名前と支配
名前というのは他者を支配するうえで重要なツールである。他者の名を知ること、あるいは、そもそもその名前をつけることはそのものを支配することを意味する。
かつては女性に名を尋ねることは求婚を意味したし、土地に名をつけることは大王・天皇だけの特権だった。
現代の日常生活のレベルでさえこのメカニズムは生きており、強者が弱者を支配する手法として作用している(カイジみたいな言い方になってしまった)。
支配したい他者の名前ではなく、敬意を向けさせたいものの名前に仕掛けが施されている場合も多い。「ヤマダタロウ」に過ぎない人を「社長」「先生」と呼ばせるようなたぐいの方法である。
ここでは、その手法を強度別に分類してみたい。
第1段階 代替語で呼ぶ
「天皇」「親王」を、その個人名や、役職名(?)でさえなく「陛下」「殿下」と呼ぶのはその最たるもの。
現代人も雇い主を個人名でなく「社長」と呼ばされる。これによってその相手への敬意が強制されるのだが、これはまだ支配の方法としてはかわいいものだ。
第2段階 単純な語義はニュートラルなはずであるのに、意味させたいものを意味するように誘導する
どういうことか。
かつて日本でさかんにもてはやされた「国体」という語がよい例だ。「国民体育大会」ではなく政治用語のほうである。
文字通りに見れば「国」家の「体」制だから、これは「ある国の政治・社会の体制」という意味しか持たない。それが「どんな体制か」という意味に関しては読み取れないはずである。
だから現代日本の「国体」は「立憲君主制」とか「自由主義経済」「議会制民主主義」などということができるし、アメリカ合衆国であれば「連邦共和制」とか言うことができる。中華人民共和国であれば「社会主義」「一党独裁」が「国体」だ。
しかし、ご存知の方も多いように、実際の用法ではこれはすなわち「天皇制」を意味する。ポツダム宣言受諾の際に日本政府がこだわった「国体護持」は「天皇制を守る」ことだった。
このほかにも「高校生らしさ」なども同じ使われ方をしている。この字句自体は「どういうものが高校生らしいのか」という意味を含まないのに、「黒髪」「ノーメイク」「(着こなさない)制服」などの意味が与えられている。
このように、字句じたいはニュートラルなのに、多様な解釈ができるなかでのある特定の意味しか抽出せず、その用法のみを強制する、というのがこの段階である。「国体(高校生らしさ)といえば天皇制(黒髪・ノーメイク・(着こなさない)制服)に決まっている。内実を説明しないのはそれ以外ありえないからだ」というスタンスを強制することができるのである。
第3段階 名前をつけない・あっても呼ばない
支配の手法としては、これがいちばん怖い。「目上の人物は名前で呼ばない」という東アジアの伝統がこれにあてはまるが、現代的な例でいうと、かつての「セクハラ」「パワハラ」だ。このような言葉は30年前の日本ではほぼ使われていなかった。
名前がなければ、「セクハラ・パワハラはいけません」とは言えない。批判しようがないからいつまで経っても根絶されない。
もちろんその実態はある。会社の飲み会で女性社員にお酌をさせたり、気に入らない後輩を怒鳴り散らしたり、といった営みは存在していた。ただ、それを「悪いもの」という考えのもとに独立した命名がされなかったので、単に「コミュニケーション」「指導」の一環としかとらえられず、批判することもできなかった。
どうしてもそうしたい人は「会社でのコミュニケーション」「会社での新人指導」を包括して批判するしかなく、「いやいやコミュニケーションをとらなければ/新人指導をしなければ 仕事にならないだろう」という的外れの反論に、いとも簡単に敗れ去っていたのである。
というわけでみなさん。身の回りの「これってどう考えてもおかしいだろう」というものには、積極的に名前をつけることをおすすめします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?