時間を活用しようとするのをやめた

自分とは何かと問われた時に、休日の時間の使い方を答えるのはひとつの答え方だと思う。


自己紹介をするときに伝えるもの、たとえば職業、趣味、好きな音楽って、つまりそれは「あなたは何に時間を費やす人なんですか?」に対する答えだったりする。
自分がどんな時間に価値を見出しているかが自分を作っている。


私はこんな仕事をしています、たくさん本を読みます、旅行が趣味です、ビートルズが好きです。
じゃあ、仕事ができなくなって、本を読む気が起きなくて、旅行に行けなくて、音楽がつまらなくなったら?


自分とは何かの答えがない。


「時間の使い方=わたし」なのだと思うと、何もできないことが怖い。
ゆっくり休んでねと言われると、自分から何かががたがたと崩れ落ちていく気がする。
じゃあ休むことを諦めて有意義な何かができるかと言えば、思い通りにできなくなってしまっている。
何もできないで1日が終わってしまうたびに「私とはなんだろう」とテツガクが始まってしまう。
休日は何もしないですというのと根本的に違うのは、何もしないことを自分で選んでないってところ。
何かしなきゃ、時間を活用しなきゃと思えば思うほど、身動きがとれなくなる。


さまざまな理由からそれまで好きだったものができなくなったときや、今が満たされない時に、過去の思い出話ばかりする人の心理も、まさに「時間の使い方=わたし」だと考えているからなのだろう。
若い頃は甲子園でうんぬんかんぬん、これまでこんな仕事をしてきてなんたらかんたら、とアイデンティティを保つやり方もある。
そういった人をつまらない人とポイする人もいるけれど、わたしはそれもテツガクに対しての立派な答えをもつ人だと尊敬する。
たしかに何度も同じ話を披露されたら黙りやがれと思う時もあるだろうけど、ウン十年生きてきた中の数あるエピソードから練りに練られた渾身のストーリーを持てるのってすてきだなあって思う。
残念ながらわたしには過去の思い出話をアイデンティティにして生きていくほどのエピソードがないから、憧れるのもある。


思い出で生きていくほどの豊かさもない人間が、楽しかったことが苦痛になり、好きだったものができなくなったとき、どういう選択肢があるのだろう。
自己紹介ができなくなったとき、どうしたら前に進めるだろう。


つまり「現在の時間の使い方=わたし」も「過去の時間の使い方=わたし」もできないとき。
「過去の時間の使い方=わたし」の中で、なんとかしてエピソードをつくりあげる。
「現在の時間の使い方=わたし」の土俵で、がんばって楽しかったことをまた楽しめるようする。楽しいと思うものを変える。新しく好きなものを見つける。


でも、なんとかしなくても、がんばらなくてもいいやり方を見つけたい。


たとえば、今の時間の使い方だけでなくて、過去の時間の使い方がわたしでも良いのなら、未来の時間の使い方がわたしなのもアリかもしれない。

「未来の時間の使い方=わたし」。


どうしてこれができないんだろう、こんなこともできない、と考える時間を肯定して、それを自分だとひっくるめてしまったらおもしろい。
おお、何にだってなれる、無敵思考!
たとえ廃人だとしても、怖くなくなる不思議。


だから、今の時間を活用しようとするのをやめた。
胸を張って空っぽな時間を過ごす。
今夜テツガクに襲われたら、「っていう考えが常識だよね〜」と笑ってやろう。

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