【ネタバレあり】SWEP9を観た当日の雑感(中編)
さて、前回に引き続き、SWEP9を鑑賞した際の雑感を綴っていく。
前編で、「旧シリーズへのオマージュ的要素のうち、気になったもの」を挙げたが、
・Xウィングを海からフォースで引き揚げるルーク
を忘れていた。言うまでもなくこれは、エピソード5でルークがヨーダから課せられた課題のひとつ。「No. Try not. Do or do not. There is no try.(やってみる、のではなく、やるのだ)」という名言が生まれたシーンだった。
血統主義からの脱却と先人の継承
さて、本題である。EP9の重要なテーマが「継承」と「これまでの時間と努力が報われる」ということだ。
C-3POやフィンが口にする「これまで積み重ねてきた時間と労力が無駄になる」というテーマは、ルーカス体制の積み重ねてきたEP3以前の時間、とも読めるし、EP7、EP8で描かれてきたものを決して台無しにはしないよ、というメッセージとしても読める
まず、ストーリーの枠組みの中だけで考えればこれはレイやフィン、ポーたちのファースト・オーダーとの戦い、あるいはこれまでレイアに率いられてきた反乱軍の戦いを無駄にはしない、ということだが、メタ的な視点では「これまでのスター・ウォーズシリーズを、全作品を尊重しつつしっかり終わらせます」という製作者たちの宣言としても読むことができる。
特にこのシークエルシリーズではEP8とEP9のあいだに監督が交代したこと、そして、レイの出自に関して変更があったことなども含め、「各エピソード間の接続」がとりわけ取り沙汰されていた。
エピソード8との間の齟齬の問題
EP8とEP9の間の接続の前提として、EP8で何が描かれていたのか、ということを見返すことが必要だろう。作中であからさまに連呼されていたように、EP8では「ジェダイの血統を持っていなくてもジェダイにはなれる――普通の人々の志と戦いを尊ぶ」ということであろう。単に「スカイウォーカーの血統を持っているかどうか」というよりも、「貴い血筋かどうか」ということが問題にされているのだ。つまりスカイウォーカーであれパルパティーンであれはたまたヨーダの子孫であれ、貴いものは貴いので、「それ以外」を顕彰しよう、というのがEP8の思想だ。
だからこそ主人公であるレイは「何者でもない」両親の娘であると明かされたのであり、それに対して「スカイウォーカーの血統を持ちながら、そこから脱却しようともがく」カイロ・レンが敵役として置かれたのである。
しかしEP9ではどうか。
「スカイウォーカーを名乗る」ことの思想的後退
「前作までをきちんと踏襲し、尊重する」という宣言をしておきながら、ひとつ重要な変更が加えられている。それは表面的には「レイがパルパティーンの孫でありながらライトサイドに味方し、パルパティーンを倒しスカイウォーカーを名乗る」ということで達成されているようであるが、EP8とは少々、ニュアンスが異なっている。
EP8は血統主義そもののの脱却というテーマが掲げられていたのに対し、EP9のレイは「貴種から貴種へ」乗り換えたに過ぎない、という点だ。『ベルサイユのばら』でいえば、オスカルがジャルジェ家の娘であるという出自を捨てて民衆の革命に味方するのがEP8で、「ジャルジェは嫌なので、私はラ・ファイエットの養子になります」というのがEP9だ。
「パルパティーンは悪だから貴種ではない」というつっこみはやめていただきたい。強大なフォースの使い手であるという点では、スカイウォーカーとパルパティーンは同様なのである。
EP8が「普通であることに誇りを見出す普通の人々の物語」(レイ、フィン、ローズ、ラストで箒を飛ばした少年)なのに対して、EP9は「普通であろうとする貴種の物語」(レイ、レイの父親)なのだ
実際、「レイの両親が何者でもない」というEP8で示されたテーゼは伏線として、「レイの両親は『何者でもないものであろうとした貴種』であった」という回収がEP9でおこなわれているのだ。
そもそもスター・ウォーズという英雄神話を下敷きとした物語で「血統主義の否定」を扱うことが間違いだ、といえるかもしれないが、それについては別の機会に述べたい。
僕はEP8のやったことは新しい時代のスター・ウォーズにふさわしい重大な転換だと思う。「善と悪の戦いに勝利する貴種」という近代的な物語から、「善と悪の境もなく、貴種でさえも現実的な力を持ち得ない」21世紀以降の世界にふさわしい「神話」をつくりだしたようにみえたからだ。しかし、EP9はそこから思想的には後退してしまっているのである。ここで描かれているのは、「悪の貴種でも善の貴種に変わる道筋が開かれている」ということでしかないのだ。
後編では、この作品で僕が残念に思った「ダース・ヴェイダーの扱い」に関して述べることにする。