【ネタバレあり】SWEP9を観た当日の雑感(後編)
『スター・ウォーズ エピソード9 スカイウォーカーの夜明け』を見た当初の雑感を書いている。
タトゥイーン登場の意味
ラストシーンでレイが、ルークとレイアのライトセイバーを葬る場所が、砂に埋もれたルークの実家(ルークの義理のおじ・おばであるオーウェンとベルーの家)だ。タトゥイーンはアナキンとルークの故郷であり、まさしく9部作を締めくくるにふさわしい場所と一応は言えそうだ。しかし、このシーンに僕はひっかかるものを覚えた。
この場面において僕が気にしているのは次の2点である。
・レイの最後のセリフは実際には「名字はないの。ただのレイ」であるべきだったのではないか?
・レイがルークとレイアのライトセイバーを埋める場所として、ルークの実家は本当にふさわしかったのか
先人たちの声と名字の継承
この問題を掘り下げる前に、この映画における「継承」について述べたい。
この映画の重要なテーマのひとつと思わるのが「レイがこれまでのジェダイたちの志を継承する」ということだ。中編でも挙げた「死んだジェダイたちがレイに呼びかける」シーンは、9部作の完結編になくてはならない重要ポイントといえるだろう。ルークやアナキンはじめ、メイス・ウィンドゥ、ヨーダなどといった過去のジェダイたちが、倒れたレイに語りかけ、復活を果たすのである。
ただ、この「継承」とはいったい具体的に何を継承したのか。
パルパティーンとの決戦の最後の局面でレイが「私はジェダイのすべて」といっているように、彼女の自意識においては「レイはジェダイの後継者」であるということである。
ジェダイとスカイウォーカー
しかしラストの彼女のセリフからわかるように、彼女の自己認識としてレイは「スカイウォーカーの後継者」でもある。
・ジェダイの後継者であること
と、
・スカイウォーカーの後継者であること
は別ものだ。
たしかにEP5のヨーダの死、その後のルークによるジェダイ・アカデミー復興の挫折により、ジェダイの後継者はルークとレイア、スカイウォーカー家の人間だけとなった。
しかし、「スカイウォーカーの血を持つもの」ならルーク、レイアに加えてベンもいる。また、当然ながらオーダー66以前は多くの「非スカイウォーカー」のジェダイがいた。
たしかにレイと同時代の人間からしてみれば、ジェダイはルークとレイアだけだったかもしれないが、「ジェダイ」と「スカイウォーカー」は一体不可分ではないということである。
僕は最後の場面で期待していた。「私はレイ」というレイの自己紹介に「レイ何?」と彼女の名字を尋ねた老婆にレイが「ただのレイ」と答えてくれるのを。そうすれば、少なくとも「血統から志へ」という世界の更新は(表面上は)描けたはずだ。『最後のジェダイ』で描かれた思想に従えば、そのほうが正しいはずである。
この路線を継承するのであれば、あくまでもレイの最後のセリフは「名字はないの。ただのレイ」であるべきだったのではないだろうか。(もちろん、そのほうがパサーナでのこれと同じセリフを伏線としてより効果的に回収できた)
しかしレイは老婆に「レイ・スカイウォーカー」と名乗った。これは中編でも述べたように、「血統からの脱却」ではなく「よりよい血統の選択」でしかない。
余談だが、あの老婆の正体がフォースの力で蘇ったシミ・スカイウォーカー、あるいは帝国軍の攻撃から生き延びていたルークの叔母:ベルー・ラーズ(ルークが見たのは焼死体なので、他人の死体を見間違えていないとは言い切れない)だったら面白いな、と夢想したが、まああんな最後の最後でそんなややこしい話を出すわけにはいかなかっただろう。
余談終わり。
「レイ・スカイウォーカー」の意味
では、ここでレイが名乗った「スカイウォーカー」はいったいどういう意味をもつのか。
EP9に対する善意の解釈をするのであれば、これは「スカイウォーカーはただの名字ではなく、もはやルークとレイアの志を継ぐ銀河の守護者の称号(そしてそれは限りなくかつての「ジェダイ」と一体化している)」といえるのかもしれない。
しかし、中編でも述べたように『最後のジェダイ』の「ジェダイはどこからでも生まれうる→血統や出自ではなく志が大事だよね」から遠ざかるものである。
レイがライトセイバーを埋めた場所
ライトセイバーを埋めるのはモス・アイズリーの、アナキンとシミの家であるべきだったのではないか、というのが僕の次の疑問だ。
たしかに「観客」として映画史的な観点から見れば、スカイウォーカーの「物語の始まり」はあの家である。
しかし、
・作品内の時系列
・スカイウォーカー一族の歴史
を考えれば、その始まりはあのラーズ家ではなく、アナキンと母シミが奴隷として暮らしていた家であるべきだ。
スカイウォーカー家の終焉を描くのであれば、その始まりも意識されるべきで、それはルークとレイアではなくシミあるいはアナキンであるべきなのである。
もっと想像をたくましくすれば、旅立つ少年アナキンの影がダース・ヴェイダーとして壁に写っていた、あのポスターを意識した画をラストに持ってきてくれると感動もひとしおだったはずだ。
それはともかくとして、レイアはあの家にはゆかりがないにもかかわらず、彼女のライトセイバーが一緒にあのラーズ家に葬られるのはいかがなものかと思う。まあ彼女の故郷のオルデランはもうないので仕方ないが。
その意味では今回のシリーズ(シークエル)はあくまで「旧三部作の続編」であって、プリクエルの三部作をあまり意識していない気もする。C-3POに結局、旧共和国時代の記憶が戻らなかったように。
「けっきょくプリクエルは不人気で、観客にとってはラーズ家が物語の始まりの場所だからだ」というのが正直なところかもしれない。
カイロ・レンには生きていてほしかった
最後にレイを救ってフォースとひとつになったカイロ・レンだが、僕は個人的に彼には生きていてほしかった。というのも、僕は以前、twitterで以下のような予想をしていたからである。
『SWEP9で決してやってほしくない展開→パルパティーンの策略によりレイと戦うことになったカイロ・レンだが、レイの説得により善の心を取り戻し、命をかけてレイを守り、パルパティーンを倒す』
そのあと、『むしろレイもカイロ・レンもずるずると生き続けるほうが新しい時代のスター・ウォーズにふさわしい』のようなことを書いた気がする。
悪者が改心し、主人公を助けるために命をさしだす、ということはもちろんありがちな展開だし、ひとまずは話の収まりはつく。しかしながら、「明確な終わりや昇華もないし、大きな物語にも頼れない。ただずるずると生き続けるだけ」というのが我々ポストモダンの時代に生きる人間の宿命だとするならば、彼に死を与えるのは安易なのではないか。これもまた、EP8に引きずられてしまうがゆえの感想であるが。
それでなくとも、僕は彼にまだ死んでしまっては困るのである。彼はダース・ヴェイダーの真意が最後まで「皇帝を倒して銀河を支配することにあった」と誤解していたからだ。
置き去りにされたダース・ヴェイダー問題
EP7において、カイロレンは祖父ヴェイダーのマスクを前に「あなたが始めたことを私が終わらせる」と宣言しているわけだが、これは「ファースト・オーダーやレジスタンスを滅ぼし、より強力な銀河の支配を実現する」ことだ。
しかし、ヴェイダーはご存知のように最終的にはこの野望を諦めていたはずである。なにしろ彼はルークによってライトサイドに戻り、のちにはフォース・ゴーストとしてルークたちの勝利を祝っているのだから。
これでもまだ、彼に上記のような野望があったとしたら、この展開の説明がつかなくなる。すなわち、カイロ・レンの方針はヴェイダーのものとは矛盾するのだ。
ただ、EP9において「ベン」がレイのフォース・ヒーリング(腹の傷を治したやつ)によって転向したあと、「ヴェイダーの思想取り違え問題」に関して、彼が誤りを認めたりした描写はなかった。「言わなくても想像つくでしょ」ということではあるのだろうが、それにしてもEP9ではダース・ヴェイダーへの言及が少なすぎやしないだろうか。
そもそもベンとレイアの死によるスカイウォーカー一族の終焉を描くならば、その始祖であるアナキンはもっと意識されていいはずだ。それを、レイによってマスクが「安置してあった台から落とされる」という中盤の描写以降、アナキンの「ア」の字も映画からは見えてこない。
以上の
・カイロ・レンの「アナキンの思想取り違え問題」へのフォローのなさ
・ヴェイダーのマスクの存在感の希薄さ
の他にも、アナキンが出てきていいところに出てこない現象はみられる。
前述の
・ラストシーンがシミの家ではなくラーズ家
もそうだが、同じシーンに
・レイが見る「スカイウォーカーの幻想(青くないのでフォース・ゴーストではない)」がルークとレイアだけ
というのもそうだ。
結局のところ、この作品において「継承」されたのは「客観的なスカイウォーカーの始祖」であるシミやアナキンではなく、「レイにとってのスカイウォーカー」であるルークとレイアなのである。
さらに言えば、このEP7〜EP9のシークエル3部作というのはEP4〜EP6の続編ではあってもEP1〜EP3はそれほど意識されていないのだ。
EP9のラストで、各惑星の住民がスター・デストロイヤーの爆発すなわちレジスタンスの勝利を目撃する描写があるが、そこにイウォークのエンドアは登場しても、グンガンのナブーは登場しない。
EP9はただEP8の思想をさらりとかわしてその革新性から後退しただけではない。「9部作の完結編」と謳われてはいるが、実質上、「EP4〜EP9」の6部作の完結編であったといえそうである。
僕はEP1〜EP3が好きなタイプの人間なので、この扱いがいささか残念ではあった。これらのプリクエル3部作がいかに素晴らしいか、そして9部作全体を俯瞰しての感想などなどは、いつか別のところで語りたい。