「笑顔」礼賛時代の恐怖
「笑顔」という言葉への違和感
ここ数年、「笑顔」という言葉がもてはやされているように感じる。一般的に、あるいは一般的なあらゆる場面を扱ったメディアに、この言葉は散見されるのだが、労働の現場における使用が「お客様の笑顔」という形でことさら多いのも気になるところだ。
もちろん「笑顔」という言葉はそれこそ遠い昔からあったわけだが、現代では単なる「表情のひとつ」という意味を超え、「心から満足を感じている状態」「幸福を得ている状態」の意味で使われ、まるで「すなわち人生における理想の状態」という意味まで含むようになっているようだ。
「理想の状態」を表す言葉たち
この種の言葉は「心の豊かさ」→「共感」→(「絆」)という変遷を経て、いまたけなわなのが「笑顔」だ。
それぞれについて僕の所感を述べると、
「心の豊かさ」
戦後の経済成長が一段落し、「これ以上お金を追い求めてどうするの、それよりも精神的に豊かになるべきじゃない?」という価値観の転換を迫る文脈、あるいは、バブル崩壊でこれ以上金銭的には豊かになれない、ということを悟った人々の、それにかわる目標の文脈で使われる。もちろん後者には「すっぱい葡萄」的な態度が含まれることは否定できない。
「共感」
SNSが広まるとともに、承認欲求がクローズアップされる。同じ趣味や価値観を互いに承認し合い、それによって自分の価値を高めたい。しかし、アイドルのように大げさに注目を浴びるのではなくあくまでもゆるい感じでその承認欲求を満たしたい(がっついてると思われるのはイヤだから)、という意味を含んだ語。これについてはそのほかにも様々な意味を見出すことができるがここでは省略する。
「絆」
東日本大震災の直後に、(おそらくある程度意図的に)メディアを通じて広められた語。有り体に行ってしまえば「被災地の人たちと苦しみを分かち合おう」ということだが「原発事故の対応のための計画停電を我慢しよう」というのをオブラートで包んだに過ぎないと思われる。
ひとつひとつについてもっと詳しく語りたいところだが、それは別の機会にとっておく。
明確な指標があるという幻想
3.11以降、「絆」で復活しようとしてようやくオリンピック&万博で高度経済成長の夢よふたたびと意気込んだところにコロナだ。もうなにも信じられない。夢も見ることさえかなわない。
そんな日本でもてはやされる「笑顔」という言葉――そもそもこの言葉は「幸福」や「満足」とはまったく別の意味合いを含んでいる。それは「目で見てわかる表情」が「あるべき状態」とされているところだ。
「絆」も「共感」も目には見えない。言葉で「共感した」と言われても、本当がどうかはわからない。しかし「笑顔」は目に見える。笑顔さえ相手が見せてくれれば、自分は受容され(そして「需要」もされ)、承認されたと思っていい。というか、そのようなわかりやすい指標で承認されたと思っていいなら、これほど安心なことはない。
情報化がますます進み、SNSが隆盛をきわめ、承認欲求を掻き立てられる一方のわれわれはしかし、いくらリア充写真をアップしたところで心から安心できる瞬間はない。「いいね」の数にしたところで金で買える時代である。
おそらく日本人たちは疲れてしまったのである。
コロナの問題をさておくとしても、たとえば労働の現場ではブラック企業問題がますますフォーカスされている。企業にとって、従業員の待遇を上げることなく労働力を確保し続けることは困難になる一方だ。「やりがい搾取」の一例として、どうにか従業員にモチベーションをもたせようとこぞって企業が採用しているのが「お客様の笑顔」である。あなたのサービスのよさ、気配りのよさがお客様を「笑顔」にする。なんと素晴らしいことか。さあ、サービス残業にも文句を言わず、滅私奉公で働こう――
「笑顔」という言葉にひそむ欺瞞
しかし、それが欺瞞であることはよく考えれば誰にでもわかるだろう。「顔で笑って心で泣いて」という常套句もある通り、「表情」と「心情」が真逆であることなどいくらでもある。だから本当は「承認されたかどうか」の指標としては心もとないはずなのに、それでも人々はそれにすがろうとする。そのほうが楽だからだ。本当の心情はわからないということに目をつぶり、「笑顔」は唯一にして最強の承認の指標だという信仰を持ち続ける限り、かりそめの安心を得ることができるのである。
しかし、それはとても危険なことではないだろうか。
「やりがい搾取」の典型的なキーワードとして用いられることはすでに述べた。「『お客様の笑顔』さえあれば満足でしょ? 笑顔が好きなんでしょ? 福利厚生や給料なんて気にしないよね」という論理でブラック労働を正当化できてしまう。目に見えるものであるだけに「社会貢献」よりも強く。
しかし、この「笑顔」に限っては別の問題もはらんでいる。「相手が笑顔だからといって本当に満足しているかどうかはわからない」ということは、そこに目をそむける企業や個人は自分たちが市場や社会生活で淘汰されるだけだからさておくとしても、「顔で笑っていれば相手は満足している」という捉え方が大手を振ってまかり通るようになり、ハラスメントや弱者の抑圧の方便に容易に使われうるのだ。
「あのとき君は笑顔だったじゃない。それって同意してたってことでしょ?」というわけだ。
この「笑顔」に対する思考停止的な礼賛が、皮肉なことに多くの「泣き顔」を生むのである。