに、心がひんやりした感覚が残っている。

同時に、子ども心に、ヒロシマに比べて扱いがなんとなく地味であること。その要因は、世界初でなく二回目であること、犠牲者がヒロシマのおよそ3分の1と"少なかった"からだろう、と感じていた。

Wikipediaで確認すると、
・小倉上空の視界を妨げたのは雲(だけ)ではなく、前日の八幡空襲の残煙だったこと、
・攻撃機到達時には長崎上空も厚い雲に覆われていたこと。目視が不可能な場合は原爆を太平洋に投棄せねばならなかったこと(目視での投下が厳命されていた)、
・命令違反となるレーダー爆撃での投下を行なおうとして、雲の切れ間から市街地が見え、手動投下に切り替えたこと。
・当初目標の市街中心部から3kmほどそれた位置で爆発したこと、
等の記述がある。

広島での攻撃機エノラ・ゲイが、8月9日の小倉方面の観測機として参加していたことは、調べて初めて知った。小学生のときはスマホもGoogleもWikipediaもなかったけど、こうして読むと、無数の偶然の重なりの上に人の命が載せられていることを、あらためて強く考えさせられる。

2つの原爆投下の瞬間、たとえば私の両親は福岡近郊にいたから、「小倉か長崎か」の影響はなかっただろう。けれど、その後のそれぞれ人々との出会いや、人生の交錯(無数の"バタフライ効果"を含めて)を思えば、『自分がいまここに、こうして存在していること』は、ほんの運命のアヤの結果なのだ。

◆間に合ったナガサキ。

広島経由で実家に帰省して、三日経った、8月9日の朝。「そうだ、長崎に行こう」と思い立つ。同じ年に、広島と長崎の両方、当日訪れるチャンスは、あと何十年かやってこないだろう。いま行っておくべきだ。

「ナガサキ」は、11時02分だったから、今から移動しても十分まにあう。
父にJRの駅まで送ってもらい、特急に乗って長崎駅へ。路面電車に揺られて、平和公園へ。式典の開始前に間に合った。巨大なテントの下の一般席に座ることができた。

開会までのあいだ、座っていると、知らない人から声をかけられる。
「ちょっとお話よろしいでしょうか?」
イヤホンや筆記具を持ってたから、関係者か、取材か何かだろうと推測した。でも何の用件だろう。

「RKBラジオの者です。今日はどちらからいらっしゃったのですか?」
「あ、はい。いまは東京に住んでるんですけど、帰省で戻ってて、一度ぐらい当日の記念式典に参列したいと思って...」

「ありがとうございます。できればこのあとの中継で一緒に登場頂きたいのですが」
「え、ああ、いいですよ」

福岡地元の毎日系の放送局。大勢いる参列者の中から、どうやって私を選んだのか、いまだに分からない。「迷ったら希少価値の高いほうへ」と決めていたから、承諾してみた。
こうして、生まれてはじめて ラジオ番組の生中継に出ることになった。

◆話すときは「原稿」を準備する。

名前と、今日はどこから来たか等、プロフィールを確認され、本番での流れを簡単にレクチャされる。福岡のスタジオと携帯で事前の確認やり取りする女性リポーターさん。

「まもなくです。」
「はっ」
「私から振ります。今日来られた経緯、目的を簡単にお話ください」
「はい」
「では本番です」
「はい、はい」
「こちら、長崎平和公園の記念式典会場です」

(はい、いいですよ)

「東京都から来られた、39歳の会社員
 やました たくや さん
に お話を伺います」

思わず一瞬苦笑い。年齢+フルネームまで紹介されちゃうのですね。

でも、考えてみたら、ラジオ放送って、画像も文字テロップもないから、情報を伝えようとしたらそうなる。

「はい。帰省の機会を利用して、一度は記念式典に参列したいと思ってきました。来てみて、自分の目で感じて、ほんとうによかったです」

直前に頭のなかで推敲した原稿に沿って、まずまず許容範囲のコメントをしたと記憶している。
こうして人生初のラジオ生出演は、無事に終わったのでした。


なにか急に振られたとき、「2分後にスピーチしてもらいます」と言われたようなとき。できれば紙に書き出し、それができない状況なら頭の中で原稿をすぐに書けるかどうか。
能力というよりは、習慣の占める要素が大きいと感じる。

最後までお読みくださりありがとうございます。


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